工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

祝 キット化50年

2024年01月31日 | 飛行機・飛行機の模型
 ごぶさたしておりました。実は1月は本業がなかなか忙しく、今日、ようやく解放されたところでして、やっとパソコンに向かう余裕ができたというところです。
 このところ飛行機の話題が雑誌の休刊だとか航空祭の中止といった湿っぽい話ばかりでしたので、今日はちょっとだけ明るい話をしましょう。
 モデルアート増刊の「飛行機模型スペシャル」の最新号が、1/72のF-15キット化50年という特集を組んでいます。F15は1972年に初飛行しましたが、その2年後にはハセガワがまだ試作段階の機体をもとに1/72でキット化しており、これが世界初の1/72のイーグルのキットだったそうです。もちろん、アメリカ本国もモノグラム、レベルといったメーカーからキットが発売されます。やがて実機が改良を重ねるのに合わせてキットも進化し、他メーカーの参入などもあり、今ではファインモールドのキットが最新版として君臨しております。余談ですがこの時代のハセガワさんは試作機段階の機体も積極的にリリース、F16もデモ塗装をしたYF16でした。

 今号もファインモールドのキットの紹介という面もあるのですが、歴代のキットをまんべんなくチョイスしており、できるかぎり「当時モノ」も集めております。河野嘉之氏によるキットや実機の解説、秋山いさみ氏によるちょっと昔のF15Jをファインモールドのキットから再現する記事など、私にはどストライクの記事が並びます。個人的に「忘却の彼方」にあったのが今はなきイタリア・エッシーのキットで、繊細な凹モールドだったのですが、同時期にハセガワも新版のキットを出したため、影が薄くなってしまいました。エッシーのキット、金型が日本製という噂があるのですが、聞いたところではあの時代のフジミとエッシーは日本の同じ木型師が木型を作り、金型は今もあのプラモデルでかなり有名なところが手掛けていたんじゃないかと思います。それはさておき、風防のボリュームが抑えられた、独特の解釈のF15を見ることができて収穫でした。
 モデルアートにとっても1/72のF15は特筆すべき記事がその昔に載りました。70年代後半からモデルアートの飛行機関連のライターとして活躍された故・黒須吉人氏のデビューが1976年3月号で、レベル製F15のレビューでした。「新人」としてはページ数を費やし、レドーム内のレーダー、コクピット後方の電子部品などを自作した力作でした。
 F15の実機は米国、サウジアラビア、イスラエル、日本と導入国が限定されてはいますが、国情に合わせたサブタイプも多く生まれており、本来制空戦闘機だったF15に戦闘爆撃機としての能力を付与したストライクイーグルなどはその最たる例でしょう。初飛行から50年が経っても、まだ進化があるのでは、と思います。それだけ名機なのでしょうが、それだけに今後もさまざまなキットが生まれるのではと思います。
 私も1/72のF15は10代の頃からお世話になりました。ハセガワの凸モールドのキットから組みました。エアブラシもなかったので、特徴ある迷彩も筆塗りでした。202飛行隊の武人埴輪のマークの色が薄いとか、いろいろ思い出深いです。その後はハセガワの新版が「決定版」だったものですから、このキットばかり組みました。
 その中でも一番目立つのがこちら。第305飛行隊が航空自衛隊50周年の時に施したスペシャルマーキングです。梅の花を大胆にあしらった塗装が特徴です。50周年塗装の中でも相当なインパクトでした。通常の塗装を覆うようなマーキングですので、通常の迷彩塗装も迷彩が残っている箇所をきれいに塗り、その上から塗料、デカールを駆使して再現しました。ハセガワからこのマーキングの機体もキット化されましたが、私はサードパーティーのデカールを使いながら仕上げています。ちょうど2月に入るところですので、この機体で梅のお花見はいかがでしょうか。








 それにしてもこの特集の前号は「ヨーロピアン・ジェットファイターの系譜」でしたので、2号続けて魅力的な特集で「おれがこういうのに弱いの、どうして知っているんだ」という気分です。


  



 
 

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入間基地航空祭が中止になって・・・

2024年01月19日 | 飛行機・飛行機の模型

令和5年度の入間基地航空祭は、1月20日に開催される予定でしたが、自衛隊が能登半島の地震の対応等に当たっていることから中止となりました。地震の状況を鑑みればやむなしというところでしょう。被害の状況をメディアで見る限りでは、かなり甚大な様子がうかがえます。
そもそも11月に開催されることが多い入間の航空祭ですが、5年度は航空観閲式を11月に入間基地で実施した関係で一般公開の方は1月になりました。1月開催というのは今までなかったのではないかと思いますし、冬の入間基地ってどうなのか、という期待とそして雪などの天候面の不安もあったのですが、結局中止となりました。
令和4年度は抽選で選ばれた人のみでしたし、その前の2年間はコロナ禍で開催されていませんので、私も随分ご無沙汰となっています。
開催を記念してこんなパッチ(ワッペン)も用意されていました。普段は開催記念くらいでは購入しませんが、デザインと、そして売り上げの一部が赤十字を通して能登半島地震の被災者のために寄付されるということで購入しました。

入間と言えばC-1が並ぶ光景が当たり前でしたが、退役が進んでいます。そして大きい方は配備が進むC-2です。迎春の文字も今年だけの特別感がありますね。

入間基地が中止になったから、というわけでもないのですが、家族で西武線に乗ってちょっと遠出を、ということで先日秩父まで行ってきました。昨年9月に続いてにはなりますが、家人が「冬枯れた武蔵野を車窓から眺めたい」ということで、各駅停車を使いながら秩父を目指しました。家人が前回の秩父行きでラビューもさることながらボックスシートの4000系を気に入ったというのもあるのですが・・・。
秩父はさすがに寒いですし、前回と同じようなところを見て回り、食べてとなりました。駅に併設して特産品も売られており、地元産のシイタケ、唐辛子、ニンニクを買いました。この組み合わせで「アヒージョ作ろう」となりまして、小エビも調達して次の日の夜でしたが、作って食べました。シイタケの味がしみて殊のほか美味しかったです。
さて、秩父で買ったお土産がもう一つ。

タバコと思いきや「チャバコ」と書いてあります。そう、この中にはスティックタイプの狭山茶が入っています。いろいろな車輌などのデザインがあるようで、これは西武の110年記念ということで、西武鉄道モハ151形(旧西武鉄道モハ550形)が箱の写真に使われております。いわゆる「川造型」ですかね。裏は村山貯水池の写真です。

注意書きもタバコのそれをもじったものです。この「ちゃばこ」ではなくても西武鉄道の歴史への興味は高いのですが(笑)。

さて、今日の結びは飛行機に戻りまして、入間基地に因んだこんなジオラマを。

何年か前に作りました1/72のT-33(製品はプラッツ、部隊マークのみハセガワ)と牽引車(ハセガワ)を使ったジオラマで、本名名義で浜松広報館のプラモデルコンテストに出品したものです。
入間基地と言えば飛行点検隊という空自唯一の部隊があることでも有名です。当時の浜松広報館の方が以前入間基地にいらしたということで「入間基地にT-33のこんな風景の写真があった」と言われて、驚いたことを覚えています。基地の施設内にあった写真なので、当然部外者の私は見ることができませんので、飛行機と隊員と車輌を自分なりにアレンジしたジオラマだったのですが・・・。

そしてT-33というと独特に折れ曲がった搭乗用のラダー(はしご)でして、何度も失敗を繰り返して、プラ材を曲げながら作りました。








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今年もこの季節・・・京王百貨店の「駅弁大会」へ

2024年01月16日 | 日記
 お正月が過ぎると毎年恒例、京王百貨店新宿店の「元祖 有名駅弁と全国うまいもの大会」がやってきます。先日、ちょうど東京で雪が降った日でしたが、私も行ってきました。人気を集めているものはネットで事前注文しないと入手できないものもありまして、会場でどれにするか迷うのも駅弁大会の楽しさの一つなのですが、今年はどうしても欲しいものだけ事前注文しました。
 今回どうしても、ということで事前注文したのがこちら。ヘッドマーク弁当の「はくつる」です。

