工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

待合室の種明かし

2020年09月30日 | ジオラマあれこれ
 朝晩が涼しくなり、だいぶ過ごしやすい季節になりました。私もこの季節が大好きです。さて、前々回のブログでモノクロ仕上げにした待合室の写真を掲載しましたが、あのジオラマの種明かしをいたしましょう。
 こういう状況下で書きたい、と思った記事で、さらにあの記事に合わせたジオラマを作りたいと思って作ったものであります。いつものようにNゲージやHOゲージサイズの人形では伝えたいものが伝わらないと思い、1/35でジオラマを作ってみようと思いました。ただし、あまりお金は使わず、手元にある素材や材料を使っての工作となりました。
 全景はこんな感じです。

 キオスクがある小さな待合室の風景を切り取りました。ジオラマの土台は100均で売っているディスプレイケースです。床面は津川洋行のNewデザインプラスチックペーパー・石積80を使用しています。壁面は5mm厚のスチレンボードを使っています。リキテックスのモデリングペーストを塗って表面を壁っぽくしていますが、少しオーバーな表現でした。壁同士の接着ですが、爪楊枝を刺して接着面を補強しています。
 主役の人形ですが、中国のmeng modelというメーカーのイスラエル軍戦車クルーというキットから連れてきました。


 箱絵のとおり戦闘中ではなくて休憩中の兵士の姿をモデル化しています。以前別のジオラマを製作した時に使わなかったパーツから今回の座る男のフィギュアができました。胸ポケットをエポキシパテで追加し、服も適宜削ったりしながら民間人に化けてもらったわけですが、服と頭の大きさがややアンバランスな感があります。もともとこんな上着(薄手のものでしたが)を私が10代後半の頃よく着ており、そのイメージです。ハイライトやシャドウをことさら強調する人形の仕上げ方は決して好きな方ではないのですが、やはり写真にすると効果があります。足元の荷物はタミヤの連合軍車輛アクセサリーセットに入っていたダッフルバッグを元に、ジッパーや肩かけのストラップを追加しました。ストラップはカーモデル用のシートベルトから作りました。バッグの色ですが「リトルアーモリーカラー」のステンレスシルバーを使ってみました。ちょっと粗い感じのある色です。私が10代から20代にかけて、こういう色のバッグを使っていたのです。

 ベンチの上のペットボトルは人形のキットに入っていたものです。ラベルの部分を適当な色で塗っています。
 ベンチはコバアニ模型工房のものを使いました。紙製キットですが接着して組みあがるとしっかりとしたものになります。枠の部分はファレホのブロンズグリーンで、座面、背面の木部は同じくマホガニーで塗りました。
 奥のポスターは昭和63年夏の青春18きっぷのものです。モデルは和久井映見さんだそうですね。

 こちらもプラ板、プラ材を中心に組んでいます。こういったポスターですが、フェルトの布を張った面に画鋲で止めていることが多いので、緑のラシャ紙でフェルトの布っぽさを出しています。画鋲はコトブキヤやWAVEなどから発売されている1mm程度のリベットなどのパーツです。実際の大きさに換算するとオーバースケールになりますが、あえて目立たせています。ポスターの上の「JRからのお知らせ」なのですが、もともとは「国鉄からのお知らせ」とあったところに民営化に合わせて「JR」と紙で上から貼ったという設定です。民営化からしばらくはこういう光景をよく見かけました。モデルでも「国鉄からのお知らせ」という自作デカールを貼った上から紙で「JR」と印刷したものを貼っています。
 ポスターの横は自販機です。こちらはカプセルトイの「ザ・ミニチュア自販機コレクション」を使用しました。カプセルに収めるためか丈も低いですし、サンプルのドリンクの数も実際にはもっと多いでしょう。よりリアルさを求めるようでしたらハセガワから休憩中の工事現場の作業員のフィギュアと一緒に自販機がモデル化されていますので、最近の自販機を再現するなら好適と思います。横のごみ箱ですが、macone modelというメーカーのレジンキットです。化粧板のオレンジの部分は朱色1号に塗りました。

