はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

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我が国の宇宙開発用ロケット技術に関する失敗や事故が続いている。
3月のH3ロケットの打ち上げ失敗については、ようやく原因が特定されたそうだ。

H3打ち上げ失敗の調査完了、原因は2段エンジン制御系の短絡による過電流

 宇宙航空研究開発機構(JAXA)は、2023年3月7日に発生した「H3」ロケット初号機打ち上げ失敗の事故調査を完了した。

日経クロステック(xTECH)

 

↑この解説を見て、電気・電子回路に関わる技術畑の人ならば、気が抜けるというか、不安に駆られるというか、複雑な心境になったのではないだろうか。
回路素子の中に内部短絡などの不具合を起こすものがあって、設計どおりに動作しないということは、割とよくあることである。ただし、そのようなことは、大量に出荷される工業製品の場合には、対処しやすい問題だ。検査してはねればよい、所謂「歩留まり」の問題の範疇におさまることなのだ。大量につくられるモノに対しては、異常が起きやすい部品、それによって生じる症状、などが統計的な経験値として蓄積できる。そうなれば、検査を、マニュアルにしたがって実行する作業扱いにすることもできる。ところが、宇宙向けの機材ではそうはいかない。試作を含めてもごく少数、本番に使うものは1発限りという世界だ。したがって、ロケット打ち上げ技術においては、開発・設計と同格というほどに、検査・チェックが重みをもつことになる。こうしたチェックは、マニュアルにしたがって期限内にきっちり仕事を為すという意識では成り立たない。起こるかも知れないことを推察・想像し、それがシステム全体にどのように影響するかを考え含めて、場合によっては、納期延長を提案する、プロジェクトの進行にストップかける、設計変更や予備ボードの装備などを強く提起する、、検査する技術者にはこうした行いを躊躇わずに為す立ち位置が求められる。
長年の大学改革の流れを観てきた私としては、日本の国策に根本的な誤りがあったことを痛感せざるを得ない。「階層的な分業」に基づく組織運営の発想が大学に持ち込まれて20年。この方針は、日教組的なものを忌み嫌うというイデオロジカルな心理を底流にして、思慮なく盲目的に政治主導で推進された。言われたことをきちんとやって評価されることを目指す、、この思考の色が、教える側にも学習する側にも染み渡ってしまった。
科学技術を考えるときに、「創出」の役目ばかりに目を向けてはだめだ。生産や検査の場面で、科学的な広い見識と推理力を本気で発揮する、、こうした意思が湧き起こるような、科学技術的風土が必要だ。製造業への派遣が制限されていた1900年代までの日本ではそれがかなり実現していた。ただし、もし、こうした根源的問題に気づき、製造業の雇用形態や大学の運営体制などを今から是正したとしても、技術レべルが回復するためはかなり長期間の年月がかかることだろう。世界がそれを待ってはくれない。鬱々とした思いに苦しむ。

〔追記〕
この20数年、日本(の自民党政治)が指向した社会的改革は、ぼんやり曖昧にされているところを鮮明化して言えば、ひたすら、軍隊型(あるいはマフィア型)の意思決定スタイルを目指してきたと言える。大元の方針がどこでどのように決まったか、それが最良と言えるのか、末端側が考えることではない、意見をもつこと自体許されない、、これがこのスタイルの核心の姿だ。右翼的精神を持つ人はさぞかし美しく感じることだろう。だが、これは、「全容を理解しようとする思考活動を止めよ、諦めよ!」と言うことに等しい。そして、これこそが、新しい科学技術を培う活力を徹底的に阻害する土壌なのだ。
確かに、単に物量を増せばいいだけの仕事ならば、大元などを考える暇に作業を進めた方が儲かると言う図式も成り立つ。しかし、宇宙技術をはじめとして、オリジナルな開拓が求められる場面では、部品一つの作製段階から、全体構成を理解した者が、疑いの思考や推理力を発揮して、最大限のこだわりを込めた仕事を積み上げる必要がある。「下請」スタイルをできるだけ遠ざけ、複数チーム間の意見の交換や情報の共有によって、計画が進んでいく形にしなければならない。
そういうスタイル・気風を予め大学で学んだ若手が、チームのメンバーでなければならない。全くもって当たり前のことなのだ。


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安倍元首相の「国葬」に対する疑問・批判の声が(私の予想をこえて)広く高まっている。

このことについては、ネット上にある、賛否を問うアンケート型サイトや、反対への賛同者を募る署名型サイトなどが、大活躍している。

本Blogでも、その後者のタイプのサイト:
安倍元首相の-国葬-中止を求めます
を紹介しておきたい。

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オンライン署名プラットフォーム:
change.org (https://www.change.org/ja)
が使われている。
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私が、どう考えているか、安倍元首相を如何に評価するか、、本題にするつもりはないが、ほんの少しだけ述べておく。
安倍元首相は、彼自身が忌み嫌う精神構造と社会活動を無力化することに対して、並々ならぬ行動力を発揮した実力者であった。それだけだ。日本(人)全体の何かの側面を向上させるようなことは何もしていない。何を不快と思うかという思想が合致する人にとってはそれなりに頼もしい人物に映るのだろうが、それ以外の多くの人にとっては、特段の何かを為したとは思えない総理であった。自分の好み(恨み晴らし)を実現するために、権力を長期に渡り最大限に活用した人物と言えばわかり易いだろうか。国民の税金によって執り行う「国葬」を例外的に当てはめる事例になるとは、到底思えない。

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この10月9日、ユネスコは、中国の申請による「Nanjing Massacre records」の資料を、記憶遺産に登録した。対する、政治家やらネット論者やらの動きが騒がしい。

私は、特段の情報や見識を持つ者ではない。今後とりたてて首を突っ込む予定もない。しかし、ネットに溢れる意見があまりにも情けないので、一言述べたくなった、、が、言おうと思っていた概ねのことは、以下の江川氏のサイトに書いてあったので、最初に紹介させてもらう。

「南京事件」資料の記憶遺産登録、大騒ぎするほど中国の思うつぼ?

思想性抜きで、論理的に言えることを補足しよう。
戦争状態のさ中では、中立的で公正な取材や報道が為されることはない。新聞記事や、映画ニュースフィルムは、正しい事実を伝えず、証拠となるような情報をもたない(特に太平洋戦争終結時に我々日本人が思い知ったことである)。また、軍部内の記録・資料は、終戦直前にことごとく焼却されたらしい。そうなると、正しい情報は、現場にいた人の記憶の中にあるだけだ。しかし、個々の人は、ごく狭い範囲のことしか分からない。記憶に(意図せずして)妄想が加わってしまうこともあり得るし、伝聞に尾ひれがつくことも当然のように起こる。だから、調査すべきは、上官として南京攻略に関わり、直接には蛮行等に加わらなかったが、一定の理性と良心を保持しつつ任務を全うした職業軍人(士官)ということになる。その人達は、(正式な報告を受けるはずもないから)見て見ぬふりをするような形で、状況を掴んでいたはずだ。そして、東京裁判では、当然こうした職業軍人からの聴取が行われただろう。裁きの結果は、戦勝国が決めるのだから、公正でない側面をもつと考えるのは妥当だ。しかし、全くの事実無根の事を指摘されたのならば、否定的内容を証言することはできる。拷問にかけてでも裁判長の意の通りに答えさせたのならともかく、公開裁判の形をとっている以上、証言は自由意志で行われたはずだし、その証言内容は(判決に影響しなかったとしても)記録に残る。
東京裁判の後も、こうした(元)職業軍人の者からの情報は少しずつ出てきて、蓄積されただろう。それが、日本の中央省庁に引き継がれているはずである。これが、日本の側で見い出し得るトップレベルの証拠材料になる。外国が、事実に反する事を言って、クレームをつけてきたならば、当然、この証拠を使って反論しなければならない。東京裁判では採用されなかった証拠であっても、日本側の当事者の立場からの反証として堂々と出せばいい。それが、日本側役人の仕事である。
はっきり言おう。そのような生き証人の職業軍人の多くが亡くなってしまってから、報道的な写真の分析やら、少々の文書再読などをして、事実の根底に関する見解を出すなど、お笑い草もいいところである。また、同様に、結論ありきで、そこらの一兵卒やら被害の目撃者やらからの証言をとって、ストーリーにまとめるなどというのも意味が無い。それに対するアラを探して、してやったりというように述べるのもますます意味が無い。
中央省庁のどこかに密かに眠る公式記録、これを精査できる者だけが、何らかの見解を述べることができる。

ユネスコが採用した記録には、素人談義のような書物は含まれない。大衆受けするあやしい写真も入っていないはずである。だから、日本がユネスコ(や中国)にクレームをつけるとすれば、「不満だ」などと言うのではなく、日本側がもつ可能な限りの情報を出して、これを用いてより正確にせよと言うことなのだ。
なお、中国に対しては、大衆受けする尾ひれがついた話しを流布させないように、要請・交渉することが必要だ。('まぼろし論’などが出回ってしまう現状では、とても交渉力・説得力は発揮できないと思うが、、)


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既に昨年末のことであるが、平成25年12月23日に、天皇陛下は傘寿の誕生日を迎えられ、それに先立つ12月18日には代表質問に答える形式の記者会見に臨まれている。
以前に『次第に過去の歴史が忘れられていくのではないか』旨の憂慮(ご即位二十年に際する記者会見)を述べられた陛下らしい、もの静かでかつ厳しい見解が表明されている。
野暮なコメントを加えるつもりはない。ただ、この会見の発言全文を正しく報道したテレビ局・新聞社が少なかったことがとても気になるので、ここにとり上げた。

【天皇陛下傘寿を迎えるにあたっての記者会見全文】
・ (公式の)宮内庁サイト
・ (貴重な)東京新聞社のサイト

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公教育校において、教員に対して「君が代」の起立斉唱を強制する職務命令を合憲とする最高裁の判決が6件ほど出揃った。

投稿当初には、これらの判決を報道しているサイトをリンクしていたのだが、全てリンク切れとなったので、替わって、内容の記録などが記されている個人サイトを以下にあげておく。(2011-08-10追記)。
記事紹介 N318 君が代・日の丸/ProjectG by 成田文広氏
君が代命令 三たび合憲 -「賛成」判事も強制慎重/ 東京新聞6月15日朝-TOKYO Web の代替として NGO​言論・表現の自由を守る会JRFSのブログサイト

一方、つい先般、大阪府議会で、君が代の起立・斉唱を義務化する条例が可決されるという出来事もあった。
大阪府、君が代条例成立 教職員に起立斉唱義務づけ/asahi.com

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先ず、(念のために)これら両者の意味の違いに言及しておこう。

最高裁判決の方は、『ある学校の校長が職務命令として君が代斉唱時の起立を指示したことは、憲法違反とは言えない。』という判断である。補足意見の一つとして「司法が職務命令を合憲とすることが、問題の社会的解決とはならない.」という見解も付けられているし、多数とならなかった反対意見もちゃんと記録されている。これらを総合して眺めれば、時代の風向きの影響を受けてしまっているとは言え、一応は理性的な判断が為されていると考えてよいだろう。

一方、大阪府の条例は、地方自治体として「府内の学校行事においては、教職員は起立して斉唱せよ.」とする布告を出す、いわゆる‘御触れ’の性格をもつものである。そこでは、個々の学校の校長やその他の構成員による調整・配慮・判断などの余地が一切否定されていることに注意しよう。儀礼行動の中味に対する‘御触れ’とは、いやはや、封建時代の『○○の令』を思わせるものであって、近代民主国家の立法の一環とはとても思えぬ措置である。

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さてこのように理解した上で、インターネット上の意見を検索してみるとよい。目につく多数派の意見は、(表現の汚いところを正して整理すれば)大抵、上の両者の違いに意を向けておらず、以下のような類型的な主張となっていることが分かる。

『公務として教育を為す教員が、日本の国歌や国旗に反感を持つこと自体が異様であるから、これを容認しないのは正しいことだ。』

私は、この多数派意見は、日本の国旗・国歌の問題の根源に目を向けていない正に稚拙な発想の表出だと思う(そして、そうした発想をする代表者が橋下徹知事である.)。戦後の新憲法下の近代日本をシンボライズする国旗と国歌として何が相応しいかという問いに対しては、戦後の昭和期を通して長らく答えが出せなかったという歴史的現実がある。新規に創案する努力も為されなかったし、かといって、大日本帝国憲法時代に慣例的に使われていた国旗と国歌を継続して採用すべきという明確な論も出されなかったのだ。皆がその問題を避けていたというのが近いと思う。決して、一部の左翼運動によって国旗・国歌の決定が妨害されていたのではない。

替わる案が無いために、式典のときには、戦前の国旗と国歌を使うことが通例となっていた。私はこれで構わなかったのだと思っている。よい案が出てきたときに、あらためて議論して場合によっては立法措置すればいい、、そんなふうに考えていた人も多いはずだ。昭和期においては、絶対に日の丸君が代でなければならぬと主張する人も、絶対に新しいものに変えるべきだと主張する人も、どちらも多数を占めなかった。曖昧にしておく方が良いというのがナショナルコンセンサスだったとも言えるし、いろいろな主張がそれなりに許容されていたとも言える。

ところが平成に入りバブルがはじけた後の、1999年(平成11年)8月13日、社会的な議論の機運も無い中で、かつて日本に一度も存在しなかった「国旗と国歌を限定する法律」ができてしまう。条文は簡素で、『第1条 国旗は、日章旗とする。第2条 国歌は、君が代とする。』という二文だけだ。反対の立場をとる少数派がいることが分かっていながら、「現行の運用に変更が生ずることにはならない」という小渕首相の答弁を残しながらも、賛成多数であっさり可決、施行となった。

このころから、議論の論調は、「現代日本の国旗・国歌として何が一番相応しいか」という出発点の問題意識を綺麗さっぱり忘れて、一足飛びに、「日の丸・君が代を否定することの是非」というように、歪んできてしまったのだ。

そして、今日、「公務員でありながら国旗・国歌を否定するとは何事か!」という、単純至極なる感覚が跋扈するに至り、ついに、国旗・国歌への問題意識を保持した人を正常な公務員と見なさないとする条例までが通ってしまった。そして少なからぬ国民がこれを支持しているように見うけられる。私は、こうした時代の風潮の底流を成すのは、自分の理解できないものを、駆逐して安堵を得たい と思う、ひ弱な精神構造なのだと思う。

この様は、国民主権を採る近代国家としては甚だ情けない。国家の弱体化をさらけ出した現象であるとも言える。が、しかし、私がここで言いたいのは、この右派思想を批判したり、その誤りを解説することではないのだ。

-<続き>-

いわゆる左派や日教組の勢力が強かったのは1960年代中ほどから1990年ぐらいまでの間だろう。そして、この時代の影響を受けて学童期を過ごした人というのが、現在の中・壮年世代であり、たとえ地味であっても社会や組織のいろいろなところで、多かれ少なかれ管理・運営的な仕事に携わっている(きた)と思われる。ここで考え込んでしまうのは、結局、この世代の人たちによって「バブル崩壊」後の(小泉ブームを含む)顕著な右傾化の流れが形成されてきた、、少なくとも、それに対する批判的な眼力をもたぬ社会が醸成されてしまったという現実があることだ。こうした、脆弱な社会ができてしまったところへ、橋下徹のような、ベルリンの壁崩壊後の動きを高校大学あたりで見聞きした世代が登場する。「社会主義的ものはすべからく滅ぶべし」というイメージを強く持つ彼らには、70~80年代の微妙なバランス感覚の妙(そしてそれによる現実の利)を理解すべくも無く、突っ走る。そして、それに歯止めをかける強い上役や社会の目は存在しなくなっていた、、というのが、今日の日本の姿である。

左派の思想は、実効的という意味では、ほとんど全く次世代に影響を与えることがなかった、、というか、むしろ逆のムーブメントを生む素地を与えただけだったという皮肉な結末である。

このことは、教育の方法論に関わる、見落とされがちな基本原理を(自戒的な意味も含めて)痛烈な形で教えてくれる。確かに、人は、脳の中で理解を積み上げてそれを有機的に総合化していく力を有し、さらに、そうしたプロセス自体に充足感を覚えるという類い希な生き物である。が同時に、そうした大脳皮質前頭葉における高級な思考活動が、大脳辺縁系におけるより基本的な動物の行動原理:「不安な状況を排除しようとする」こととリンクするやっかいな生き物でもあるのだ。つまり、(社会的・対人的な側面まで含む)安堵感を保って学習が進んでいる限りにおいては、人は誰しも意外なほどに高度な思考を成し遂げるが、一たび学習行動が不安感に結びついてしまうと、その関連事項がすべてネガティブな印象となって凍結状態になる。その際には、内容が真実を突いているなどということには関係なく、理解しかかっていたことは全てゼロまたは負の価値領域に追いやられる。左派が強かったころに行われた「戦後民主教育」が辿った運命は、結局、「これこそが正しい」「これこそが重要だ」というばかりで、頼もしく安心感を与えるという姿勢を軽視したことの報いであると言える。

実は、上に述べたことは(勝手に偉そうに述べてきた)私自身の自戒と反省そのものなのである。大学の講義を長年担当する中、自分が習ったときよりも分かりやすい説明法を求めて、ずいぶん苦労してきたつもりである。しかし、この努力は、往々にして逆効果を生むことを悟るようになった。物理においては、日常経験的な直感とは反する原理・法則がしばしば表れる。このとき、「私が今まで思っていたことは何だったのか??」という学習者の不安感を意識しなければならないのだ。この不安な感覚を、論理を駆使して解消し新しい理解の展望に結びつけていくのが物理学の醍醐味と言えるが、その際の障壁に負けてしまい容易に抜け出せない人は、不安感ピークのところで、試験を受けることになってまさに最悪の永遠の負の凍結に至りかねない。対する解決策は容易に見つからないが、個人ごとに、不安から解決に向かう手間と時間の予想を見定めて、それによって扱う内容をしぼり込む必要があるように思う。ただし、省くことのできない大切な内容が、このような不安から抜け出すことの難しいタイプの極である場合にはどうするのか。不安を解消するまで時間をかけて完全につき合いきることか。それは確かにそうなのだが、能率が非現実的なレベルにまで下がってしまうのでは意味が無い。

物理に限らない話に戻しつつ、私の思いを言えば、結局、ことばの論理力をつけることを軽視して、高級なことに手をつけてしまうことが、近代の教育の矛盾点の根源なのではないか。'高級なこと'というのは科学的な内容に限るものでなく、「平和」とか「平等」とか「人権」などの概念についても、妙な段階で中途半端な教育を行うと、それは、上に述べた「負の凍結」を招くか、そうでなければ「洗脳」になってしまう。冷静沈着で論理的な言語力の教育に多くの時間を投じることが、実は、民主教育のためにも先端科学教育のためにも必要な条件であったと考え至るのである。

-<続き2>-

さらに、いっそう重大かつ根本的な視点がある。それは、人の集団を対象に教育や指導を行うときには、人の心のメカニズムの多様性をこそ重視すべきであって、『正しいものが席巻し 悪しきものが駆逐される』ことを目指すような発想では決してうまくいかないということなのだ。

心のメカニズムの働き方には、ある程度類型化できるパターンがあるように思われる。ただし、ある人がどのような類型に属するかは、恐らくはかなり生来的に決まっていて、教育によって変えられるものではない(ただし一生涯固定しているとも限らない)。したがって、ある正しい原理や方針を見い出し得たとしても、それを受け入れることが非常に困難である人がいることを考慮し、その人たちに対しても愛情を込めて安堵を与え、尊重の意思をもつように努めなければならないのだ。

このことは、左派に対しても、右派に対しても、共通して問いかけられるべき問題だ。左派は、力強くて頼もしいものを求める人の心を軽視してこなかったか。右派は、自己の利害の観点から離れて、高所から客観的にものごとを理解・判断しようとする行動の価値を軽んじてこなかったか。

歴史的に、人間は愚かな行いや争いをさんざん為してきた。それは、今後も完全に無くなることはないのだろう。しかし、文字による記録と、言語による抽象思考を獲得した人間は、過去を反省して未来の行動を律する力を相当に身につけた生き物であることも確かなのだ。その力によって獲得した概念の代表が「人権」や「自由」や「平等」である。これらは、極めて価値ある概念要素であるが、それをスローガンにした席巻思想に結びつけるようなものでは断じてない。これらの概念アイテムを社会に活かす方法については、我々は未だに未熟な段階にあることを謙虚に強く意識して、右に左に綱引き競争を繰り返すばかりの不毛な政治の流れから脱却する段階に進まねばならない。

【補】
以上の想いは、大分前に「資本主義・社会主義の争いを越えて」と題して投稿したメモから脈々とつながっていることである。

〔参考のための過去の記述〕-'平等'の意味などについて-
・平等vs.競争の図式に惑わされるな
・「努力が報われる社会」に騙されるな


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【memo】
また、少し前の、君が代のピアノ伴奏拒否に関する裁判の結果も関連して思い出されることである。
君が代伴奏拒否への最高裁判決-メモ/竹澤拓真氏

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京都府では「下水道の浄化センターで午前10時~午後5時に行っている下水処理の一部を深夜に移す。浄水場3カ所も同様の措置を取る。」等による節電策がまとめられたそうだ。
京都府「17%節電可能」 夏の電力不足ピーク時 : 京都新聞→リンク切れ)
京都政経調査会:6月19日の記事

これは、すぐにできて、弊害もほとんど無い方法として賢明だと思う。都市圏ならばは何処でも採用すべきである。

さらに言うならば、大電力を使う民間事業の稼働・運営時間も、できる限り昼(特に午後)から深夜・早朝にシフトすることが、電力危機を乗り越えるために有効だろう、、と考えて、検索したところ、経団連が同じ事の推進のため以下のような主張をしているそうである。
経団連が深夜業の割増賃金の緩和を求める??/出る杭はもっと出ろ!管理人

私は、派遣労働の規制を(小泉政権以前のように)厳しく戻すことのバーターとして、このような労基法の改定を考慮してもいいと考える。現在の時代の要請は、このような方向にあると思われる。

アクセスカウンター ご縁カウンタFree!

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今頃になって次第に判明してくる福島第一原発の事故の分析結果は、唖然とするほどに紛れのない「全炉心熔融」が起きていた事を示すものである。プルトニウムを含む核燃料物質のどれだけの分がどこに溜まり、どれだけが環境中に出てしまったのか、、今や大まかな把握さえ難しい状況と思われる。そして、ある意味で典型的なこの原発事故の様態は、冷却システムの復旧が見込めないうちに爆発を起こしてしまった2ヶ月前には当然、リアリティをもって想定されるべきものだった。そこで本ブログでも、3月29日の稿で『(最悪の中で)最善の封じ込め建造物を考案・設計すべき段階だと考える。』と記した。

しかし、これまで実際に為された対策は、ちまちまと小出しにするようなことばかりで、この最悪のコースには全く対応ができず、プルトニウムの漏出を指をくわえて眺めるだけのタイムロスばかりが積っている。

単刀直入に言う。もはや細かい細工は無効であるし危険である。ダム建設の土木技術を使って、原子炉関連の構造物が存在する(土中の)最低部から最高部までの高さをダム壁で覆うような大きな建造を為すべきである。そしてその中に水を導き入れ、巨大プールとして、冠水させ、かつ物質の流出を止めるしかないのではないか。できればその上には蓋をかぶせ、蒸発分の還流装置を設けると同時に、逃げ出す元素分析を行う設備を乗せるのだ。1号機から4号機までをまとめて、直方体形のダムプールにすることが考えられる。そして、然るべき段階で、中の水を浄化処理してコンクリートに置き換え、炉内の核燃料片はその中に永久埋没するしかない。

ダム壁の工期はそれなりにかかってしまうので、これまでの注水や暫定的なカバーの工事などは継続する必要があるだろう。ただし、そうしたちまちました細工をいくら繰り返しても、到底、プルサーマルの全炉心熔融”という重大事態に立ち向かうことにはならない、、と、覚悟を決めてほしい。発想のベースを『最悪を制する』ことに置くことが絶対に必要なのだ。

〔追記〕
今日になって、さらに、1号機の炉心溶融が地震発生当日の夜から起きていたとする見解が発表された(当日の官房長官のコメントなど、ピエロのトークもいいところだったことになる)。『11日午後6時ごろには燃料の頂部まで水位が低下。午後7時半ごろには燃料がすべて水面から露出し、損傷が始まった。午後9時ごろには、炉心の最高温度が燃料が溶ける2800度に達し、12日午前6時50分ごろには燃料の大部分が落下した。』のだそうだ。これを聞いて、私がどうしても気になるのは、燃料がすべて露出した7時半から、融点に達した9時までの時間の短さだ。原子炉工学の専門家はこれを標準だと認識しているのだろうか。そうであれば、つねずね「水が無くなれば炉心は1時間半でメルトダウンして手がつけられなくなります.」とアナウンスして、その上で、原発推進の国民了解をとるべきであった。もちろん、これに対しては、「そんな危ないものは願い下げです。メルトダウンを自動的に回避する構造にしてから出直して下さい。」と答えるのが正常な反応となる。
MOX燃料を使っていた3号機の詳しい状況分析が、一層重要である。プルトニウムの流出量を見積もることが絶対必要であるにもかかわらず、このことが報道に全然出てこない。何故だ。報道関係者も原発の専門家も、皆、何故平然とそのことから目をそむけていられるのだ。こちらの精神がおかしくなりそうだ。

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原子炉の炉心は、冷却水の循環が止まって温度が異常上昇した時点で、速やかに自己破壊して落下するようなしかけとする、、そしてこの落下に伴って、大きな熱容量の物体中に散り散りにばらまかれる(できれば希釈させる)ようにすればよい旨を、前項で述べた。狙いは、水の循環による熱交換に頼ることなく、炉心(の破片)を永久的に密閉容器内に保持し得る条件の達成だ。

実は、通常の熱化学的反応としての圧力上昇、水蒸気爆発、水素爆発、などを強引に押さえ(抑え)込む容器の強度というのは、そのことだけを考えるならば、大して困難な条件ではない(デリケートな機能構造を切り離すことは必要だが)。問題は、核崩壊熱を出し続ける炉心が、局所高温状態をつくってしまうために、それが、予測のつき難い複雑な固体反応や破壊をもたらすことなのだ。緊急停止後の炉心が入った容器の外壁を、通常の熱伝導による表面冷却の効果だけを頼りに、強度が失われない温度範囲に保持しておくことができれば、原子炉燃料を(水の流れない)密封した状態のまま永久停止にもっていくことが可能となる。

これを実現する仕組みとしてイメージしているのは、素朴至極、図のような形態の容器を用いることである。この図は断面を表す模式図となっているが、立体のイメージとしては、三角フラスコの底面を円錐状に盛り上げた形状であり、最底部はいわゆるドーナツ型になっている。そして、この形状のタイプを(現状の装置で言うところの)「圧力容器」「格納容器」の双方共に適用する(ただし大きさのスケールは両者で異なる)ことを考える。

炉心が破壊・熔融したときに、最も恐れねばならないのは、熔け落ちた核燃料が団子状に集まって’再臨界’条件に突入してしまうことだ。つまり、崩れ落ちた炉心破片が一箇所に集まらないようにする工夫が何としても必要だ。ところが、現状の圧力容器の底は‘お椀の底’型であり、沈降物を集めてしまう恐れのある悪しき形になっている。もちろん、容器の強度も重要であるが、図の‘山底三角フラスコ’は、圧力差に抗するのにも好適である(この形のガラス製器具を使った経験に基づいている)。

そして、分解した炉心の破片を受け止めるべく、図中マゼンタで網をかけたドーナツ型部分には、予め、ホウ素を含む合成ガラス状スラグ等を十分量仕込んでおく。(ウランとのなじみを調べておく必要があるが)落ちてきた核燃料破片が十分高温の場合は、このスラグに固溶して、体積的な希釈の効果をもたらすだろう。温度が下がっていれば、単に、耐熱熱容量部材として振舞えばいい。そして、ここがポイントであるが、このドーナツ部分で温度が十分下がらない場合は、その最下部分は、壊れて底抜けすることを想定に入れておく。

さて、この圧力容器は、「隔離モード」に入った後は、もう一回りか二回り大きい格納容器の下の方に、(ガイドに沿わせて)沈めるという前提である。この格納容器(の下半分)は、やはり図のようなドーナツ型とその中心の円錐凸部をもっており、その円錐の上に、炉心破片の入った今の圧力容器の底の円錐凹部が嵌まり込むように乗る形になる。したがって、底抜けしたスラグ状の炉心物質は、この格納容器の底に抜け落ちることで、さらに直径の大きな円環状に散らばっていく。そして、そのドーナツ型の底部分には、先と同様のガラス状スラグが仕込んであり、熔融部分はさらに希釈されることになる。ただし、今度は底抜けは絶対に許されない。熱熔融したスラグは、金属壁に対して、腐食・固溶効果をもつだろうから、今度の容器壁底部の内側は、マグネシア(MgO)セラミクス(情報サイトの例1, 例2)などで内張りしておくことにする。

このような円錐凹部をもつ容器壁は、外部からの熱交換に有利であることが、次なる重大ポイントとなる。容器外の下方から円錐凹部の壁に向かって流水を当てるような機構をつくっておけば、効率的に冷却が進むだろうし、ドーナツ型のサイズを十分大きくすることで、空冷だけに依っても、容器破壊を起こすことなく永久密封の状況を保つ設計が可能であると推察する根拠をなす。
<ing>

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今回の福島第一原子力発電所の事故を通して、我々は、これまでの原子力発電装置が、根本的に‘フェイルセーフ’からほど遠い機構であった現実を、いやと言うほど知ることとなった。

このことに関して、はぎわら_m 流の整理と、今後とるべき指針について記してみたい。

まず、原子力発電装置の、他の動力機関とは根本的に異なる性格は次の3つにまとめられるだろう。

(1) (長期間分の)燃料を最初にいっぺんに仕込んでしまうこと。

(2) 出力の一部を戻して為される動作(今の場合は熱交換)が、安全維持には絶対必要である一方で、エネルギー発生の動作そのものには寄与していないこと。

(3) 燃料およびその反応生成物の有害性が極めて高いこと。

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 簡単に補っておこう。(1)は(2)と関係している。核燃料は、他の燃料に比べて異常にエネルギー密度が高く、そのために、その製造に巨額なコストがかかったとしても、得られるエネルギーは他の燃料機関にくらべて安価になるという仕組みである。ただし、核反応の臨界条件を満たすためには、ある程度まとまった分量を狭い空間に集中させておく必要があって、少しずつ供給するという方式は(原理的)に採れない。そこで、一端連鎖反応が始まり、エネルギーを放出するようになったら、後は、過熱を防ぐべく熱を取り出し続けることだけが必要な操作となる。この点を、例えばガソリンエンジンと比べてみよう。ガソリンエンジンの動作を持続させるには、燃料を外部タンクから吸い出し、それを霧にして空気と混合し、続いてシリンダ内に噴射し、さらにそこにスパークをとばし、、という操作が必要である。これらの操作は、エンジンで発生したエネルギーの一部を戻し使って実現させることになる。したがって、故障などによってこのエネルギー帰還系のどこか一部でも止まれば、そこで、エンジンの動作停止、エネルギー発生中止となって、一切が終了するだけである。ところが、原子力発電装置においては、エネルギー帰還の機構に不具合が生じても、エネルギー発生は止まらない。むしろ、エネルギーを取り去ることができなくなるのみだから、まさに、暴走・破壊への道を辿る運命しかない。今回の事故では、臨界条件を外すための制御棒挿入はなされたようだが(電力無しで動くようなフェイルセーフがあったのだろう)、これとて、ガソリンエンジンの電気系統ストップによる絶対停止条件に比べれば、危うい事だったと思っている。そして、こうした特異な状況の上に、最後に、(3)の重い条件が乗っかっているのである。まさに冒頭に書いたとおり、『原子力発電装置は根本的に‘フェイルセーフ’からほど遠い機構』なのだ。
 
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上のように整理してみることで、実は、原子力発電および原子力発電装置に対して求められる今後の方針というものも見えてくる。

 先ず言わなければならないのは、これまでの原子力発電装置は、根本的に不完全・未完成の技術であることを素直に認めて、新たな基礎開発の段階に踏み出すべきである。その開発が達成されるまで、原子力発電の推進はストップし、古くてリスクの高い既存装置から停止していくべきだ。そして、その原子力発電用のタービンを火力ボイラーで動かす施策を速やかに進めればよい。
 
 新しい原子力発電装置の開発は、(航空・宇宙やIT技術などの轍を踏んで)他国からの技術導入に頼ることをせず、日本のオリジナル技術を骨格とすべきである。この震災を機に、世界のトップを走る安全な原子力発電技術を築きあげればよい。

 さて、そのような新たな改善の指針は、(本稿を綴ってきた我々にとっては)もはや明確になっている。大枠の考え方を一言で述べるならば、要するに、上で明らかにしたフェールセーフに反する状況を、できるだけ根本的に転換してしまうことなのだ。ただし、燃料を少しずつ送り込むということだけはどうしても叶わない。そうとなれば、残るは、『仕込んだ燃料と装置の全てを廃棄することになってもいいから、何もしないで放置したときに、燃料(とその反応生成物質)を外部に出すことがなく、自然に永久停止する.』という条件を満たすようにするしかない。言い方を変えれば、これが実現できない限り、原子力発電装置は未完成・欠陥品なのであって、運用してはならないということだ。

 そのために必然的に求められる(従来と全く異なる)視点は次の2つである。

(I) 燃料が狭い空間に詰まり固定されている という状況を保つために、何らかのアクティブな動作を必要とすること.
〔この動作が止まれば、燃料はなるべく広い水中空間に散り散りになるようにする〕

(II) 事故の際には、炉心の熱を、なるべく広い(熱容量の大きい)領域で受け止めて対処する。
〔大きな熱量を狭いところに閉じ込めるのは無理(つまり"5重の壁"は発想がとんちんかん)である. 広い部分で密閉系を構成せよ.〕

これを実現することは、実はそう難しくない。高度な原理を利用した仕組みもいろいろ考えられるが、ここではあえて、ローテクノロジーに基づく私なりのアイディアを示してみたい。(ただし、私は、プラント工学の知識をもっているわけではないので、素朴な段階の着想に留まるものである。)

(a) 異常事態の重大性閾値を定め、それを越えたら非可逆的に「隔離モード」に移行させる.このモードへの突入は、全く自動的に、センシティブになされねばならない。この突入による営利的損失を避けるべく、事業者は、全力を傾けて冷却装置系の安全設計・運用をする、、こういう形にする必要がある.

(b) 隔離モードでは、炉心は(むしろ)速やかに壊れ、圧力容器内に分散・拡散するようにする.そのためには、構造を支える部材にある程度熱に弱い材料を使って、その耐熱限界を越えた時点で、重力とくさび型の受け具の効果で、炉心を分解させる.(化学的溶解までできればなお完璧だが、これは難しいかも知れない.)

(c) 隔離モードでは、圧力容器につながる水や蒸気配管は、すべて切り離し、格納容器中に沈めてしまう.

(d)格納容器は、堅牢なチャンバー型の中に構成する。再凝縮や圧力調整バルブなどは、すべてその内側の機構として納め、隔離モードでは(物質移動的に)孤立・密閉系として振る舞うようにする.

(e) 格納容器の下半分は、脱落した炉心・圧力容器を受け止める、大きな嵩と熱容量を伴った、予備機構とする.(このアイディアは後述する予定.)

(f) 格納容器全体を(密閉状態のまま)外部から冷やす熱交換機構を備えておく.

次稿で補説する。
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福島第一原子力発電所の震災事故は、ついにプルトニウム漏出の事態に至ってしまった。
福島原発、敷地内にプルトニウム 核燃料から放出の可能性 - 47NEWS

事故当初「プルサーマル」を意識した瞬間に最初に頭をかすめた最悪の事態である。
人が立入っての作業が完全に不可能となる段階が見え始めている。(最悪の中で)最善の封じ込め建造物を考案・設計すべき段階だと考える。

プルトニウムの環境への流出量は最小限に抑えねばならない。どうしても出てしまう分については、その総量を正確に把握しなければならない。原子炉敷地周囲を囲むように土壌および地下水のサンプリングポイントをつくり、流出する放射性物質の全量を評価しなければならぬ。今直ぐ取りかかるべきだ。

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今回の大規模な事故について、地震の規模が想定を超えたからだという人がいるが、実は、原子力発電所の事故のリスクというのは、ある意味で極めて明確であり、今回の事故もその範囲内の事なのだ。『全ての装置を止めて何もしないでおくと、何時間後にどうなるのか』、、この考察が、事故、否、原子力発電装置の安全設計の原点になっているはずだ。私は、東京電力が、この推移の想定に意識を向けなかったとか、独善的に楽観視していたとは思えない。マニュアルにある時間推移よりも、ずっと早く、より複雑に、事態が悪化・進行したのだ。そして、その想定を外れたことの主たる原因は、MOX燃料を使うプルサーマルの方法にあったと考えるのが自然である。MOX燃料の緊急停止後の振る舞い方については、経験則などの蓄積が少なく、分かっていないことが多いはずだ。そのような実験的使用を、老朽化した実運用機で行ってしまったことが、今回の事故の一番本質的な「原因」であるに違いない。地震と津波はその因果関係の「トリガー」であったに過ぎない。

しかし、燃料棒の状況まで含めて、全ての情報を完全に与えられた技術者であれば、possible-worstケースの推移はある程度予測でき、対策もここまで後手にまわることはなかったのではないかと思える。実際の原子炉やその燃料の製造に携わった専門技術者に相談できないような使用状況があったのではないか、、という疑念を抱かずにはいられない。東京電力および今回のプルサーマル運用に関係する責任者は、福島原子力発電所に装填・貯留されている全燃料棒について、履歴を含む情報を明らかにしなければならない。
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プルトニウムの一般的知識:プルトニウム - Wikipedia
なお、プルトニウムの人体への有害性は、従来の予想より小さかったという情報もある.
武田邦彦 (中部大学): 原発 緊急情報(36) 3号炉(プルトニウム)の問題(その2)

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〔追記〕
なお、同じように電源供給が止まり津波を受けたはずの福島第二原発の方では、冷却システムが早期に復旧されているそうだ。このことは、本稿とは一応別の、冷却系統のバックアップを含む安全設計のあり方として議論されるべき問題を提起している。

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福島第一-3号機については、気になることがあるので、とりあえず以下のニュースリンクを記しておく。プルサーマルやMOX燃料の意味・問題についてはここで細かく言及しないことにするが、検索すれば情報は得られるので、関心のある方は再確認されることをお勧めする。

asahi.com:東電初プルサーマル起動へ 国内3基目、福島第一3号機
→ 3/21頃より上の記事のリンクは途絶えてしまった.替わりに、東京電力および日テレニュースのサイトによる情報を示す.
プレスリリース 2010年|TEPCOニュース|東京電力
福島第一原発、プルサーマルが臨界に達する | 日テレNEWS24


現状の流れを見ると、3号機の経緯が他と特段違っているわけではない。ただし、むしろそのことが気に掛かるとも言える。

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以下は、いわゆる原子力発電反対派のサイトの情報であるが、客観情報だけを見ても重要な内容を含んでいる。MOX燃料の真実美浜の会

公平のため、電力事業者側のサイトに記載されている説明も紹介する。ここに書かれた「燃料物性へのプルトニウムの影響」を見れば、誰もが '気に掛かる' と思う。
MOX燃料の特性 - プルサーマル / 電気事業連合会

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この度の東北地方太平洋沖地震に伴う被害はまさに甚大で、特に、海岸沿いの被災市町村の非難住民の救助には一刻の猶予も許されない状況に至っている。
今頃のコメントも憚られるのだが、報道を見る限り、あまりにも救助態勢が不自然に感じたので、ここに短く記すことにした。

交通手段が遮断されていることを考えれば、何よりも必要・有効なのはヘリコプターに違いない。ただし、屋根に取り残さた人を救い上げるといったヒーロー的な活動ばかりをイメージしないように注意しよう。単に、危険で通れなくなった道路の交通を代替する荷物と人運びの役でもいいのだ。このように考えれば、何台投入しても多すぎるということはないはずだ。日本中のあらゆるヘリコプターを集結してもいい。しかし、報道画像などを見る限り、ヘリコプターがフルに稼働している気配がない。これはいったいどうしたことなのだろう。

もちろん、自衛隊には多数の高性能ヘリコプターがあるし、ヘリ空母というものもあるはずだ。何故フル展開しない。救助用専用機でなくとも、軍事機材運搬用、哨戒用、迎撃用、何だって輸送には使える。そして、これらの設備は全て国民の税金で購入したものだ。今使わないで、何時何のために使うのだ。

さらに言うならば、ヘリコプター(の少なくとも一定の部分)は、地元をよく知る人の指示に従いながら運用すべきである。まず、市町村内の細かい状況を知っている人を見つけ救い出し、その人の指示で動くのが良い。人命救助の場合は、その人をヘリの助手席に乗せていくのが最も有効だろう。間違っても、「作戦本部」などで時間を費やしてはいけない。

その他、水の排水や給水などといった活動にも、自衛隊の装備が役に立つはずだ(地元の消防の装備とちがい、軍隊の装備は、遠くに運んでいって使うようにできている)。

救助というものは、どれだけ多くの人を救うかどうかで成否が決まる。「正しく状況を判断する」「でき得る限りのことをする」「しっかりやっていく」、こうした総理や官房長官の言葉は、どれも、緊急の救助のあり方の正しい方向を捉えていない。

〔追補〕
日本にヘリコプターが何台あるのかを知るための参考サイトを紹介する。
これによると、自衛隊700機、民間(含非軍事官)1000機、ほどだ。被災の激しい各町に(大小合わせて)十数機以上割り当てることは難しくない。
航空の現代:日本の航空機数/西川渉 〔← 2013-06 リンク修正〕
(上のサイト情報は、少し古いながら一般人にとって大変貴重である.記事の最後の方に、先見の明と言えるコメントがある.)


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東北地方太平洋沖地震被害に対する支援について - goo 募金
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日本ユニセフ協会|東日本大震災緊急募金
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【日本赤十字社】東北関東大震災義援金受け付け
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省エネおよび環境維持のために根本的な処方は、都市部の、 ヒートアイランド化や砂漠化を防ぐことである。まずは、企業のオフィスや、工場、研究施設の一定面積の割合について、屋上緑化 を義務づけることを提唱したい。

<従来のセダム種の欠点を補う以下のような新手法も出されている.>
常緑キリンソウ.com/(株)緑化計画研究所

『我が国と郷土を愛する(新教育基本法第2条-5)』気持ちがあるはずだから、我が国の土地を使用する企業は、快くこの種の出費をしてくれるに違いない。

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原油(WTI)価格は、第一次オイルショック以前は2~3ドル/バレル、90年代には20ドル/バレル程度で安定していた。ところが、2003-4年ぐらいから高騰が始まり、2007年から上昇を急加速させて、今では130-140ドルにまで達している。
WTIの長期データ 1946-2008/NightWalker's Investment Blog

特にここ数年の高騰では、枯渇の影響が取りざたされたわけでも、産出コストが跳ね上がったわけでも、供給能力の不足が生じているわけでもないのに、一気に倍以上の値をつけるに至っている。この異常事態は、資本主義国の投機マネーが流入し、先高予想を増幅・加速させた結果であるとしか理解のしようがない。

結果として、産油国には従来の何倍もの利益金が進呈され、消費国では関連物価の上昇による生活苦が生じる。投機型の資本主義が、どれほど愚かなものであるか、、本当にありありと分かる。

投機を左右するのは、実は、実体的な需給の分析結果というよりは「口実」であることをご存知だろうか。「地政学的リスク」という(分かったような分からないような)口実が成り立つ限り、売りは危険で買い安心という構図になる。構図ができれば、相場は、流れにつくのが鉄則であるから、高騰のポジティブフィードバックから抜けられなくなる。--破綻するまで。

実は、原油高騰問題に対して、サミットで為すべきことは一つだった。ブッシュ大統領が、「中東の諸問題については、武力による解決策をとるべきでない.」と発言する一手だった。別に、大した行動は伴わなくてもいい。対中東政策の基調が変わったというメッセージだけで十分だ。(もちろん、「イラクへの軍事介入は間違いでした.ごめんなさい.」と言えば完璧だが、それは無理な相談だろう.)もし、日本の首相がブッシュ大統領を説得しこの発言を導きだせたなら、原油高騰は鎮静化に向かう可能性が高いし、さらに、日本は議長国として(歴史に名を残すほどに)世界から尊敬されたことと思う。

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少し古いが、原油価格を決める要因を見やすく整理・解説したサイト:
原油価格高騰を考える/(財)和歌山社会経済研究所

目下の原油価格の動きを見るのに適したチャート:
NY原油チャート/堂島相場道場

また、わずか10年ほど前の田中宇氏の記事:(現状との対比が鮮烈なのでリンクしておく)
産油国の金庫は空っぽ - 政治不安呼ぶ原油安/田中宇


〔関連トピックス〕
最近の原油のピーク価格144ドルを、何と、オサマ・ビン・ラディンが予言していた。
暗いニュースリンク: オサマ・ビン・ラディン、目標の一部を達成


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〔追記〕
また、最近の池田信夫氏のブログに、原油価格の上昇は悪いニュースか なる記事を見つけたが、、その中の記述:「先物相場によって現物価格が上がることはありえない.(旨)」は全くの誤り。もし、先物が現物より十分高値になっているときには、現物を安値で売り急ぐ人が減って(いわゆる売り惜しみ)、現物価格が上がっていく。もちろん、先物当限(現物受け渡しがあり得る)は現物とほぼ同価格で売買されることとなる。先物は一種の先を見越した市場の人気の現れであり、突発的な状況変化が起きない限り、現物-先物の価格は常に連動・相関する。現物と先物のどちらがどちらを動かすというのでなく、先行きの見込みを巻き込んだ形で相互連動的に変動する。立会で価格を決めるとはこういうことだ。基本中の基本。

〔追記2〕
実は、ここ数日原油価格は急落しており、「ついに原油相場バブルの破裂か?」ともささやかれている(中国新聞ニュース)。本稿は、その直前に書きかけたものであるが、言いたいことの基本は変わらないので、あえて予定どおりの文章として掲載した。いずれにしても、当面、原油価格から目が離せない。

〔追記3〕
この原油高騰の原因は、結局何だったのか。一行で模式説明すれば、、以下のようなことだと思う。

[ブッシュ政権による上げ口実の提供]+[信用取引(カラ売買)資金の過剰拡大]
=[本来数十年スパンぐらいの上げ変動を4年に縮めて実現させた]

信用取引は、現物価格の自然な変動の方向性をひっくり返すということまでは為さない。しかし、信用取引は「せり」の効果を極限までに発揮させる役割を果たす。互いに顔を知る需給関係者どうしの取引なら、「とりあえず前月と同じ水準でよろしく、、」という人間的な要素が入る余地がある。しかし、信用取引では、現物に触れたこともないような各国の投資家が、純粋に差益だけを求めて、巨額の資金で売買をしかけてくる。そこでは、「上げる可能性が高いならばそれより安くは売らない、、」という冷徹な判断以外は一切入らない。少しでもアンバランスな変動要因があるならば、僅かな動きに対してくさびを打ち込むような効果を発揮し、変化の方向を決定づけ、変動幅を拡大させてしまう。さらにまた、原油は天然の貯蔵庫に入っていて、早く売りさばく必要はなく、値崩れしないようなぎりぎりの産油ペースを保ちやすいという特質も効く。産油国が功利に徹するならば、投機による高騰の効果を最大限利益に結びつけるように行動できる。

このようなことを考えれば、ブッシュ政権のように一方的な上げ口実をつくり、中東産油国との関係を緊張させるような国際政策を採ってしまえば、原油価格の高騰が加速度的に前倒しされてしまう結果は当然のこととも言えるのだ。

ビン・ラディンの推定は恐ろしいほど鋭い。さすがに144ドルを超えるまでになれば、需要構造にも相当の揺さぶりが入り始める、、と市場が考えるだろうから、、それ以上一方的に上げるのは難しかろう、、という予想(とラディン自身が考えたかどうかは知らないが.)。さて、今後の価格推移は如何に、、

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サミットでは有効な提言が全く出せないようなので、化石燃料の使用量削減に効果的と思われる私の案を記す。

現在では、物資の国内輸送手段の主力は貨物トラックである。しかし、鉄道を使って、同じ質量の物資を同じ距離だけ運ぶならば、エネルギー消費量は概ね1/10で済むのだ。

(H6年のデータ):
環境省の 白書の図表 の中の 1-2-13図「輸送機関別エネルギー消費原単位」
あるいは 輸送機関別エネルギー効率 (ただしこれは昭和54年の情報)

確かに高速トラックを使えば、ドアtoドアで、たった1日で、ほぼ日本中どこにでも貨物が届く。しかし引き換えに、その輸送のために、鉄道に比べ10倍の燃料が毎度毎度費やされるのだ。何が何でも翌日までに届けねばならない、という要請が、それほど頻繁にあるとは思えない。石油の消費を抑えることを決意するからには、これくらいの不便は甘んじて被るべきだ。(無意味な精神論とは違って)確実な省エネ効果があるのだから、このような輸送手段の転換を目指して、政治・行政は積極的に動くべきではないか。

在来線の貨物列車では、輸送時間がかかりすぎることも確かだ。それならば、東北-東海道-山陽新幹線に貨物車両を導入することを真剣に検討すべきではないか。この幹線から先はトラックに移すことになるが、その際、従来式よりもっと便利な貨物転載の方式を考案することが望ましい(こういう発明・開発はその気になればあっという間に進むだろう)。これが実現すれば、現状との輸送時間差もそれほど生じないはずだ。

現状の新幹線は、深夜ぐらいにしかダイヤの空きがない。保線の時間も必要だろうから、そこに貨物列車を押し込めるのは難しそうだ。そうとなれば、新幹線の複々線化を進めればいい。大きな公共事業だが、目的と効果がはっきりしているし、赤字路線になることは考えられないので、公費投入のインフラ事業として相応しいと思う。高速道路に投じられている税金よりよほど有意義な使途である。

[P.S.]
調べてみたところ、新幹線による貨物輸送というアイディアは、既にいろいろ出されていた。このような提言に、首相や国土交通省の人は、目を向けてはどうか。
<ing>

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新幹線で貨物輸送
新幹線 貨物 - Google 検索

石原浩氏 (慶應大)による研究報告
経済環境面から見た貨物新幹線の可能性/交通運輸情報プロジェクトレビュー13 
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