中山道の旅は「奈良井宿」までの5kmである。「奈良井千軒」と言われたほど賑わった宿。出梁造り、千本格子、猿頭など今でも往時を偲ぶ家並みが残る。鳥居峠の大紅葉は綺麗、石畳を歩き黄色に色づいた木の葉を実ながら進む。広重の絵は湧き水が出ている場所、信濃の源流から流れ丁度分水嶺になる。英泉の絵は峠を往来する旅人を描いている。奈良井宿の建物は古いものほど低い、「鎧びさし」とか「袖うだつ」など珍しい造り。200年続いた旅館が、行燈・看板など残している。家並みは1kmも続く。今日の歩数は、13,288歩である。
8月より咲いている花{不如帰}
開花時期は、 8/25頃~11/15頃。
・秋に日陰に多く生える。
・若葉や花にある斑点模様が、鳥のホトトギスの
胸にある模様と似ていることからこの名に。
葉にある斑点は花が咲く頃には消えるらしい。
日本シリーズは日本ハムが2勝1敗と勝ち越した。今後の展開が面白くなる。
中山道の旅は「薮原宿」までの8kmである。木曽路最大の難所と言われた鳥居峠。頂上からの眺めは絶景である。西に御嶽山、南に駒ケ岳、そして眼下に木曾川の清流が見える。宿はこれから越える難所の旅人のやすらぎの場である。広重の絵は木曽川に架かる橋からの眺めで月明かりの中で、祭りの帰りの親子を描いている。
巴橋を渡ると山の紅葉が美しい。トンネルを駆足でダッシュし、お土産屋で「お六の櫛」を見る。民家のドライフラワー作り体験をする。気温は12度雨も降るなか薮原宿に着く。ここの宮越漆器店は江戸時代医者の家で、中を案内してもらう、白壁の蔵の中が診察室
で。当時の医療器具、百目箪笥に薬草と薬が今もぎっしり残されていた。歩数13,010歩であった。
8月より咲いている花「韮」独特の臭気があることから
「においきらう」(香嫌)、
これが「にら」に変化したとも、
また、美味であることから「みら」(美辣)、
これが「にら」に変化したともいわれる。
・「きはつくの 岡のくくみら 我摘(つ)めど
籠(こ)にも満たなふ 背なと摘まさね」
(くくみら=韮) 万葉集
中山道の旅は「宮の越宿」までの7kmである。途中幼稚園児の声援を受け、朝顔のツルに見とれ、道なき道を歩くような所を錆びた網目の橋を渡ると京都と日本橋の中間地点を通る。更に農家の牛小屋で生まれて間もない子牛を見學し、巴太鼓の歓迎を受け、共に合奏に加わりながら楽しむ。宮の越宿では、源平合戦で有名な木曾義仲所縁の寺・徳音寺。義仲と巴御前の像がある。
義仲は木曾育ち「木曾の山猿将軍」と呼ばれたが、平家の大軍を倶利伽羅峠で撃滅したのは有名な話である。今日の歩数15,573歩だる。
8月より咲いている花「大弁慶草」
開花時期は、8/15頃~11/20頃。
・葉は楕円形で肉質。
・切り取って数日おいても枯れないほど
強いことを、弁慶にたとえた。
「弁慶」→鎌倉時代初期の法師。源義経の忠臣
として活躍。衣川で”立往生”。
中山道の旅は「福島宿」までの10kmである。道中蔵造りの民家を見学、引き出しの付いた古い階段を見る。木曾の架け橋を渡り、中央線の国鉄時代のトンネルを抜けると福島宿。ここには江戸の防衛の要として、関所が置かれていた。広重の絵は関所の木曾谷の切り立った断崖の上に設けられた風景で、門に屋根がない。お調べ処は石疊で土下座して通行手形を調べられた。女性は特に厳しかったそうである。歩数19,444歩である。
8月より咲いている花「孔雀草」
開花時期は、8/15頃~11/ 5頃。
・北アメリカ原産。
・ピンクと白がある。白い花は
「白孔雀(しろくじゃく)」と呼ぶ。
・長い茎がたくさん枝分かれして多数の花を
咲かせるところから、孔雀の尾っぽの羽根に
見立てた。
中山道の旅は「上松宿」までの13KNである。道中蕎麦を食べ、猿にもであう。100歳のお婆ちゃんが趣味で作る鞠を貰いたびを続ける。広重の絵は「小野の滝」の風景、木曾八景の一つ。途中老人ホームの皆さんが手話を交えた童謡「ふるさと」を合掌歓迎してくれる。古くから木曾檜の集積地として栄えた。宿外には木曽川の激流が花崗岩を浸食、作り上げた奇岩が続く。木曾八景「寝覚め床」はその代表。眺望は絶景かな。江戸時代から残る石畳を歩き歩数19,961歩であった。宿では十返舎一九の本が残っていた。
8月より咲いている花{鶏頭}
開花時期は、 8/10頃~12/10頃。
・熱帯アジアなどの原産。日本には万葉時代
にはすでに渡来していた”古株”。
・花が鶏の鶏冠(とさか)状に見えるので
この名前になった。
英語でも「cocks-comb」(鶏のとさか)なので
この花に対するイメージは世界共通なのかも。
・花が丸くなって咲くものや、槍のように
とがるものなど、いろいろある。
・昔は草染めの原料として利用された。