はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

〔コメント数の数字クリックで書き込みができます〕
 



本題に深く入り込む前に、ここまでに見てきた(A)の立場(A)と、(B)の立場とで、いずれの方が、近現代流の自然科学の発想法に通じているかをざっと考えておく。

(A)のデカルト流は、いかにも厳格で、妥協のない論理構築になっている。一方、(B)の方は、人間の文化・社会を前提として意味が与えられ、自然科学というよりは、人文科学的な論理のようにも感じられる。自然科学は本来、人間文化などという、時間的空間的に小さく限局された領域を超えて成り立つ原理を問題にするものだろうから、(A)の方が、自然科学的立場に近いと考えたくなる。しかし、既に少し述べたように、(A)の立場を貫いても、自然科学を発展させていくことはできないのだ。ある科学的な概念が、既に誰かによって確立されていた場合には、それが適用・拡張され得る範囲についての警鐘を与えてくれるというような効用はある。しかし、新たな自然法則を見つけ出すことには役立たない。自然科学は、疑わしいものを排するだけではなく、もっと大胆な飛躍や仮定を採り入れて初めて進展していくものなのだ。
さて一方、(B)の方は、人間の意味付けを明らかにすることに大いに貢献したが、導き出された事はいかにも人文学的な内容である。自然科学の観点とは異質だと言える。しかし、だからと言って、自然科学的な観点の命題が(A)の立場を通して達成されるわけでもないのだ。むしろ、(B)の立場に含まれる、自然科学の考察にそぐわない部分を修正した方法論が、自然科学の基本方針になりそうだ、、ということが、おぼろげながらに見えてくる。

---
〔追記〕
ここまで述べた内容を見て、Descartesの哲学を貶す内容のように感じる人がいるかも知れない。しかし、私が若いころに読んで、心酔し、影響を受けた最高位の書物は「方法序説」だった。その位置づけには、今でも殆ど変わりはない。近現代の自然科学の書物は、Descartesの精神を忘れたかのようで不満に感じることも多いのだが、そのとき、Decartesの方針と、近代科学の方針の、何が違うのかの理解が曖昧だったのだ。その相違の本質が、今にして、理解できるようになった、、それをお伝えしたいと思って、このBlog記事を書いている。

<ing>


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )