工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

2022年 今年もお世話になりました

2022年12月31日 | 日記
 今年も残りわずか、という書き出しは昨年も同様でございまして、今年は29日までにある程度買い出しもできましたので、今日は午前中に年始に向けた買い物等を済ませて、昼は年越しそばを食べて、おせちの煮物を作った後でT-SQUAREの年末ライブに出向き、帰宅してから「孤独のグルメ」を見つつ午前中に買ってきた新宿の名店のてんぷらをいただき、飲み切りサイズということもあって買うことが多いオルヴィエートの白を賞味し、〆はかき揚げに大根おろしを少々乗せてどんぶりにして、という一日が終わろうとしています。いつも飲んでいるヴェネト州の白が北東北あたりの辛口の日本酒なら、オルヴィエート(ウンブリア州)はたおやかな中にしっかり辛口も味わえる三重県あたりのお酒に近いものを感じます。
 それにしても大晦日の東京、外国人が増えましたね。大晦日の東京で、どのように過ごすのでしょうか。デパートなんて殺気立った買い物客ばかりだし、道路は空いているけどお店のしまいも早いです。残念ですがマナーの悪い方も復活しているようで、休憩がてら入ったいつものカフェにも、さんざんあれにする、これがいい、と迷った挙句、結局何も注文しないで出ていったイギリス人家族とか、マスク越しとは言え声は大きいわスマホで電話するわの東南アジア人のおっさんとか、別にあなたがたのようなマナーのなっていない、イタリア語で言うなら悪い教育を受けたジ〇ガイに来ていただきたいなんて江戸っ子のこちとら一ミリたりとも思ってないんだよ、と言いたいところを我慢してカプチーノを飲んでおりました(あーあ、一年の最後だからという訳ではないけど言っちまったよ)。
 今年は個人的にもいろいろあった一年で、コロナ感染はやはり大きなダメージでした。一時よりは体力も回復しているようですが、精神的にまいってしまったところもありました(何より家族を巻き込んだし)。おまけに模型も買うばかりで完成しなくて困ったものです。これでは「つむどんどん」になってしまうわけで、買っただけのプラモデルを眺めつつ「つむどんどん反省会」を一人でしておりました。
 そんな一年ではありましたが、久しぶりにF1に行けたり、大晦日のライブでは嬉しいサプライズもあったりで、特にライブに関しては一年の最後に嫌なことを忘れさせてくれる特別な時間を過ごすことができました。スクエアの皆様、いつも本当にありがとうございます。年が明けましたらまたライブのレポなども書きたいと思います。
 ブログの方もみなさまにいつもご覧いただき、本当にありがとうございます。来る年もまた皆様に楽しんでいただけるようにと思っております。


 

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年の瀬に別れとか、出会いとか

2022年12月30日 | 日記
 今日も模型とは関係ない話題です。でも私の日々に多少なりとも関係する話なので記録の意味もあって書いています。
 先日、アメリカのカジュアルブランドのひとつ、ランズエンドが日本から撤退しました。以前は新聞で通販の広告も載せていたので、覚えている方もいらっしゃるでしょう。私の場合、平日の昼間は背広にネクタイという格好で、こちらは多少なりとも気を遣うのですが、カジュアルウェアについては比較的無頓着な方です。Tシャツは某バンドのツアーグッズで買っていましたが、ポロシャツやカジュアルのシャツでランズエンドのお世話になることが多かったのです。特にポロシャツは大変カラフルで、美しいブルーを筆頭にティール(エメラルドグリーン)などもお気に入りで愛用しています。また、もともとがヨット関係のグッズから始まった会社ですので、袖の左側を赤に、右側を緑にという船舶(飛行機もですが)の航海灯の色を採り入れたポロシャツなど、船舶関連の小ネタをモチーフにした製品もありました。最後の方はさすがにすくなくなりましたが、刺繍のサービスなどもあって、私も船舶用の国際信号旗と自分のイニシャルを組み合わせたものを入れていただいていました。国際信号旗というのはご存じの方も多いと思いますが、アルファベットや数字を旗で表したもので、日本で一番有名なのは日露戦争のZ旗でしょう。
 最近はゴルフウェアを意識したような製品も多く、個人的におじさんのゴルフウェアはゴルフ場以外で着てはいけない服と思っていますので、ポロシャツ以外は遠のいていました。それでも撤退となりますとファストファッションと差別化をしていた服を着られなくなってしまうわけで、やはり残念であります。一応アメリカ本国のサイトから買い物ができるようですが、この円安ではさすがに・・・というところです。

(いつも届いていたカタログもこれで最終号です)

 それから、こちらは新たな旅たち、というほどではありませんが、いつも愛用しているイタリア発のコーヒーチェーン・セガフレードザネッティの会員カードがアプリに変更になるということで、先日手続きをとってきました。今までのようにカードを見せて割引をしていただくのと違い、スマホを見せてというのにまだ慣れませんが、これも時代の流れということなのでしょう。かれこれ20年くらいの付き合いとなるチェーンで、コーヒーに限らず食事もして、お酒の提供もあってということで長年お世話になっています。私の沿線に長年お店があるものですから、これからも長いお付き合いとなれば、と思っています。

(カードの表面・中央あたりには文字が入っていたのですが、長年の使用で見えなくなってしまいました)

 さて、今年もあと一日です。今年はT-SQUAREの東京での年末ライブが2日間あり、今日も先ほどまで盛り上がってきました。それでは、みなさまも気を付けてお過ごしください。

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クリスマスにタトラのトラムがやってきた

2022年12月24日 | 鉄道・鉄道模型
 クリスマスの時期に我が家にもいくつか車輌がやってきましたが、その中でご紹介するのはこちら。鉄道コレクションの(トミーテック)のプラハトラム タトラT3タイプ2輌セットです。
 こちらの製品。通常の鉄道コレクションとは異なり、動力ユニットも同梱されています。ユーザーはいったん車体を外してから動力をつけるよう指示されています。個体差があるのか車体の取り外しに苦労された方もいらっしゃるようですが、私はスムーズに取り外し、動力ユニットを載せました。パンタグラフも金属製のものがはじめからついていますので、ユーザーの仕事は後はお好みで系統番のシールを貼るくらいでしょうか。
 サイドビューです。

 流線形の独特な車体ですね。

 バスなどと同じで片側のみ乗降扉がついており、反対側に扉はありません。欧州の他の都市と同様、終点でループ線を使って転回するタイプです。


 実物の紹介を少ししましょう。このタトラのトラムカーはチェコスロバキア(当時)のタトラ社で生産されたもので、アメリカのPCCカー(1930年代から開発・製造された高性能車)をライセンスしたものだそうです。PCCカーは世界各地でライセンスされ、日本も含まれていましたが、それぞれの国で特性に合わせた設計、製造がなされています。タトラの車輌はチェコスロバキアだけでなく「東側」と言われた国の多くで使用され、西ドイツをはじめとした西ヨーロッパの市電がデュワグなら、東ヨーロッパはタトラという感じでした。日本から近いところでは平壌の市電でも使われていたようです。タトラは路面電車の生産を一手に引き受けていたわけで、旅客機で言えば旧ソ連のツポレフ、イリューシンみたいなものでしょうか。

 さて、今日はクリスマスイブということで、みなさんの元にもサンタさんが来ている頃かもしれません。NORADのサンタ追跡アプリによれば、23:11頃に我が家の上空をサンタさんが通過していったようです。クリスマスということで、タトラの市電もこちらと共演です。

 後ろの人形、拙ブログでおなじみプレイモービルと思いきや、チェコ版のプレイモービルと呼ばれた「イグラーチェク」という人形です。1970年代にチェコスロバキアで販売されていたそうで、プレイモービルと大きさも同じで、手の形なども似ています。こちらの製品は最近チェコで復刻されたもののようです。

 ちなみにクリスマスツリーはプレイモービルのものを使わせていただきました。
 余談になりますがチェコというと冷戦期からプラモデルはなかなかいいものを作っており、高校生のときにKPというメーカーのMIG15を作った記憶があります。西側1970年代の出来ではありましたが、ちゃんと形になるキットという印象でした。また、子供の頃にNHKで「ゆかいなもぐら」というアニメを放映しており(もぐらのクルテクという名前の方が今では一般的ですね)、素朴な色使いが好きでした。

 では、みなさまも良いクリスマスをお過ごしください。



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激闘の果てに・・・マクラーレンMP4/6ホンダの1991年シーズン

2022年12月23日 | 自動車、モータースポーツ
 当ブログで何度もご紹介しています三栄の「GPCar Story」ですが、10月の日本GPに合わせるかのようにマクラーレンMP4/6ホンダを特集しています。12月には新刊も出ており、またしても古い話になってしまいますが、どうしても本欄でご紹介したく、今回掲載する次第です。相変わらずの遅筆ではありますが、ご寛恕ください。

