工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

2機のF-104J その2

2024年04月30日 | 飛行機・飛行機の模型
 F-104Jの話、続きです。もう一機は銀色の機体と打って変わって黒い機体です。

 1980年前後からF-104Jについては迷彩塗装を各部隊で試みるようになります。戦技競技会と呼ばれる各部隊対抗の大規模な訓練に合わせて、当初は識別帯を入れていたのが、やがて本格的な迷彩塗装に移行します。グレー系の迷彩色が多い中で、第204飛行隊の機体のうち2機が、1980年にこの黒いいでたちで現れました。
 この黒いF-104Jについては書籍などで採り上げられていたので私も以前作ったことがあったのですが、機番などのデカールがシルバリングを起こしてしまい、気に入らない結果となりました。艶消しの塗装面にデカールを貼るとシルバリングといってデカールが密着せずに「白浮き」してしまうことがあり、「ここにデカール貼りましたよ」な感じになってしまい、ちょっとみっともないわけです。これを防ぐには一旦艶あり塗装で仕上げてデカールを貼り、その上から艶消しのクリアを吹き付けることになります。
 というわけでこちらもストレートに組み、サーフェーサー吹き、1000番の耐水ペーパーで水研ぎの後、この独特な色を塗っていきます。機番部分はMr.カラー374番で、こちらはF-2戦闘機の洋上迷彩の明るい方です。72番のミディアムブルーでもよいかもしれません。ノーズ部分はセミグロスブラックです。F-104Jのうち一定数の機体が後にノーズコーン部分が黒くなっています。インテーク周りのつや消し黒の部分は銀色の機体と同じです。これらをマスキングののち、Mr.カラー2番の黒色を基調に328番のダークブルー(ブルーエンゼルスのブルーです)、301番のダークグレー(FS36081)を少量入れました。
胴体、主翼、燃料タンクなどを塗装し、デカールを貼った状態です。この時点では艶があります。注意書きなどは最低限残して塗りつぶされています。第204飛行隊のF-104Jについては、今回の作例の637号機の他にも565号機が黒塗装となっており、こちらはノーズコーンは通常の上半分ダークグリーン、下がエアクラフトグレーですが、機体後部のタービンラインをエアブレーキの部分以外塗りつぶすという徹底ぶりでした。


この後艶消しのクリアーを吹き付けてデカールの保護と艶消しの仕上げとしていきます。残念ながらそれでも少しシルバリングが出てしまったところがありました。
実機も写真で見た限りこんなパサパサな艶消しでした。


後方から見た姿です。


さて、飛行機の工作というのは、どうしても部品を切り離してから塗装して、少し先の工程までしまっておいて、といったこともよくあります。脚柱や脚のカバーなどは左右で形も違いますので、分かりやすく保管できるようにと、私は無〇良品で購入したポリプロピレン製の小物入れ(5色セット)を使っています。翌端灯と同じく、左は赤、右は緑ということで、左側の脚カバーはこちら、とか右側の主脚はこっちの緑のケース、といった使い方で紛失も防いでいます。


今回、こちらのキットにもパイロットを乗せました。紙でコロコロというメーカーからそのものずばりのF-104J用のパイロットフィギュアがレジンで出ています。

足が計器盤の基部につかえてしまうので切断していますが、それ以外は特にいじっていません。オレンジスーツの上に青いジャンパーを着た姿にしました。
搭乗した姿です。


改めて完成写真です。こちらも当時のパッチ(ワッペン)の復刻版と一緒です。

新田原基地所属の部隊らしく、パッチには九州のシルエットがあります。

第204飛行隊は乗員の養成と戦闘機部隊としての顔の両方があり、長く西方の守りについていました。後にこの部隊の名前はF-15Jに引き継がれ、百里基地に所属していましたので、関東のファンにはなじみ深いものとなりました。現在は西方、南方重視ということもあり、沖縄県那覇基地に移っています。

航空自衛隊のF-104Jについては1980年代に入って勢力を減らし、これらの迷彩塗装も「最後の輝き」となりました。演習のための塗装とは言っても、退役までその色のままだったという機体もあったようです。イタリア空軍のようにロービジ塗装で2000年代初頭までF-104Sを運用したのとは異なり、日本の方が転換は早かったと言えるでしょう。


あらためて今回と前回の2機です。特に今回の機体については1984年刊行の旧版「世界の傑作機」に掲載された小さな写真や、モデルアートの増刊に掲載された作例写真などから考えたり、推理したりしながら作っていく感じでした。リベンジ、とまではいきませんが、何とか自分の腕で自分に納得させられたかな、というところです。









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2機のF-104J その1

2024年04月29日 | 飛行機・飛行機の模型
 久々に飛行機のキットの話です。冬の間に作った飛行機の中に、ハセガワ1/72のF-104Jがありました。平成初期のリリースで今となってはベテランキットですが、1/72では入手のしやすさ、価格、ディティール等でベストかと思われます。ストックがあったのと、以前作ったことがある機体ながらちょっと気に入らなかったところがあった関係で、もう一度作ってみようとなったのが、今回ご紹介する2機のF-104Jです。
 まずは銀色のこちら。第203飛行隊所属機です。203飛行隊は北海道・千歳基地の所属で、F-15Jに改編されてからも、201飛行隊とともに千歳基地にあり、北方の守りを担っています。

キットはストレートに組んだだけで、特別な付加工作もしていません。胴体が前後と左右で分割されてますので、そこをきれいに接合するのと、銀色は塗装の時に下地の傷が目立ちますので、サーフェーサー吹きをきちんと行い、あらかじめ傷を消しておくことが注意点でしょうか。
コクピットや計器盤はかなり細かくモールドされています。これを初めて見たときは1/72のキットの進化にいたく感動したものです。塗装でもデカールでもいいのですが、私は塗装で再現しました(完成後は見えなくなってしまいますが、それはそれとして)。

塗装ですが、銀色ということで、私はMr.カラーの航空自衛隊機アルミナイズドオールドタイマーカラー(名前が長いな)のアルミナイズドシルバーを吹きました。これは文字通り、航空自衛隊機のオールドタイマー(F86FやF104Jなど)の銀塗装を再現するためのカラーで、最近のMr.カラーの8番の銀色と違い、輝きが抑えられています。光の当たり方によってはこんにふうにグレー色のようになります。

キットにはパイロットフィギュアはありませんが、他のキットからコンバートしたパイロットをコクピットに座らせました。

宇宙服のようなヘルメットですが、これは高高度飛行訓練用のものです。この部分のみエポキシパテで作っています。高高度飛行訓練はF104J、F4EJ等でおこなわれており、60,000フィート以上の高空に進出し、敵を迎撃するためのものでした。ヘルメットだけでなく、専用の与圧服も着用していたそうです。ちなみに与圧服はそれぞれのパイロットの体型に合わせたオーダーメイドだったとか。航空自衛隊のパイロットとして活躍し、退官後にアクロバット飛行でも知られた"ROCK"岩﨑貴弘氏(故人)によれば、年に一回は必ず行う必要がある訓練で、高高度まで上がると空の色も違っていたそうです。こうした訓練はミサイルの性能向上などで不要となったそうですが、生粋のインターセプターである「マルヨン」ことF-104Jを象徴しているように感じ、この姿としました。
航空自衛隊のF104Jといえば、胴体後部の無塗装部分が特徴的で、これをどう表現するかというのも、モデラーの腕の見せ所でもあります。だいぶ古い資料ではありますが、モデルアート2000年10月号特集におおくらとしお氏が詳細な説明をされており、それを参考にしています。なお、垂直尾翼直下のクロームシルバーの部分はMr.カラーのスーパークロームシルバー2を吹きつけました。

塗り分けはなかなか難しく、私の腕ではこんなところです。
以前も203飛行隊のF104Jを作ったことがあるのですが、その時はクロームシルバー部分を塗ってから磨きだすタイプの塗料を使っており、磨きだしが上手にできなかったことなどもあり、今回再チャレンジ、となりました。ただ塗るだけですから今回の方が手軽です(輝きの方は少し足りなかったかも)。ちなみに1/144で再現する際はアルミテープや糊つきアルミ箔などを使っています。
第203飛行隊はF-15Jに改編された後も千歳基地にありますが、尾翼の部隊マークが変わっていないというのも特徴的です。こうしたマークは機種改編時に変わることが多く、しかもF-104Jの場合は垂直尾翼いっぱいにどの部隊もさまざまなマークを描いておりましたのでF15Jの小さな日の丸のサイズに合わせるとなると、マークも変更せざるをえなかったのでしょう。しかし第203飛行隊の場合、赤で数字の2と3を、そしてそれに挟まれた形で白と黒で熊(パンダではありません)を描いたマークは変えることなく、今に至っています。


