石油と中東

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写真は語るシリーズ:100歳で亡くなったイラク王家最後の王女

2020-06-05 | その他

 5月9日、預言者ムハンマドの血筋を引く名門ハシミテ家の末裔バディヤ・ビント・アリ王女がロンドンで客死した 。1920年生まれの王女は享年100歳、イラク王国の幕切れを目撃した最後の一人であった。セピア色の写真は波乱の一生を送った王女の若かりし頃の姿である。

 話は彼女が生まれる少し前、第一次世界大戦の開戦にさかのぼる。当時中東一帯を支配していたオスマン・トルコ帝国はかつての栄光を失い、その一方大英帝国はペルシャ(現イラン)からイラク及び湾岸地域で発見された石油の独占を狙い、中東進出のチャンスをうかがっていた。両者が雌雄を決したのが中東における第一次世界大戦である。当時、アラビア半島西海岸ヒジャズ地方にあるイスラムの聖地マッカの太守(シャリフ)は預言者ムハンマドの末裔フセイン・ビン・アリであった。

 第一次世界大戦が避けられなくなると、大英帝国はハシミテ家当主のフセインにオスマン帝国に対する反乱を持ち掛けた。その時、両者で交わされた秘密文書が有名な「フセイン・マクマホン書簡」である。反乱の見返りはトルコ人から独立したアラブ王国の樹立であった。フセインにはアリ、アブダッラー及びファイサル3人の息子があった。フセインはアリをマッカ・ヒジャズ国王、ファイサルをシリア・イラク国王、アブダッラーをトランス・ヨルダン国王に即位させハシミテ家による大アラブ王国の復興を夢見た。この時、英国はファイサルの参謀としてロレンス陸軍将校を派遣した。有名な「アラビアのロレンス」である。

(家系図「預言者ムハンマドとハシミテ王家の系図」参照)

 バディヤ・ビント・アリ王女はアリ・ヒジャズ国王の娘として第一次世界大戦後の1920年にマッカに生まれた。ハシミテ家は第一次世界大戦で英国と組みオスマン・トルコ帝国を打倒した。しかしハシミテ家による大アラブ王国の誕生は思い通りにならなかった。実は英国はアラブ勢力と「フセイン・マクマホン書簡」を取り交わす一方で、世界の金融を握るユダヤ人実業家ロスチャイルドとの間でユダヤ人国家樹立を認める「バルフォア宣言」を、さらにはフランスとの間で第一次世界大戦後の中東を両国で分割領有する「サイクス・ピコ協定」を結んでいたのである。これが有名な英国の三枚舌外交と呼ばれるものである。結局、イスラエル建国によりトランス・ヨルダン王国は小国のヨルダン・ハシミテ王国にとどまり、シリア・イラク王国もフランスがシリアを領有したためイラクのみの王国となったのである。

 そしてマッカを含む紅海沿岸のヒジャズ王国は、1925年、内陸部のリヤドで旗揚げしたサウド家のアブドルアジズ(砂漠の豹・イブンサウド)によって倒された。ヒジャズ王国の首都マッカで幼女時代を送ったバディヤ王女一家は叔父のファイサルを頼ってイラク王国に移るのであった。文明の薫り高いバグダッドで王女は青春時代を過ごし、一族の男性と結婚して数人の子供に恵まれバグダッドで華やかな宮廷生活を送ったのである。

 しかしバグダッドでの優雅な生活も長くは続かなかった。1921年に建国されたイラク王国は17年後の1938年、カセム将軍とその腹心サダム・フセインによるクーデタで崩壊する。この時、宮廷にいた国王、皇太子など主だった王族は銃殺されたが、離宮にいたバディヤ王女は難を逃れ、サウジアラビア大使館に逃げ込んだ。王女は最終的にロンドンに落ち着き、そこが終の棲家となったのである。

 イラクでは1979年にサダム・フセインが大統領に就任するまで政変と暗殺が横行した。フセインは強固な独裁体制を築き、イラン・イラク戦争(1980~88年)、湾岸戦争(1991年)をしぶとく生き抜いたが、2003年のイラク戦争で米国を中心とした多国籍軍に敗れ、潜伏中の2007年に逮捕、裁判の末銃殺刑に処せられている。

 この時、ロンドンで静かな余生を送っていたバディヤ王女の身辺が一時的にあわただしくなっている。と言うのはフセイン亡き後のイラク国内情勢を巡って王政復古の声が出たからである。イラク王家の正統な後継者を名乗ったのは王女の息子シャリフ・アリ・ビン・フセイン(1957年生)であった。

 歴史的には王制が打倒された後に出現した共和制あるいは民主制が独裁体制に変質し、さらにその体制崩壊後に長い内戦の時代が続く例はイラクに限らずリビアやアフガニスタンなど枚挙にいとまがない。そのような内戦の中で庶民の心の片隅に、王制時代は平和で穏やかな時代であった、と懐かしむ気持ちが表れることも珍しいことではない。バディヤ王女のハシミテ家にもそのようなチャンスが訪れたのである。

 しかし時代錯誤のイラク王国復興はさすがに実現しなかった。ただ近代において実際に王政復古した例が一つだけある。それはスペインである。同国では1931年に君主制が崩壊して第二共和政が成立したが、左派と右派が対立、人民戦線政府樹立を契機に軍のフランコ総統が反乱、スペイン内戦が勃発した。そして最終的にフランコの反乱軍が勝利すると、彼は自分の死後はスペインを再び王政復古すべしとの遺言を残したのである。もちろんその王制は専制君主制ではなく、民主主義国家の立憲君主制ではあるが。

 ともかくバディヤ・ビント・アリ王女はイラク王国の最期を見とどけ、つかの間の王政復古の夢を見た後、100歳の長寿を全うし、数奇な人生を終わったのであった。

(完)

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荒葉一也
Arehakazuya1@gmail.com
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