はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

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本稿は以下の続きである。
07-12-05「因果」を考える
07-12-31「因果」を考える (2)
08-01-19「因果」を考える (3)
08-03-11「因果」を考える (4)
08-04-10「因果」を考える (5)
08-04-30「因果」を考える (6)
08-05-09「因果」を考える (7)
08-05-27「因果」を考える (8)
08-06-29「因果」を考える (9)
08-08-28「因果」を考える (10)
08-09-07「因果」を考える (11)
08-09-30「因果」を考える (12)
08-10-06「因果」を考える (12-b)
08-10-19「因果」を考える (13)
08-11-10「因果」を考える (14)
08-11-30「因果」を考える (15)
08-12-24「因果」を考える (16)
09-01-24「因果」を考える (17)
09-02-12「因果」を考える (18)
09-04-05「因果」を考える (18-b)
09-04-20「因果」を考える (19)
09-05-12「因果」を考える (19-b)
09-06-20「因果」を考える (20)
09-07-31「因果」を考える (21)
09-09-25「因果」を考える (22-a)
09-11-06「因果」を考える (22-b)
09-12-29「因果」を考える (23)
10-04-26「因果」を考える (24)
10-06-07「因果」を考える (25)
10-08-10「因果」を考える (26)
10-10-04「因果」を考える (27)
10-11-10「因果」を考える (28)
11-01-17「因果」を考える (29)
12-01-13「因果」を考える (30)

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物理的な事態の推移・関係を曖昧性なく認識し得るからこそ、科学的な因果世界の空間を構築することができるのであって、そのためには「一個に一貫した認識主体」存在が必然になるという、ある意味で、主観と客観の意味の再考を迫るような重大な真理に辿り着いた。

ただし、このときの「一個の主体」とは、一個人を意味する語ではない。人類の頭脳の中の理解として多くの他者と共有され得る、しかもその共有とは、国などの遠い地理的隔たりを超えるのみならず、場合によっては時間的・歴史的な軸の上を渡って共有されている、、そういう壮大な「理解する我」なのである。これこそが、科学的世界空間の定義にも直結する絶対の前提である。

<inging>

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本稿は以下の続きである。
07-12-05「因果」を考える
07-12-31「因果」を考える (2)
08-01-19「因果」を考える (3)
08-03-11「因果」を考える (4)
08-04-10「因果」を考える (5)
08-04-30「因果」を考える (6)
08-05-09「因果」を考える (7)
08-05-27「因果」を考える (8)
08-06-29「因果」を考える (9)
08-08-28「因果」を考える (10)
08-09-07「因果」を考える (11)
08-09-30「因果」を考える (12)
08-10-06「因果」を考える (12-b)
08-10-19「因果」を考える (13)
08-11-10「因果」を考える (14)
08-11-30「因果」を考える (15)
08-12-24「因果」を考える (16)
09-01-24「因果」を考える (17)
09-02-12「因果」を考える (18)
09-04-05「因果」を考える (18-b)
09-04-20「因果」を考える (19)
09-05-12「因果」を考える (19-b)
09-06-20「因果」を考える (20)
09-07-31「因果」を考える (21)
09-09-25「因果」を考える (22-a)
09-11-06「因果」を考える (22-b)
09-12-29「因果」を考える (23)
10-04-26「因果」を考える (24)
10-06-07「因果」を考える (25)
10-08-10「因果」を考える (26)
10-10-04「因果」を考える (27)
10-11-10「因果」を考える (28)
11-01-17「因果」を考える (29)

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(約一年ぶりのシリーズ稿の続きですが、、淡々と再開します.)

原因と結果が一対一に対応するような認識の仕方が可能な場合に「有意義な因果関係」が成立し、その際、因果関係を論理的に扱う立場をとるならば、因果の逆も成立することになる、、という趣旨のことを述べてきた。そして、水槽に砂利を投入するモデルを使って、以下のように因果関係の具体的表現例を示した。

(再掲)
・「面積Sの水槽に総体積Vの砂利が投入される」という事象が起こるならば、必ず、「水位が V/S だけ上昇する」という事象も起こる。

・「水槽の水位がΔhだけ上昇する」という事象が起こるならば、必ず、「水槽に総体積 S×Δh の砂利が投入される」という事象も起こる。

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実は、上の表現においては、物理的因果関係と論理的因果関係の間をさりげなく移ることができるように、ある意味でずる賢こく曖昧にしているところがあった。その問題部分である「砂利が投入される」という所、「水位が上昇する」という所、すなわち、原因事象と結果事象の表現が意味するところを、もっと正確に探ることが必要なのであり、それによって、前回の最後に掲げた疑問:「結果系から原因系には情報の波及が起こるはずがない!?」という疑念に対する解答も見えてくるのである。

「砂利の投入」というのは、本来、Δh = V/S の関係を成立させる機構の完全に外側で起きる出来事として実現する事象であることが前提である。このような「外側」の出来事は、その事によって、目下着目する因果を伝える系に与える変化の他にも、其処彼処に対し、多々様々の影響・痕跡を引き起こすと考えられるものでなければならない。それが、事象の科学的客観性の要件であり、実験物理学的に言う「観測可能」であることの本質とも言える。これと同じく、結果系である「水位の上昇」も、様々な外部からの観測にかかる出来事としてとらえることで、はじめて因果関係の構成要素の事象になる。そうして、このことをできるだけ忠実に反映させた形で結果系を表現をするならば、例えば、「水槽の水位がV/Sだけ上昇したことが、何らかの外部装置によって観測・記録される」となるだろう。

ここまで見通すと、結果事象が、因果を伝える水槽系に対して跳ね返りの影響を及ぼさないことの意味も分かってくる。科学的な因果関係の結果とは、客観的事象として揺るぎ無く確定することが要件だったのだ。そのためには、結果事象自体が、さらに1対多型に膨大な事象の波及につながっていなけれならない。このことによって、時間逆行向きに遡るような事象の推移も(事実上)禁止されている。’客観的に観測される揺るぎない事象であること’というのは、実は、『科学とは何か』という大大問題につながていることなのだ。

話が(遠大に過ぎるところへ)はみ出したようなので、本筋に戻す。以上で考察したように、純粋に揺るぎない事象として位置づける「原因系」も「結果系」も、それら自体が時間反転禁止型の因果の網の目にがんじがらめに絡め込まれている。ここで深刻・重大となる問いかけが、そのときの因果構造は、何との間の関係を基本におくものかということだ。そして、その答えとして、必然的に要請されることが、「一貫した認識主体」の存在なのである。

揺るぎない事象の間の関係を論じることが因果的な見方の本質であるのならば、「原因」と「結果」は、物理的な事態の推移・関係を曖昧性なく認識できるような、一個に一貫した認識主体が把握するのでなければならない。そうでないときには、「見た・見ない」、「言った・言わない」、「やった・やらない」の類のいわゆる水掛け論の可能性が排除できず、科学的な世界空間を築くことが不可能になってしまう。

因果関係というのは、このような認識主体の認識・理解の推移の上に展開することなのである。

<ing>

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仕事用のメインPCとして、WindowsXP 機を永らく使っている。
快適であったが、ここ数ヶ月ぐらいの間に、Explorer.exe のつかさどるフォルダ表示などが、明らかにもたつくようになってしまった。ウイルスや重い常駐プロセスが入ってしまったかとも思って調べたが、それらしいものは見当たらないようだった。

ということで、'ダメで元々'と、レジストリの手動チューニングを試みたところ、以下の設定によって、てきめん・顕著な効果が認められたので、雑情報としてメモしておく。

調整したのは「追加のワーカースレッド数」で、これによるチューニングの話は以前から知っていた。ただし、数年前にはその効果があまり認められず、元に戻して使っていた。

何故今になって効果が見られるようになったかは不明。一つの可能性は、WindowsXPの更新プログラムのために、カーネルが当初の標準設定以上のワーカースレッド数のプールを求めるようになった、、ということだろうか。(根拠も知識もありませんが.)

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レジストリキーの位置:

HKEY_LOCAL_MACHINE\SYSTEM\CurrentControlSet\Control\SessionManager\Executive

AdditionalCriticalWorkerThreads
および
AdditionalDelayedWorkerThreads

デフォルトの値は両者とも0だが、これを前者1、後者3にする。
これは、Pentium4, 3.2GHz, 2.0GB RAM のマシンで私が試行錯誤的に決めたもので、キャッシュの効き方などを揃えるように配慮しながら、体感的に判断し、同程度であれば少ない方をとる方針によるもの。
CPUのスペックなどにより最適値は変化すると思われるが、数台のPCで試したところ、どの場合も大体、Critical: 0〜2、Delayed: 3か4 あたりを試すといいようだ。

〔参考サイト〕
窓使いの友 - WindowsXP をパフォーマンスアップ!/:MikasaPHP
DOUBLE SLASH! -XPレジストリチューン/「SKUNK WORKS」

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公教育校において、教員に対して「君が代」の起立斉唱を強制する職務命令を合憲とする最高裁の判決が6件ほど出揃った。

投稿当初には、これらの判決を報道しているサイトをリンクしていたのだが、全てリンク切れとなったので、替わって、内容の記録などが記されている個人サイトを以下にあげておく。(2011-08-10追記)。
記事紹介 N318 君が代・日の丸/ProjectG by 成田文広氏
君が代命令 三たび合憲 −「賛成」判事も強制慎重/ 東京新聞6月15日朝-TOKYO Web の代替として NGO​言論・表現の自由を守る会JRFSのブログサイト

一方、つい先般、大阪府議会で、君が代の起立・斉唱を義務化する条例が可決されるという出来事もあった。
大阪府、君が代条例成立 教職員に起立斉唱義務づけ/asahi.com

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先ず、(念のために)これら両者の意味の違いに言及しておこう。

最高裁判決の方は、『ある学校の校長が職務命令として君が代斉唱時の起立を指示したことは、憲法違反とは言えない。』という判断である。補足意見の一つとして「司法が職務命令を合憲とすることが、問題の社会的解決とはならない.」という見解も付けられているし、多数とならなかった反対意見もちゃんと記録されている。これらを総合して眺めれば、時代の風向きの影響を受けてしまっているとは言え、一応は理性的な判断が為されていると考えてよいだろう。

一方、大阪府の条例は、地方自治体として「府内の学校行事においては、教職員は起立して斉唱せよ.」とする布告を出す、いわゆる‘御触れ’の性格をもつものである。そこでは、個々の学校の校長やその他の構成員による調整・配慮・判断などの余地が一切否定されていることに注意しよう。儀礼行動の中味に対する‘御触れ’とは、いやはや、封建時代の『○○の令』を思わせるものであって、近代民主国家の立法の一環とはとても思えぬ措置である。

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さてこのように理解した上で、インターネット上の意見を検索してみるとよい。目につく多数派の意見は、(表現の汚いところを正して整理すれば)大抵、上の両者の違いに意を向けておらず、以下のような類型的な主張となっていることが分かる。

『公務として教育を為す教員が、日本の国歌や国旗に反感を持つこと自体が異様であるから、これを容認しないのは正しいことだ。』

私は、この多数派意見は、日本の国旗・国歌の問題の根源に目を向けていない正に稚拙な発想の表出だと思う(そして、そうした発想をする代表者が橋下徹知事である.)。戦後の新憲法下の近代日本をシンボライズする国旗と国歌として何が相応しいかという問いに対しては、戦後の昭和期を通して長らく答えが出せなかったという歴史的現実がある。新規に創案する努力も為されなかったし、かといって、大日本帝国憲法時代に慣例的に使われていた国旗と国歌を継続して採用すべきという明確な論も出されなかったのだ。皆がその問題を避けていたというのが近いと思う。決して、一部の左翼運動によって国旗・国歌の決定が妨害されていたのではない。

替わる案が無いために、式典のときには、戦前の国旗と国歌を使うことが通例となっていた。私はこれで構わなかったのだと思っている。よい案が出てきたときに、あらためて議論して場合によっては立法措置すればいい、、そんなふうに考えていた人も多いはずだ。昭和期においては、絶対に日の丸君が代でなければならぬと主張する人も、絶対に新しいものに変えるべきだと主張する人も、どちらも多数を占めなかった。曖昧にしておく方が良いというのがナショナルコンセンサスだったとも言えるし、いろいろな主張がそれなりに許容されていたとも言える。

ところが平成に入りバブルがはじけた後の、1999年(平成11年)8月13日、社会的な議論の機運も無い中で、かつて日本に一度も存在しなかった「国旗と国歌を限定する法律」ができてしまう。条文は簡素で、『第1条 国旗は、日章旗とする。第2条 国歌は、君が代とする。』という二文だけだ。反対の立場をとる少数派がいることが分かっていながら、「現行の運用に変更が生ずることにはならない」という小渕首相の答弁を残しながらも、賛成多数であっさり可決、施行となった。

このころから、議論の論調は、「現代日本の国旗・国歌として何が一番相応しいか」という出発点の問題意識を綺麗さっぱり忘れて、一足飛びに、「日の丸・君が代を否定することの是非」というように、歪んできてしまったのだ。

そして、今日、「公務員でありながら国旗・国歌を否定するとは何事か!」という、単純至極なる感覚が跋扈するに至り、ついに、国旗・国歌への問題意識を保持した人を正常な公務員と見なさないとする条例までが通ってしまった。そして少なからぬ国民がこれを支持しているように見うけられる。私は、こうした時代の風潮の底流を成すのは、自分の理解できないものを、駆逐して安堵を得たい と思う、ひ弱な精神構造なのだと思う。

この様は、国民主権を採る近代国家としては甚だ情けない。国家の弱体化をさらけ出した現象であるとも言える。が、しかし、私がここで言いたいのは、この右派思想を批判したり、その誤りを解説することではないのだ。

-<続き>-

いわゆる左派や日教組の勢力が強かったのは1960年代中ほどから1990年ぐらいまでの間だろう。そして、この時代の影響を受けて学童期を過ごした人というのが、現在の中・壮年世代であり、たとえ地味であっても社会や組織のいろいろなところで、多かれ少なかれ管理・運営的な仕事に携わっている(きた)と思われる。ここで考え込んでしまうのは、結局、この世代の人たちによって「バブル崩壊」後の(小泉ブームを含む)顕著な右傾化の流れが形成されてきた、、少なくとも、それに対する批判的な眼力をもたぬ社会が醸成されてしまったという現実があることだ。こうした、脆弱な社会ができてしまったところへ、橋下徹のような、ベルリンの壁崩壊後の動きを高校大学あたりで見聞きした世代が登場する。「社会主義的ものはすべからく滅ぶべし」というイメージを強く持つ彼らには、70〜80年代の微妙なバランス感覚の妙(そしてそれによる現実の利)を理解すべくも無く、突っ走る。そして、それに歯止めをかける強い上役や社会の目は存在しなくなっていた、、というのが、今日の日本の姿である。

左派の思想は、実効的という意味では、ほとんど全く次世代に影響を与えることがなかった、、というか、むしろ逆のムーブメントを生む素地を与えただけだったという皮肉な結末である。

このことは、教育の方法論に関わる、見落とされがちな基本原理を(自戒的な意味も含めて)痛烈な形で教えてくれる。確かに、人は、脳の中で理解を積み上げてそれを有機的に総合化していく力を有し、さらに、そうしたプロセス自体に充足感を覚えるという類い希な生き物である。が同時に、そうした大脳皮質前頭葉における高級な思考活動が、大脳辺縁系におけるより基本的な動物の行動原理:「不安な状況を排除しようとする」こととリンクするやっかいな生き物でもあるのだ。つまり、(社会的・対人的な側面まで含む)安堵感を保って学習が進んでいる限りにおいては、人は誰しも意外なほどに高度な思考を成し遂げるが、一たび学習行動が不安感に結びついてしまうと、その関連事項がすべてネガティブな印象となって凍結状態になる。その際には、内容が真実を突いているなどということには関係なく、理解しかかっていたことは全てゼロまたは負の価値領域に追いやられる。左派が強かったころに行われた「戦後民主教育」が辿った運命は、結局、「これこそが正しい」「これこそが重要だ」というばかりで、頼もしく安心感を与えるという姿勢を軽視したことの報いであると言える。

実は、上に述べたことは(勝手に偉そうに述べてきた)私自身の自戒と反省そのものなのである。大学の講義を長年担当する中、自分が習ったときよりも分かりやすい説明法を求めて、ずいぶん苦労してきたつもりである。しかし、この努力は、往々にして逆効果を生むことを悟るようになった。物理においては、日常経験的な直感とは反する原理・法則がしばしば表れる。このとき、「私が今まで思っていたことは何だったのか??」という学習者の不安感を意識しなければならないのだ。この不安な感覚を、論理を駆使して解消し新しい理解の展望に結びつけていくのが物理学の醍醐味と言えるが、その際の障壁に負けてしまい容易に抜け出せない人は、不安感ピークのところで、試験を受けることになってまさに最悪の永遠の負の凍結に至りかねない。対する解決策は容易に見つからないが、個人ごとに、不安から解決に向かう手間と時間の予想を見定めて、それによって扱う内容をしぼり込む必要があるように思う。ただし、省くことのできない大切な内容が、このような不安から抜け出すことの難しいタイプの極である場合にはどうするのか。不安を解消するまで時間をかけて完全につき合いきることか。それは確かにそうなのだが、能率が非現実的なレベルにまで下がってしまうのでは意味が無い。

物理に限らない話に戻しつつ、私の思いを言えば、結局、ことばの論理力をつけることを軽視して、高級なことに手をつけてしまうことが、近代の教育の矛盾点の根源なのではないか。'高級なこと'というのは科学的な内容に限るものでなく、「平和」とか「平等」とか「人権」などの概念についても、妙な段階で中途半端な教育を行うと、それは、上に述べた「負の凍結」を招くか、そうでなければ「洗脳」になってしまう。冷静沈着で論理的な言語力の教育に多くの時間を投じることが、実は、民主教育のためにも先端科学教育のためにも必要な条件であったと考え至るのである。

-<続き2>-

さらに、いっそう重大かつ根本的な視点がある。それは、人の集団を対象に教育や指導を行うときには、人の心のメカニズムの多様性をこそ重視すべきであって、『正しいものが席巻し 悪しきものが駆逐される』ことを目指すような発想では決してうまくいかないということなのだ。

心のメカニズムの働き方には、ある程度類型化できるパターンがあるように思われる。ただし、ある人がどのような類型に属するかは、恐らくはかなり生来的に決まっていて、教育によって変えられるものではない(ただし一生涯固定しているとも限らない)。したがって、ある正しい原理や方針を見い出し得たとしても、それを受け入れることが非常に困難である人がいることを考慮し、その人たちに対しても愛情を込めて安堵を与え、尊重の意思をもつように努めなければならないのだ。

このことは、左派に対しても、右派に対しても、共通して問いかけられるべき問題だ。左派は、力強くて頼もしいものを求める人の心を軽視してこなかったか。右派は、自己の利害の観点から離れて、高所から客観的にものごとを理解・判断しようとする行動の価値を軽んじてこなかったか。

歴史的に、人間は愚かな行いや争いをさんざん為してきた。それは、今後も完全に無くなることはないのだろう。しかし、文字による記録と、言語による抽象思考を獲得した人間は、過去を反省して未来の行動を律する力を相当に身につけた生き物であることも確かなのだ。その力によって獲得した概念の代表が「人権」や「自由」や「平等」である。これらは、極めて価値ある概念要素であるが、それをスローガンにした席巻思想に結びつけるようなものでは断じてない。これらの概念アイテムを社会に活かす方法については、我々は未だに未熟な段階にあることを謙虚に強く意識して、右に左に綱引き競争を繰り返すばかりの不毛な政治の流れから脱却する段階に進まねばならない。

【補】
以上の想いは、大分前に「資本主義・社会主義の争いを越えて」と題して投稿したメモから脈々とつながっていることである。

〔参考のための過去の記述〕−'平等'の意味などについて−
・平等vs.競争の図式に惑わされるな
・「努力が報われる社会」に騙されるな


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【memo】
また、少し前の、君が代のピアノ伴奏拒否に関する裁判の結果も関連して思い出されることである。
君が代伴奏拒否への最高裁判決-メモ/竹澤拓真氏

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京都府では「下水道の浄化センターで午前10時〜午後5時に行っている下水処理の一部を深夜に移す。浄水場3カ所も同様の措置を取る。」等による節電策がまとめられたそうだ。
京都府「17%節電可能」 夏の電力不足ピーク時 : 京都新聞→リンク切れ)
京都政経調査会:6月19日の記事

これは、すぐにできて、弊害もほとんど無い方法として賢明だと思う。都市圏ならばは何処でも採用すべきである。

さらに言うならば、大電力を使う民間事業の稼働・運営時間も、できる限り昼(特に午後)から深夜・早朝にシフトすることが、電力危機を乗り越えるために有効だろう、、と考えて、検索したところ、経団連が同じ事の推進のため以下のような主張をしているそうである。
経団連が深夜業の割増賃金の緩和を求める??/出る杭はもっと出ろ!管理人

私は、派遣労働の規制を(小泉政権以前のように)厳しく戻すことのバーターとして、このような労基法の改定を考慮してもいいと考える。現在の時代の要請は、このような方向にあると思われる。

アクセスカウンター ご縁カウンタFree!

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今頃になって次第に判明してくる福島第一原発の事故の分析結果は、唖然とするほどに紛れのない「全炉心熔融」が起きていた事を示すものである。プルトニウムを含む核燃料物質のどれだけの分がどこに溜まり、どれだけが環境中に出てしまったのか、、今や大まかな把握さえ難しい状況と思われる。そして、ある意味で典型的なこの原発事故の様態は、冷却システムの復旧が見込めないうちに爆発を起こしてしまった2ヶ月前には当然、リアリティをもって想定されるべきものだった。そこで本ブログでも、3月29日の稿で『(最悪の中で)最善の封じ込め建造物を考案・設計すべき段階だと考える。』と記した。

しかし、これまで実際に為された対策は、ちまちまと小出しにするようなことばかりで、この最悪のコースには全く対応ができず、プルトニウムの漏出を指をくわえて眺めるだけのタイムロスばかりが積っている。

単刀直入に言う。もはや細かい細工は無効であるし危険である。ダム建設の土木技術を使って、原子炉関連の構造物が存在する(土中の)最低部から最高部までの高さをダム壁で覆うような大きな建造を為すべきである。そしてその中に水を導き入れ、巨大プールとして、冠水させ、かつ物質の流出を止めるしかないのではないか。できればその上には蓋をかぶせ、蒸発分の還流装置を設けると同時に、逃げ出す元素分析を行う設備を乗せるのだ。1号機から4号機までをまとめて、直方体形のダムプールにすることが考えられる。そして、然るべき段階で、中の水を浄化処理してコンクリートに置き換え、炉内の核燃料片はその中に永久埋没するしかない。

ダム壁の工期はそれなりにかかってしまうので、これまでの注水や暫定的なカバーの工事などは継続する必要があるだろう。ただし、そうしたちまちました細工をいくら繰り返しても、到底、プルサーマルの全炉心熔融”という重大事態に立ち向かうことにはならない、、と、覚悟を決めてほしい。発想のベースを『最悪を制する』ことに置くことが絶対に必要なのだ。

〔追記〕
今日になって、さらに、1号機の炉心溶融が地震発生当日の夜から起きていたとする見解が発表された(当日の官房長官のコメントなど、ピエロのトークもいいところだったことになる)。『11日午後6時ごろには燃料の頂部まで水位が低下。午後7時半ごろには燃料がすべて水面から露出し、損傷が始まった。午後9時ごろには、炉心の最高温度が燃料が溶ける2800度に達し、12日午前6時50分ごろには燃料の大部分が落下した。』のだそうだ。これを聞いて、私がどうしても気になるのは、燃料がすべて露出した7時半から、融点に達した9時までの時間の短さだ。原子炉工学の専門家はこれを標準だと認識しているのだろうか。そうであれば、つねずね「水が無くなれば炉心は1時間半でメルトダウンして手がつけられなくなります.」とアナウンスして、その上で、原発推進の国民了解をとるべきであった。もちろん、これに対しては、「そんな危ないものは願い下げです。メルトダウンを自動的に回避する構造にしてから出直して下さい。」と答えるのが正常な反応となる。
MOX燃料を使っていた3号機の詳しい状況分析が、一層重要である。プルトニウムの流出量を見積もることが絶対必要であるにもかかわらず、このことが報道に全然出てこない。何故だ。報道関係者も原発の専門家も、皆、何故平然とそのことから目をそむけていられるのだ。こちらの精神がおかしくなりそうだ。

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原子炉の炉心は、冷却水の循環が止まって温度が異常上昇した時点で、速やかに自己破壊して落下するようなしかけとする、、そしてこの落下に伴って、大きな熱容量の物体中に散り散りにばらまかれる(できれば希釈させる)ようにすればよい旨を、前項で述べた。狙いは、水の循環による熱交換に頼ることなく、炉心(の破片)を永久的に密閉容器内に保持し得る条件の達成だ。

実は、通常の熱化学的反応としての圧力上昇、水蒸気爆発、水素爆発、などを強引に押さえ(抑え)込む容器の強度というのは、そのことだけを考えるならば、大して困難な条件ではない(デリケートな機能構造を切り離すことは必要だが)。問題は、核崩壊熱を出し続ける炉心が、局所高温状態をつくってしまうために、それが、予測のつき難い複雑な固体反応や破壊をもたらすことなのだ。緊急停止後の炉心が入った容器の外壁を、通常の熱伝導による表面冷却の効果だけを頼りに、強度が失われない温度範囲に保持しておくことができれば、原子炉燃料を(水の流れない)密封した状態のまま永久停止にもっていくことが可能となる。

これを実現する仕組みとしてイメージしているのは、素朴至極、図のような形態の容器を用いることである。この図は断面を表す模式図となっているが、立体のイメージとしては、三角フラスコの底面を円錐状に盛り上げた形状であり、最底部はいわゆるドーナツ型になっている。そして、この形状のタイプを(現状の装置で言うところの)「圧力容器」「格納容器」の双方共に適用する(ただし大きさのスケールは両者で異なる)ことを考える。

炉心が破壊・熔融したときに、最も恐れねばならないのは、熔け落ちた核燃料が団子状に集まって’再臨界’条件に突入してしまうことだ。つまり、崩れ落ちた炉心破片が一箇所に集まらないようにする工夫が何としても必要だ。ところが、現状の圧力容器の底は‘お椀の底’型であり、沈降物を集めてしまう恐れのある悪しき形になっている。もちろん、容器の強度も重要であるが、図の‘山底三角フラスコ’は、圧力差に抗するのにも好適である(この形のガラス製器具を使った経験に基づいている)。

そして、分解した炉心の破片を受け止めるべく、図中マゼンタで網をかけたドーナツ型部分には、予め、ホウ素を含む合成ガラス状スラグ等を十分量仕込んでおく。(ウランとのなじみを調べておく必要があるが)落ちてきた核燃料破片が十分高温の場合は、このスラグに固溶して、体積的な希釈の効果をもたらすだろう。温度が下がっていれば、単に、耐熱熱容量部材として振舞えばいい。そして、ここがポイントであるが、このドーナツ部分で温度が十分下がらない場合は、その最下部分は、壊れて底抜けすることを想定に入れておく。

さて、この圧力容器は、「隔離モード」に入った後は、もう一回りか二回り大きい格納容器の下の方に、(ガイドに沿わせて)沈めるという前提である。この格納容器(の下半分)は、やはり図のようなドーナツ型とその中心の円錐凸部をもっており、その円錐の上に、炉心破片の入った今の圧力容器の底の円錐凹部が嵌まり込むように乗る形になる。したがって、底抜けしたスラグ状の炉心物質は、この格納容器の底に抜け落ちることで、さらに直径の大きな円環状に散らばっていく。そして、そのドーナツ型の底部分には、先と同様のガラス状スラグが仕込んであり、熔融部分はさらに希釈されることになる。ただし、今度は底抜けは絶対に許されない。熱熔融したスラグは、金属壁に対して、腐食・固溶効果をもつだろうから、今度の容器壁底部の内側は、マグネシア(MgO)セラミクス(情報サイトの例1, 例2)などで内張りしておくことにする。

このような円錐凹部をもつ容器壁は、外部からの熱交換に有利であることが、次なる重大ポイントとなる。容器外の下方から円錐凹部の壁に向かって流水を当てるような機構をつくっておけば、効率的に冷却が進むだろうし、ドーナツ型のサイズを十分大きくすることで、空冷だけに依っても、容器破壊を起こすことなく永久密封の状況を保つ設計が可能であると推察する根拠をなす。
<ing>

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今回の福島第一原子力発電所の事故を通して、我々は、これまでの原子力発電装置が、根本的に‘フェイルセーフ’からほど遠い機構であった現実を、いやと言うほど知ることとなった。

このことに関して、はぎわら_m 流の整理と、今後とるべき指針について記してみたい。

まず、原子力発電装置の、他の動力機関とは根本的に異なる性格は次の3つにまとめられるだろう。

(1) (長期間分の)燃料を最初にいっぺんに仕込んでしまうこと。

(2) 出力の一部を戻して為される動作(今の場合は熱交換)が、安全維持には絶対必要である一方で、エネルギー発生の動作そのものには寄与していないこと。

(3) 燃料およびその反応生成物の有害性が極めて高いこと。

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 簡単に補っておこう。(1)は(2)と関係している。核燃料は、他の燃料に比べて異常にエネルギー密度が高く、そのために、その製造に巨額なコストがかかったとしても、得られるエネルギーは他の燃料機関にくらべて安価になるという仕組みである。ただし、核反応の臨界条件を満たすためには、ある程度まとまった分量を狭い空間に集中させておく必要があって、少しずつ供給するという方式は(原理的)に採れない。そこで、一端連鎖反応が始まり、エネルギーを放出するようになったら、後は、過熱を防ぐべく熱を取り出し続けることだけが必要な操作となる。この点を、例えばガソリンエンジンと比べてみよう。ガソリンエンジンの動作を持続させるには、燃料を外部タンクから吸い出し、それを霧にして空気と混合し、続いてシリンダ内に噴射し、さらにそこにスパークをとばし、、という操作が必要である。これらの操作は、エンジンで発生したエネルギーの一部を戻し使って実現させることになる。したがって、故障などによってこのエネルギー帰還系のどこか一部でも止まれば、そこで、エンジンの動作停止、エネルギー発生中止となって、一切が終了するだけである。ところが、原子力発電装置においては、エネルギー帰還の機構に不具合が生じても、エネルギー発生は止まらない。むしろ、エネルギーを取り去ることができなくなるのみだから、まさに、暴走・破壊への道を辿る運命しかない。今回の事故では、臨界条件を外すための制御棒挿入はなされたようだが(電力無しで動くようなフェイルセーフがあったのだろう)、これとて、ガソリンエンジンの電気系統ストップによる絶対停止条件に比べれば、危うい事だったと思っている。そして、こうした特異な状況の上に、最後に、(3)の重い条件が乗っかっているのである。まさに冒頭に書いたとおり、『原子力発電装置は根本的に‘フェイルセーフ’からほど遠い機構』なのだ。
 
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上のように整理してみることで、実は、原子力発電および原子力発電装置に対して求められる今後の方針というものも見えてくる。

 先ず言わなければならないのは、これまでの原子力発電装置は、根本的に不完全・未完成の技術であることを素直に認めて、新たな基礎開発の段階に踏み出すべきである。その開発が達成されるまで、原子力発電の推進はストップし、古くてリスクの高い既存装置から停止していくべきだ。そして、その原子力発電用のタービンを火力ボイラーで動かす施策を速やかに進めればよい。
 
 新しい原子力発電装置の開発は、(航空・宇宙やIT技術などの轍を踏んで)他国からの技術導入に頼ることをせず、日本のオリジナル技術を骨格とすべきである。この震災を機に、世界のトップを走る安全な原子力発電技術を築きあげればよい。

 さて、そのような新たな改善の指針は、(本稿を綴ってきた我々にとっては)もはや明確になっている。大枠の考え方を一言で述べるならば、要するに、上で明らかにしたフェールセーフに反する状況を、できるだけ根本的に転換してしまうことなのだ。ただし、燃料を少しずつ送り込むということだけはどうしても叶わない。そうとなれば、残るは、『仕込んだ燃料と装置の全てを廃棄することになってもいいから、何もしないで放置したときに、燃料(とその反応生成物質)を外部に出すことがなく、自然に永久停止する.』という条件を満たすようにするしかない。言い方を変えれば、これが実現できない限り、原子力発電装置は未完成・欠陥品なのであって、運用してはならないということだ。

 そのために必然的に求められる(従来と全く異なる)視点は次の2つである。

(I) 燃料が狭い空間に詰まり固定されている という状況を保つために、何らかのアクティブな動作を必要とすること.
〔この動作が止まれば、燃料はなるべく広い水中空間に散り散りになるようにする〕

(II) 事故の際には、炉心の熱を、なるべく広い(熱容量の大きい)領域で受け止めて対処する。
〔大きな熱量を狭いところに閉じ込めるのは無理(つまり"5重の壁"は発想がとんちんかん)である. 広い部分で密閉系を構成せよ.〕

これを実現することは、実はそう難しくない。高度な原理を利用した仕組みもいろいろ考えられるが、ここではあえて、ローテクノロジーに基づく私なりのアイディアを示してみたい。(ただし、私は、プラント工学の知識をもっているわけではないので、素朴な段階の着想に留まるものである。)

(a) 異常事態の重大性閾値を定め、それを越えたら非可逆的に「隔離モード」に移行させる.このモードへの突入は、全く自動的に、センシティブになされねばならない。この突入による営利的損失を避けるべく、事業者は、全力を傾けて冷却装置系の安全設計・運用をする、、こういう形にする必要がある.

(b) 隔離モードでは、炉心は(むしろ)速やかに壊れ、圧力容器内に分散・拡散するようにする.そのためには、構造を支える部材にある程度熱に弱い材料を使って、その耐熱限界を越えた時点で、重力とくさび型の受け具の効果で、炉心を分解させる.(化学的溶解までできればなお完璧だが、これは難しいかも知れない.)

(c) 隔離モードでは、圧力容器につながる水や蒸気配管は、すべて切り離し、格納容器中に沈めてしまう.

(d)格納容器は、堅牢なチャンバー型の中に構成する。再凝縮や圧力調整バルブなどは、すべてその内側の機構として納め、隔離モードでは(物質移動的に)孤立・密閉系として振る舞うようにする.

(e) 格納容器の下半分は、脱落した炉心・圧力容器を受け止める、大きな嵩と熱容量を伴った、予備機構とする.(このアイディアは後述する予定.)

(f) 格納容器全体を(密閉状態のまま)外部から冷やす熱交換機構を備えておく.

次稿で補説する。
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福島第一原子力発電所の震災事故は、ついにプルトニウム漏出の事態に至ってしまった。
福島原発、敷地内にプルトニウム 核燃料から放出の可能性 - 47NEWS

事故当初「プルサーマル」を意識した瞬間に最初に頭をかすめた最悪の事態である。
人が立入っての作業が完全に不可能となる段階が見え始めている。(最悪の中で)最善の封じ込め建造物を考案・設計すべき段階だと考える。

プルトニウムの環境への流出量は最小限に抑えねばならない。どうしても出てしまう分については、その総量を正確に把握しなければならない。原子炉敷地周囲を囲むように土壌および地下水のサンプリングポイントをつくり、流出する放射性物質の全量を評価しなければならぬ。今直ぐ取りかかるべきだ。

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今回の大規模な事故について、地震の規模が想定を超えたからだという人がいるが、実は、原子力発電所の事故のリスクというのは、ある意味で極めて明確であり、今回の事故もその範囲内の事なのだ。『全ての装置を止めて何もしないでおくと、何時間後にどうなるのか』、、この考察が、事故、否、原子力発電装置の安全設計の原点になっているはずだ。私は、東京電力が、この推移の想定に意識を向けなかったとか、独善的に楽観視していたとは思えない。マニュアルにある時間推移よりも、ずっと早く、より複雑に、事態が悪化・進行したのだ。そして、その想定を外れたことの主たる原因は、MOX燃料を使うプルサーマルの方法にあったと考えるのが自然である。MOX燃料の緊急停止後の振る舞い方については、経験則などの蓄積が少なく、分かっていないことが多いはずだ。そのような実験的使用を、老朽化した実運用機で行ってしまったことが、今回の事故の一番本質的な「原因」であるに違いない。地震と津波はその因果関係の「トリガー」であったに過ぎない。

しかし、燃料棒の状況まで含めて、全ての情報を完全に与えられた技術者であれば、possible-worstケースの推移はある程度予測でき、対策もここまで後手にまわることはなかったのではないかと思える。実際の原子炉やその燃料の製造に携わった専門技術者に相談できないような使用状況があったのではないか、、という疑念を抱かずにはいられない。東京電力および今回のプルサーマル運用に関係する責任者は、福島原子力発電所に装填・貯留されている全燃料棒について、履歴を含む情報を明らかにしなければならない。
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プルトニウムの一般的知識:プルトニウム - Wikipedia
なお、プルトニウムの人体への有害性は、従来の予想より小さかったという情報もある.
武田邦彦 (中部大学): 原発 緊急情報(36) 3号炉(プルトニウム)の問題(その2)

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〔追記〕
なお、同じように電源供給が止まり津波を受けたはずの福島第二原発の方では、冷却システムが早期に復旧されているそうだ。このことは、本稿とは一応別の、冷却系統のバックアップを含む安全設計のあり方として議論されるべき問題を提起している。

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福島第一-3号機については、気になることがあるので、とりあえず以下のニュースリンクを記しておく。プルサーマルやMOX燃料の意味・問題についてはここで細かく言及しないことにするが、検索すれば情報は得られるので、関心のある方は再確認されることをお勧めする。

asahi.com:東電初プルサーマル起動へ 国内3基目、福島第一3号機
→ 3/21頃より上の記事のリンクは途絶えてしまった.替わりに、東京電力および日テレニュースのサイトによる情報を示す.
プレスリリース 2010年|TEPCOニュース|東京電力
福島第一原発、プルサーマルが臨界に達する | 日テレNEWS24


現状の流れを見ると、3号機の経緯が他と特段違っているわけではない。ただし、むしろそのことが気に掛かるとも言える。

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以下は、いわゆる原子力発電反対派のサイトの情報であるが、客観情報だけを見ても重要な内容を含んでいる。MOX燃料の真実美浜の会

公平のため、電力事業者側のサイトの説明も紹介する。ここに書かれた「燃料物性へのプルトニウムの影響」を見れば、誰もが '気に掛かる' と思う。電気事業連合会>電気事業のいま>原子燃料サイクル>プルサーマル>MOX燃料の特性

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この度の東北地方太平洋沖地震に伴う被害はまさに甚大で、特に、海岸沿いの被災市町村の非難住民の救助には一刻の猶予も許されない状況に至っている。
今頃のコメントも憚られるのだが、報道を見る限り、あまりにも救助態勢が不自然に感じたので、ここに短く記すことにした。

交通手段が遮断されていることを考えれば、何よりも必要・有効なのはヘリコプターに違いない。ただし、屋根に取り残さた人を救い上げるといったヒーロー的な活動ばかりをイメージしないように注意しよう。単に、危険で通れなくなった道路の交通を代替する荷物と人運びの役でもいいのだ。このように考えれば、何台投入しても多すぎるということはないはずだ。日本中のあらゆるヘリコプターを集結してもいい。しかし、報道画像などを見る限り、ヘリコプターがフルに稼働している気配がない。これはいったいどうしたことなのだろう。

もちろん、自衛隊には多数の高性能ヘリコプターがあるし、ヘリ空母というものもあるはずだ。何故フル展開しない。救助用専用機でなくとも、軍事機材運搬用、哨戒用、迎撃用、何だって輸送には使える。そして、これらの設備は全て国民の税金で購入したものだ。今使わないで、何時何のために使うのだ。

さらに言うならば、ヘリコプター(の少なくとも一定の部分)は、地元をよく知る人の指示に従いながら運用すべきである。まず、市町村内の細かい状況を知っている人を見つけ救い出し、その人の指示で動くのが良い。人命救助の場合は、その人をヘリの助手席に乗せていくのが最も有効だろう。間違っても、「作戦本部」などで時間を費やしてはいけない。

その他、水の排水や給水などといった活動にも、自衛隊の装備が役に立つはずだ(地元の消防の装備とちがい、軍隊の装備は、遠くに運んでいって使うようにできている)。

救助というものは、どれだけ多くの人を救うかどうかで成否が決まる。「正しく状況を判断する」「でき得る限りのことをする」「しっかりやっていく」、こうした総理や官房長官の言葉は、どれも、緊急の救助のあり方の正しい方向を捉えていない。

〔追補〕
日本にヘリコプターが何台あるのかを知るための参考サイトを紹介する。
これによると、自衛隊700機、民間(含非軍事官)1000機、ほどだ。被災の激しい各町に(大小合わせて)十数機以上割り当てることは難しくない。
航空の現代:日本の航空機数/西川渉

(上のサイト情報は、少し古いながら一般人にとって大変貴重である.記事の最後の方に、先見の明と言えるコメントがある.)


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東北地方太平洋沖地震被害に対する支援について - goo 募金
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日本ユニセフ協会|東日本大震災緊急募金
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【日本赤十字社】東北関東大震災義援金受け付け
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10-10-04「因果」を考える (27)
10-11-10「因果」を考える (28)

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水槽に砂利を投入するモデルにおいて、『水位上昇(Δh) = 投入する砂利の総体積(V)/水槽の面積(S)』の関係が因果をつないでいるという考え方は、砂利の投入以外の水位変動の要因が無いという判断を前提にしなければ成り立たない。そうであるからこそ、特定の原因と結果を対照させる'因果関係'という捉え方に意味が生じてくるのである。このことと同種のことがらは、物理的因果の連鎖を考察していた本シリーズ(16)回のところで触れている。まずは、そのときの表現をそのまま再掲しよう。

『因果関係が有意義になる条件は、原因と結果が一対一(時には一対多)に対応していて、かつ、因果のつながりがほぼ確実と見なせることである.』<再掲>

ここで、「(時には一対多)に対応」と記したところについて、少々反省的な補説しておかねばならない。先に、自然現象の連鎖的対応関係を考えた際には、あたかも枝分かれした導火線につながった複数事象への効果の波及をイメージした。すなわち、一つの原因要素に対して、複数のどれもが必ず起こる結果要素がつながっていると想定した。しかしこれを、「一対多対応」と呼ぶことには問題があった。「複数のどれもが必ず起こる」対応なのか、「いずれか一つが必ず起こり、そのどれもが起こり得る」という対応なのか、二通りにとれるからである。そして、いずれか一つが起こる場合の結果事象は、有意義な結果事象になり得ないことは明らかだろう(原因が成立したときに生じる結果が分からないので)。有意義な因果関係においては、複数種類の結果事象が生じるとしても、そのどれもが生じるのでなければならない。となれば、その複数事象の根元のところに視点を移して、一括した一個の結果事象として見直すことが可能なはずである。ということは、結局、有意義な因果関係は、原因と結果が一対一に対応するような認識の仕方が可能な場合に成立する. と理解できるのである。

そしてこれを「論理的因果関係」に適用して考えるならば、論理関係の一対一対応は集合の'同値関係'に他ならないのだから、逆も真となることが必然であると分かる。水槽に砂利を投入するモデルに対する具体的表現にすれば以下のようになる。

・「面積Sの水槽に総体積Vの砂利が投入される」という事象が起こるならば、必ず、「水位が V/S だけ上昇する」という事象も起こる。

・「水槽の水位がΔhだけ上昇する」という事象が起こるならば、必ず、「水槽に総体積 S×Δh の砂利が投入される」という事象も起こる。

順序だてた考察を辿ることで、この逆の表現に全く無理・不自然がないことが納得できるのである。

こうして、我々は次の理解に達した。

十分有意義な論理的因果関係が認められる場合には、その因果を伝える機構の時間反転の成立・不成立と関係なく、逆の(論理的)因果関係が成立する。

時間進行上の事象の発展と、論理上の事象の発展は、互いに異なった、それぞれ確固たる認識世界を形成するのである。このことを常に意識し、決して混同しないように気をつけることで、多々存在する思考の迷路や、怪しげな逆説から逃れることができる。

---
しかし、釈然としない感覚をもつ人も少なくないだろう。今の場合の因果を伝える系は、結果系から原因系に向かって情報を伝えないのは事実なのである。もう少し詳しく、物理事象における論理の逆の意味を探っておく仕事が残っている。

<inging>

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前項の(*)式を「因果をつなぐ系」として扱うとは、次のように認識するということだ。

〔因果をつなぐ系〕
『水位上昇 = V/S なる関係式(*) と、それが確実に成立することを保証する物理的状況の全て.』…(☆)


これが結び付ける原因と結果の関係を、論理的因果の側面から見て、その逆関係を議論することが目下の課題だが、本論に進む前に、ここで、準備的に少し一般論に立ち戻る。

さて、「PならばQである」という論理関係と、「Pを充たす集合Aは、Qを充たす集合Bの部分集合である」という集合の包含関係は、互いに同等であることを論理数学で習う。ただし数学で扱う例は、例えば『自然数の集合』のように、極めて純化された要素概念が対象になっており、(それほど単純でない)物理的現象の因果関係に適用・対応させるとどうなるのかは、通常の書物には書かれていないことであって、ここで我々が検討しなければならない。

ここで問題にする「論理的因果」とは、『Pという現象が起きたならば、(必ず)Qという現象が起こる.』という物理事象の論理関係である。これを「'Pの発生'が成立するならば、'Qの発生'が成立する.」と読めば、論理関係:「PならばQである」と対応させることに無理・不自然はないと分かる。そこで、このときの集合の包含関係は、つぎのように表現されるだろう。「Pを発生させる物理状況は、Qを発生させる物理状況のうちの一つである.

こうして見ると、論理的因果関係は、実は、我々が本シリーズの以前の稿で考えた、現象の連鎖における分岐した因果の対応関係で理解できることに気づく。
つまり(の理解を参照して)、「Pが起こればQが起こる」という論理的因果関係は、Pを起こす物理的設定とQを起こす物理的設定が'多対一'で対応していることに対応しているのである。(大きい集合が'一'の方で、小さい部分集合(の一つ)が'多'の方に対応する.注意しないと混乱する.)

