工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

読書で誰かの人生を知る ボビー・バレンタイン自伝

2023年11月30日 | 日記
 今年(2023年)のプロ野球は阪神タイガースの久々の日本一に沸きました。見る野球から読む野球、というわけではありませんが、シーズンオフにこんな本をご紹介ということで、2005年に千葉ロッテマリーンズを日本一に導いた(このときの日本シリーズの相手は岡田監督率いるタイガースでしたが)ボビー・バレンタイン氏の自伝です(以下敬称略)。本書はバレンタインとジャーナリストのピーター・ゴレンボックの共著となっています。シーズン前に出版され、私もシーズン中に読んだのでご紹介が遅くなりましたが、ご容赦ください。
 もともとポジティブで陽気なイメージもあってか、語られる言葉も一部のチームで過ごした残念な経験を除けばネガティブな表現はあまりありません。野球以外の個人的な失敗も時には笑い話として語ってしまうところがあります。こういった本ですので地元の友人とか、ビジネス上の仲間と言った我々には関係の無い名前も多く出てきますが、成功した人物の自伝と言うのはそういうものなのでしょう。後のメジャー、日本での監督の話もさることながら、イタリア移民の三世として東海岸のスタンフォードで育った少年時代からドジャースと契約するまでの話も興味深く読みました。日本でも「隠れた特技」として紹介された社交ダンスについても、少年時代にある理由から「習い事」として始めたのが大会に出るようにまでなったということで、習い事が社交ダンスというのも面白いですね。ドジャース入団後は夏の間は野球選手として、シーズンが終わると大学生として過ごすというアメリカの野球選手ではよくある「二足のわらじ」の青年期を過ごしました。ところがこの時代はちょうどベトナム戦争のさなかで、職業野球の選手であっても学生は徴兵の対象となっており、成績の悪い順から徴兵されていたような記述があり、勉強も頑張らなくてはならなかった、とあります。徴兵の実態が垣間見える話ではあります。
 また、ハワイや中南米などで行われるウインターリーグにも参加しており、リーグやチームの仕組みなど、普段知ることが少ない話も出てきます。ドジャースのマイナーで出会った指導者が後にドジャースの指揮官となるトミー・ラソーダです。ラソーダと言えば野茂英雄がドジャース入りした際の指揮官でもありました。バレンタインはラソーダからさまざまなことを学びました。プレーヤーとしての基本から相手チームとの大立ち回りといったことも学んだようですが・・・。不運なケガなどもあり、メジャーリーガーとしての活動期間は短いものになりましたが、興味深いのはチームメイトたちで、後に中日に入ったデービス、レッドソックスで「バンビーノの呪い」にかかってしまったビル・バックナー、大洋、阪神で活躍したパチョレックの年の離れた長兄など、名前を聞いたことがあるという方もいらっしゃるでしょう。ハワイリーグでは日本から帰国する途中にハワイに立ち寄ったジョー・ペピトーンとも出会っています。ペピトーンと言えば「元ヤンキース」を引っ提げてヤクルト入りするも「セックス、ドラッグ、ロックンロール」を体現した相当な「お騒がせ」ぶりでも有名なのですが、ハワイでもそのあたりは健在だったようです。ハワイで顔に死球を受けてケガをしたときにたまたま居合わせた医師が日本人だった、というつながりもありました。もし、バレンタインが現役を続けていたら俊足巧打で内外野両方いける、ということで、日本のチーム(横浜大洋や南海あたり)から声がかかったとしてもおかしくはなかったと思います。
 指導者への道も本人が強く望んでいたというよりはいろいろな運命のめぐりあわせのようなところがあってそうなった、という感じで書いていて、実際そうなのでしょうが、スポーツバーの経営をしつつ、マイナーの指導者を務めてという日々を過ごしていくうちに、メジャーの監督になります。レンジャースやレッドソックスといった地域性が強かったり、メディアの攻撃が厳しいチームではやはり苦労も絶えなかったようで、そのあたりは洋の東西を問わない感があります。以前、テレビのドキュメンタリーでメジャーの大投手のノーラン・ライアンを採り上げた際に、1991年にノーヒットノーランを達成した際の監督がバレンタインで、本人もインタビューを受けていましたが監督より年上の大投手に対しては「あれこれ指示なんてできなかった」ようで、自分がその立場ならそうだよなというエピソードではあります。また、この時のチームの共同オーナーの一人が後の大統領、ジョージ・W・ブッシュ(息子の方です)で、テレビのインタビューの映像でも感じましたが、本書からも野球好きが伝わってくる感がしました。
 メッツ時代にはロッテ時代の「教え子」だった小宮山悟、2023年からロッテの指揮を執る吉井理人、日本ハム監督の新庄剛志といった日本選手を受け入れていますし、サブウェイ・シリーズでヤンキースと戦っています。イチローを獲得したかったものの「シングルヒットの選手はいらない」というメッツの判断で、高額なオファーを出したマリナーズにイチローは入ります。もちろん、メジャーでの活躍は書くまでもないでしょう。