ヘッドマーク弁当というのは往年の特急列車のトレインマークをあしらった弁当箱が特徴で、食べ終わってからも立派な箱は使えますし、これまでも駅弁大会の人気商品でした。「はくつる」は乗ったことが幾度かありますし、583系好き、上野口の特急が好きという人間には外せないアイテムでございます。

横長な581、583系のトレインマークに合わせた箱です。

中身はどうなっているでしょうか。

以前購入した「はつかり」のものについては1段でその分大きな箱でしたが、今回は箱のサイズがコンパクトになり、二段となりました。製造が岩手県・一関の斎藤松月堂ということで、岩手の山海の幸をメインとしたメニューです。ご飯の上にはわかりづらいかもしれませんが、鶴形のかまぼこが乗っています。
野菜も肉も、鮭もおいしいだけでなく「じゃじゃ麺風」が入っているのも盛岡らしいですし、もちろんご飯もおいしく、おなか一杯になりました。デザートにくるみ餅もついています。
そうそう、こんなシールも入っていました。

こちらは模型のケースに貼ろうかな。

そして東北路の駅弁からもう一品。「青森味紀行 イカとホタテと鶏めしの弁当」(新青森駅)です。


こちらは青森の海の幸を中心に、大きなホタテ、いかのすしなども入っているほか、ご飯は定番のとり飯ということで、家人が大満足でした。

場内で販売していたもので迷わず買ったのはこちら。

「ぴよりん弁当」(名古屋駅)です(販売は1/15まで)。ぴよりんは名古屋で人気のスイーツで、関連商品もありましたが、とうとうお弁当にもなりました。
中身はこんな風になっています。京王新宿店開店60周年の特別仕様だそうです。

オムライスにウインナー、エビフライに唐揚げ、卵ということで子供向きな感じもしますが結構なボリュームでした。豚児がオムライスとおかずをいくつか食べましたが、さすがにお腹いっぱいにになったようで、食べられなかった唐揚げなどは両親が美味しくいただきました。。

駅弁だけでなく「うまいもの」の方も美味しそうなものが出ていました。私は毎年買っている宇和島の「ちゃんぽんの具」を今年も購入しました。最近いろいろ話題となっていたじゃこ天もありましたよ。
私が訪れたのは夕方でしたが、昨年ご紹介したコンテナ弁当も売られていました。会期中にもう一度訪れて、今度は牛肉系を攻めてみたいなとか、いや冬だからカニだろうとか、迷いながら買ってみようと思います。









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マルコ・ポーロ 没後700年ということで

2024年01月14日 | 日記
 今年(2024年)はマルコ・ポーロの没後700年にあたるそうです。日本で最も知られたヴェネツィア人と思われますが、そんなマルコ・ポーロに因んだものなどが、今日のテーマです。
 彼の人生を改めておさらいしますが、1254年ヴェネツィアに生まれたとされており、一族は商人でした。17歳のときに父と叔父と共にヴェネツィアを発ち、東方を目指します。中東どころかアジアまで目指した彼らは当時アジアの多くの地域を支配していた元の皇帝・フビライに謁見しています。フビライに気に入られたマルコは元の役人として朝廷に仕え、時には外交使節として各地を訪れていたといいます。約25年にわたって外国での日々を過ごし、ヴェネツィアに帰国した時には年齢も40代に達していました。帰国後は同じ豪商のバドエル家の女性と結婚、子供にも恵まれました。その後はヴェネツィアに腰を落ち着けるようになります。ちょうどこの時代のヴェネツィアは、ライバルである都市国家・ジェノバと地中海の覇権をめぐって100年間にわたって争っていた時期でもあり、マルコも自らガレー船を用意し、参戦しますが、戦いの中で捕虜となります。そこで同じ房にいた作家に口述筆記させたのが「東方見聞録」とされています。この書物で紹介されている中国大陸のさらに先にある黄金の国・ジパングにはマルコ自身は訪れることは叶わなかったのですが、後々まで多くの冒険家たちにインスピレーションを与えることとなります。ちょうどマルコ・ポーロが元にいた時期は、日本にとっては元寇の時代でした。随分前に放映されていた大河ドラマ「北条時宗」にもマルコ・ポーロが登場しましたね。
 ヴェネツィアという国は都市国家であり自国に資源を持たないため、交易で生き続けることが国の使命となります。共和国という形をとっておりますが、国の指導層も豪商出身者が「貴族」という形で占め「企業経営のスタイルで国を治めた」と言われるほどでした。彼らは地中海各国、中東、欧州、黒海沿岸あたりまでを商売のテリトリーとしていたようですが、マルコ・ポーロ以外にもインドあたりまで行った、といった商人や、やはり中国まで赴いたという商人もいたそうです。マルコ・ポーロのような事例は少ないかもしれませんが、15歳を過ぎれば商売のイロハを学びはじめ、親族に同行して海外に赴き、40代まで海外を拠点に仕事をして、帰国後は(一族の家長ともなれば)政治に参画する、というのは当たり前のように多くの商人、貴族たちが行ってきたことでした。このため、海外に赴任する大使も豪商出身者の貴族ですし、普段交易に使われるガレー船も有事ともなれば軍艦として戦いました。
 私が子供の頃、NHKで「アニメーション紀行 マルコ・ポーロの冒険」というアニメと実写を融合させた番組を放映していました。NHKらしい丁寧なつくりだったことを覚えています。記憶が間違っていなければ冒険の旅のことは人々から忘れられてしまい、不遇の晩年だったみたいな終わり方だったように思います。子供心にあれだけの大冒険をなしえた人がなぜ、と思ったものですが、実際には前述のように豪商の娘を妻に迎え、有力貴族たちのように大運河沿いではないものの、屋敷を構えることができたのですから、悪くない後半生だったのではと思います(ちなみにゴンドラに乗ると必ずといっていいほど、マルコ・ポーロの屋敷があった建物の近くを通ります)。前述のように「遠征」する商人が他にもいたことを考えると、ちょっと遠くまで出向いた商人という捉え方をされていたのではと思います。ヴェネツィア政府も対ジェノバ戦で手一杯だったでしょうから、アジアのさらに先の事象より地中海で起きていることの方を優先したのでしょう。

 さて、マルコ・ポーロに因んだものを二つご紹介です。

一つ目はこちら。ドイツが発祥の玩具プレイモービルにこんなものがあります。これはフランス版のデアゴスティーニの書物についていたマルコ・ポーロの人形です。衣装などは中世の商人の格好として考証的に正しいのかはわかりませんが、中東で商売を行うヴェネツィア商人らしく、髭を生やしています。
 絵本がついていて、こんな感じです。これまでレオナルドダヴィンチの本なども出ており、購入しています。

絵本はフランス語のため読めませんが、船の描写などはちょっと年代が新しいかな?という感じでした。

 そしてこちらはマルコ・ポーロの肖像画(版画)です。

 活版印刷を守り続け、メディアでも紹介されているヴェネツィアの「ジャンニ・バッソ印刷所」(Gianni Basso Stampatore)で購入しました。今の寓居に住まうようになってから飾りましたが、実際にはもっと前から我が家にいたと思いますので、購入してからかれこれ20年くらいは経つと思います。マルコ・ポーロは黄金の国を夢見ながらその夢を果たせなかったわけですが、700年後のジパングに安住の地を得ることになりました。マルコ・ポーロはヴェネツィアの空港にその名を残しましたし、彼の物語がジパングと呼ばれた国の一人の男の子にインスピレーションを与え、成人してからヴェネツィアに幾度も訪れるようになりましたから、決して今も「忘れられた」わけではないでょう。





 
 

 


 


 

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作家と写真家と、海の都

2024年01月13日 | 日記
 写真家の篠山紀信氏が先日亡くなりました。偉大な写真家(いろいろな捉え方はあるかと思いますが、写真という表現手段もまた、芸術の一つではあります)を亡くしたという気持ちと、エネルギッシュな活動ぶりとあの特徴ある髪型もあってか、83歳という年齢を聞いて少々の驚きもありました。今日はいつものように乗り物の話はありませんし、音楽の話でもありません。私の書架にある一冊の本のご紹介です。
 作家の故・吉行淳之介氏が文章を書き、篠山氏が写真を撮った「ヴェニス 光と影」という本があります。もともと新潮社から刊行されていたようですが、私が持っているのは魁星出版から再編集の上、2006年に再販されたもので、写真などはオリジナルと異なるようです。篠山氏の強い誘いを受け、もともと「体が弱いから」と旅行を渋っていた吉行氏も腰を上げ、一週間足らずのヴェネツィア滞在をします。1979(昭和54)年秋のことでした。ホテルでトーマス・マンの「ヴェニスに死す」でも読みふけっていようか、などと言いつつも、車が入れないがために歩くしないという特異な環境の島を歩き回っています。もちろん、名物のゴンドラにも乗っています。この旅は篠山氏と助手、吉行氏と新潮社の編集者、イタリア人女性の通訳という顔ぶれですが、通訳との会話がかみ合っていないような、通じ合っているようなという独特の緊張感が旅のアクセントになっています。
 そして、篠山氏の写真も当たり前ですがとても素晴らしいものとなっています。絵画にしても写真にしても、素人が描いたり写真に撮ったりすると、ヴェネツィアの風景と言うのは陳腐になってしまいがちです。素人だとあの街に「負けて」しまうわけです。ところが本書の写真は街中で撮られたふとした風景、ゴンドラの舳先から撮ったと思しき独特の視点の写真、おそらく本島の北側と思われるところから撮ったであろう、霧に煙る海で目印のブリコラと呼ばれる杭を確かめるように進むモーターボート、夕暮れの海、夜景に教会の内部のモザイク画など、もともと魅力的な街の魅力をさらにカメラマンが引き出しているように感じました。また、現在のように人口が減少し続ける前の(それでも減ってはいたのですが)ヴェネツィアらしく、子供たちの学校の様子なども撮られています。子供のふとした表情などもうまくとらえていて、さすがですね。今日のように「観光公害」などと呼ばれ、観光で訪れる人も滞在が1日、下手をしたら半日で、街がテーマパークのように「消費される」前の時代ですので、まだどこかのんびりしたところもあって、そんな人々の暮らしの様子もカメラに収めています。ゴンドラでくつろいだ感じの吉行氏の表情も捉えています。大変女性にもてたということを聞きますが、ゴンドラに乗る姿は絵になります。かっこいいです。この時の吉行氏の年齢が55歳ということで、今の自分とあまり変わらないことにまたびっくりしたり・・・。また、吉行氏が「少年のよう」と評していた通訳を魅力的に撮影していた、というくだりも被写体の魅力を引き出す篠山氏らしいところかもしれません。
 ヴェネツィアに関しては私も訪れており、1週間近く滞在、ということもありましたし、現地に友人や長年の知己となった方もいますので、いわゆる観光名所以外のところにも自分なりに目を向けたりしているのですが、本書を久しぶりに開けて、この街の魅力を再発見しておりました。
 本書では旅の後に新潮社の雑誌「波」に掲載された二人の対談も掲載されており、こちらも撮影の裏話だけでなく「作家は(心の)内側へ、内側へと向かい、写真家は外に外に向かう」といった篠山氏の言葉だったり、二人とも写真に「撮られる」のが嫌い、という話だったり、二人の心の内もちょっと覗けるような内容でした。篠山氏の「ゴンドラに寝転ぶと頭の上を都市がゆっくりと去っていく、これがすごくいい」という視点は、ヴェネツィアの街の魅力でもあり、あの都市を理解するには歩くか、ゴンドラのようなゆっくりとした乗り物で体感するのが一番と私も思いますので、それを知り尽くした上で撮影に臨んでいたのかもしれません。この前後に篠山氏は隅田川や神田川などの東京の「水辺」の光景をボートをチャーターした上で撮っていたようです。水辺と都市というテーマでは、ヴェネツィアほどではないにしても東京もわすれてはいけませんね。
 本書については再販した魁星出版もなくなったようですし、入手は難しいかもしれません。もしどこかで手に取る機会がありましたら、ぜひご覧ください。
 ヴェネツィア関連の話、あと一つ続きます。


 

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