ここに、「Pが起ったからには、必ずQが起こる.」と確実に言える場合であっても、「Qが起こった原因は、Pにある.」とは言えないこと、すなわち、論理的因果関係は原因究明に結びつけることができないという重要な特徴が、あらためて明確に確認されることとなった。

----------

さて、ここで、考えてきた水槽に砂利を投入するモデルに戻っていこう。

本頁一番上で設定したような因果をつなぐ系(☆)の捉え方、すなわち、以下の再掲(*)式を、因果媒介の主役に据えるとしたとき、これは、今我々が理解した「論理的因果関係」を意味することになるのだろうか。

水槽の水位上昇(Δh) = 水槽に投入される物体の総体積(V)/水槽の広さ(S) <再掲(*)>

ここで考えられる論理的因果関係を素直に表現すれば以下のようになるだろう。

・「面積Sの水槽に総体積Vの砂利が投入される」という事象が起こるならば、「水位が V/S だけ上昇する」という事象が起こる。

・「水槽の水位がΔhだけ上昇する」という事象が認められたとしても、「水槽に総体積 S×Δh の砂利が投入される」という事象が生じたとは限らない。

このような、論理的因果関係が成立するということは、水槽の水位を変動させる原因が、'砂利の投入'以外にも種々考えられるということに他ならない。そして、このような状況自体は、雨が降るとか、底から湧き水が出ているとか、初期注水のための水道栓があって、これが作動したとか、、いくらでも実際的に考えられることである。しかし、ここでよくよく考えてみてほしい。あえて、(*)式を因果の主役として書き下ろしたことの意味はいったい何であったのだろうか。
<ing>

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『水槽に体積Vの砂利を投入すると、水槽の水位が V/(水槽の面積) だけ上昇する結果が生じる.』という因果関係の、因果をつなぐ機構のところを、時間的に発展する物理現象に立ち入らずに表現するならば、以下のようなことになるだろう。

[因果をつなぐ系]:
『地上(の重力環境中)に、漏れなく水を溜めた、上方が開口した一定の水平断面積Sをもつ容器が置かれていて、その容器中に総体積Vの(水と反応しない)物体を沈めるときに成立する「水槽の水位がV/S だけ上昇した状態に至る」という定量的な関係.』

前半の「漏れなく〜」で始まる断り書きのような記述は、その後に書いてある関係式を成立させるための物理的な条件として重要であるが、地上では暗黙の前提条件と言ってもよく、表現から省略することも許されるだろう。

そうとなれば、

水位上昇 = V/S (*)

という関係式自体が、因果をつなぐ系の役目を果たしている、というとらえ方もできそうだ。

---------------

この(*)の式自体は、小学校の算数に登場するような簡単な関係式である。
しかし、この式を、単に試験問題の答えのように書けることと、実際の「事象」に関する予測・推察・究明・対策などに活用できることとの間には、大きな隔たりがある。そうした活用のためには、時間的および論理的因果との関係の視点から、この式の意味するところを、あらためて熟考する必要がある、、このようないきさつで、今の話に至っている。

さて、(*)式を単に数学公式のように見るとき、その式が成立するための条件は、式とは別途に、設定・確認されるべきものとなっている。その条件とは、例えば、水槽が地上の一様重力場中にあって、投入される物体の比重は1より大きく、水と反応することはなく、体積Vの分だけは水面下に完全に沈むというようなことであるし、また、水面の波立ちはいずれおさまって、その時点の水位を問題にするという約束であるし、さらに大切なことは、水位を変動させる他の原因は無いという保証である。算数の授業では、「そのような条件が全て整った上で」という前提を想定して、そのときに、この関係式が導ける(あるいは知っている)かどうかを問うわけである。

しかし、物理事象に適用して考えるとなれば、この前提が成り立つかどうかを調べることが、重大・本質の課題となる。そして、物理的な立場で(*)式を書くということは、数学的な式変形を問題にするのではなく、まさにこうした前提条件が成り立っていることを宣言するという意味をもつのである。

ここまでくると、時間変遷を考慮の外に出した(*)式は、論理的な因果の逆に堪える関係を与えていることが見えてくる。
<ing>

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10-06-07「因果」を考える (25)


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「因果の逆」の問題に関連する考察を進めながら最後の視点に移っていきたい。次に考えるべき状況は、因果の仲立ちをする機構自体が本質的に時間反転禁止型になっている場合、つまり、[原因系]-[因果をつなぐ系]-[結果系] の中の、「因果をつなぐ系」の部分が、自然的な時間進行の上にしか成り立たない場合である。このようなことは、[因果をつなぐ系]を基礎づける法則が、熱学・統計力学的な手続きに立脚するときに多々生じてくるのだが、ここでは、誰にもイメージし易い、もっと素朴なモデルを使って考え進めたいと思う。

以前に扱った”水漏れ水路モデル”をヒントにして、次のような状況設定をしてみよう。

細長い水槽に水を張る。長さは、水泳プールと同じぐらいだと思ってほしい。
水槽の左端には、(水中に)砂利を投入する機械が備えられている。

ここで、次のような因果認識を考える。

[原因系]:
砂利投入機を作動させて、この水槽に、総体積Vの砂利を入れることによって

[結果系]:
水槽の水位が、V/(水槽の面積) だけ上昇する結果が生じる.


さて、この場合の[因果をつなぐ系]は何だろうか。とりあえず宿題としてみよう。

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この答えを求め思索をめぐらすに至って、必然的に、本シリーズ稿の早期の段階から(おぼろげながら)意識の片隅にあった問題:「自然事象の進行と論理事象の進行」の違いと関係が明確になってくるのである。

まず、この水槽に砂利を投入した後に起こる出来事の時間的な推移を考えてみよう。砂利を成す石粒の一つ一つが落下して、水面から水中に入る度に、パルス的な水面波が立ち、はじめはそれが同心円状に広がっていくだろう。この波が水槽端の壁面に達すると反射されることになるが、投入位置が水槽の左端に寄っているので、大まかに見れば、左から右へ進行する不規則なパルス波の集合のように振舞うようになることだろう。さらに言えば、この波は、左右対称のパルス波でなく、通過後の平衡位置が高くなるような、言わば津波型の性格を帯びていることだろう。
さて、この波列が、右端に達すると、そこで反射して、今度は左向きの波列になり、以降、左右での反射を繰り返す。ただし、水面波は、(内部摩擦、分散、空気運動が絡む不規則成分等のために)比較的速やかに減衰する。間もなく、砂利を投入したことに因る波立ちは消失し、砂利を入れる前と同様の静かな水面が実現する。この時点で「水位」という量が意味を持つようになる。そして、砂利投入後に静まった水路の水位は、投入前の水位よりも、V/(水槽の面積) だけ上昇している、、という事実が、実際に観測されることとなる。

以上のプロセスは、多数の要素的事象から、より粗視化された平均量で指定できる状況へ向けて移行する自然的な操作になっていて、その時間的な逆順が絶対に起こり得ない典型的な例になっている。

ただしこれは、因果をつないでいる物理機構に特段に焦点を当てた認識の仕方である。因果関係の主役は、あくまで「原因」と「結果」の出来事であり、「因果をつなぐ系」のところは、細に入らないように扱うこともできるのだ。

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