はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

〔コメント数の数字クリックで書き込みができます〕
 



日曜のTV番組「サンデープロジェクト」の06-02-26の放送に竹中平蔵大臣が出演し、小泉改革と格差の関係についての田原氏の質問を受けていた。その返答は、今まで私が主張してきた悪しきレトリックやその他の卑怯なディベート術の見本のようで、私は苦笑した。そのときのやり取りを以下に要約してみよう(記憶によるので不正確なところもある)。

=====

田原:日本の格差が拡大しているという指摘があるし、実際に、ジニ係数も上昇を続けている。このような格差拡大は小泉改革の負の側面ではないのか?

竹中:そのような批判は、既得権益を守ろうとする抵抗勢力が使う常套手段だ[a]。小泉政権以前からそのような統計傾向が出ているのであって、小泉改革の影響は統計に入っていない[b]。近年の世界的な動きとして、市場経済の自由競争を促す圧力があった[c]。改革による金融の正常化をせずにいれば、格差の拡大が止められたわけではない[d]。機会の平等を実現するには[e]、規制を無くす方向に向かわなければならない。その弊害をなるべく抑えるために、セーフティーネット[f]を用意した。ジニ係数の現状については、専門家の分析に任せたい[g]。

田原:あなたは専門家ではないのか。いずれにせよ、結局あなたたちは、新自由主義の路線をとったと言っていいか。

竹中:新自由主義であった[h]ことは間違いない。

=====

この返答発言の問題点を解きほぐしておく。

[a]
批判者の側(の主張)を、明らかに悪いイメージを持つ言葉と、頭から結びつけてしまうことで、聴衆の判断意識を自分寄りに引きつけようとする、卑怯なレトリック。ネット掲示板でお馴染みの「レッテル貼り」もこの一種と思ってよい。ここでの「既得権益」「抵抗勢力」の他、最近では、「悪平等」という"悪"が最初から結論付けられているずるがしこい用語がよく用いられる。

[b]
政治に、「私のせいではありません」という言い訳は通用しない。悪い状況を把握し、改善するのが、政治の責務であるからだ。格差が開く傾向が既に現れていたならば、それを是正するように配慮した政策を為さねばならない。状況の知見が不足しているままに、自分の思い入れや、特定方向からの外圧によって、むやみに新自由主義改革をおしすすめた結果として、格差改善ができなかったのであれば、それは完全に小泉-竹中路線の罪である。

[c]
外国の流れを模したというなら、とっくの昔のスタート時にそういうべきだった。先行する外国の例を見ればいいのなら、国民にとって、小泉路線の意味の判断はもっと早くから出来た。ヨーロッパの例を見れば、新自由主義路線の、メリットと弊害が、共にはっきり見える。覆い隠したかったことが、今や国民にバレ、誤魔化しきれなくなった、、と思われても仕方あるまい。

[d]
これも、逃げることしか念頭に置かない発言だ。金融の正常化は必要だし、そのための不良債権処理も一定の意味はあったのだろう。しかし、もっと大事なこと(つまりは内需不足による不況)があったなら、そちらの解決を優先するのが政治というものだ。少なくとも、無視してよいはずが無い。

[e]
「機会の平等」の件は、06-01-07の稿で指摘したとおり。聞こえはいいが、実際にはありえない概念。ごく限られた人の限られた種類の野心だけについて成立するのだろう。

[f]
「セーフティーネット」とはおかしな言葉だと思っていたが、要するに英国サッチャリズムで使われた用語を模したものだったようだ。お金を最終目的としないで生きたいと思っている人をこれほどばかにする言葉は無い。

[g]
自分は所得統計の専門家でないと言って逃れているのだろう。誤魔化しの算法をひねり出した役人よりは、少しは賢明か。しかし、経済政策をつくった中心人物が、逃れてどうする。責任者として、青くなって、すぐに調べるべし!直後の田原氏の突っ込みは、視聴者の憤懣を代表していた。

=====

竹中氏が、単に、小泉親派の評論家であるとか、ヒラの議員であるならば、このような、[言い訳+反撃]の形をとった、子供のディベート技のようなトークも許されるかもしれない。しかし、氏は、改革の路線のブレインとして、国民に直接影響を与える重要な意思決定の役割を担ってきた人だ。国民に重大な影響を与える政策の根拠については、十分な説明責任を果たす義務がある(あった)。今頃になって、言い訳のディベートを声高に展開する姿は、正しい大臣の態度からはかけ離れたものに見えた。


=====
関連投稿
06-02-06『「努力が報われる社会」に騙されるな
=====



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




-----
卒・修論の指導に追われる時期だったため、やむなく間があきました。
気持ちを新たに、社会批評風な記述から再開します。
-----

05-11-30分のタイトル:『定義の曖昧な言葉に気をつけよう』の(短い)記述の中で、「国」という言葉が、ずるがしこくご都合主義的に意味を変えて使われることを示唆した。

しかし、最近、大学の学科内の小会議に出ている際に、大学人までもが、「国」と同様にご都合主義的に意味を捻じ曲げ、ある用語を使う姿を見て、とても情けなくなった。

”社会”がそのある用語だ。この語、特にそれを使った「社会のため」という表現には、水戸の老公の印籠のごとく、大学人の口をつぐませる絶大な効果がある。

いわく、
「大学は、社会が求める人材を送り出さねばならない.」
「社会から見て本学がどう評価されるかが重要だ.」

この場合の社会とは何か。社会科学の社会か。社会主義の社会か。「企業の社会的責任」というときの社会か。違う。単に、生産業における会社組織を指しているのだ。

いくら新自由主義がはびこる時代とは言え、一応は社会科学系の教養科目も学んだはずの大学人が、”社会=生産業者”などという短絡思考(あるいは洗脳?)に陥っている姿には、唖然とする他はない。

確かに、社会という言葉は、いろいろな切り口で扱われる言葉である。それは構わない。数学用語のように定義を一意的にすべきだとは言わない。しかし、社会の構成を考えるときは、いずれの切り口から見るときでも、対立する等価要素を同時に含めて考えねばならない。〔男-女〕、〔資本家-労働者〕、〔生産者-消費者〕、〔短期的要素-長期的要素〕などだ。こういう、対比構造は、一方が強いから他方を軽視してよいというようなものでは決してない。どちらか一方だけでは、社会が根本的に成り立たないからだ。(社会科の勉強とは、こういうことを理解するためのものではないのか...)

あえて極端なところを言えば、悪どい為政者や、欲深い資本家に、易々とそそのかされることのない知的な洞察力を国民につけさせることも、高等教育機関の重要な社会的責務である。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




-----
2月5日の「疑問の構造とは何か -サイホン現象を例に(1)-」の続きです。
-----

前回、サイホン現象を見たときの疑問を整理して、以下の2つに行き当たった。

(1)川の水の流れとサイホンとの違いの本質は何か?

(2)砂と水の違いの本質は何か?

これはもちろん今の私が書いているわけだが、実は、少年はぎわら_m が感じた不思議の中味を、大人の言葉と分析力で明快に言いかえたに過ぎない。子供は、そのように分析的には意識しないが、その時のサパライジングを受けた際には、このような比較矛盾を直感的に感じ取っている。

さてそこで、上の(1)(2)をもう一段分析しよう。

(1)については、水の流れが、閉じた管の中で起こるか、(上半分が)空中に開いた状況で起こるかの違いだ。流れる水の外形状に対する制約と自由度の問題と言っていいだろう。

(2)については、「水」と「砂の集まり」には似たところと違うところの両面がある--という、バックグラウンド的な不思議さが基本にある。一まとまりの水のかたまりを、いくつもに分けることは容易にできる。同様の(バラバラになり易い)性質が、砂や粉の集まりにもある。しかし、水道の蛇口に水が溜り残ったり、丸い水滴ができるのと同様の現象は、砂の場合には見られない。時によっては、水は、少なくとも自重に逆らって一体を保つ程度に強力につながっているのである。

サイホン管の中の水をつながったものと思えば、サイホン現象は、同様形状の滑らかな管中に鎖を通した状況になぞらえる事ができる。ここまでくれば、最高地点より出口側にある分の鎖の自重が、最高地点より入り口(池)側にある鎖の自重よりも重くなる状況が実現したとき、全体一連の鎖は出口の側へ向かってひとりでに滑り動くことは不思議ではなくなる。

どういうときに水はつながったものとして振る舞い、どういうときに散り散りになるものとして振舞うのか?その二面的な性格を分かつ条件を直感的に感じ取れないか?

