工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

ハートの問題

2020年07月26日 | 飛行機・飛行機の模型
 そんなタイトルのイタリア映画が以前ありました。心臓発作で同じ時に病院に搬送された二人の男の心の交流を描いた物語でしたが、今日から何回かに分けてお届けする記事は飛行機のハート(心臓)=エンジンにまつわる話です。
 日独伊の三機の戦闘機が並んでいます。

 このブログの読者ならばこれらの機体の名称と、それぞれに共通する特徴をご存知の方も多いでしょう。メッサーシュミットBf109E-3、三式戦闘機「飛燕」一型丁、マッキMC202戦闘機で、これらはみな、ダイムラー・ベンツDB601エンジンとそのライセンス生産されたエンジンを積んだ、いわば同じハートを持った機体です。日独伊の枢軸国三国が、それぞれ共通するエンジンを運用していたわけですが、それぞれに物語があったわけです。久々にテーマを決めて何か作ってみようと思い、年明けの2月くらいから春にかけて作っていたのがこれらの機体です。あちこち寄り道しておりましたので、ご紹介するのが夏になってからとなりました。なお、キットはBf109E-3と飛燕がタミヤ、マッキMC202はハセガワで、いずれも1/72です。
 実は今までほとんどご縁が無かったのがドイツ機でした。私自身日の丸のついた機体を作ることがほとんどで、たまに米軍機、イギリス機、イタリア機あたりを組むのですが、日本でもファンの多い第二次大戦のドイツ機を組んだことがほとんどなく、Bf109は今回が初めてでございます。プラモデルと40年つきあってメッサーを初めて作るなんて!と驚かれている方もいらっしゃると思いますが、私も新鮮な気持ちで組むことができました。


 Bf109については資料も数多くありますし、実機の解説は他にお任せしますが、このE-3については第二次大戦初期に主力だった機体で、バトル・オブ・ブリテンにも投入されています。航続距離の短さが仇となって航空優勢を取れず・・・という話は有名です。
 今回、複数のメーカーのキットを組んで感じましたが、最近(少なくとも1990年代以降)のキットですのでどれも組みやすく、大きな破綻もないのですが、タミヤの大戦機については組みやすいだけでなく、説明書も分かりやすく、かなり親切にできています。順序よく進めていくことでゴール(完成)まで導いてくれるような感じがしました。飛行機を組むことはめったに無いけど、有名な機体だから作ってみるかという方や、出戻りモデラーで飛行機のプラモデルは久しぶり、という方でも迷わず作れるのではないかという気がしました。もちろん、組みやすいキットですからディティールアップをしたい、とかジオラマを作りたい、という方にとっても好適かと思います。
 塗装とマーキングですが、塗り分けが直線的で簡単なアドルフ・ガーランドの乗機としました。タミヤカラーの塗装指示をMr.カラーのそれに置き換えてエアブラシで塗装しました。後はファレホのグレー系の塗料で軽く墨入れをした程度です。
 出来上がった機体を見ると「Bf109って意外に小さいな」という印象を持ちました。零式艦上戦闘機をはじめ「日本機は狭くて小さい」という刷り込みのようなものが昔からあり、日本機は小さく、欧米の機体は大きいという先入観を持っていました。このため、Bf109については「あれっ、日本機よりもっとコンパクトな飛行機だ」と思ったわけです。ただ、スマートなラインと角ばった風防はまさにドイツ機であり、それを立体で確認できるのがまた、模型の素晴らしいところです。
 
 今回はBf109E-3にとどまらず、余勢を駆って(?)Bf109F-4も作ってみました。こちらはファインモールド1/72のキットです。

そのまま組んでデカールを貼れば「アフリカの星」マルセイユ大尉の機体になるのですが、あまのじゃくな私はマルタ島攻防戦の機体にしたくて、XTRADECAL X72-162マルタ島攻防戦・枢軸側の機体の別売りデカールを使いました。1942年3月、シチリア島に展開した機体だそうです。このキット、ファインモールドさんらしく説明書も丁寧で、アフリカ戦線と絡めて実機解説もされていますし、どこまで組み立てを進めたら機体全体の塗装をするか、といったガイドもされています。また、このキットのいいところはエンジンカバーを外すことができることで、改良されたDB601エンジンや機銃も再現されています。

 オーバーにならない程度にウェザリングを施しています。

 大きな苦労をすることなく、もう一つのBf109ができました。


 本ブログでも以前ご紹介したモデルアートの元ライター・故黒須吉人さんは、ほとんどドイツ機と縁がなかったそうで(確かに米軍機、日本機、共産圏の機体、ヘリコプターといった作例が多かったように記憶しています)、生前所属されていた同人がその年はドイツ機をテーマにして作品展に出展したことで「こんな機会でもなければ自分からドイツ機を作ることは無いと思う」といった趣旨のコメントを作品に寄せていました。偉大なモデラーと比べることなど失礼もいいところですし、このブログは非常に個人的なものではありますが、私もブログという場が無かったらこういった機体を優先的に作ることは無かったかもしれません。
 同じ系統のエンジンを積んだ飛行機の話、まだ続きます。




 
 
 

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スポーツの日ですが・・・

2020年07月24日 | ときどき音楽
 今日は本来なら近代オリンピック東京大会の開会式、ということで、どんな演出になるだろうとか、誰が最終点火者になるだろうとか、あれこれ思いをめぐらせていたところでしょうが、大会も一年後に延期になりましたし、当初の形通り開けるのか、という心配もあります。いろいろご意見はあるでしょうが、ホストシティの長年の住民としては、ここまで準備したからやってほしい、という思いはあります。もし、コロナウイルス禍が無く、オリンピックが開催されていたら、秋葉原あたりは大変な混雑で、仕事帰りに本屋さんや模型屋さんに行くのも一苦労でしたし、テレビは朝から晩まで五輪一色で、選手の誰それが好きな食べ物だとか、競技と関係ない話題も含めて賑やかなことになっていたでしょう。私などは五輪についてはナショナリズムはともかく、凄い肉体を持った人たちの博覧会と捉えていますので、その中で日本選手が活躍したらもちろん嬉しいわけですが、誰それ選手の好物がどうの、とかよりも競技を一つでも見たい、という思いが強いので、テレビの前で「馬術を見せろ~」とか「陸上の3000m障害が観たい」と言っていたと思います。

 いつまでかなわなかったifを言っても仕方ないですね。この四連休ですが、昨日は本稿で何度も取り上げているT-SQUAREのライブ配信がありまして、私もPCの前に座って観ておりました。会場のZepp東京は私も何度も足を運んだところですが、無人の客席はなんとも言えない寂しいものでございます。メンバーはステージの上で円を描くように並び、本来客席のある空間に対して背を向けるメンバーもいるという、無観客ライブらしいつくりでした。今年発売のアルバムの楽曲が中心ではありましたが、いつものあの曲もキーボードが2名になったことでソロ回しがいつもと違っていたり、楽しいライブとなりました。無観客生配信というのはグループとしては初めてなので緊張している様子も伝わってきましたが、キーボードやドラムを真上から映す、というのは録画した作品ならともかく、席が決まっていて視線は常に一方になってしまうコンサート会場では難しいので、普段見られないアングルを生で観られるいい機会でした。きっと昨夜は、PC、スマホ、あるいはテレビにつないだ大画面の前で、拳を振ったり、人差し指を高くつき上げた方がたくさんいらっしゃったのではないかと思います。

 今日はスポーツの日、ということで、スポーツと音楽で私が印象に残っている話もいくつか。五輪と音楽、と言いますと私は1984(昭和59)年のロサンゼルス大会が忘れられません。ファンファーレや行進曲を「スター・ウォーズ」や「レイダース」で知られるあのジョン・ウィリアムスが手がけていました。高揚感のある曲は祝祭としての五輪にぴったりで、共産圏の不参加や、後々まで続く商業五輪といった話題に事欠かない大会ではありましたが、西海岸の夏の青空や、独特の中間色で飾られた競技会場などともに、アメリカらしい華やかな五輪の記憶として残っています。
 この大会に関係する楽曲として、「マシュケナダ」の大ヒットで知られるブラジル出身のセルジオ・メンデスが「オリンピア」という曲を発表しています(アルバム「Confetti」に収載)。日本でもCM曲に使われたりした曲ですが、歌詞もさまざまな困難や苦労を乗り越えて、世界中から集まったアスリートの勇気と名誉を称えたい、といった内容で、五輪の季節になると(現在では2年に一度、夏か冬のどちらかの大会がやってきますね)聴きたくなる一曲です。セルジオ・メンデスはアルバムのプロデューサー的な役割で、この曲でもバックでキーボードを弾き、コーラスに参加(小室哲哉スタイルですね)という形を取っていますが、とてもエネルギーを感じる曲ではあります。
 また、この大会から8年後のバルセロナ五輪のテーマ曲としてクイーンのフレディ・マーキュリーとソプラノ歌手のモンセラート・カバリエによる「バルセロナ」が発表されています。フレディの声をさらに上回るかのようなモンセラート・カバリエの歌唱が耳に残っています。フレディ・マーキュリーは大会の前年に亡くなり、本番では三大テノールの一人、ホセ・カレーラスが歌っています。この大会の開会式では坂本龍一が音楽監督を務め、アメリカ的な華やかさとは違った開会式だったことも印象に残っています。

 さきほど紹介したT-SQUAREもスポーツ中継との関わりが深く、ご存知のとおり「TRUTH」がフジテレビのF1中継で有名になったことで、これが代表曲となりました。しかしこの曲については当初のアルバム収載曲のイメージとは違う曲をもう一曲作って、というプロデューサーの意向で一日で作曲したという曲でもあります。その曲がアルバムタイトルとなり、バンドを代表するナンバーになるのですから、不思議なものです。そんなアルバム「TRUTH」ですが他にもいい曲が多く、ラストのバラード「TWILIGHT IN UPPER WEST」といった名曲もあります。
 T-SQUAREはF1中継の挿入曲なども含め、スポーツと関りが深く、一つ一つ取り上げたらきりがないほどですが、2002(平成14)年のサッカーW杯日韓大会でも、日韓のアーチストが集結した公式アルバムの「日本側の11曲」のラストに「United Soul」という曲を収めています(彼らのアルバム「New road Old Way」にも収載)。緩急をつけたサッカーの動きをイメージしたような楽曲で、個人的にはとても好きなのですが、ライブではあまり聴いた記憶がありません。他にも「Glorious Road」(アルバム「Spirits」に収載)のようなファンファーレで始まって祝祭感のある(表彰式で流したら似合いそうな)曲もあります。

 いろいろあてどなく書いてまいりましたが、1年延期で辛い思いをされているのは誰よりもアスリートたちでしょう。今夜は彼らに思いを馳せながら、朝ドラの主人公のモデルとなった古関裕而が編曲して今のスタイルとなったとされる「オリンピック賛歌」とセルジオ・メンデスの「オリンピア」を聴きたいと思います。

 


