はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

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公教育校において、教員に対して「君が代」の起立斉唱を強制する職務命令を合憲とする最高裁の判決が6件ほど出揃った。

投稿当初には、これらの判決を報道しているサイトをリンクしていたのだが、全てリンク切れとなったので、替わって、内容の記録などが記されている個人サイトを以下にあげておく。(2011-08-10追記)。
記事紹介 N318 君が代・日の丸/ProjectG by 成田文広氏
君が代命令 三たび合憲 -「賛成」判事も強制慎重/ 東京新聞6月15日朝-TOKYO Web の代替として NGO​言論・表現の自由を守る会JRFSのブログサイト

一方、つい先般、大阪府議会で、君が代の起立・斉唱を義務化する条例が可決されるという出来事もあった。
大阪府、君が代条例成立 教職員に起立斉唱義務づけ/asahi.com

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先ず、(念のために)これら両者の意味の違いに言及しておこう。

最高裁判決の方は、『ある学校の校長が職務命令として君が代斉唱時の起立を指示したことは、憲法違反とは言えない。』という判断である。補足意見の一つとして「司法が職務命令を合憲とすることが、問題の社会的解決とはならない.」という見解も付けられているし、多数とならなかった反対意見もちゃんと記録されている。これらを総合して眺めれば、時代の風向きの影響を受けてしまっているとは言え、一応は理性的な判断が為されていると考えてよいだろう。

一方、大阪府の条例は、地方自治体として「府内の学校行事においては、教職員は起立して斉唱せよ.」とする布告を出す、いわゆる‘御触れ’の性格をもつものである。そこでは、個々の学校の校長やその他の構成員による調整・配慮・判断などの余地が一切否定されていることに注意しよう。儀礼行動の中味に対する‘御触れ’とは、いやはや、封建時代の『○○の令』を思わせるものであって、近代民主国家の立法の一環とはとても思えぬ措置である。

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さてこのように理解した上で、インターネット上の意見を検索してみるとよい。目につく多数派の意見は、(表現の汚いところを正して整理すれば)大抵、上の両者の違いに意を向けておらず、以下のような類型的な主張となっていることが分かる。

『公務として教育を為す教員が、日本の国歌や国旗に反感を持つこと自体が異様であるから、これを容認しないのは正しいことだ。』

私は、この多数派意見は、日本の国旗・国歌の問題の根源に目を向けていない正に稚拙な発想の表出だと思う(そして、そうした発想をする代表者が橋下徹知事である.)。戦後の新憲法下の近代日本をシンボライズする国旗と国歌として何が相応しいかという問いに対しては、戦後の昭和期を通して長らく答えが出せなかったという歴史的現実がある。新規に創案する努力も為されなかったし、かといって、大日本帝国憲法時代に慣例的に使われていた国旗と国歌を継続して採用すべきという明確な論も出されなかったのだ。皆がその問題を避けていたというのが近いと思う。決して、一部の左翼運動によって国旗・国歌の決定が妨害されていたのではない。

替わる案が無いために、式典のときには、戦前の国旗と国歌を使うことが通例となっていた。私はこれで構わなかったのだと思っている。よい案が出てきたときに、あらためて議論して場合によっては立法措置すればいい、、そんなふうに考えていた人も多いはずだ。昭和期においては、絶対に日の丸君が代でなければならぬと主張する人も、絶対に新しいものに変えるべきだと主張する人も、どちらも多数を占めなかった。曖昧にしておく方が良いというのがナショナルコンセンサスだったとも言えるし、いろいろな主張がそれなりに許容されていたとも言える。

ところが平成に入りバブルがはじけた後の、1999年(平成11年)8月13日、社会的な議論の機運も無い中で、かつて日本に一度も存在しなかった「国旗と国歌を限定する法律」ができてしまう。条文は簡素で、『第1条 国旗は、日章旗とする。第2条 国歌は、君が代とする。』という二文だけだ。反対の立場をとる少数派がいることが分かっていながら、「現行の運用に変更が生ずることにはならない」という小渕首相の答弁を残しながらも、賛成多数であっさり可決、施行となった。

このころから、議論の論調は、「現代日本の国旗・国歌として何が一番相応しいか」という出発点の問題意識を綺麗さっぱり忘れて、一足飛びに、「日の丸・君が代を否定することの是非」というように、歪んできてしまったのだ。

そして、今日、「公務員でありながら国旗・国歌を否定するとは何事か!」という、単純至極なる感覚が跋扈するに至り、ついに、国旗・国歌への問題意識を保持した人を正常な公務員と見なさないとする条例までが通ってしまった。そして少なからぬ国民がこれを支持しているように見うけられる。私は、こうした時代の風潮の底流を成すのは、自分の理解できないものを、駆逐して安堵を得たい と思う、ひ弱な精神構造なのだと思う。

この様は、国民主権を採る近代国家としては甚だ情けない。国家の弱体化をさらけ出した現象であるとも言える。が、しかし、私がここで言いたいのは、この右派思想を批判したり、その誤りを解説することではないのだ。

-<続き>-

いわゆる左派や日教組の勢力が強かったのは1960年代中ほどから1990年ぐらいまでの間だろう。そして、この時代の影響を受けて学童期を過ごした人というのが、現在の中・壮年世代であり、たとえ地味であっても社会や組織のいろいろなところで、多かれ少なかれ管理・運営的な仕事に携わっている(きた)と思われる。ここで考え込んでしまうのは、結局、この世代の人たちによって「バブル崩壊」後の(小泉ブームを含む)顕著な右傾化の流れが形成されてきた、、少なくとも、それに対する批判的な眼力をもたぬ社会が醸成されてしまったという現実があることだ。こうした、脆弱な社会ができてしまったところへ、橋下徹のような、ベルリンの壁崩壊後の動きを高校大学あたりで見聞きした世代が登場する。「社会主義的ものはすべからく滅ぶべし」というイメージを強く持つ彼らには、70~80年代の微妙なバランス感覚の妙(そしてそれによる現実の利)を理解すべくも無く、突っ走る。そして、それに歯止めをかける強い上役や社会の目は存在しなくなっていた、、というのが、今日の日本の姿である。

左派の思想は、実効的という意味では、ほとんど全く次世代に影響を与えることがなかった、、というか、むしろ逆のムーブメントを生む素地を与えただけだったという皮肉な結末である。

このことは、教育の方法論に関わる、見落とされがちな基本原理を(自戒的な意味も含めて)痛烈な形で教えてくれる。確かに、人は、脳の中で理解を積み上げてそれを有機的に総合化していく力を有し、さらに、そうしたプロセス自体に充足感を覚えるという類い希な生き物である。が同時に、そうした大脳皮質前頭葉における高級な思考活動が、大脳辺縁系におけるより基本的な動物の行動原理:「不安な状況を排除しようとする」こととリンクするやっかいな生き物でもあるのだ。つまり、(社会的・対人的な側面まで含む)安堵感を保って学習が進んでいる限りにおいては、人は誰しも意外なほどに高度な思考を成し遂げるが、一たび学習行動が不安感に結びついてしまうと、その関連事項がすべてネガティブな印象となって凍結状態になる。その際には、内容が真実を突いているなどということには関係なく、理解しかかっていたことは全てゼロまたは負の価値領域に追いやられる。左派が強かったころに行われた「戦後民主教育」が辿った運命は、結局、「これこそが正しい」「これこそが重要だ」というばかりで、頼もしく安心感を与えるという姿勢を軽視したことの報いであると言える。

実は、上に述べたことは(勝手に偉そうに述べてきた)私自身の自戒と反省そのものなのである。大学の講義を長年担当する中、自分が習ったときよりも分かりやすい説明法を求めて、ずいぶん苦労してきたつもりである。しかし、この努力は、往々にして逆効果を生むことを悟るようになった。物理においては、日常経験的な直感とは反する原理・法則がしばしば表れる。このとき、「私が今まで思っていたことは何だったのか??」という学習者の不安感を意識しなければならないのだ。この不安な感覚を、論理を駆使して解消し新しい理解の展望に結びつけていくのが物理学の醍醐味と言えるが、その際の障壁に負けてしまい容易に抜け出せない人は、不安感ピークのところで、試験を受けることになってまさに最悪の永遠の負の凍結に至りかねない。対する解決策は容易に見つからないが、個人ごとに、不安から解決に向かう手間と時間の予想を見定めて、それによって扱う内容をしぼり込む必要があるように思う。ただし、省くことのできない大切な内容が、このような不安から抜け出すことの難しいタイプの極である場合にはどうするのか。不安を解消するまで時間をかけて完全につき合いきることか。それは確かにそうなのだが、能率が非現実的なレベルにまで下がってしまうのでは意味が無い。

物理に限らない話に戻しつつ、私の思いを言えば、結局、ことばの論理力をつけることを軽視して、高級なことに手をつけてしまうことが、近代の教育の矛盾点の根源なのではないか。'高級なこと'というのは科学的な内容に限るものでなく、「平和」とか「平等」とか「人権」などの概念についても、妙な段階で中途半端な教育を行うと、それは、上に述べた「負の凍結」を招くか、そうでなければ「洗脳」になってしまう。冷静沈着で論理的な言語力の教育に多くの時間を投じることが、実は、民主教育のためにも先端科学教育のためにも必要な条件であったと考え至るのである。

-<続き2>-

さらに、いっそう重大かつ根本的な視点がある。それは、人の集団を対象に教育や指導を行うときには、人の心のメカニズムの多様性をこそ重視すべきであって、『正しいものが席巻し 悪しきものが駆逐される』ことを目指すような発想では決してうまくいかないということなのだ。

心のメカニズムの働き方には、ある程度類型化できるパターンがあるように思われる。ただし、ある人がどのような類型に属するかは、恐らくはかなり生来的に決まっていて、教育によって変えられるものではない(ただし一生涯固定しているとも限らない)。したがって、ある正しい原理や方針を見い出し得たとしても、それを受け入れることが非常に困難である人がいることを考慮し、その人たちに対しても愛情を込めて安堵を与え、尊重の意思をもつように努めなければならないのだ。

このことは、左派に対しても、右派に対しても、共通して問いかけられるべき問題だ。左派は、力強くて頼もしいものを求める人の心を軽視してこなかったか。右派は、自己の利害の観点から離れて、高所から客観的にものごとを理解・判断しようとする行動の価値を軽んじてこなかったか。

歴史的に、人間は愚かな行いや争いをさんざん為してきた。それは、今後も完全に無くなることはないのだろう。しかし、文字による記録と、言語による抽象思考を獲得した人間は、過去を反省して未来の行動を律する力を相当に身につけた生き物であることも確かなのだ。その力によって獲得した概念の代表が「人権」や「自由」や「平等」である。これらは、極めて価値ある概念要素であるが、それをスローガンにした席巻思想に結びつけるようなものでは断じてない。これらの概念アイテムを社会に活かす方法については、我々は未だに未熟な段階にあることを謙虚に強く意識して、右に左に綱引き競争を繰り返すばかりの不毛な政治の流れから脱却する段階に進まねばならない。

【補】
以上の想いは、大分前に「資本主義・社会主義の争いを越えて」と題して投稿したメモから脈々とつながっていることである。

〔参考のための過去の記述〕-'平等'の意味などについて-
・平等vs.競争の図式に惑わされるな
・「努力が報われる社会」に騙されるな


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【memo】
また、少し前の、君が代のピアノ伴奏拒否に関する裁判の結果も関連して思い出されることである。
君が代伴奏拒否への最高裁判決-メモ/竹澤拓真氏

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