 なお、自販機についてはそのまま接着するのではなく、底面の四隅に1mm程度の厚さのプラ材で足をつけています。実物でも四隅に台がついていて、ボルトで自販機と固定されていたり、地震で転倒しないような機構がついている場合もあります。
 キオスク側の説明にまいりましょう。本来、キオスクはホーム上でも待合室上でも独立した店構えで、前方、左右両面に向かって開き、スペースを稼いでいますが、こちらは壁についているような感じです。もともと立ち食いそばやにするか迷ったのですが、やはり駅の風景と一目で分かるようにするためには誰もが知っている売店の方が、となりました。ロゴなどはネットから落としたものをデカールにして貼っています。シャッターは建築模型のプラ材から、左の業務用の扉はプラ板で作り、枠はプラ材を切り出しています。営業時間は7:00~20:30となっており、閉店時間はこの駅に一番遅い時間に停車する特急の時刻に合わせています。シャッターや扉にはプラ材でドアノブ、鍵穴などをつけています。

 もともと売り場面積がそれほど広くないのか、ポスターの下に什器を置いて商品を並べたりしているようです。産直市の貼り紙がある什器はコバアニ模型工房のシェルフを組み立てたものです。ビールケースはだいぶ前に量販店で買ったノーブランド品です。キオスクの扉の前の足元に段ボール箱がありますが、こちらはベルギーのマソモデル(MATHO MODEL)の製品を組み立てました。印刷された紙を切り出して様々な箱を組むことができるのですが、いかんせん薄い紙ですので、下にケント紙をのりづけして、それを切り出してから組みました。この荷物、おそらく閉店後に届いたものなのでしょう。
 柱時計はスチレンボードを丸く切り出し、1/48のドラム缶の蓋を文字盤にして、その上にマソモデルから発売されているデカールを貼りました。デカールが乾いてからエナメルのクリアーを塗ってガラスっぽさを出しています。

 最後に壁面や看板などに軽くウェザリングをかけました。ファレホのクリームや薄緑系の色をごくごく薄く溶き、筆塗りしています。
 駆け足ではありましたが、以上が待合室の説明でございます。ジオラマの主人公ですが、写真を見た方から「何か訳アリの人が夜汽車に乗ろうとしているイメージ」というコメントをいただいておりますが、私のイメージとしてはこんな感じです。
 
 「夏のある日、私は友人たちと東北地方のローカル線や私鉄をめぐり、弘前で解散となった。そこからは各自、好きなところに行くのである。私は日本海側を南下して旅を続けていた。今夜は夜行に乗って次の土地へ向かう。8月の終わりともなるとこのあたりはだいぶ涼しく、夜は上着を羽織ることにした。時刻表でしか見たことがなかった小さな町に、列車を待つという理由でありながら数時間滞在するというのは、なんとも不思議な感じである。いまは23時を回っている。そろそろ列車が入線する時刻だ。荷物をまとめて、改札に向かうとしよう。」

 この待合室のモデル、他にも場所や時代を超えて作ってみたいものがあります。そのときはまた、皆様にお目にかけるとしましょう。

(本稿については10月2日に一部加筆しています。また、掲載できていない写真がありましたので、追加しております。あらためてご覧いただければ幸いです)