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RM MODELS誌 25周年・300号

2020年07月23日 | 鉄道・鉄道模型
 鉄道模型誌のRM MODELS誌(本稿では「モデルズ誌」と略)が今月発売の号で300号、25周年を迎えました。このたびは、誠におめでとうございます。
 25年前、母体となったレイル・マガジン誌から模型の内容を独立させた新雑誌が発売されると聞いたときは少し驚きました。鉄道模型専門誌の「とれいん」誌が1990年代から実物の記事の比率を高めていましたし、「老舗」の鉄道模型趣味(TMS)誌も社主の山崎喜陽氏の「実質的な不在」で元気が無かったころであり、そんなときに模型だけで雑誌が作れるのかな、と疑問に思った記憶があります。
 そんな中、手にした創刊号でしたが、今号の巻頭にも再掲されていますが「作らなければならない」、「買わなければならない」の「ねばならない」から自由になって、もう一度鉄道模型本来の楽しさを取り戻そう、という創刊のあいさつに私もヤラレタ一人でして、以降、モデルズ誌は他の雑誌と共に愛読することになりました。また、私の腕では「参加賞」のようなものではありますが、私が本名名義で製作した模型を掲載させていただいており、拙作を発表する機会を与えてくださったことにも、大変感謝しています。
 さて、この300号では各メーカーやライバル誌などから祝辞や挨拶が寄せられていることも驚きでした。昔は「お宅の雑誌には広告は載せない」とか「誰それは生意気だ、あいつの雑誌は絶対買わない、うちの店では置かない」とか「お宅の取材は受けない」みたいな話もあったと聞いております。非公式な場ではともかく、月刊誌という公式な場で祝辞を読むというのは業界のパーティー(があるかどうかは知りませんが)に招かれて、グラス片手に皆様のあいさつを拝聴している気分でした。
 もっとも、創刊当時の編集長で現在はTMS誌の編集長を務めている名取紀之氏のご挨拶にあるとおり、わが国では平成9年をピークに雑誌の売り上げが減少傾向ということで、モデルス誌もそんな厳しい時代を生き残ってきたわけで、それは他の雑誌とて同じことでしょう。ネットなど、さまざまなメディアがある今の世の中ではありますが、広く紹介するメディアがなければメーカーも困るわけで、月刊誌の記念号をみんなでお祝いしている姿は、この世界でそれぞれが強みを発揮して共存を図ろうとしているかのようにも映ります。
 ゆるい話ばかりのいつものブログから少しそれてしまいましたね。今号ではいつもほどではありませんが、工作記事なども載っています。先日私もご紹介しましたが、カトーの「セドリック」と「パルサー」も「モデルズ陸運局」で私の工作よりもっと丁寧に、かつ美しく作りこまれた加工例が掲載されていました。
 モデルズ誌はこれまで、節目の号に付録をつけるなど、他誌にはない試みをしてきました。今回は残念ながらそういった記念企画は無いのですが、
100号では「17m級旧国Nゲージプラキット」を、10周年のタイミングでは「丸の内線300形・500形Nゲージプラキット」という付録がありました。
 私もこのキットで遊ばさせていただきました。前者は国鉄から西武鉄道あたりを経て地方私鉄に転じた、という感じの架空の地方私鉄の車輛です。


ヘッドライトが傾いていますし、妻面を無理に加工したので、直角が出ておりません。やれやれ。
 丸の内線は仕事で乗ったりもしましたので思い入れがあり、窓も大きいので人形をたくさん入れています。


先頭車を中間車にした車輛は運転室の仕切りを作っています。車端部に押しこまれるようにして若い力士が浴衣姿で立っていた、という話を聞いたことがあり、それを再現しました。

車体色の赤色は専用の塗料も出ていたのですが、結局Mrカラー327番を塗っています。余談ですがこの赤い車体色はイギリスのたばこ「ベンソンアンドヘッジスの缶の色」から採られたと言われていますが、同ブランドのカラーは金色であり、正確には缶のトップの色が赤だったことに由来します。

 拙作の話ではなく、モデルズ誌の方に話を戻しましょう。新型コロナで1号休刊、という思わぬ事態にも遭いましたが、こうして雑誌が25年続くということは、やはり大変なことと思います。毎月新発売される模型の量も景気に関係なく一定量ありますので、編集部の方々におかれましてはその紹介や特集記事の編集など、ご苦労も多いかと思います。ただ、編集される側もまた、モデラーとして誌面で発信していくことができれば、その雑誌が何を目指しているのか、何を読者に訴えているのかがもっと明確になるかと思います。1980年代後半の「とれいん」誌などはエディターがまた、それぞれの分野に長けたモデラーでもありましたので、そこから生み出される誌面は個性的で、当時10代後半だった私に多大な影響を与えたものです。モデルズ誌はモデラーと作る雑誌を標ぼうされていますし、宮下洋一氏をはじめ、我が国を代表するモデラーが活躍されていますので、質の高い誌面をこれからも期待できることとは思いますが、エディターの思いも垣間見える雑誌が読みたい、というのは贅沢な希望でしょうか。
 勝手なことをあれこれ書いてしまいましたね。私も創刊の巻頭言を久々に読み、「ねばならない」から自由になりたい、と改めて思うのでありましたが、そのあたりは25年間あまり変わっていないようです。

(本稿は令和2年7月31日に一部加筆、修正しました。RM MODELS誌の略称は、公式な呼称に合わせて「モデルズ誌」と訂正しています)
 
 

 

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飛行機名画座 ニュー・シネマ・パラダイスとDC-9

2020年07月19日 | 飛行機・飛行機の模型
 先日亡くなったエンニオ・モリコーネ氏の話を前回のブログで書きましたが、氏の手掛けた映画音楽の中でもニュー・シネマ・パラダイスは日本でも大変人気があります。  
私もあの作品は映画館、テレビで何度も観ているのですが、そこに出てくる飛行機の話です。あの映画に飛行機なんて出てきたっけ、と思われる方もいらっしゃるかと思います。主人公トトが父親代わりだった映写技師アルフレードの葬儀に参列するため、30年ぶりに故郷シチリアに帰る場面がありますが、そこで飛行機を使っています。シチリアを離れるときは汽車でしたが、ローマで成功を収め、帰郷のときには旅客機に乗っているわけです。  
 さて、そこに出てくる旅客機ですが、見慣れない塗装をしたDC-9なのです。



こちらのDC-9、アエルメディティラネア(Aermediterranea=地中海航空、といった意味でしょうかね)という会社の機体ですが、尾翼の塗り分けを見ると分かるように、アリタリアの子会社です。




元はイタビア航空と言う民間航空会社の機材等を引き継いで1981年に発足した会社で、1985年にはやはりアリタリアの子会社で国内線を主に運行していたATI(Aero Trasporti Italiani)に吸収されています。そのため、この塗装も数年間しか見られなかった、と言いたいところですが、ATIに統合後もAermediterraneaのロゴの隣にATIのロゴをつけて運行していたようで、映画でもその塗装を確認することができます。
 私が作ったキットはエアフィックス1/144で、4年ほど前に製作したものです。デカールはイギリスの26デカールというメーカーのものを使用しています。こちらはレーザープリンターのデカールで、カラフルな帯、窓などもセットされていますが、帯は直線的な塗りわけがほとんどのため塗装とし、窓も他のメーカーから出ていたシルクスクリーンのものを使用したため、実際にこのメーカーのデカールを使用したのは航空会社のロゴ、登録記号、エンジンポッドのDC-9の文字となります。
 テレビでこの映画を観た際にワンカットだけ写った機体に「面白い塗装だな」と興味を持ち、デカールを探してみたらイギリスのサイトに行きついて、早速注文をした、というわけですが、さすがに登録記号だけは確認することができませんでしたし、ATIのマークも製品がありません。ということで作例はAermediterraneaのオリジナルとなったわけです。この機体のためにわざわざ録画したものを再生してコマ送りして見るわけですから、モデラーというのは面倒なことをする生き物なのです。
 ATIは緑を基調としたアリタリアの塗装と異なり、青を基調としていましたが塗り分けなどはアリタリアと類似しており、私も「青い方のアリタリア」と勝手に呼んでいました。1994年にアリタリアと統合しています。アリタリアもATIもDC-9、その後継のMD-80系列の機体を多数運行させていました。私もヨーロッパ内の移動やイタリアの国内線で幾度か利用しています。そんなわけでアリタリアのDC-9も組んでみました。

 こちらもエアフィックス1/144のキットを組んで塗装しています。デカールは同じく26デカールのものを使用しました。前の扉の内部やタラップは自作しています。古いキットですが、丁寧に作れば私程度の腕でもそこそこ見られるものができます。客扉、カーゴ用の扉も開けた状態で作れますので、空港のジオラマを再現したいモデラーにも好適です。エアフィックス1/144のキットは何年か前に737-200や727-200が再販されましたが、DC-9は再販されませんでした。カラベルやBAC1-11などとともに再販を期待しています。
 映画の話を少ししますが、ジュゼッペ・トルナトーレ監督は本作が長編2作目、弱冠32歳だったとのことで、脚本も書いているのですが、主人公トトとアルフレードの心の交流だけでなく、年老いた母親が子供を思う気持ちなど、あの若さで人生の機微を描き出しているあたりは、やはりすごい監督だなあと思いました。また、個人的なことになりますが、成功を収めて久々に帰郷した主人公に村の人々が恭しく接する場面が出てくるのですが「なぜそんなに丁寧な言葉を使うのですか?」と主人公が言うセリフをイタリア語で聴きとれるようになったときは、イタリア語を勉強していて良かった、と思ったものです(この場面を見ると、中国の作家・魯迅が書いた「故郷」という小説の中で、役人として成功して故郷に帰ってきた主人公に幼なじみの貧しい農民が恭しく接するくだりを思い出しますが)。この映画を初めて見たのは都内の名画座で、小さな劇場でしたから映画に出てくるパラダイス座のようでありました。もっとも、昭和30年代の都内では私鉄の急行が通過するような規模の小さな駅の駅前にも映画館があり、娯楽を提供する大切な場所だったことを両親から聞かされたことがあります。このあたりはいずこも同じだったということでしょう。
 
 今回はあまり作ることがない旅客機のキットを紹介しました。旅客機を専門とされるモデラーの方々からしましたら、拙い作例と思われるでしょうが、個人的な思い出や思いを再現するのもまた、模型の愉しみでありまして、なにとぞご容赦ください。
(本稿は令和2年7月23日に加筆しました)


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エンニオ・モリコーネ氏を悼んで

2020年07月08日 | ときどき音楽
 イタリアの作曲家として映画音楽をはじめとして幅広く活躍されたエンニオ・モリコーネ氏が亡くなりました。91歳だったそうです。心からお悔やみ申し上げます。日本でも新聞の社会面に訃報が掲載されていましたが、本国イタリアでも「天才音楽家、私たちの世紀のマエストロ」と称され、各界から追悼の言葉が寄せられているほか、彼の地のニュースサイトでは追悼記事が今日の時点でも特集されています。
 日本では「ニューシネマ・パラダイス」をはじめとした作品で知られている作曲家ですが、数十年にわたるキャリアの中で500作の映画音楽(本人は謙遜してか450と言っています)に関わったともいわれ、映画のみならずドラマや政党の選挙キャンペーン(しかも自身の支持政党とは違うようです)曲など、数多くの作品を遺しました。普段は音楽というとフュージョンの話がメインということで、偉大な映画音楽の作曲家の名前が出てきて驚かれているかもしれませんが、おつきあいください。
 私がエンニオ・モリコーネという名前を知ったのは10代の頃、当時NHKが大型特集番組として「ルーブル美術館」をフランスと共同制作で放送しており、その中でクレジットされていました。「ルーブル美術館」は毎回時代ごとにテーマが作られ、一組の男優と女優が作品を説明したり批評する形で進行するものでした。番組で作品や時代背景を際立たせる音楽を担当していたのがモリコーネ氏でした。番組の進行も美術番組としては斬新でしたし、楽曲も美しく、この番組が西洋美術や古代の芸術に目覚めるきっかけとなりました。また、自分の中でアメリカ的なものからヨーロッパ的なものに嗜好がシフトしていったのもこの頃でしたので、今でも大変印象に残っております。モリコーネ氏の作品を使いたい、と言ったのはフランスの製作サイドで、番組の中で使われたのはそのほとんどが過去の映画作品からの再利用だったのですが、それを感じさせないその場面に合ったものばかりでして、私もサントラ盤も持っておりますし、収載できなかった作品もだいぶ経ってからネットで買い集めました。
 さて、モリコーネ氏の話に戻りますと、キャリアの初期には駐留米兵相手のバンドで演奏していたということで、日本でも同じ世代(モリコーネ氏は日本風に言えば昭和3年生まれにあたります)のミュージシャンが進駐軍のキャンプ回りをしており、さらにその中から俳優に転じた人たちもいたわけで、このあたりは洋の東西を問わなかったようです。若いころには先輩作曲家の「ゴーストライター」をした経験もあり、その作品が映画賞の作曲賞を取ったという複雑な思いをしたこともあったそうです。1960年代後半から70年代にかけては、マカロニウエスタン映画の音楽で名を馳せました。マカロニウエスタンそのものとも言うべき続・夕陽のガンマンのテーマなどは特に有名で私もメロディーだけは昔から知っており、あの曲を作った人物とニューシネマ・パラダイスの作曲家を結びつけるのが難しかったほどです。映画監督のセルジオ・レオーネとは小学校の同級生だったという縁もあって、長く仕事を続けたほか、後年はジュセッペ・トルナトーレ監督と組んだ作品(ニューシネマ・パラダイスだけでなく、海の上のピアニストなど素晴らしい作品がありますね)でも知られました。日本とも縁があり「エーゲ海に捧ぐ」や大河ドラマの音楽を担当したこともありました。
 映画音楽で名を馳せた作曲家ではありますが、モリコーネ氏自身は商業音楽ではなく「絶対音楽」と本人が定義づける、作曲家以外には何者にも依存しない音楽を作りたい、という渇望が常にあったようです。映画のための音楽は当然のことながら監督や製作者の意向に沿ったものを作らなくてはいけません。しかし、こういった「絶対音楽」だけでは食べていけないから映画音楽などの仕事をしてきた、とインタビューに答えています。この記事を読んだときに坂本「教授」龍一氏が「自分がやりたい音楽を聴いてくれるのは日本で数百人しかいないから商業音楽の仕事をするようになった」と語っていたことを思い出しました。自分がやりたいこと=食べていけることではないわけで、その葛藤を抱えながら創作をしているのだな、と感じました。
 本稿は「エンニオ・モリコーネ 自身を語る(エンニオ・モリコーネ、アントニオ・モンダ著 中山エツ子 訳 河出書房新社)」というインタビューを参考に書いておりますが、本書を読む限りではモリコーネ氏自身は非常に控えめな性格という印象を受けました。これだけの成功を収めれば、多少自身を飾ったりする人もいるわけですが、成功を自慢するわけでもなく、控えめな言葉ながら時に率直に自分の作品や関わった映画そのものを語っているのが印象的でした。もちろん、チェスに夢中になったり、サッカーのASローマの熱狂的なサポーターというイタリア人らしい一面も持っているのですが・・・。私のイタリア語の先生の一人が音楽に造詣が深く、私がこの「自身を語る」を読んだという話をしたところ「インタビューの動画を観てみることを勧めるよ。ローマなまりがよく分かるから」と言っていたことを思い出しました。
 私は番組を観てから「いつかルーブルに行きたい」と思うようになり、大学を卒業する前と、30代になってからの二度、訪れることができました。また、イタリアに対する興味が実を結んで、彼の地に足を運び、言葉を学ぶようになったのも、モリコーネ氏の音楽が少しばかり影響していたのかもしれません。いつの日か自由に海外を訪れることができたら、ローマ時代の遺跡やルネサンスの面影を残すの町並み、運河や海を臨む美しい建物を眺めながら、モリコーネ氏の音楽を聴いてみたいものです。
 
 

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