 結論から言えば、このマシンでアイルトン・セナは二年連続・三度目のドライバーズタイトルを獲得していますし、コンストラクターズタイトルももたらしています。セナは開幕4連勝を挙げ、その中には最後は6速ギアだけで勝ったと言われているブラジルGPもあります。カーナンバー1をつけた(つまり前年のチャンピオン)マシンでタイトルを獲っており、印象深いマシンでもあります。しかし、そこに至るまでの道のりは決して楽なものでは無かったのです。
 このMP4/6というマシン、当時としては珍しくなっていたアルミハニカムをコアにしたオス型成形のカーボンコンポジット構造で作られ、その上にアウターカウルを被せていました。この時代、ほとんどのチームでモノコック本体の表面をボディ外皮とするメス型成形が主流になっており、マクラーレンのマシンは少々かっこ悪く見えたのも否めません。光の当たり方によっては黒にも焦げ茶色にも見えるカーボンむき出しの部分があるマシンが速いのはこの年から12気筒を採用したホンダエンジンとセナのおかげ、という声もありました。このマシンの「当事者」たちのインタビューが載っており、マクラーレン側(車体側)の意見も興味深く読みました。マクラーレン側としては前年までの10気筒エンジンで続けて欲しかったようで、エンジンが大きくなり、燃料タンクの位置も考えてというわけで、設計も含めて苦労が大きかったようです。ジョーダンやティレルのような空力的な特徴がなく、あまりかっこよくないなと思っていたマクラーレンの車体ですが、改めて見ると絞るところを絞っていて、あえて奇をてらわないシンプルさを追求していたのかなと思います。
 ホンダがそれまでの10気筒から12気筒を目指したのは「やるからにはレギュレーションで認められている最大の気筒数の12気筒で」というホンダらしいチャレンジがあったようで、当時の川本社長をはじめとした(もしかしたら当時存命だった本田宗一郎氏も含めた)ホンダの思いというかロマンの産物だったようです。第一期の参戦時も12気筒でしたし、パワー重視の気持ちがどこかにあったのでしょう。ちなみに91年当時、12気筒を採用していたのはフェラーリ、ランボルギーニ、ヤマハ、ポルシェ(残念ながら途中で撤退)といったところであり、珍しくはなかったのです。前年にもライフ(W12というかなり変わったレイアウト)、スバル(水平対向12気筒)といった結果を残せなかったエンジンもありました。
 このシーズン、以前から書いていますがマクラーレンのライバルとしてウイリアムズが追い上げてきます。特に夏の間はマンセル、パトレーゼが「乗れて」いて、ルノーV10エンジン、エイドリアン・ニューウエイデザインのウィリアムズのマシンに比べてもマクラーレンのそれは大きくて、重くて、コーナーでも遅く感じてしまいました。それでも車体を軽くし、エンジンを改良してということで激しいタイトル争いが続きます。ポルトガルでマンセルの交換したばかりのタイヤがピットロードで外れてしまう事件あり、翌スペインではストレートでマンセルとセナが一騎打ち、という有名なシーンありと盛り上がりましたが、日本GPでマンセルがリタイヤしてセナのタイトルが確定しました。
 ホンダも12気筒エンジンに可変空気管システム(可動式のエアファンネル)を採り入れるなど、新機軸を次々に採り入れ、技術者たちの苦闘も相当なものだったようです。私が仕事で出会った某中小企業の方がホンダの協力企業でF1エンジンにも関わっていたということで「あの頃は短納期でいろいろ作らなくてはならず大変だった」と言っていましたので、サーキットや前線基地のあったイギリスだけでなく日本でもまさに「戦い」が繰り広げられていたということでしょう。
 このマシンはラジエーターについてはカルソニックのものを使用していましたし、無線はケンウッドが担当するなど、ジャパンパワーが結集したマシンでもありました。セナが生まれ故郷ブラジルで優勝した際に叫びのような歓喜の声を無線で伝えたのですが、それをブラジルのテレビ局が全世界に流しました。これはチームが提供したのではなく、たまたま傍受したものだったようで、簡単に傍受されない無線を、ということでマクラーレンサイドからケンウッドに依頼があり、聞き取りやすさ、軽量化、傍受を防ぐ仕組みなど、レースならではの苦労もありながら無線のシステムを作ったという話も本書に紹介されています。セナも無線のテストには大変積極的だったということで、シューマッハにしてもそうですが、マシンを速くする、ライバルに勝つためなら細かい事でも妥協しないチャンピオンの姿があったようです。今では無線の内容も隠さずテレビの電波に乗っていますが、これは最近の話であり、昔はどんなことが話されていたは秘密でした。ちなみに私も仕事でケンウッドの無線機(もちろん市販の汎用機)を使ったときはマクラーレンのスタッフになった気分を少しだけ味わったものです(相変わらず単純ですな)。いずれにしても日本のものづくりが世界の最前線にあった頃の話ですね。
 さて、前述のとおりセナは日本GPでタイトルを決め、最後の最後でベルガーに勝利を「譲る」ということまでしています。このレース、1位ベルガー、2位セナ、3位パトレーゼとなりましたが、表彰式後の記者会見でセナは大荒れとなり「今までいかに自分がFISA(国際スポーツ自動車連盟)と会長のJ.M,バレストル氏に虐げられたか」を延々とまくしたてました。1989年にライセンスはく奪の危機もあるなど、大変な思いをしたわけですが、他のドライバー二人も同席する中、思いがいろいろたまっていたのは分かりますが・・・。実は荒れていたのはセナだけではなく、ベルガーはチームに戻ってからロン・デニス監督に「なんで最後の最後で譲るようなことを許したんだ」とばかり長い時間話し合いをしたようですし、パトレーゼはチームメイトがタイトルを獲れなかった悔しさもあって機嫌が悪かったとか。それでもベルガーは本書のインタビューの中でセナと過ごした3年間を「レーシングドライバーとして計り知れない進化を遂げることができた」と言っています。鈴鹿の一件については今も「めんどくせーことしやがって」と言っているあたりはベルガーらしいですね。チャンピオンの隣で過ごしたベルガーのインタビューは特に印象的でした。ちなみに、私の亡母はテレビ中継でセナとベルガーを見分ける際にヘルメットの色やカーナンバーではなく、コーナリングのトレースから判断していました。特に鈴鹿のスプーンカーブでは「セナは一筆書きでコーナーを通過していくけど、ベルガーはカクカクしながら曲がっていく」と言っており、その目の確かさには驚かされたのも思い出です。
 このマシンについては翌1992年の序盤2戦も投入されますが、その時にはウィリアムズ・ルノーのハイテクマシンFW14Bの前に完敗しました。1991年のタイトル獲得のために労力をつぎ込んで翌シーズンの準備が十分にできなかったからでは、という指摘もうなずけます。ちょうど今年、2022シーズンにメルセデスが苦戦したのも2021年シーズンにレッドブルと最終戦まで争ったことで翌年に向けた準備が不十分だったのでは、という指摘を別のところで読みましたが、追う者、追われる側の関係がわかる話ではあります。
 そしてこのシーズンについては以前も拙ブログでご紹介した松本隆著「紺碧海岸」という短編集にも描かれています。アメリカGPを描いた「アリゾナの決闘」から1992年初戦の「喜望峰」までがそれにあたります。私自身1991年はまだ「F1ファン初心者」でしたから、その年のチャンピオンマシンというのはやはり強く印象に残っています。小説の方も素晴らしいので、興味のある方はぜひ。
 このマシン、タミヤが1/12でモデル化しています。後にフジミで1/20でもキット化されました。両方とも持っていますがいまだに手を付けておりません。いつか組んであげないと「空も泣いている」(「イカロスの叫び」前述の「紺碧海岸」より)ではなくてキットが泣いております。

ということでこちらは1/43モデルです。

さらに小さい1/87(HOサイズなわけですが)もあります。

小説「紺碧海岸」(新潮文庫)と。






 
 


 

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美術でひもとく鉄道150年

2022年12月21日 | 鉄道・鉄道模型
 少々前の話になりますが、大規模接種会場での四回目のワクチン接種の後、少し時間もありましたので東京駅ステーションギャラリーで開催の「鉄道と美術の150年」展を見てきました(来春1/9まで)。
 文字通り鉄道の150年の歴史を美術とともにたどる展覧会で、絵画、版画、ポスター、写真、立体、さらには駅弁の掛け紙と、鉄道に関するものなら表現手法を問わず集めたものとなっています。
 美術と鉄道が出会ったのは幕末に黒船が来航し、最初の鉄道模型とも言うべき、今でいえばライブスチームの汽車がもたらされた時が最初でした。やがて明治に入って鉄道が開通しますと錦絵などに「新しいもの」の象徴のように鉄道が取り上げられます。中には想像力を膨らませて描いたものもありますが、特徴をとらえているものもあって楽しいです。もっとも、小林清親の「新橋ステンション」のように写実性を持たせながら夜の駅を捉えた作品もあります(浮世絵から明治・大正あたりまでの版画は「ベテランモデラー」氏が詳しいので、門外漢の私が詳しく触れることはいたしませんが)。また、勝海舟が宮中で「さらさらっと」書いたような列車の姿も展示されています。
 明治期の作品で印象的だったのは都路華香の「汽車図巻」で、駅に停まる旅客列車を背景に、身分も、国籍も、職業も違う人たちでごった返すホームの様子を描いています。一、二等の合造車は二軸の「マッチ箱」客車のように見えます。優等車輌と三等車で客層が違うところも描き分けていて、人形を鉄道模型に乗せたり、配置したりといったことをやっていますと大いに刺激を受けます。
 また、時代はだいぶ下りますが、木村荘八が描いた「新宿駅」は人々でごった返す昭和10年頃の新宿駅構内を、石井鶴蔵の「電車」では同じ頃に込み合う電車内の様子を描いています。どうも私はこういった人々の種々相を見るのが好きなようです。
 戦前ではポスターから、杉浦非水の東京地下鐵道開業、パリで活躍していた里見宗次に鉄道省が発注した外国人向けの「JAPAN」など、有名どころも展示されています。そして、鉄道はレールの上だけではなく鉄道連絡船もあります。関釜航路の「天山丸」を描いた伊藤安次郎の作品も、描いたとおりの美しい姿ではなく、実際には迷彩塗装で航行し、戦火で失われており「平和な時代だったら・・・」ということなのでしょう。
 時代を切り取った作品は他にもあります。伊藤善「東京駅(爆撃後)」は空襲を受け、ドーム部分を失った駅舎や屋根が崩れ落ちたホームなど、この時代に自分がタイムスリップしたような感覚です。戦後と鉄道に関しては生きて帰ってきたことに喜んだ表情の復員兵たち(林忠彦「復員(品川駅)」)といった写真作品もあります。また、進駐軍の「鉄道輸送事務室(RTO)」向けの待合室を東京駅内に整備する際に作成したモニュメントについての展示もありました。この時作られたモニュメントは一度壁で覆われますが、再び陽の目を見ることとなり、京葉線改札口外の地下通路で展示されています。進駐軍関係では黒岩保美「連合国軍用客車車内図」も展示されています。本ブログでもご紹介したことがある黒岩氏については、鉄道、とりわけ車輌をテーマにした絵画も多く描かれていますので、それも見たかったところです。
 戦後の展示で個人的に目を引いたのはユージーン・スミスの「日立」でした。日立製作所の招聘で海外宣伝のための写真を撮っていたそうで、初めて聞きました。スミスは本来の仕事である機関車の工場以外にも鉄道にまつわるさまざまな風景をカメラに収めていました。
 現代に関しては様々な芸術家の作品が紹介されています。横尾忠則、本城直季といったおなじみの顔ぶれもあります。また、渋谷駅に設置されている巨大な壁画「明日の神話」(岡本太郎))につけ足したChim↑Pomの作品も写真で展示されています。もっとも、岡本太郎が生きていたら「きみたち、ぼくの絵につけ足すんじゃなくて、これを打ち破るもっとべらぼうな絵を描きなさい」と檄を飛ばしたんじゃないかと思います(ああ「太郎」が降りてきちゃったよ)。
 展示の最後に日比野克彦がデザインした山陽電気鉄道のためのヘッドマークを見て、展示室を出たときはお腹いっぱい、という感じでした。思えばテーマを絞った形で150年分の芸術の流れを、さまざまな作家の作品を通して一気に見るという体験はなかなか珍しいかもしれません。
 そんなわけでここまで「一堂に会する」展覧会というのも鉄道150年のおかげです。この日は以前買いそびれていた別の展覧会の図録も買うことができ、満足してギャラリーを後にしました。
 思えば西洋でも、鉄道をテーマにした名画、名作が生まれています。展覧会のコピーにもありますが、これからも「鉄道は美術を触発し、美術は鉄道を挑発する」関係が続き、新たな名作が生まれることを期待したいです。

 

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