(昔のパッチ(ワッペン)も個性的なものが多いです。こちらは復刻されたものを買っています)

さて、せっかくですので浜松広報館にある実機の写真から、細部部分をお目にかけましょう。古いものもありますが、マーキングの参考にしていただければ幸いです。ライトグレー塗装の機体ですが、無塗装部分などはそのままになっています。

コクピットは一部テープで保護、補強があります。

コクピット後方、Mr.カラー44番で塗装指示がある部分です(笑)。





機首からインテークにかけて。真横から撮っていますのでマーキングの参考にしていただければ




尾部の無塗装部分です。

参考文献 世界の傑作機№104 ロッキードF-104J/DJ "栄光" こちらにはさきのロック岩﨑氏が演習でF-104Jで米軍のF-15を「撃墜」した顛末が書かれており、興味深く読みました。 
モデルアート2000年10月号 こちらはハセガワ1/48でF-104がリリースされたのに合わせて特集が組まれました。





 

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今年も行ってきました&配信観ています

2024年04月29日 | ときどき音楽
 3年前に亡くなった元T-SQUAREのキーボーディスト、和泉宏隆さんの楽曲を演奏するライブが今年もブルーノート東京で開催されました。今年は3days(!)ということでスクエアに15年ほど在籍した和泉さんを象徴するように、3日間ともメンバーがそれぞれの時代に関係する方を中心に編成され、とても印象に残るライブとなりました。公式SNSではセットリストも上がっていますが、まだお店の配信期間中ということもありますので、ネタバレになる感想は後日書くことにいたします。私は初日と三日目を現地で、二日目は配信で楽しみました。配信をご覧になっていないファンの方はぜひ、3日分ご覧になってください。私が書くまでもありませんが、素晴らしかったです。自分が観に行った初日も配信で改めて観ようかな、などと思っています。

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30年前の、春のF1 1994年パシフィックグランプリ

2024年04月20日 | 自動車、モータースポーツ
 初の4月開催となったF1の日本GPは大いににぎわい、来年も春開催の方向だそうですが、日本でF1が春に開催されたのは初めてではありませんでした。1994(平成6)年の春、岡山県のTIサーキット英田(あいだ)(現・岡山国際サーキット)で開催されたパシフィックGPが、今回のテーマです。
 もともとこのサーキット、ゴルフ場などをてがけていた田中肇氏が中心となって作られました。関東圏には富士が、中京圏には鈴鹿があるということで、近畿圏に近いところで岡山になったという経緯があるようです。自動車、モータースポーツが好きだった同氏はサーキットを自分で作ってF1を呼びたい。という夢を持っていました。人づてにF1の興行面を仕切っていたバーニー・エクレストンとも出会い、一国一開催が原則のF1グランプリで二回開催に向けて準備を進めていきます。その間、本人もシビックレースに出場して、レーシングドライバーとしての活動もしています。鈴鹿以外の開催はそれまでも九州オートポリスのアジアGPなど、構想が浮かんでは消えて、でしたのでパシフィックGPの話も私は半信半疑でしたが、正式に決まってF1をよく呼べたなあと思ったものです。TIサーキットはゴルフ場開発を得意としたオーナーらしく、会員権を持つ人がサーキットでF1マシンなどをレンタルして走行できるのが売りで、サーキットのロゴが入った中古のティレルのマシンの写真を見たことがあります。ちなみに、1周4キロ弱のモナコの次に小さなコースで、サーキットのどこにいてもコースの2/3(だったと思う)が見渡せるのが特徴でした。