 2001年の同時多発テロでは遠征先で一報を聞き、バスでニューヨークに戻ったとあります。マンハッタン島全体が黒い煙に覆われていたというくだりが、このテロ事件を物語っています。親しい人を亡くしているほか、本拠地のシェイ・スタジアムを一時的に支援物資の集積場所として提供し、自らもボランティアに参加しています。また、球場近くに自らが所有するスポーツバーも救助活動を行う人たちや遺族らに開放するなど、先日ご紹介した坂本龍一とは別の形でこの事件の現場証人としての話を聞くことができます。
 日本のファンにとっては1995年と2004~2009年までのロッテでの監督時代がやはり知りたいところでしょう。1995年シーズンについては「千本ノックを超えて」という本にも記載がありますが、確執を伝えられた当時の広岡達朗ゼネラルマネージャーに対しては、本書でも一定の敬意を払っている感があり、野球人として尊敬はしているということなのでしょう。また、90年代にロッテの野手にメジャー行きを勧めたくだりがあり、本人側の事情で実現しなかったようですが、そんなこともあったのかという話も出てきます。
 本書では2005年のプレーオフ(現クライマックスシリーズ)、ホークス戦の記載がハイライトの一つでしょう。レギュラーシーズン2位で3位の西武を破ってから福岡に乗り込み、一度は追い詰めながらも押し戻され、もうダメかも、というところでようやく勝利を勝ち取ったわけですが、それぞれの試合の記述がベンチで監督のそばに座って観ているような臨場感がありました。プレーオフで苦戦した分、日本シリーズは阪神を圧倒しましたが(ただし優勝を決めた第4戦は僅差になりました)、ちょうどレッドソックスが「バンビーノの呪い」を解いた2004年もワールドシリーズ出場までが大変で、逆にワールドシリーズが4連勝だったことを思い起こさせました。ボビー本人は「我々が勝つ場合は長期戦になる」と踏んでいたようですが・・・。
 日本一に輝いた2005年シーズンは私も忘れられません。前年に球界再編騒動があり、新球団楽天の誕生、セ・パ交流戦と話題の多いシーズンでした。私も実家暮らし&独身の気楽さと同じく野球好きの兄のおかけで千葉だけでなく神宮、東京ドーム、西武と足を運べるところに随分行きました。それまでも年に数回スタジアムでの観戦もしていましたが、球界再編騒動を通して「野球が好きと言うのなら、ちゃんとスタジアムに行って応援しなくちゃ」という気持ちにかられたというのもあります。当時の千葉マリンスタジアムは外野が今よりも深く、海風の影響でホームランも生まれにくいという特徴があり、空中戦で決まる野球より走る野球、投手優位の試合が好きな私にとっては観ていて楽しいスタジアムとチームでした。投手陣は固定し(先発はシーズンを通じてほとんど固定しており、ベテランの小宮山、黒木でさえ出番が少なかった)、中継ぎ、抑えには阪神の「JFK」をもじって「YFK」と呼ばれた投手陣が控え、打線は試合ごと、相手投手ごとに組み替え、若手、ベテランが躍動するチームでしたので、私も「ボビー・マジック」にかかった一人でした。この年に始まった「アジアシリーズ」の初代王者になるところまで東京ドームで見届けたからなあ。
 この後は結局日本シリーズヘの出場は叶わず、本人の言葉を借りれば「契約期間が来たので」アメリカに帰ったということになります。選手育成のために独立リーグのチームを傘下に収めるといった「新たな手法」は球団の一部幹部の反対や既存球団(巨人と明言していますが)の反対でとん挫したり、球団内でうまくいっていないことがあるというのは、なんとなくファンにも伝わっていました。当時日本ハムのヒルマン監督との対談をテレビで観た際には「日本の球団もアメリカを見習ってもっと球団経営をビジネスとしてとらえ、球場も含めて人を呼び、お金を産むビジネスとして考えるべき」というような提言をしていたことを思い出しました。
 帰国後にレッドソックスの監督となるも解任され、その後はユニフォームを着ることは無いようです。長年特にアメリカ球界の中にいた人ですので、プレイヤー目線、指導者目線で語られる話はジャーナリストのレポートと違ってリアルさが増しています。スポーツ界で幾度も問題となっているドーピングについても、自身が現役の際に許されていた薬物(アンフェタミン)を摂取していた者が、ステロイド使用者を糾弾しているというのはなんという偽善、と述べ、ステロイドについては選手だけでなく、監督、コーチ、チームや大リーグ機構を含めた全員の責任とも述べています。ステロイドが徐々にメジャーの球団内で「当たり前のように」浸透していった記述は、ボビー自身が監督を務めていた頃の話のため、真に迫るものがありました。
 ブログの方もだいぶ長くなってしまいましたが、本書も450ページを超える内容ながら、最近改めて読みました。野球に興味がなければなかなか読む方もいらっしゃらないとは思いますが、こんな本もあります、ということでご紹介した次第です。この記事も途中まで書きながら風邪をひいてしまったので、途中から書き足しながら、となりました。

本書と帽子はバレンタイン監督時代に採用されたマリーンズのサードユニフォーム用のもの。「ボビー時代」を象徴するものとして取り上げました。いまだにスタジアムでこの時代のユニフォーム、帽子の方を見かけるとこの人も「ボビー・チルドレン」だったのかなあ、などと思います。

 
 
 
 
 

 
 


 

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お出かけとか発熱とか

2023年11月30日 | 日記
 ご無沙汰しております。このところ本業が忙しかったり、そんな中あちこちに出かけたりとしていましたら、ひどい悪寒と発熱の症状があり、慌てて発熱外来に駆け込んだ次第です。幸いインフルやコロナには感染しておらず、風邪でしょうということで薬をいただきましたが、やはりちょうど一か月前にも風邪をひいたばかりで、自分の体の弱さを嘆いております。近所の発熱外来も混み合っておりました。皆様もご自愛ください。
 本のご紹介やお出かけの話、模型の話など書きたいことは山ほどありますが、もう少しお待ちください。

(タミヤがこれを再販するらしいですね。大好きなくるまなので今度は何色で作ろうかな)

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「じゃない方」のホンダがフィーチャーされたのは・・・ロータス100T

2023年11月17日 | 自動車、モータースポーツ
 前回に続いて三栄の「GP Car Story」の話です。先日発売されたのはロータス100Tという1988年のシーズンを戦ったF1マシンを特集していました。

 このマシンの特集が前号で予告された時には少々驚きました。この「GP Car Story」は、グランプリの名車だったり、日本のファンにとってエポックメイキングなマシンを主に特集しています。しかし、ロータス100Tというマシン、これと言った成績を残していません。このシーズン、ウィリアムズでタイトルを獲得したネルソン・ピケが移籍、2年目の中嶋悟とコンビを組みました。最高位はピケの3位がある程度で、中嶋も参戦2年目でだいぶ慣れて、予選で上位につけたこともありましたが入賞1回(当時は6位以内が入賞)で不得手な市街地で予選落ち2回という残念な経験もしています。一方でロータスと同じホンダエンジンのマクラーレンはロータスから移籍のアイルトン・セナとアラン・プロストの二人が圧倒し、二人で16戦15勝、セナが初の王座に就いたことは、レースの歴史に詳しい方ならご存じでしょう。同じ最強のエンジンを積みながら、なぜロータスは勝てなかったのか、そのあたりが本号では解き明かされています。
 当事者の中嶋悟、川井一仁両氏の対談によれば「剛性の無いマシン」と中嶋さんも評価しており、引退後に乗った1988年のマクラーレン・ホンダを「こんなにドライブしやすいマシンだったのか」と驚嘆しています(これは鈴木亜久里さんもイベントか何かのときに話していました)。チームメイトのピケもマシンの剛性のなさ、出来の悪さについては同様な評価で、特にピケはメカニズムに明るく、それを自分の言葉で伝えられるタイプのドライバーでしたので、インタビューが載っておりますがなかなか興味深い話ばかりでした。

(2018年鈴鹿にて)

 ロータスは前年を99Tというマシンで戦いました。こちらはアクティブサスペンションを採用するなど「攻めて」いたのですが、なかなか熟成が進まず、セナが市街地で2勝(結果的にロータスとして最後の優勝)どまりで、ウィリアムズ・ホンダが終始優位にシーズンを戦っていました。


(ロータス99Tとパワーの源泉、ホンダV6ターボ)
 1988年はターボエンジンにとって最後のシーズンでした。毎年のように積載燃料の制限、過給圧の制限とターボエンジンに対して手かせ足かせが掛けられておりました。一方でウィリアムズ、ベネトン、レイトンハウスなどは3.5リッター自然吸気エンジンを載せている、というのがこのシーズンでした。ロータスのマシンのデザインに関しては、87年型のフェラーリを参考にしているということで、確かに並べて見るとよく似ています。

(フェラーリF187)

(ロータス100T。ドライブは中嶋悟自身によるもの。いずれも2018年、鈴鹿にて)
 中嶋・川井両氏の対談にもありましたが、中嶋氏自身は2年目で手ごたえをつかんだところもあったということで、それが予選での好調にも現れていたようです。前年までのチームメイトとの差はだいぶ縮まり、特にベルギーでは僚友ピケより好タイムをマークしていますし、予選でトップ10に幾度も入っています。ただ、エンジントラブルに泣かされたり(本書では言及はありませんでしたが、エルフガソリンとのマッチングを指摘する声を聞いたことがあります)、凱旋レースの鈴鹿のように予選6番手につけながらスタートでエンスト、最後尾から追い上げて7位フィニッシュというレースもありました。故・海老沢泰久氏の「F1走る魂」によれば、87年の過給圧4バールのエンジンはパワーが有り余っており、中嶋はあえて過給圧を下げて、必要なときだけフルパワーにしていたといいます。また、故・今宮純氏が以前書いていましたが「エンジンパワーが必要なところだけで欲しい」ということで今でいうところのトラクションコントロールみたいなものが作れないかとホンダに打診したという話も聞いています。88年は過給圧が下がったことで好都合に働いていたということでしょうか。
 ピケについては前年のチャンピオンですから大いに期待されたところで、おそらくチームもマクラーレンとの優勝争い、タイトル争いを期待していたと思われますが、表彰台の端に立つのがやっとで、これが名門ロータス最後の表彰台となってしまったのは残念なところです。チームも期待外れだったと言わんばかりです。ただピケの場合、本書には言及はありませんが前年のサンマリノ(イモラ)でのクラッシュの後遺症に悩まされていたとも聞いていますので、何らかの影響が出ていたのではとも思います。本書と前後して刊行されたレーシング・オン誌がセナ・プロスト対決を特集していて、プロストへのインタビューでは、ホンダは当初、マクラーレンにピケを乗せようと考えていたとも言われており、それに対してセナを推したのがプロストだったという話が出ています。プロストにとっても、若いセナなら手なずけられると思ったのか・・・。もし、あのままセナがロータスにいたら、どんな風にマシンを仕上げて走ったでしょうか。
 ホンダのエンジニアたちの回想も興味深く、ロータスはマクラーレンに比べてトップに立つという強い意志がなかった、と言う指摘もありますし、過給圧が抑えられたことで車体側の良しあしがはっきりしてしまったという指摘も、ロータスが勝てなかった理由かもしれません。これも「F1走る魂」によりますが、マクラーレンは当時バンバン実施されていたホンダの鈴鹿での実走テストのためにスタッフを日本に常駐させるなど、他のチームには無い協力体制を敷きます。勝つために必要なことは細かなことでもすべてやる、というチームとそうでないところの差なのでしょうか。
 ホンダのエンジニアからも「どうしてこのマシンを特集するの?」と目立った成績を残せたわけでもないマシンへの疑問が呈されたと聞きます。編集長は中嶋さんのマシンはすべて取り上げたいということで、このマシンを選んだようです。
 ホンダが88年をもってロータスを去ることが決まり、中嶋も放出の話があり、中堅どころのアロウズなど、いろいろ噂もありましたが、代わりに獲得しようとしたジョニー・ハーバートはケガもあってあきらめ、ピケの言葉を借りれば中嶋のスポンサーだったエプソンが多少役に立ったのでは、ということで翌年もこのコンビが続きました。89年のマシン、ロータス101Tについては、近いうちに特集されるのでしょう。逆に、鈴鹿でエンストにならず表彰台に上っていたら、というのはよくある「タラ・レバ」話なのですが、前述の今宮氏はナンバー誌上で、中嶋が表彰台に上がれたらその後のF1キャリアも違ったものになったのでは、と思っていたようです。

 さて、このマシンが日本のファンに受け入れられているのはもう一つ理由があるように思います。このマシン、今回ご紹介した写真のように各地のサーキットで展示、デモランを行っています。比較的保守的な設計ですし、アクティブサスペンションではないので手入れやセッティングも99Tよりは複雑ではないのでしょう。エンジンもマクラーレンMP4/4と同じですしね。現役を退いてからも人々の前で雄姿を見せることができるというのは「名車」かもしれないですね。


カウルを外したところです。昔のマシンってこんな感じでした。


ピケは、エンジンとシャーシの間くらいで剛性不足が顕著だったと述べています。


走行のため、ホンダコレクションホールのスタッフが整備をしています。

本書では現役時代の中嶋悟の写真がありますが、ピットでの姿などは精悍なサムライ、という感があります。うちの亡母も引退後の中嶋悟の姿を見て「現役のときの方がかっこよかったよね」と言っていました。




 
 

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フレンチブルーはグランプリ制覇を夢見て 昔、リジェと言うチームがあった

2023年11月12日 | 自動車、モータースポーツ
 これからF1関係の話が少し続きます。三栄の「GP Car Story」では特定のマシンだけでなく、チームにフォーカスした号も出ており、既にイタリアの中堅・ミナルディの号もありましたが、9月にリジェチームの号が発売されました。リジェの名前を聞いて懐かしい、と思われる方はかなり古いファンでしょう。フレンチブルーを身にまとい、タバコのジタンをはじめフランス系のスポンサーをつけたマシンで知られていました。創設者のギ・リジェも既に物故者となっているほか、関係者もかなり高齢化していますので、インタビューを集めるのも苦労があったようです。

 リジェの創設者、ギ・リジェですが、第二次大戦後ラグビーやボートの選手を経て、道路建設業に乗り出します。ここでフランソワ・ミッテランという政治家と知己を得ます。後のフランス大統領ですが、この頃から彼と彼の属する社会党とのパイプができます。建設業で財を成し、リジェ自身はレーシングドライバーとしても活動します。F1ドライバーとしても結果は残せなかったものの参戦経験があり、ちょうどホンダ第一期の頃でしたので、当時の中村良夫監督はその頃の「好漢」リジェのことをエッセイに書かれています。そのホンダの空冷マシンにリジェの盟友、ジョー・シュレッサーが乗ってデビューを果たしますが、マシンはクラッシュ・炎上してシュレッサーは還らぬ人となります。リジェもドライバーに見切りをつけ、やがてレーシングカーのコンストラクターに転身しました。マシンの頭にはシュレッサーのイニシャルから「JS」というコードがつけられました。
 念願のF1参入は1976年でした。巨大なインダクションポッド(ティーポットとあだ名された異形のマシンです)をつけたJS5は、やはりフランスのマトラエンジンとともに(マトラ社の名前はミラージュ戦闘機とセットで出てくるマトラ・マジックというミサイルでご存じのファンもいるのでは)デビューしました。インダクションポッドがでかくなったのは他のチームでもありましたが、リジェのそれはかなり独特な形でした(ミニカーとか持っていないので見たい人はググってください)。1977年にはジャック・ラフィットの手で初優勝を遂げます。本書でもラフィットのインタビューが掲載されていますが、彼はチームのエースとして途中ウィリアムズに移籍した時期はあったもののけがで引退するまでチームにおり、チームの「顔」でもありました。コンストラクターとしても79年3位、80年2位と、侮れない実力を持ったチームでした。
 ところが、サーキットにターボエンジンのサウンドが響くようになった1980年代以降低迷し、優勝はおろか入賞さえおぼつかなくなります。1987年には開幕直前にアルファロメオと組む話が反故にされるなど、参戦そのものが危ぶまれることもありました。ちょうどF1ブームの頃「妖怪とうせんぼじじい」と揶揄されたアルヌーがいた時代です。フランスでは社会党の長期政権となっており、かつて知己を得たミッテランもエリゼ宮の主でした。このあたりからリジェは「政治力」の方も発揮するようになります。1980年代のフランス政界では大統領は社会党、首相は共和国連合という「コアビタシオン」の時期もありましたが、この時期に社会党系首相も復活し、盤石な権力基盤を築いていました。そんな中、社会党の地盤でもあったようですがリジェ・チームの本拠地があるマニ・クールのサーキットにフランスGPが移ったことも話題になりました。マニ・クールでは2000年代までフランスGPが続きます。また、同じフランス系のラルース(代表のジェラール・ラルースはかつてリジェの元で働いていましたが)に難癖をつけて、コンストラクターズポイントをFIAに圧力をかけてはく奪させ、さらには同チームのランボルギーニエンジンまで奪う、ということまでやってのけます。ポイントはく奪を行うことで自チームのコンストラクター順位が10位に繰り上がり、グランプリ転戦の際の輸送費などで便宜を受けられるなどの「特典」が欲しかったからだと言われています。ラルースはバブル崩壊で日本企業のスポンサーを失っただけでなく、ここでも割を食う形になり、同チームで表彰台に上がった鈴木亜久里にとっても不利な状況に追い込まれてしまいました。この一件で日本のファンの中にはリジェっていやな奴、というイメージを持たれた方もいるのではと思います。
 1992年に念願かなって当時の最強エンジン、ルノーV10を積むことができました。ちょうど「浪人」中のアラン・プロストがテストし、リジェもプロストを乗せたがったのですが袖にされ、リジェもショックを受けたと言います。チーム運営の情熱も失ってしまったのか、名前こそ残りましたがチーム運営からは撤退、以降、さまざまなオーナーの元で主に中団を走るチームとして戦いました。鈴木亜久里も95年にシーズンの半分を走り、ジタンの広告にも使われています。1996年に無限と組んで優勝したのがリジェにとっての最後の勝利でした(最後の数年はジタンではなくゴロワースがスポンサーでした)。チームはかつて袖にされたアラン・プロストに買収され、1997年に「プロスト・グランプリ」として再出発するも、5年で活動を止め、ここに名実ともにリジェの名はなくなりました。
 リジェ自身の生前のインタビューでは、やはりドライバーからオーナーになったフランク・ウィリアムズのようになりたかった、というのが印象的でした。リジェ自身は「オールフレンチ」にこだわりはなかった、とも述べていて、グランプリを制するためにはホンダなど「外国企業」と組むのも必要と感じていたようですが、フランス国内の反発が予想以上に激しくて諦めたと言っていたのが意外でした。リジェはフランス産業省に出向いて支援を求め、産業省の役人から「善処します」と言われても結局何もならず、ということで「彼らの言葉を信じた自分が愚かだった」と言っています。確かにフランク・ウィリアムズはアラブ系のスポンサーをつけてみたり、ホンダ、ルノー、BMW、トヨタとさまざまなメーカーと柔軟に組んでいましたね。既にチーム運営からは退いていたものの無限と組んで勝ったのを見て復活の兆しがある、と感じていたようでが・・・。
 彼の元で走ったドライバーも「相思相愛」だったラフィットや表彰台に上がる活躍をしたチーバー、最後の優勝者となったパニスなど、いい思い出を持っている人たちもいますが、中には「いい思い出がなかった」としている人もいて、そのあたりはリジェが憧れたウィリアムズ同様、ドライバーも「従業員」だったのかなと思わせるエピソードです。ギ・リジェが退いた後の1993年にはイギリス人コンビ、ブランドルとブランデルという紛らわしい名前の二人になっています。今でも親友同士らしく、一緒に事業をしたりという仲だそうですが、実際にはウィリアムズがルノーエンジンをライバルのベネトンに取られたくなくて、ギアボックスも含めてリジェに提供していたというのも興味深いところです。ブランデルもウィリアムズのテストを行ったことがありましたし、セカンドチーム的な立ち位置になっていたということでしょう。ただ、表彰台に乗れる力をつけるなど、それまでよりは随分と良くなっていたという印象が私もありました。仲の良い二人であってもコース上で絡んでしまうこともあって、その帰りの飛行機の機内の様子はインタビューを読む限り微笑ましいものがあります。状況は変わったとは言いつつも、やはりフランス系チームにイギリス人コンビは居づらかったようで、二人とも翌年にはチームを去っています。
 リジェとしての最後にエンジン供給者となった無限の坂井典次エンジニアのインタビューでも、お互い英語が母国語ではない同士だったのが良かったのか、英語でのコミュニケーションもかえってスムーズだったし、フランス人の方が懐に入ってくる感じでイギリス人より付き合いやすかったとも述懐しています。このシリーズでの無限エンジンを特集した号でもインタビューはありましたが、今回はリジェのスタッフとの思い出やモナコ勝利の裏話が出ています。ただ、ブランドル、ブランデルにしても、坂井氏にしても、ファクトリーで作業の手を止めて昼間からワインを飲むフランス人の習慣にはついていけなかったようですが。
 ドライバーにしても、エンジニアにしてもインタビューを読んで感じたのは牧歌的なところがありながらも組織がきちんとしていた「プロフェッショナルなチーム」だったこと、さらにボスであるギ・リジェが父親のような存在だったということで、さまざまな理由でチーム存続危機となってもつぶれずに済んだのはリジェ本人の不屈の闘志と情熱のおかげ、と口を揃えているのもこのチームが浮き沈みを経験しながら20年余りを過ごせた理由かなと思いました。前述の中村良夫氏のエッセイによればリジェ自身は道路関係の国際会議で来日するなど、実業家としての顔も持っていたようですし、本書によればレースカーだけでなく、産業用のマイクロカーでも成功を収めています。なかなか知っていたようで知らないリジェとそのチームを知る機会になった好著でした。
 
思えばリジェのマシンって、ミニカーで持っていたのはこれと以前ご紹介した無限と組んだものくらい。1993年シーズンの終盤にブランドル車のみヒューゴ・プラットがデザインしたカラーリングのマシンです(デアゴスティーニのF1マシンコレクションから)。タバコ広告はこうしたものでも規制されるため、肝心のジタンのシンボルである踊る女性像が入っていません(泣)。1993年日本GPプログラムにも、ジタンブロンドの広告と共に掲載されました。



1988年ベルギーGPの映像、何年か前にフジテレビNEXTで放送されましたが、アルヌーがリタイアしたシーンになぜかうちの豚児が反応して駆け寄った場面です。奥でリタイアしているのはデ・チェザリス(!)。息子よ、そこに食いつくか。

参考文献 私のグランプリ・アルバム 中村良夫著 二玄社

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スクリーンで手に汗握る 映画「グランツーリスモ」

2023年11月07日 | ときどき映画
 F1に工作、それから本業も忙しくしており、なかなか観に行けなかったのと、ブログにも書けなかったのですが、数週間前に映画「グランツーリスモ」を観てきました。たぶん上映はほとんど終わってしまっていて、配信やおそらく発売されるであろうDVDを見ていただくことになるかと思いますが、この作品の話におつきあいください。
 この映画、ソニーのプレステで有名な同名のゲームのチャンピオンが実際のレースで通用するのか、という話です。実在するレーシングドライバーで、まさにゲームのチャンピオンから本物のレーシングカーに乗ることがかなった青年ヤン・マーデンボロー(演じるのはアーチー・マデクウィ)の実話が元になっています。マーデンボローは日本でもレースに出場していたことがあり、私も名前は知っていましたが、詳しいバックグラウンドまでは知りませんでした。
 映画は若者の挑戦と挫折、そして栄光をつかむまでという様々な形で繰り返されてきたストーリーですが、ゲームと実車といった対比、さらに主人公とその周囲の大人たちとの関係、そして何より実車を使った迫力のレースシーンが魅力です。
 実際に日産がソニーと組んでゲームのチャンピオンたちのための「アカデミー」を開設しており、映画でも主人公が他のライバルたちと切磋琢磨しながら成長していきます。そして彼らの指導役であるデヴィッド・ハーバー演じるソルターという元レーサーが、口は悪いしスパルタだし、という一面と、主人公の判断が正しければそれを尊重する、単なる頑固おやじじゃないところもあって、何とも魅力的です。また、このアカデミーの言い出しっぺでもあるオーランド・ブルーム演じるムーアという男も、日産側の人間として野心を隠さず、マーケティング優先の考え方ではありつつも、現場の意見もちゃんと尊重しており、ソルターに対しても信頼を置いていることがわかります。
 マーデンボローはアカデミーを首席で卒業し、晴れて「本物の」レースの舞台に立ちます。最初はソルターの無線の指示なしにはレースができなかった彼も、次第に自分の意志と力でレースをしていきます。こういうドラマにはつきものの金持ちのボンボンレーサーの意地悪とか、老獪なライバルに邪魔されたり、といったことも起こります。大きな事故やリタイアを経験しながら、クライマックスはアカデミー出身の他のドライバー達と組んで挑むル・マン24時間で表彰台を目指す・・・という展開で、後は映画を見てのお楽しみ、としておきましょう。実車もCGもありますが、レースシーンは本当に迫力があります。このゲームの製作者の山内一典(映画では平岳大が演じています)は細かなところまでかなりリアルにこだわっており、それがグランツーリスモというゲームの特色であり、魅力だそうですが、この映画でも製作総指揮をとっており、そこは変わらないようです。
 アカデミーのシーンでは当然日産車が使われますし、カセットテープでブラック・サバスを聴くソルターのために東京でお土産に買うのはソニーのウォークマンで、ソニーと日産のプロモーション映画みたいなところもありますが、それは仕方ないでしょう。レースシーンではランボルギーニあり、ポルシェありで楽しめますよ。
 劇中、主人公とガールフレンドが東京を訪れる場面があり、渋谷や新宿界隈も出てきます。ああ、あのあたりは歩くなあとか、空撮映像がおいおい、西武新宿に歌舞伎町じゃね、ということで自分の身近な街が横文字の映画に出てくると奇妙な感じがします。新宿のシーンでは実際にロケしたのかどうかは分かりませんが「思い出横丁」なんかが映ったりしています。主人公もそうなのですが、トーキョーは憧れなんでしょうね。
 主人公・ヤン・マーデンボローの話に戻りますが、父親が元サッカー選手というのも実話のようで、お父さんは約20シーズンにわたって、プレミアリーグの一つ下のリーグを中心にプレーしていたようです。映画ではお母さん役にジェリ・ハエウル・ホーナーが出演しています。この名前を知らなくても、元スパイス・ガールズのジンジャー・スパイスなら知っている方もいらっしゃるでしょう。今はレッドブルF1チームのボス、クリスチャン・ホーナー夫人ということで、レースつながりのキャスティングだったのでしょうか。
 映画では主人公が大事な勝負の前にケニー・Gやエンヤを聴くシーンが出てきます。これは実際にそうらしいです。:ケニー・Gにエンヤって、90年代前半のOLみたいな趣味ですが、私のウォークマンにも(エンヤはコンピレーションの一曲だけど)この二人の曲が入っています。勝負どころでは聴かないけどね。好むと好まざるとに関わらず、私も映画のソルターのような「若手に自分の経験を伝える」側になっていますので、やはり年長の人間の目線で映画を見ておりました。
 この作品、日本語吹き替え版だとエンドテーマをT-SQUAREのCLIMAXという曲が飾っているのですが、上映時間の都合がつかず、私は字幕版でした。でも、グランツーリスモのオープニング曲「Moon Over the Castle」が数小節流れる場面が本編にあることから、エンドロールにはこの楽曲名と作曲者でスクエアの元リーダー安藤正容さんの名前がクレジットされているのを見て、うれしくなりました。CLIMAXは河野啓三さん作曲のある意味日本的なインスト・ロック曲ですが、日本を感じさせる部分も多い映画ですから、きっとマッチしていたのではないかと思います。
 「Moon~」をスクエアが「カバー」しているのが「Knight's Song」で、1997年のアルバムに初めて収録されたのですが、私は2005年「Passion Flower」ボーナストラックの・・・って誰も聞いてないですね。
 そんなわけで実際にサーキットでレースを観たような心地よい疲れとともに映画館を出ました。当然、帰り道のBGMはソニーのウォークマンでT-SQUAREの「CLIMAX」でした。

(本作のパンフレットと右下はトミカのNISMO GT-R GT500のミニカーで、豚児のものを拝借してきました)

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