はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

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私は実験物理を専門にしている者であり、経済や政治に関する専門の知識を持ち合わせているわけではない(だから、私の社会的な主張は、素人意見には違いない)。しかし、物理(教育)に関することで、なまじの物理の予備知識をもたない人から提示された疑問が、非常に大事な考察のヒントになったということを何度も経験した。

そこで、私が思う経済社会に関する疑問にも一定の意味があるのではないか、、というわけで、その昔の少年時代から、大学院生ぐらいまでの間に、私が抱いた疑問のいくつかを並べてみることにした。


A 小中学校期

(1) 働いて手にすることのできるお金(収入)は、仕事の種類によりちがうようだが、その金額のちがいの大きさは何によって決まるのか。例えば、10倍の給料のちがいがあるとき、何が10倍ちがうのか

(2) インフレでは何もかもが値上がりする。ある商品の人気が上がって他より高くなる、というのとは訳がちがうようだ。全てが値上がるのなら、結局何も変わらないのと同じことになるのではないか。インフレの(背景や環境でなく)直接の原動力は何なのか

B 高校生・大学受験生期

(3) 機械化や合理化によって、同じ作業を為すのに必要なのべ労働時間が減る。それにより、一人一人の働く時間が少なくなるなら素晴らしいことだが、サラリーマンの働く様を見るとそのような兆しはない。ういたはずの労力はどこへ行ってしまうのか

(4) 勉強は将来の収入のためにするのか?周りの人も(口に出さなくても)皆内心そう思っているのか。だとすれば、自分はとても孤独だ。

C 大学生以後

(5) 貿易黒字とは何か。日本が得をして、アメリカが損失を受けているということなのか?変動為替レートになったのに貿易不均衡があるということは、一体全体何を意味するのか

(6) 株価がどれもこれも上がり続けるなどという状況が続き得るのか。皆が儲かるなどということがあるのか。(これについて、当時証券会社に勤務する弟に実際に議論をふっかけました、、その後ほどなくして、バブルがはじけました.)

D 比較的最近 (たくさんありすぎるが、とりあえず極めつけの疑問を一つ.)

(7) 「国際競争力」とは一体何か。(輸出関係の)個別企業の経営戦略スローガンに使われる言葉としてなら分からぬでもないが、国の政策を審議する場で使うような一般的な意味を与えられる概念なのか?

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[派生的疑問]
以上のような疑問を、明晰に分析し尽くし、解決した人が、自他共に認める専門家ということだろうか?

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大企業が空前の収益を上げているにもかかわらず、法人税を軽減したまま、(末端消費者だけが負担する)消費税率を上げる方向に向かうなどというのは、異様なまでの極論的なサプライサイド型政策である(しかもこれが、既に為された所得税の累進性低減策の上に重なるのだ!)。そして、これらのことがあたかも不可避・当然であるかのような論調の情報発信が、種々のメディアを通して我々国民に浴びせかけられる。

このような極論的政策の流れを生んできた(オフィシャルな意味での)大元は、経済財政諮問会議(そのメンバーは、わずか10名のこの人たち、さもあらんという顔ぶれである.またその審議内容も公開されているが、さもあらんという内容である.)、および、企業サイドに立つ経済産業省の各種審議会であろう。

これらの議事内容などを読むと、経済財政諮問会議が大きな方向性を決め、各種審議会が露骨な政策要求を出していることが見て取れる。しかし、審議会の方の議論の内容をよく眺めてみると、実は、多数派ではないにせよ、疑義の声を上げる委員がいる。(例えば、経済社会の持続的発展のための企業税制改革に関する研究会(第6回)議事要旨

審議会の議論の最終答申内容はお役所の筋書きどおりだと言われるが、それでも、異論の記録は残る。少数意見にも注意を払う意識があれば、現状のような盲進状態に一定の警鐘を鳴らす感覚は取り戻せる。しかし、経済財政諮問会議の方は、基本方向が始めから一致した偏狭な考えの少数集団であり、議論は細かい点の調整だけで粛々と進んでいる。

経済社会においては、生産者と消費者は、完全な対等等価要素であるはずだ。最終的には、消費者の受ける幸福によって経済という概念に意義が与えられることを考えるならば、消費者・生活者の方の状況を見なければ、何も判断できないとも言える。
消費者・一般庶民の視点を一切もたない会議や審議会が、政策を決めることの愚かさ・恐ろしさが、始めに述べた極論政策を招きつつある。

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〔付〕
原則「2ちゃんねる」には関わらないことにしているのだが、少し参考になると思われる保存ミラーを見つけたので記しておく:2ちゃんねるみらー >> (学問・文系)経済学 >> サプライサイド経済学について教えてください

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たとえ話をしてみる。

大きな自然災害に見舞われた町に残されている人々のところへ、ヘリコプターから救援物資が投下されたとする。物資の総量は十分とは言えないが、深刻な飢えや渇きが迫っているわけではないとする。

このような状況における人の行動について、次の2派が現れるだろう。人を押しのけてでも、他者より早くより沢山の物資を集めることに躊躇無く邁進するタイプと、より困っている人に先を譲ってやろうという気持ちが自然に働いて、あまり沢山拾い集められないタイプだ。

この両派が適当に混在しているから、放っておけば、両タイプが中和して、中間的になる、、などということは絶対にあり得ない。遠慮派と強欲派が対決すると、強欲派が常に持ち去ってしまうので、物資の分配は偏る方向に向かうばかりだ。

そのうち遠慮派はおかしいことに気づく。困っているから強く欲しがるのだろうと思って譲った相手が、実は余分を沢山貯めていて、今やそれを商売に利用している。「余分は皆に分け与えたらどうか.」と声をかけてみる。

しかし、この時点で、強欲派は次のように叫ぶのである。

結果の平等は社会主義的悪平等だから認められない.」
努力した者が報われるのが当然だ.」
機会の平等は誰にも与えられていたはずだ.」
「必要な物資の確保は自己責任の問題だ.」
「今になって成功者を引きずりおろすようなことをするのか.」

そして、ついには、遠慮派を、努力の足りない怠け者、あるいは、何を考えているか分からない役立たずのように本気で(自己洗脳的に)思い始める、、その人たちの善意をずるがしこく踏み台のように利用しながら成り上がってきたことを忘れて、、、。


このような不条理極まりない行動と発想のプロセスが、私の言う『欲深い者の自己中心主義』である。このようなばかばかしい不条理がまかり通ることのないように、多様な価値観を認める努力、およびそれを可能にする社会の仕組みづくりを、強い決意をもって為すことが絶対に必要であるということなのだ。

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〔付記〕
バブルの時期に、安定し保証された高給をもらいながら、非常識な財テクに走ったり、無謀な貸付を行ったり、途方もない無駄な建造物等を残したりした責任者たちがいる。一方、そのとき、「こんなことは何処かがおかしい」と直感して慎ましやかにしていた人たちもいる。バブルがはじけ、その後遺症から復興する過程で、前者の側の欲を出したグループが痛みを負担する中心となるのが当然の理というものだ。しかし、欲望と野心が染み付いた者は、利益や有利な立場を失うことを極端に恐れる。何としても責任を他者に転嫁しようとやっきになり、政治の利用も企てる。その結果、欲深い者のしでかした浪費や失敗を、慎ましやかな者の苦痛によって賄うという図式が具現化されてしまった、、小泉-竹中の構造改革路線と、この先さらに本格化することが懸念される 資産持ち・大企業優遇型の増税路線の、絶妙なるコンビネーションによって。


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昨今では、「努力した者に報いる」とか「悪平等をなくす」とかいう、ともすればもっともらしくも聞こえる標語の下、各人の仕事に対する処遇の格差(大抵の人にとっては低下)を、有無をも言わせず納得させるマネジメントの手口が横行している(国立大学法人においても例外ではない)。

ここで、お人善しになって自分の努力の不十分を反省したりする前に、視点を(森を見下ろせるような)高いところに移して、そのような手法を採っている役員陣の管理職としての力量・才覚が如何なる程度なのかを考えてみるとよい。

ある人の仕事を評価する、ましてそれを客観的に表現するとなれば、いやがおうでも、何らかの単純な基準に基づいて一次元化した序列づけを行うことになる。それが常に悪いことだとは言わないが、仕事の目的・内容がよほど単純な場合以外には、このようなやり方はナンセンスというか馴染まないものであることは明白だ。そして、こうした評価法に応じて仕事の報酬を決めるという方法は、電話勧誘セールスとか、保険の外交員とか、タクシーの運転手などについては、以前から当たり前のように行われている。何のことはない、いわゆる「歩合制」の方法なのだ。

「能力主義」などという文句を掲げる管理職は、結局、「歩合制によって売り上げを伸ばせ」というのと同程度の理念・アイディアしか出していないのである。もし、彼の管轄する仕事の内容や目的が(電話勧誘セールスの職務などよりも)複雑な側面をもっていたとするならば、彼はその職務の本質を理解していないとさえ言える。こんなことで済むのなら、誰だって管理職が務まることになる。高給を受け取るなどもってのほかだ。

たとえある一定の業務であっても、多くの場合、仕事の内容には種々様々な側面がある。その目標にしても、目先の小事から長期的な展望に至るまでの幅広い視点が関わってくる(売り逃げをもくろむような悪徳業では話が別だろうが)。さらにまた、そこに勤める人の個々人には、得意不得意、気質、人柄などに様々な違い・個性があるだろう。このとき、管理職に求められる能力というのは、多彩な個性・才能をもつ(限られた)人の集団を率いて、その人々の才能を最大限に発揮させる環境をつくり出し、長期的視野まで含めて総合的によい結果を導き出すことのできる力量・度量であるはずだ。給料袋の中身が減ることの不安や失望感を与えることではなく、労働に従事する人に感動をもたらすような方針を提示し、長いタイムスケールの仕事への情熱を湧き出させることが、本当の管理職が為すべき仕事なのだ。


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