(パシフィックGPのプログラム。翌年の英田で買ったんだっけ)
 こうして1994年4月、岡山にF1がやってきました。第二戦でした。グランプリの週末はよく晴れたと伝わっています。予選でポールを獲ったのは二戦続けてセナでした。これは金曜日の予選初日でマークしたタイムでした。
 決勝ですが、15:00からの競馬放送がある関係で、いつも日本GPは録画放送だったフジテレビも、この時は13:00の決勝スタートに合わせて生放送しました。これは私も自宅で観ていました。
 決勝ではポールのセナが出遅れ、マクラーレンのハッキネンが突っ込み、さらにフェラーリのラリーニ(アレジがテストでケガをしてその代役でした)が接触ということでセナは押し出されてリタイア、日本でいいところなく終わってしまいました。これで楽になったのが2位スタートのシューマッハ(ベネトン)で、一人旅で優勝します。セナのリタイア後は何ともつまらないレースになってしまった印象があるのは、日本勢(ティレルの片山右京とアーバインの代役で急遽ジョーダンに乗った鈴木亜久里)が二台ともリタイアしたこともあるかと思います。リタイアした鈴木亜久里にピットレポーターがいつもの癖で「次(のレース)、頑張ってください」と声をかけたら「俺、次ないからさ」とスポット参戦の悲しさか、悔しそうに言っていたのを思い出します。2位はフェラーリのベルガー、3位に亜久里のチームメイト、バリチェロが入ります。完走が11台と、マシンに対して厳しいコースだったようです。トップから5周遅れ、最後尾でチェッカーとなったのは新興チーム・シムテックに乗るラッツェンバーガーでした。

(同じくプログラムより。セナを紹介するページでは、タイトルは確実?といった紹介のされ方です)
このレースで特徴的というか印象深いのは観客はすべて観光バスで輸送し、コースにバスを乗り入れさせて乗降するという前代未聞の方法をとったことでした。バスが乗り入れることでコースに何らかの支障が出たらどうするのかと大会の組織委員会が反対し、ツアーを請け負ったJTBも難色を示したそうですが、ぎりぎりのところで納得させ、レースも、それから観客の輸送も支障なくできました(翌年はコースまで入ることは無かったと思います)。なお、このような「パークアンドライド」方式は2007年富士での日本GPでも行われましたが、悪天候などが原因で「崩壊」してしまいます。
さらに、前述のF1界のボス、バーニー・エクレストンから、ヘアピンカーブの看板を自由に使うことをプレゼントされます。そこでオーナーの田中氏はサーキット建設と大会開催への支持をしてくれた岡山県への謝意から「ありがとう岡山県」という文字を入れました(翌年は県がPRの看板を設置していました)。テレビ中継でも随分と目立って映っていました。当時の岡山県知事は内務省→自治省の官僚出身で、地方自治の神様の異名をとった長野士郎氏でした(都知事を務めた鈴木俊一氏も地方自治の神様だったように記憶していますが)。プログラムにもベネトンのマシンのミニカーを手にした写真とあいさつが掲載されています。
また、チームも近隣の湯郷温泉に宿泊するなど、こちらもいつもと違う体験だったことでしょう。当時の温泉旅館ではカードが使えず、TIサーキットの従業員がカード用のプリンタを持って旅館に駆け込む、といったこともあったようです。
さて、レースの話に戻りますが、F1がつかの間の春を楽しんだのはここまででした。そこから2週間後のサンマリノGP、予選でラッツェンバーガーが、そして決勝でセナが亡くなり、F1は最大の悲劇と、そして試練と向き合うことになります。このレースが混迷のシーズンの前、最後の静けさだったことが分かったのは、だいぶ後になってからでした。
このプログラムを久しぶりに開いておりましたら、各チームのリザーブドライバーやその「候補者」たちの写真が載っていました。

左ページ下はヨス・フェルスタッペン(ベネトン)。そう、マックスのお父さんです。期待の大型新人という扱いでした。ベネトンではレートの代役でこのレースにも出場しましたが、リタイアに終わっています。このシーズンはシューマッハが目立ち、チームメイトはなかなか固定されませんでした。右上はベテランのフィリップ・アリオー、右下はパラアスリートとしても有名になったザナルディ。
さらにはこのようなページも

鈴木亜久里、ラリーニといったさまざまな経緯を持つドライバーもいれば、デ・チェザリスのような大ベテランもいます。また左上のように若手ドライバーでは有望株と当時からささやかれたクルサードがいました。


参考文献・日本の名レース100選「'94 F1パシフィックGP」三栄書房

本書には田中肇氏のインタビューも掲載されています。入手は難しいかもしれませんが、見かけられたらぜひ。






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2024 春のF1拾遺

2024年04月16日 | 旅のあれこれ
 日本GPから一週間。ブログに書ききれていない話も少し書きましょう。見出し画像はフェラーリのFacebookから
1 夜行バスでのアクセス
 今回は中央道経由のドリーム号に木曜の深夜に乗り込み、名古屋を目指しました。4列シートの廉価なタイプです。シートピッチは旅客機の国際線の方が狭いくらいで、居住性は悪くなかったと思います。松本隆さんの短編集ではありませんが、中央道は高速コーナーの連続なのと、路面に凹凸をあえてつけてあったりするのでなかなか眠れませんでした。昔ならどんな乗り物でも眠れたほど図々しかったのに、最近は繊細に(?)なってしまったようです。
2 中嶋さん、新幹線に乗る
 4月3日、F1のフリー走行が開始されるさらに2日前ですが、JR東海が東京発名古屋行きの臨時の新幹線を仕立ててF1ファンを乗せて走りました(俺も乗りたかった)。車内では車内放送を使ってトークショーがあったり、参加者に記念品が配布されたりと開幕前からグランプリを盛り上げる列車となったようです。ゲストとして乗車した中嶋悟さん、金曜日の場内解説の際にその話をしていて、久々に新幹線に乗ったということでした。レーシングドライバーの中には、運転そのものが大好きという方もいて、中嶋さんもそこに含まれるようです。F1を引退後も普段の移動は極力自動車だそうですが、今回は上京するために新幹線に乗り、臨時列車に乗って名古屋に「戻った」ということでした。
3 ハリウッド映画デビュー!?
ブラッド・ピット主演のF1をテーマにした映画の撮影が行われた話は既に書きましたが、「ブラピ目線」のカメラカーは金曜から日曜まで何度となくセッションの合間を走りつづけました。スタンドの一角に主人公の乗る架空のチームを応援しているファンを演じているエキストラがいるのか、そこをよく映していました。わざわざビジョン等を使って、ここでカメラに映ることは映画で使われることに同意したものとみなします的な断り書きも出ていました。また、架空のチームのグッズを持ってサーキット内を歩いている人たちも見かけました。なかなかクールなデザインでした。もっとも日本のファンにこういう感じで、と頼めばみんな手製の応援グッズくらい作って撮影に協力しそうな感もあります。私も土曜の朝にゲートを入ったところでカメラを向けられ、手を振りましたが、フェラーリの帽子くらいがグッズらしいグッズなので、おそらくボツでしょう。中には連絡先や許諾の書類を書いて撮影に応じたファンもいたようです。ブラッド・ピットはベテランのドライバー役ということで、昨年のイギリスGPだったかで撮影があったようですが、レーシングスーツが様になっていました。以前、第二次大戦の戦車兵を演じていましたが、少なくともあれよりは似合っていました(戦後生まれの従軍経験のない俳優さんが戦争映画に出ても、あまり感情移入できません)。下手にエキストラを使うよりは実際に来場して盛り上がっているファンを撮るのが近道でしょう。ジョン・フランケンハイマー監督の「グラン・プリ」という映画では当時のドライバーやジャーナリスト・カメラマンなども本人役で出ています。昔のマシンにカメラを向ける熱心なファンの役ならできるんですけど・・・。
4 映画と言えばこの人も
 金曜の中嶋さんの解説の中で、その昔「F2グランプリ」という映画に中井貴一さん演じる主人公の吹き替えでレーシングカーを走らせた、という話になりました。これは同名の小説(海老沢泰久さん著)の映画化で、原作では準主役の若いドライバーが映画では主役となっています。「僕の他にもジェフ・リースや松本恵二も走らせたんだよ」ということで、懐かしい名前が随分出ていました。
5 いろんなことが、いつもと違うぞ
 春開催も30年ぶり(30年前は岡山のパシフィックGP)なら、いつもと違うことがいくつもありました。ドライバーパレードはクラシックカーではなくトレーラーの荷台にまとめて乗っていました。海外のGPでクラシックカーが故障してコースをオイルまみれにしたからとか言われていますが、やはり一人一台ずつ乗り込んだ方がいいと思います。
 また、映画の撮影と関係があるからとも言われていましたが、スタート直前のピエール北川さんの「Are You Ready?」も各エリアに対してのコールアンドレスポンスがなく、残念でした。やはりこれが無いとスタートは盛り上がりませんって。それからこちらはアンケートで答えたことでしたが、決勝目前、ピットロードがオープンになった後もしばらくDJの音楽がかかっており、ドライバー紹介の動画でもあのテーマ曲がかからなかったのが残念でした。来年は何卒もとに戻していただいて、というところです。
6 マグヌッセン親子をめぐる軌跡
 親子で参戦経験があるのはフェルスタッペンだけでなく、ハースのケビン・マグヌッセンも該当します。お父さんのヤン・マグヌッセンはその昔カートレースで来日しており、その時のメカニックがピエール北川さんだったそうです。ちょっと意外な経歴ですね。そこから数年後、1995年のパシフィックGPでマグヌッセンはF1デビューします。それをスタンドから見ていたのは現地観戦デビューの私でした。それぞれの20代が、サーキットで交錯していました。
7 缶バッジゲット!
 JRがコラボしたことで臨時列車の増発あり、名古屋駅周辺でのマシンの展示、イベントありと名古屋も随分盛り上がりました。観戦券や対象店舗のレシートで缶バッジがもらえるということで、こちらは上記の名古屋行きの臨時の新幹線で配布されたものと同じようです。全部で6種類あると聞いており、何が出るかはお楽しみでしたが、私がいただいたのはこの二つでした。本当は0系と葉巻型のRA271との組み合わせが欲しかったな。

8 線路は続く、サービスは・・・
 JR東海の新幹線の切符はネットで買えますが、JR東海区間の在来線の指定席はネットでは買えません(私の理解が違っていたらごめんなさい)。だからみどりの窓口を使うことになりますが、みどりの窓口も縮小傾向で長蛇の列です(ついでに旅行会社も窓口がなくなっているし、最近は鉄道の指定券だけ発券、といったことはしていないところが多いです)。今回、金曜日の下りと上りの指定席(名古屋⇔鈴鹿サーキット稲生)は発売開始5分で買えましたが、日曜日の帰りの切符は発売開始20分後にはあえなく満席でした。ネットでは買えないし、窓口は少なくてではサービスの後退と言わざるを得ません。
9 大好きな特急列車
 JRが不便だからという訳ではないのでが、土日は近鉄のお世話になっていました。久々に乗ったアーバンライナー、名車ですね。「ひのとり」の居住性も素晴らしいですが、こちらも負けてはおりません。どちらも名古屋→津の短い乗車時間がもったいないくらいでした。


10 外国からも、いらっしゃい
 昨年は外国語表記やアナウンスが追い付かず、それに起因したトラブルもちらほら聞こえていましたが、今年は外国人向けの観戦ガイド(無料)が配られたり、場内アナウンスでも英語での情報発信がされていました。終バスの時間と、タクシーは期待しない方がいいよ、という案内表示です。

 日本は安全で物価が安く、人は親切でファンは熱心かつ独特ということで、今や鈴鹿は「訪れたいGP」となっているとか。30年以上の開催というのも「伝統」になりつつあるのでしょうか。安くて清潔で安全で、の陰では・・・と書きたいところですが、野暮なことは書かないでおきましょう。
11 来季のこの人たちは・・・
 フェラーリ好調を支えるのがカルロス・サインツの走りです。しかし、ハミルトンのフェラーリ加入でサインツは来季のフェラーリ離脱が確実視されています。

 一部SNSで「ビ〇リーチ!」と呼ばれたのぼりの写真です。優勝経験もありますし、有力チームに行くのでは、とも言われています。「ハイクラス転職」ならぬ移籍を期待しましょう。ベテランのアロンソはアストンマーチンに残留し、契約しました。
12 春開催はこれからも・・・
 この時期の開催は成功だったようで(桜の季節と重なったのも大きかったでしょう)、来年も4月上旬開催がアナウンスされています。年度初めでバタバタしていて、なかなか長い休みは取れなさそうです。これ以上チケットが値上がりしないことを祈ります。


(写真はいずれもフェラーリのFacebookより)

観客数も上向きの鈴鹿ですが、コース上も、コースサイドも、私たちが利用するツアーバスの駐車場も、売店もということで、たくさんのスタッフが支えていました。皆様に感謝しつつこの稿を結びにしたいと思います。






 



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