疑問の構造の本質にかなりたどり着いたようだ。

-つづく-


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




-----
以下の記述は、1月11日記載の文章:"平等vs.競争の図式に惑わされるな"の〔追記3〕として書いたものだが、重要に感じたので、少々加筆の上、独立のエントリーとしてここに載せる。
-----

先月1.11に指摘した悪質なレトリック:「結果平等から機会の平等へ」、よりいっそうたちの悪い誤魔化し言葉がある。最近頻繁に見かけるようになった「努力が報われる社会」という表現がそれだ(つい最近の日経新聞のコラムにもあった)。

‘努力が報われる’のは良いことに決まっている。そこで、どんな主張だろうと(自分だけの都合に基づく、悪質なものだろうと)、誤魔化してこの言葉に結びつけてしまえば、あらゆる批判や反論を封じる仕組みが出来上がってしまう。「努力が報われる社会」は、このような卑怯なレトリックのため利用される言葉なのだ。

さて、この言葉を操る人が言うところの「努力」というのは、現在の(俗に言う)勝者あるいは勝ちに近い有利な立場にいる人が欲望に駆られ邁進している類の偏狭な努力の意味であって、決して通常一般の努力の意味ではないことに注意しよう。平たく言えば、自分のやっていることは今以上に報われたいが、別の価値観に根ざす努力は認めたくないということなのだ。結局、人に金はやりたくないが、自分はもっと儲けたい、という程度の意味なのだ。

難病に立ち向かって生きる努力をしている人にできるだけの幸福を与えようとか、社会的責任を重視した清廉・正直な仕事の姿勢を貫く努力を評価しようとか、即効的には産業に結びつかない物理の基礎教育に奮闘する努力に報いようとか、イラクで誘拐される危険をおかしてまで人道活動をしようとした努力を認めよう、などという意識は、これっぽっちも含まれていない。

真に努力の報われる社会などというのは、理想共産主義社会よりも一層夢物語に近い、まさに子供だましの発想であることを、この言葉を頻用する論者にお伝えしたい。

=====
〔追記〕
国会でも格差社会が論争になっているそうだ。
(→毎日・msn.ニュース:格差社会論争:小泉首相、強気に転換 「機会の平等」を強調
政治家の教養の有無と思考能力の程度が如実に分かる。鋭い目を向け続けよう。

〔追記のリンク追補〕'2011-9-2
リンク切れのため、harmonia_mundi氏の個人ブログ上の記録を引用させていただく。
格差社会論争:小泉首相、強気に転換「機会の平等」を強調


-----
〔'06.2.9 日付を1日後に変更しました〕
---
私的スクラップ帳(Agata氏)の「経済格差の拡大は本当に「誤解」なのか?」より、相互Trackbackをいただいています。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




この記述は、1.31分の記述の〔追記〕に続くものだが、日をあらためつつ、何回かに分けて書くことにする。

はじめに、念のため(少年はぎわら_mの観た)サイホン現象を述べておこう。
---
池の水中から、池の水面より低い位置にある池の外の適当な場所まで、ホースを導く。途中は水面より十分高くて良い(10m程度の限界はあるが)。そのままでは何も起こらないが、何らかの方法で、ホースの端から端まで水で満たした状態にすると、その後は、水はひとりでにホースを通って池の外に流出し続ける。ホースの入り口から吸い込まれた水は、自然に一旦高い位置まで登ってから、池の外の低い側へ流れ落ちる。
---

不思議に感じるときには、必ず、予想や期待と現実の間にずれが生じている。このずれの意味内容を、言語論理に乗せることができるほどに明確化したものを、私は「疑問の構造」と呼ぶことにしている。科学的な説明をするときには、特定の方向に誘導するだけではだめで、相手のいだいた疑問の構造を見抜き、それに対する的確なフォローをすることが最も重要である。この疑問の構造を明らかにする例題の様な意味で、このサイホンの例を引き合いに出した。

さて、今の場合の疑問の構造は何か。

(1)川の水の流れとサイホンとの違いの本質は何か?
川の水の自然の流れは、一時的にでも、高い方へ向かうことは無い。今のサイホンの場合、入り口より出口が低いので、全体としては高い方から低い方へ流れるが、ホースの前半分だけに注目すると、自然に低い方から高い方に流れる。川で起きないことが、そこでは起きる。何が違うのだ?

(2)砂と水の違いの本質は何か?
水以外の砂等では、同様のことが起きそうも無い。重力を考えれば当然、ホースに詰まった砂は、どちらの開口端からも下に向かってこぼれ落ちると思われる。水を使うサイホンでは何が違うのだ?

-つづく-

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )