工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

祝!  モナコ生まれのドライバーのモナコGP優勝

2024年06月05日 | 自動車、モータースポーツ
 先日開催されたF1モナコGPで、フェラーリに乗るシャルル・ルクレールが優勝しました。ルクレールはモナコ生まれ(当然モナコ国籍です)ということで、地元GPの優勝となりました。レースそのものは1周目に複数個所で大きなクラッシュがあって中断、再スタートといった波乱もありましたが、ルクレールは混乱をよそにレースをリードし、見事に優勝を飾りました。2位にマクラーレンのピアストリ、3位にフェラーリのチームメイト、サインツが上がるということで、久々にレッドブルがいない表彰台となりました。フェラーリとマクラーレンで占めたモナコなんて、昔の「セナ・プロ」時代のようですが、そのマクラーレンはセナ没後30年に合わせ「モナコ・マイスター」セナをトリビュートしたブラジルカラーのマシンでレースに臨みました。表彰台に立てて、大先輩を称えることができたかな。ルクレールに関しては何度も挑戦するもいいところが無かったり、思わぬ形でレースを諦めたりと、地元優勝に向けた挑戦は試練の連続でしたので、モナコ初優勝にはライバルたちも素直に称えていましたし、感極まっているオフィシャルもいました。さらには表彰式でロイヤルファミリーも大喜び。大公も一緒にシャンパンを開けてラッパ飲み(現大公は以前にも表彰式でラッパ飲みをしており、なかなか茶目っ気のある方です)している姿が映し出されておりました。モナコに住んでいるF1ドライバーはいても、モナコ生まれとなりますと数えるほどで、そこで優勝ですから大公のみならず多くのファンが喜ぶのも当然でしょう。
 以前もご紹介しましたがモナコGPは戦前から開催されている歴史あるレースで、第一回は1929(昭和4)年に開催されました。F1・世界選手権が始まったのが1950(昭和25)年ですから歴史を感じます。モナコ生まれ・モナコ国籍のドライバーがモナコGPを制したのは1931(昭和6)年にもありました。ルイ・シロンというドライバーが優勝しています。このころはまだドイツ勢が席巻する前夜でしたので、ブガッティやアルファロメオといったあたりが活躍していました。ルイ・シロンは1899年(19世紀ですよ!)生まれで、第一次世界大戦ではフランス軍のフォッシュ元帥(フランス海軍の空母の名前にもなっていましたが)の運転手を務めたこともあります。シロンは第二次大戦を挟んで戦後もレースに出走しています。1950年のF1初年度のモナコでなんと3位に入る活躍を見せます。実に50歳での快挙です。現在活躍中のF1ドライバー、フェルナンド・アロンソはこの記事を書いている時点で42歳ということで、40代の選手が近年では稀ですからいろいろと注目を集める存在ですが、あの時代の50歳というのは、今よりももっと「お年寄り」に感じられるのではと思います。余談ですがちょうどこの時のモナコと同じ昭和25年5月、日本ではプロ野球の阪急で浜崎真二投手が48歳で勝利投手となっていて、こちらも今なら果たしていくつくらいかな、と思います。この年のモナコも今年と同じで1周目に多重事故がありました。
 その後もシロンは1958年までモナコGPにエントリーしており(当時はマシンも含めた「スポット参戦」が自由な時代でした)、1955年には6位に入っています(この時代は5位までが入賞でした)。
 さて、1950年のモナコについては、5位にアジア人初のF1ドライバーだったタイの「B.ビラ」王子も入賞しています。戦前に英国に留学した際にレースと出会い、戦後にかけて活躍したドライバーでした。戦中はタイ王室の一員としてイギリスとの関係を深める役目も担っていたそうですが、エキゾチックな顔立ちのレーサーは西欧でも珍しく、人気だったそうです。
 モナコ人のドライバーというと小さな国ゆえ本当に少なく、90年代にオリビエ・ベレッタという選手がいましたが、1994年に当時決して上位に進むのが容易ではなかったラルースのマシンを駆り、8位に入っています。ラッツェンバーガー、セナの事故死、さらにはヴェンドリンガーの大事故という重い空気の中のモナコでしたが、地の利を生かしての走りでした。
 今回のモナコでもルクレールの優勝、タイ国籍のアルボンが9位ということで、モナコ、タイの国籍のドライバーがモナコで揃って入賞というのが54年ぶりということで、それも珍しい記録かもしれません。また、日本の角田が8位ということで、アジア系が二人入賞というのも、そもそもアジア系は少数勢力なので珍しい記録です。スクーデリア・フェラーリのSNSなどでもこの1-3フィニッシュの週末が様々な形で紹介されました。このところサインツに押され気味だったルクレールの優勝で、ちょっとはずみがついて「レッドブル無双」だったこのところのF1を面白くする存在になったら、と期待しています。
 地元GPに強いドライバーやなかなか勝てないドライバーもいて、そこがレースの難しいところだったり、だいご味だったりするのですが、「モナコ・マイスター」のセナも母国ブラジルではなかなか勝てず、1991年の初優勝もきわどい勝利でした。逆にナイジェル・マンセルのようにイギリスGPを得意としたドライバーもいました。日本GPでもいつの日か日本人が表彰台の頂点に立つ日が来たら・・・と願っています。

(モナコで優勝したルクレール。日本にもファンが多いです。あと10年くらいしたらプロストみたいに渋いドライバーに・・・なんてね)


(右から2人目がタイ国籍のアルボンです)



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トーキョー、倫敦 プラモデルでタクシー対決!? その2 ロンドン編

2024年05月17日 | 自動車、モータースポーツ
 東京とロンドンのタクシー対決、今回はロンドン編です。やはりアオシマのキットになりますが、ロンドンタクシー(オースチンFX4)が製品化されています。

実はこのキット、ご存じの方も多いと思いますが元は旧イマイ製です。私もイマイ時代に一度組んだことがありました。30年以上前のことです。

(イマイ時代の箱は奇跡的に自宅に残っていました。)

ちなみにドイツレベルでもOEM製品がありましたが、当然のことながら日本では高価な製品となっていました。


とてもとても古いキットですので、今の目で見るといろいろ気になってしまう方もいらっしゃるかと思います。


キットはストレートに組みましたが、手を入れた方がいい箇所もあります。オリジナルがモーターライズのキットですので、内装などはやや上げ底な感じです。また、ヘッドライトは麦球を入れて光らせるようになっていた関係で、メッキパーツに開口がありますが、ここは透明パーツか何かをあてがってランプとするか、あるいはアルミテープ等で塞ぐなどしてもよいでしょう。また、フロントガラスのパーツにのりしろが少なく、外れやすいので、透明ゴム系接着剤などでがっちり固着させてください。
また、ジャパンタクシーと違ってデカール類は寂しいものです。窓ガラスや車内など、キャラもののコーションデータデカールを貼って、注意書きっぽくしています。運転席と後席には透明パーツの仕切りがあります。ここに料金表を掲示している車輌もあるようです。

シートはGM鉄道カラー26番 マルーンA(近鉄のマルーン色)にしました。ネットなどでも車内の写真は多く上がっていますので、探してみてください。

ロンドンタクシーはこれまで現地で2回ほど乗車の経験があり、2回ともオースチンでした。特に2009年の訪問の時は後継車種も走っていたのですが、私が乗ったのはFX4でした。厳密には製造者はBMC、ブリティッシュレイランド、カーボディーズ/LTIなど変遷があるそうですが、基本デザインは1958年以降変わっておらず、1997年まで生産されました。

写真は2009年9月筆者撮影。
ロンドンのタクシーというとドライバーがみな礼儀正しいというか、マナーが非常に良い印象がありました。オースチンの車内のゆったりした感じと、加速が意外にパワフルだったことも覚えています。スーツケースを前に置いても足元がゆったりしているあの空間は独特ですね。日本で言う「助手席」にシートはなく、人数が多い場合は後席に補助席のようなものがついていて、向い合せで座ります。ロンドンのタクシー乗務員というと、その採用に当たってはロンドンナレッジと呼ばれる口頭試問の試験があり、例えば「ヒースロー空港ターミナル2から〇〇通り何番地まで」といった試験が出され、最適なルートを答えるといった形のものです。このため、受験者はロンドン市内の道を熟知していなければならず、自転車、バイクなどで長期間「予習」することが求められます。合格するまで数年はかかるということですが、それでも人気の試験だと以前観たドキュメンタリーで採り上げられていました。
以前東京でも、FX4のタクシーというのを見たことがありました。ちょっと乗ってみたかったです。


ジャパンタクシーと「本家」ブラックキャブです。


セドリックの個人タクシーも交えて三台そろい踏みです。
オースチンFX4のキットについては、オーバースケールとの指摘もあるようで、確かに若干大きめにも見えるのですが、実車もカタログデータ以上に大きく見えます。

さて、タクシーというのは都市によってそれぞれカラーがあると言うか、その都市を知るための大事な何かを持っていたりすることがあります。欧州ですとロンドン、ローマ、パリとそれぞれお国柄と言いますか、特徴が出るものです。仕事で訪れたアジア諸国では車体のカラーで料金もサービスも違うといったところもあり、それはそれでカルチャーショックだったりしました。

今回はミニカーですがこういった車輌もご用意。

トミカから東京五輪(この言葉も遠い昔のようです)に合わせてジャパンタクシーのライセンス商品が出ていました。2019年頃だったか、コンビニで売られていました。
ふたをあけるとこんな感じです。


五輪前後のタクシーというと、扉に貼られたこの二つのマークを思い起こす方もいらっしゃるでしょう。



プラモでも欲しかったところですが、不用意に商品化するとおこられちゃうロゴやらエンブレムですから仕方ないですね。

前回、今回採り上げたプラモデルの3車種については2024年5月時点で比較的入手しやすいものとなっています(ジャパンタクシーは特定の事業者ではないタイプです)。手間は少々かかりますが、いつかまた作ってみたいなあという気になります。タクシー乗り場ならぬ模型屋さんの棚で、きっと乗車を待っていることでしょう。










  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トーキョー、倫敦 プラモデルでタクシー対決!? その1 東京編

2024年05月16日 | 自動車、モータースポーツ
 今日ははたらくくるまの模型の話です。街中でよく見かけ、また乗る機会もあるタクシーについては、意外に模型では製品に恵まれて来なかった感があります。知っている限りでは随分昔にオオタキというメーカーから430グロリアだったかの名キットがありましたが、その後は数えるほどだったのではと思います。近年、アオシマが430セドリックのタクシーを、さらに東京五輪に合わせるように登場したトヨタのジャパンタクシーを製品化しました(いずれも1/24)。まずは「日本版ブラックキャブ」ジャパンタクシーから。

いくつかの事業者が模型化されており、入手できたのが国際自動車のものでした。こちらのバージョンでは運転席と後席の仕切りのアクリル板のパーツが入っていたから、というのもありますが・・・。

キットをストレートに組んだだけですので、特別なことはしておりません。ナンバーだけ自分の好みにした程度です。

スライドする後ろのドアは開けた状態にもできますが、私は閉状態で固定しました。



デカール類も豊富で、車内に貼るものもたくさん入っています。ただ、実物がスモークガラスになっている箇所が多く、模型でもスモークガラスのパーツとなっていますので、完成後は車内の様子が見えづらくなります。
特徴ある車体色ですが、「濃藍」と呼ばれています。私はMr.カラー326番・サンダーバーズの下面の濃紺色に黒を混ぜた色で吹きつけました。先日ご紹介した黒いF-104Jがありましたが「黒つながり」でエアブラシ塗装したのです。この車体色、昼間の太陽光の下では紺色のようにも見えますし、ほとんど漆黒のように見えることもあります。
車内のパッセンジャーシートなど、内装色が茶色系統の色で指示されておりますが、私はMr.カラー526番・旧日本陸軍の戦車色の「茶色」にしました。落ち着いた色ですし、そもそも3/4つや消しなのでそのまま塗っていい感じになります。先日出張でこの車種に乗る機会があり、私は前席だったのですが、目の前のエアバッグの収められている部分も含めて、はっきりした茶色というより、グレーが入った色味に感じました。
なお、国際自動車のタクシーですが、フェンダーミラーが大型化し、薄緑色に塗られています。視認性に難があるのか、いくつかの事業者では小さなミラーを上に「増設」しているのも見かけますが、国際自動車ではミラーそのものを増積したことで対応しています。薄緑色は行燈の色に合わせた、なんていう話も聞こえます。従ってこちらのモデル、少なくとも近年の姿ではありません。よりリアルさを求めるという方は各自工夫の上、今の姿に近づけてはいかがでしょうか(アオシマさんのアップデートに期待しましょう)。キットそのものは丁寧な仕上げを求められる部分が随所にありますが、地方でも様々なカラーに塗られて走っていますので、ご当地ものを作るというのもおもしろそうです。
ジャパンタクシー、私もいろいろ思い出があります。既に入院していて産気づいた家人からメールが来て、ターミナル駅から病院に向かったときがそうでした。また4年間働いて何も得ることが無かった職場もその日がラスト、私物を片付けて夜遅く荷物をたくさん抱えて乗ったのもジャパンタクシーでした。車内で気分が悪くなってしまったというおまけもついたけど。これからもお世話になることが多いでしょうから、楽しい思い出と共に乗れることを祈って・・・。

もう一つ、東京のタクシーから。こちらはアオシマのセドリック・個人タクシーで、だいぶ前に発売されたものです。久々の本格的なタクシーのプラモデル、ということで話題になりました。タクシー用のパーツもたくさん入っていて、それだけで気分が上がる感じがしました。塗装は東京の個人タクシーですね。こちらは2015年に組んでいます。

車体色は白を吹き付け、そこにデカールを貼っていきました。





個人的に好みのスタイルです。特徴をよく捉えていますね。
シートはMr.カラー72番のミディアムブルーで塗装しました。上半分は白いカバーがかかっていることが多いので、艶消し白で塗ってあります。あまり実感的ではありません・・・。
 透明パーツやメッキパーツなども多いキットですし、つやあり仕上げですのでうっかり塗装面を接着剤で汚すことがないよう、細心の注意を払いながらとなりました。透明ゴム系の接着剤のお世話に何度もなっています。

東京編はここまで。次はロンドン編です。












  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

30年前の、春のF1 1994年パシフィックグランプリ

2024年04月20日 | 自動車、モータースポーツ
 初の4月開催となったF1の日本GPは大いににぎわい、来年も春開催の方向だそうですが、日本でF1が春に開催されたのは初めてではありませんでした。1994(平成6)年の春、岡山県のTIサーキット英田(あいだ)(現・岡山国際サーキット)で開催されたパシフィックGPが、今回のテーマです。
 もともとこのサーキット、ゴルフ場などをてがけていた田中肇氏が中心となって作られました。関東圏には富士が、中京圏には鈴鹿があるということで、近畿圏に近いところで岡山になったという経緯があるようです。自動車、モータースポーツが好きだった同氏はサーキットを自分で作ってF1を呼びたい。という夢を持っていました。人づてにF1の興行面を仕切っていたバーニー・エクレストンとも出会い、一国一開催が原則のF1グランプリで二回開催に向けて準備を進めていきます。その間、本人もシビックレースに出場して、レーシングドライバーとしての活動もしています。鈴鹿以外の開催はそれまでも九州オートポリスのアジアGPなど、構想が浮かんでは消えて、でしたのでパシフィックGPの話も私は半信半疑でしたが、正式に決まってF1をよく呼べたなあと思ったものです。TIサーキットはゴルフ場開発を得意としたオーナーらしく、会員権を持つ人がサーキットでF1マシンなどをレンタルして走行できるのが売りで、サーキットのロゴが入った中古のティレルのマシンの写真を見たことがあります。ちなみに、1周4キロ弱のモナコの次に小さなコースで、サーキットのどこにいてもコースの2/3(だったと思う)が見渡せるのが特徴でした。

(パシフィックGPのプログラム。翌年の英田で買ったんだっけ)
 こうして1994年4月、岡山にF1がやってきました。第二戦でした。グランプリの週末はよく晴れたと伝わっています。予選でポールを獲ったのは二戦続けてセナでした。これは金曜日の予選初日でマークしたタイムでした。
 決勝ですが、15:00からの競馬放送がある関係で、いつも日本GPは録画放送だったフジテレビも、この時は13:00の決勝スタートに合わせて生放送しました。これは私も自宅で観ていました。
 決勝ではポールのセナが出遅れ、マクラーレンのハッキネンが突っ込み、さらにフェラーリのラリーニ(アレジがテストでケガをしてその代役でした)が接触ということでセナは押し出されてリタイア、日本でいいところなく終わってしまいました。これで楽になったのが2位スタートのシューマッハ(ベネトン)で、一人旅で優勝します。セナのリタイア後は何ともつまらないレースになってしまった印象があるのは、日本勢(ティレルの片山右京とアーバインの代役で急遽ジョーダンに乗った鈴木亜久里)が二台ともリタイアしたこともあるかと思います。リタイアした鈴木亜久里にピットレポーターがいつもの癖で「次(のレース)、頑張ってください」と声をかけたら「俺、次ないからさ」とスポット参戦の悲しさか、悔しそうに言っていたのを思い出します。2位はフェラーリのベルガー、3位に亜久里のチームメイト、バリチェロが入ります。完走が11台と、マシンに対して厳しいコースだったようです。トップから5周遅れ、最後尾でチェッカーとなったのは新興チーム・シムテックに乗るラッツェンバーガーでした。

(同じくプログラムより。セナを紹介するページでは、タイトルは確実?といった紹介のされ方です)
このレースで特徴的というか印象深いのは観客はすべて観光バスで輸送し、コースにバスを乗り入れさせて乗降するという前代未聞の方法をとったことでした。バスが乗り入れることでコースに何らかの支障が出たらどうするのかと大会の組織委員会が反対し、ツアーを請け負ったJTBも難色を示したそうですが、ぎりぎりのところで納得させ、レースも、それから観客の輸送も支障なくできました(翌年はコースまで入ることは無かったと思います)。なお、このような「パークアンドライド」方式は2007年富士での日本GPでも行われましたが、悪天候などが原因で「崩壊」してしまいます。
さらに、前述のF1界のボス、バーニー・エクレストンから、ヘアピンカーブの看板を自由に使うことをプレゼントされます。そこでオーナーの田中氏はサーキット建設と大会開催への支持をしてくれた岡山県への謝意から「ありがとう岡山県」という文字を入れました(翌年は県がPRの看板を設置していました)。テレビ中継でも随分と目立って映っていました。当時の岡山県知事は内務省→自治省の官僚出身で、地方自治の神様の異名をとった長野士郎氏でした(都知事を務めた鈴木俊一氏も地方自治の神様だったように記憶していますが)。プログラムにもベネトンのマシンのミニカーを手にした写真とあいさつが掲載されています。
また、チームも近隣の湯郷温泉に宿泊するなど、こちらもいつもと違う体験だったことでしょう。当時の温泉旅館ではカードが使えず、TIサーキットの従業員がカード用のプリンタを持って旅館に駆け込む、といったこともあったようです。
さて、レースの話に戻りますが、F1がつかの間の春を楽しんだのはここまででした。そこから2週間後のサンマリノGP、予選でラッツェンバーガーが、そして決勝でセナが亡くなり、F1は最大の悲劇と、そして試練と向き合うことになります。このレースが混迷のシーズンの前、最後の静けさだったことが分かったのは、だいぶ後になってからでした。
このプログラムを久しぶりに開いておりましたら、各チームのリザーブドライバーやその「候補者」たちの写真が載っていました。

左ページ下はヨス・フェルスタッペン(ベネトン)。そう、マックスのお父さんです。期待の大型新人という扱いでした。ベネトンではレートの代役でこのレースにも出場しましたが、リタイアに終わっています。このシーズンはシューマッハが目立ち、チームメイトはなかなか固定されませんでした。右上はベテランのフィリップ・アリオー、右下はパラアスリートとしても有名になったザナルディ。
さらにはこのようなページも

鈴木亜久里、ラリーニといったさまざまな経緯を持つドライバーもいれば、デ・チェザリスのような大ベテランもいます。また左上のように若手ドライバーでは有望株と当時からささやかれたクルサードがいました。


参考文献・日本の名レース100選「'94 F1パシフィックGP」三栄書房

本書には田中肇氏のインタビューも掲載されています。入手は難しいかもしれませんが、見かけられたらぜひ。






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2024 桜の季節のF1日本GP 決勝日 その2

2024年04月13日 | 自動車、モータースポーツ
 いよいよピットレーンもオープンとなり、各車前日の予選の結果を受けたグリッドへ向かいます。

各チーム、メカニックたちがそれを待っています。モータースポーツが機械を使うスポーツとはいえ、やはり人間のスポーツであることを感じさせてくれる光景で、このスタート前の空気感は大好きです。







一旦コース上にマシンを止め、そこから正規のグリッドに向かいます。










みんな揃って記念撮影でしょうか

国歌独唱(昨年と同じ、航空自衛隊の森田3曹)があって、いよいよスタートです。

エンジン音が高鳴り、フォーメーションラップが始まりました。各車隊列を組んで1周し、グリッドに着いて、オールクリアの緑旗が振られます。


シグナルが灯った後で消え、各車一斉にスタートとなりましたが、早くも衝突が。ウィリアムズのアルボンとRBの角田の僚友、リカルドが絡んでリタイア。タイヤバリアにヒットしたのでレースはいったん中断です。リカルドは追い抜き上手で決勝もそれを見たかったのですが・・・。
現場には軽トラを先頭に、資材や重機を積んだトラック、さらには新しいタイヤバリアを積んだトラックが急行していきます。



中断そのものはとても短く、14:30過ぎにレースは再スタートとなりました。マシンが撤去されてからの修復はものの10分くらいで済んだように思われます。国際映像もこういうところを撮ってほしかったです。鈴鹿のスタッフは本当に仕事が速くてきれいです。
ということで決勝レースは1周目に中断でしたので14:30スタートで当初の周回数に近い形で行われた感覚でした。トップ争いに関してはレッドブル、フェルスタッペンが今回は横綱相撲という感じでした。僚友ペレスも自身の仕事をきちんと行い2位ということで、レッドブルの1-2フィニッシュとなりました。そして3-4位はフェラーリでした。前戦で勝利をもたらしたサインツが鈴鹿でもいい走りをみせて3位。ルクレールはタイヤ交換1回で粘りの走りを見せて4位。
 タイヤ交換の戦略で泣いたのはメルセデスでした。思わぬ高温が想定外だったのか、1回交換の予定が複数回となってしまい、順位を下げてしまうことになりました。私も当初は「今日は1回交換で上位に進出するのかな」と思っていたら、予定より早くピットに入るのを見て「タイヤが思いのほか持たないぞ。他のチームはどうだろう」と頭の中であれこれ考えました。最後は気温がやや下がってきましたので、タイムが伸びるかなと思って見ていましたが、巻き返しはなりませんでした。ラッセル7位、ハミルトン9位でした。そんな中上手に自分のレースをまとめたアストンマーチンのアロンソの6位は立派でした。
 そして何よりチームとドライバーが頑張ったのはRBと角田裕毅でしょう。レース中盤に角田をはじめ10位前後で走っていたグルーブ4台が一斉にピットイン。タイヤ交換を済ませていち早くピットロードに飛び出したのは角田でした。スタンドの観客は大歓声です。走りについてもチェッカーまでのマネジメントに成長の跡が感じられ、10位ということで地元でポイントを獲得しました。ポイント獲得の最後の1枠の10位前後というのは、アストンマーチンやザウバー、ハースといったチームも狙っていますので、ここで前に出ることができきたのは大きかったです。
 コースのあちこちでオーバーテイクもありましたし、各車のタイヤ選択など「鳥の目」でレースを俯瞰する見方も求められ、なかなか忙しく、また面白いレースでした。順位に変動がなく、追い抜きもないまま淡々と進むこともありますので、それに比べれば頭の中でのレース全体の流れを判断したり、予想したり、いろいろな情報からレース展開を予想したりといった方が面白いというものです。まあ、頭は疲れますが。
頑張った角田をRBのチームスタッフが待っています。

喜びが伝わってくるようです




レースを終え、マシンの上に立つ勝者。フェルスタッペン。


表彰式の前に行われるインタビュー。


表彰式の後にはシャンパンファイトが始まりました。

フェラーリのドライバーがポディウムに立った表彰式を見ることができ、嬉しいです。フェラーリは序盤戦好調ですが、レッドブル追撃の尖兵となれるのか、見守りたいです。
ホームストレートに下りることもできましたが、そもそも30分遅くスタートしたようなものなので、帰りのバスも気になりまして、早々にサーキットを後にしました。17時前にバスはサーキットを出て、1時間20分くらいで津に。土曜に比べて津駅周辺の渋滞がなく、その分早く到着。近鉄で名古屋に向かい、名古屋からは新幹線で帰京しました。
 桜の時期のF1、春の嵐は無かったものの雨だったりだいぶ気温が上がったりといろいろありましたが、桜とF1は外国人ならずとも魅力的な組み合わせだと思いました。来年も同じ時期の開催が噂されていますので、桜の方はお天道様次第ですが、春のF1を楽しめるのではないかと思います。
 
 







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする