はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

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当方、コロナ禍に巻き込まれて、予定が全てくるってしまったこの数年であるが、その間オンライン授業の資料などを準備する中で、「科学」や「科学的」の一般的な意味を考える時間を多く持つことになった。ここからしばらく、そのプロセスで辿り着いた私なりの理解を題材にしてみたい。

「科学的」は「論理的」とほぼ同義であると思っている人が多いのではないだろうか。科学的営みの本質はロジカルシンキングだなどと語られることもある。

さて、論理は、命題(述べられた内容が、真か偽のいずれであるかが客観的に判定され得る文)によって構築される。

そこで、はじめに、次の、シンプルな命題を取り上げる。これが正しいかどうかを考え巡ることが、科学と論理の関係を探る最初の取っかかりになるからだ。

「人は死すべきものである」

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この文章は文学的テイストを帯びているので、先ずそれを取り払ってみよう:
「考える対象が人の1個体であるならば、その対象には、時間が経過したある時点において、必ず死亡という変化が起きる。」

有限時間のうちに死亡する(それ以後人の範疇から外れる)ことが、ある対象個体が「人」であることの必要条件だと言っているわけだ。
首を刎ねても死なないとか、何千年も生き続けるとか、そんなことはありえないという、真っ当な命題のようにも思える。
しかし、これを論理命題ととると、おかしな事態に陥るのだ。

---- 続く
後件の否定を考えてみよう。
「時間が経過したある時点において、死亡という変化が起きないのであれば」
これで必要条件が満たされなくなるので、
「考える対象は人の1個体とはいえない」
が帰結される。(いわゆる’対偶’だが、形式的に扱わず、徹底的に文脈で考えることをお勧めする.)

ここで、ある人の将来の死亡を絶対確実に予測する手段はない(「いつかは死ぬ」などというのは、あやふやな経験則であって、論理ではない.)。
したがって、人であると推定されたある個体について、死亡の成立は、実際に死亡するときまで満たされることはない。
つまり、誰であれ、生きている間は、人であることの必要条件が満たされないということだ。
貴方も私も、(死ぬときまで)人間にはなれない。
もっと言えば、「生きている人は存在し得ない」という一般的内容が演繹的に帰結されることになる。




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