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としまえんと防衛博

2020年09月26日 | 工作雑記帳
 1か月ほど前の8月31日で、としまえんが閉園しました。私はどちらかと言えば西武園やユネスコ村にお世話になることが多く、としまえんについては条件が良ければ今の住まいから花火が見えるかな、という程度のつながりでしたが、時に自虐的な、またいつもクスリとさせられる広告を見るのが好きでした。エイプリルフールに合わせて「史上最低の遊園地」という広告を出してみたり、フランス広告界の巨匠サヴィニャックにポスターを依頼するなど、話題に事欠きませんでした。最後の日々にはこれまでの愛顧をストレートに感謝する広告を電車内で流しており、それほどお世話にならなかった私でもぐっと来るものがありました。山手線の外側とはいえ、23区内にこれだけの施設を持つ遊園地がずっと続いていたというのは、それだけ来園者に愛された証拠でしょう。
 個人的な感傷はさておき、昭和41(1966)年の月刊誌モデルアートの創刊号(正確には同誌増刊「モデルスプラスチック’70」に掲載された創刊号の90%縮刷版)を見ておりましたら、その年にとしまえんで開催された「平和のための防衛博」(この項では「防衛博」と略。主催サンケイ新聞社)のレポートが写真とともに掲載されていました。
 この防衛博というのは、昭和30年代、40年代を中心に日本各地の遊園地などで開催されていたイベントで(名前や形を変えて平成に入って以降も開催されていたようです)、自衛隊の戦車などの車輛、航空機、艦艇の装備品が展示されたほか、航空機のデモフライトや戦車の体験搭乗といったことも行われていたようで、ブルーインパルスが会場上空に飛来したこともあるようです。この時代の自衛隊はまだ、現在ほど世の中に受け入れられていない時代でしたので、世間への理解も含めてイベントが必要だったのでしょう。また、今ほどコンベンションセンターが各地に存在する時代ではありませんでしたので、広いスペースを確保するとなると遊園地は好適だったのかもしれません。としまえんの他にも、関東では横浜ドリームランドや向ヶ丘遊園、関西では奈良のあやめ池遊園地などで開催されたという記録が残っています。
 としまえんの防衛博ですが、前述のモデルアート創刊号では昭和41年10月1日から11月27日まで開催されたとあります。掲載の写真によると陸上自衛隊からは当時最新の戦車だった61式戦車や60式自走無反動砲、155ミリ加農砲、8インチ榴弾砲などが展示されていました。また、自衛隊の装備だけではなく、戦艦「大和」の砲弾のレプリカ、レストアされた零戦52型、飛燕といった戦闘機も展示されていました。零戦ですが、昭和38年(1963年)にグアムから里帰りした機体と思われ、各地で展示された後に航空自衛隊浜松基地で保存され、現在では基地に隣接する浜松広報館(バンバイア練習機の記事で何度か登場しましたが)の天井からつるされていますので、誰でも見学可能です。飛燕については日本に唯一現存する二型であり、戦後米軍に接収されていたものが日本航空協会に譲渡され、航空自衛隊岐阜基地、知覧特攻平和会館を経て、現在はかがみがはら航空宇宙博物館で展示されています。先日「ハートの問題」というシリーズで飛燕の実機写真を紹介しておりますが、まさにあの機体です。
 私の手元にある「ブルーインパルス50年の軌跡」(文林堂)によれば、防衛博初日の10月1日にはブルーインパルスが飛来したという記録が記載されています。この年7月の新潟、前年3月の松山でも防衛博でフライトを行ったという記録があるほか、昭和41年5月に横浜でもフライトを行っており、この時期にドリームランドで開催された防衛博と関連がありそうです。
 さて、としまえんの防衛博、私の手元にこんな関連の品がございます。

 防衛博を記念して西武鉄道が販売した記念乗車券です。乗車券を取り巻いているのは左から時計回りに60式自走無反動砲、61式戦車(ワールドタンクミュージアム)、Nゲージの西武701系(カトー)、三式戦闘機飛燕(ミニクラフト)、零戦52型甲(SWEET)ということで、1/144または1/150の製品です。駅名のキーホルダーは「赤い電車」の製品です(こちらは現代の駅名標ですが)。昔の陸自の装備と言えば日の丸をつけた姿、というイメージがあり、その仕様です。カトーの701系は会場への足と言うイメージで登場していただいたのですが、製品にも「豊島園」の行先表示が入っています。ミニクラフトの飛燕はおそらく昔のクラウンあたりの製品だと思われます。一型なのか二型なのか、甲乙丙丁のサブタイプすらも分かりませんが、ミニクラフト製品はカルトグラフのデカールがおごられています。何かの折に気の迷いからか購入して、そのまま棚の肥やしでありました。現代の食玩等とは比較するのも酷ですが、この企画のために登場いただいた次第です。零戦52型甲のマーキングは浜松で保存されている機体そのものです。そんなわけで我が家のリビングテーブルで防衛博という感じになりました。
 この年には11月上旬に入間基地で第一回国際航空宇宙ショーが開催されました。次にお目にかける写真の左側がその記念乗車券です。

 周囲の飛行機ですがF104J(プラッツ)、F86F、同ブルーインパルス(モノクローム)で、当時の主力戦闘機です。ノーマルのF86Fのマークは入間基地の第9飛行隊のものですが、同隊は航空ショーが開催された前年には解隊されています。
 これらの記念乗車券ですが、券面には私鉄でも「二等」という表記があるのが興味深いです。また、これらの記念乗車券については本ブログにたびたび登場する沿線在住ベテランモデラー氏のご厚意でいただいたものです。この場を借りて御礼申し上げます。
 
 さて、今年に入ってから東急東横店の閉店、としまえんの閉園、さらには9月末には新宿のメトロ食堂街やメトロプロムナードの閉店も予定されています。私が子供の頃から当たり前にあった東京の風景が次々と姿を消していくのは、やはり寂しいものがあります。
 

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「待つ」ということ

2020年09月22日 | 日記
 私のブログもおかげさまで丸2年が経ちました。この1年は公私ともに忘れることができないことがあり、世の中も思いもよらない事態に見舞われています。こういう状況ですが、これからも皆様の模型工作の合間の息抜きに、テレビや現地での自動車レース観戦の合間に、私のブログを読んでいただけたら幸いです。また「このブログに出ている作例より上手なものをいっちょ作ってみるか」という方や私の記事をヒントにしていただくのも歓迎です。
 さて、この週末、フランスでル・マン24時間レースが開催され、トヨタに乗る中嶋一貴選手組の8号車が優勝を飾りました。トヨタと中嶋選手、三連覇ということでおめでとうございます。F1のウイリアムズ・トヨタ時代のイメージがあって若いと思っていましたが、35歳ということで父君がF1にいたときの年齢になっていたのですね。もう一人のトヨタのエース、小林可夢偉選手はトラブルもあって3位ということで、ル・マンではなかなか勝利の女神が微笑んでくれないようです。フランスでは夏至の時期に行われるル・マンと7月の風物詩である自転車レースの「ツール・ド・フランス」を9月の同じ時期に開催しており、今年を象徴しているかのようです。さすがに9月のレースとなるとル・マンも昼の時間が短くなるためいつもより暗い時間帯の走行が多かった感があります。

 少々枕が長くなりましたが、今日は旅にまつわる話です。高校、大学と鉄道研究会に籍を置いていたものですから、私も日本各地をずいぶんと旅行しました。高校までは「青春18きっぷ」を、大学、さらには社会人になってからは周遊券やフリーきっぷを使って北海道から九州までという感じで鉄道旅行を楽しみました。仲間と一緒だったり、単独行動だったりさまざまでしたが、あの頃出会った風景や列車、駅の様子は忘れられないものばかりです。特に学生のときはお金はなくとも時間だけはたくさんありましたから、鈍行を乗り継いだり、夜行の普通列車、夜行急行などのお世話になったものです。
 どんなにプランを上手に立てても接続が悪い路線もありますし、夜行列車の発車時刻の関係もあって、駅で2時間待ち、3時間待ちということもありました。昼間は観光あるいはローカル線の乗りつぶし、はたまた地方私鉄の撮影を済ませて、あとは夜行に乗って一夜の宿代わり、という経験をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。
 まだ昭和の終わりから平成になろうとしていたころ、大きな駅では長距離に対応した黄色や青色の公衆電話がずらりと並び、その上には国内主要都市への主な通話料金が入った地図がかかっていました。今ならメール一通、あるいはラインで済むでしょうが、夜行列車が入線する前に小銭の残りを気にしつつ、実家に無事を知らせる電話をしたものです。全国でテレホンカードが使えるのは、もう少し後でした。大きな駅なら人の往来を見る余裕もありますが、小さな駅で夜汽車を一人で待つというのはやはり寂しくなるというか居心地がなんとなく悪くなり、待合室が室温より低く感じられたものです。
 列車を待つ間は文庫本を開いたり、時刻表でまだ見ぬ土地への旅の想像をふくらませたり、ウォークマンで音楽を聴いたりといったことから、土地勘のある同行者と街でご飯を食べたり、駅前の商店で買い物したり、列車が入ってこない無人のホームを友人と全力疾走したり(相当おバカですね)、今思えば相当恥ずかしいこともしていたように思います。また、今でこそ都会的なフュージョン好きな顔をしていますが、高校から大学にかけてサイモンとガーファンクルにはまった時期があり、彼らの歌を聴きながら旅をする自分、に酔っておりました。みうらじゅん氏言うところの「青春ノイローゼ」だったわけです。列車を待ちながら聴くのは「スカボロー・フェア」、「早く家に帰りたい」(本当は帰りたいなんて気持ちは微塵もないけど)や「アメリカ」だったりしまして・・・。

 社会に出てしばらくして、海外に出かけるようになりますと、汽車旅でも時間に余裕を持ちたくて早く駅に入って待つことが習慣になっています。荷物を盗まれないようにとか、とかく用心深くなりますが、待合室で旅の日記をつけたりするのも悪くないものです。待合室にディーゼル特急の大型模型があったローマ・テルミニ、小腹を満たすために買ったカフェオレとパン・オ・ショコラが美味しかったパリなど、お国柄が出ていました。空の旅では飛行機の乗り継ぎや出発にだいぶ待ち時間が生じたりする経験をしています。緊張しながら自分が乗る便のゲートで待つことも多いのですが、明け方のパリで乗り継ぎのために無人のターミナルを延々と歩き、日本人がいるとお互い心強くなって一緒に目的のターミナルまで歩き、旅の無事を祈ってそれぞれの目的地のゲートに向かったこともありました。また、パリでは夜が明けてようやく開いた売店で買ったクロワッサンがことのほか美味しかったのも思い出です。夜、帰りの乗り継ぎ便を待つ間、英字誌を買って苦手な英語で時間をつぶしたこともあります。給油で降りたモスクワの空港もいろんな意味で忘れがたいな。一度機外に出て再搭乗までは待つというほどではなかったけど、あの数十分でロシアという国の一端を垣間見た感じたがしたなあ。仕事で訪れた東南アジアでは売店の様相が日本や欧州と全く違っていて、怪しげなお土産物屋があったり、コーヒースタンドのコーヒーが期待していた以上の味だったり、それもまた、それぞれの国や地域を特色づけているように感じています。

 今ではなかなか旅に出ることもかなわず、ましてや海外に自由に行けるのはいつの日だろうか、という状況です。あの「待つ」という時間すら今ではいとおしく思うほどです。
 でも、この日々が次の旅の列車や飛行機に乗るためのちょっと長い待ち時間と思って過ごせば、などとも思うのです。そう、夜のとばりが降りた待合室で夜汽車を待っていたあの日のように。



 
 
 


 

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百里基地 夏の思い出 平成4年編 その2

2020年09月16日 | 飛行機・飛行機の模型
 さて前回は戦闘機の写真が中心でしたが、今回はそれ以外の様子をお伝えします。
 8月の終わりとは言え、この年も残暑が厳しいものでした。航空祭のときほどではないにしても、冷たい飲み物なども売っていたように記憶していますので、スポーツドリンクに随分とお世話になりました。エプロン地区でF15を追いかけていたこともあり、昼は暑さから逃げるように格納庫に入りました。
 格納庫内では救難ヘリのバートルに積む各種機材が展示されておりました。


山岳から海上、水上までカバーする救難業務の過酷さがうかがえる装備類です。

バートルとMU-2Sです。


バートルがエンジンの整備を受ける様子です。

その後も退役するまでバートルのことは追いかけました。そのあたりの写真はいずれまた。

連絡機のT-33Aです。

この頃にはいよいよT-4の配備も始まっており、T-33の後ろに映っています。このT-33、206号機ということで日本でノックダウン生産された最初のグループの一機です。前回のF4EJ、F15Jもそうでしたが、偶然とは思いますが比較的若い番号の機体がエプロン地区で展示されていました。
こちらもT-33です。


さて、チビッ子・ヤング大会ですが「ヤング」のためのリクルーティングの意味もあってか、パイロットや整備士以外のさまざまな職種の方々が格納庫内などで自身の職務の内容を説明する機会を設けていたように覚えています。四六時中飛行機が飛んでいるわけではありませんので、フライトが無い時間にこういった説明を聞き、自衛隊にはさまざまな職種の隊員が働いているのだなあという思いを再認識しました。
 中にはとても面白く話を聞かせてくださる隊員さんもいて、私を含め数名の「若者」も熱心に聴きました。私たちが社会人と知ると心底残念がっていましたが、それでも「もう使わないから」とお土産をいろいろいただきました。まあ、あの頃の現場は今と違ってそのあたりがうるさくなかったのでしょう。
 そんなわけで基地で一日楽しんだのですが、基地から最寄りの駅に向かうシャトルバスが既に終わってしまい、私を含め3人が取り残されました。私以外の2人は当時はとても珍しい女性ファンで、彼女たちの方が百里基地周辺の事情に通じておりました。「基地から30分くらい歩けば食品スーパーがあるのでそこから電話をかけてタクシーを呼びましょう」ということで、私もその話に乗りました。スーパーがあるのは往路で見て知っていましたので、確かに歩けそうな距離です。
 聞けば彼女たちは私と同年齢で、ファントム好きということでした。同年齢で同じ趣味を持つ人間同士なので話しながら歩いていくと、10分もしないうちに流しているタクシーを捕まえることができました。
 タクシーの運転手さん曰く、毎年バスに間に合わない人が必ずいるからね、ということで、思いがけず涼しい車内で常陸小川駅まで向かうことになりました。運転手さんも話好きな方で「女性はファントム目当ての人が多くて、男性はイーグル目当ての人が多いんだよな」と言われ、私たちのことを言われているようでした。この翌年には第305飛行隊がF15Jに機種改編することが既に決まっていたと思うのですが、運転手さんも「ファントムのファンは(当時部隊があった)九州まで見に行くのかなあ」と言ってました。
 無事に常陸小川に着き、石岡まで鹿島鉄道に乗り、石岡から上野まで彼女たちと一緒でした。20代前半の若者たちとはいえさすがに疲れたのか、常磐線の車内ではみな口数も少なくなっていました。
 あれから30年近く経ち、ファントムもいよいよ・・・ということで、あの日の彼女たちを含め、ファントムを追いかけていた人たちはどのような感慨を持っているのでしょうか。ファントムは今でも模型が発売されれば人気ですし、最近もファインモールドから1/72で空自のファントムのキットのリリースの話があり、話題になっております。すでにハセガワ、フジミなどで上面ガルグレー、下面白のファントムを何機か作っておりますが、今の技術で再現されたキットを私もぜひ作ってみたいと思っております。遠い将来に「今日の新鋭機」であるF35が退役するときには、こんな騒ぎになるのだろうか、と私もファントムの引退にはやはり特別な感慨を持っているのです。

 なお、翌年は第305飛行隊がF15Jに改編される直前に航空祭を開催したので、初夏に百里基地に行きました。その後「チビッ子・ヤング大会」が開催されたかどうかは定かではありません。百里基地は航空祭ともなると周辺道路の渋滞が相当なもので、往路、復路の時間を合計すると現地滞在の時間を上回るような状態になっていました。近年では鹿島鉄道の廃止もあって関東にありながらますますアクセスが難しいと感じられ、足を運ぶ機会も減っております。


航空自衛隊のファントムの部隊マークは秀逸なものが多く、第305飛行隊のそれはF1,F2の第6飛行隊のマークと並んで特に好きなものの一つです(右側のパッチは最近買ったものなのでF15になってからですが)。ファントムに関しては部隊マークにまつわるグッズも写真のタイクリップをはじめとしてずいぶん買いました。
 


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百里基地 夏の思い出 平成4年編1

2020年09月12日 | 飛行機・飛行機の模型
 2020年のモンツァサーキットから平成初期の百里基地に戻ってまいりました。平成2年の百里基地で開催された「チビッ子・ヤング大会」の写真を掲載しましたが、翌年は秋に航空祭がありました。そしてその翌年の平成4(1992)年、やはり夏の終わりに「チビッ子・ヤング大会」が開催され、夏休みを取って行ってきました。私の勤務先は一斉に夏休みを取ることがないので、夏の終わりの平日に一日休みを取ることができたのです。
 百里基地も何度も訪れている場所となりましたので、だいぶ勝手がつかめてきました。

エプロンに並ぶF15J。まさに列線という感じです。
今回もイーグルの写真が多めです。ファントムのファンの方、すみません。
戦闘機、偵察機の顔ぶれは二年前と大きく変わりありません。第204飛行隊のF15J、第305飛行隊のF4EJ、第501飛行隊のRF4Eです。




F15Jについては訓練で発進するまでの様子や、着陸してからパイロットが降り、整備を受ける様子などをカメラに収めました。

通常の訓練飛行では、支援車輛や整備員が機体の周りに集まりはじめてから実際にエンジンが始動して、発進するまでだいぶ時間がかかります。隊員がどんな動作をしているのかなど、ジオラマで再現するには面白い題材です。特にF15の場合、スピードブレーキが上向きに立ち上がったり、インテーク(空気取り入れ口)が下を向いたりと、動的な面白さもあります。じっくり見る機会も少ないので、暑い中、またエンジンの音も響きますが、カメラをずっと向けていました。

この写真、よく見ると右後ろに飛行点検隊のYS11が写っています。
エンジン音が響く中カメラを向けていたので、しばらく耳に「キーン」という音が残っていました。



パイロットのスーツがまだこの頃はオレンジ色でした。
フライトの写真です。F15Jは4機編隊で航過するなど、航空祭の時ほどではありませんが、楽しませてくれました。


ファントムについてはフライトの写真を探したのですが、掲載できるのがこれくらいでした。

今回は写真多めでお伝えしました。次回は後編として戦闘機以外の機体を中心にご紹介します。


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