工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

おとぎ話の後に、グランプリを席巻したのは・・・セバスチャン・ベッテルの日々

2023年02月28日 | 自動車、モータースポーツ
 前回は2009年のF1シーズンを席巻し、翌年以降メルセデスのワークスチームとなるためその役目を1年だけで終えたブラウンGPの話をしました。2010年以降のグランプリでは若きドイツ人、セバスチャン・ベッテルが4シーズンにわたってタイトルを獲得しています。そのベッテルも(電撃復帰のうわさもあるようですが)昨年の最終戦を以て引退しています。鈴鹿を愛した彼だけにオフに引退特集号などが刊行されています。彼のF1での日々を改めて思い起こすことになりました。

(「F1速報」も特集しました)
 ベッテルがF1デビューしたのは2007年、BMWザウバーチームでのことでした(既に前年、リザーブドライバーとしてフリー走行のみ出走という経験はありました)。ザウバーは1993年からメルセデスの後押しを受けてグランプリに参入し、手堅いマシンづくりで知られていましたが、この時期はBMWのワークスチームのような形をとっていました。ドライバーの負傷欠場により、リザーブだった彼にデビューのチャンスがやってきます。このときはまだ19歳でした。そのデビュー戦となったアメリカGPで8位入賞を遂げています。この時点では史上最年少での入賞記録でもありました。BMWザウバーはこのシーズンにランキング2位になるなど、マシンの力も高かったのですが、デビューしたばかりの若者がいきなり8位ですから「なかなかやるじゃないか」と思ったものです。ほどなくしてレッドブルのジュニアチーム、トロロッソに移籍します。

(2007年日本GPのプログラムより)
 前身のミナルディ時代から入賞はできても表彰台、ましてや優勝なんてとても狙えないと思っていたチームで、2008年、まだ実質デビューシーズンだったベッテルは初優勝を成し遂げました。イタリアGPのことです。このレースのことはよく覚えています。週末に北イタリア全体に大雨が降り、私もベネチアにいましたので、イタリアとは思えないほどの集中豪雨という感じでした。ホテルのロビーが雨漏りで水浸しになるくらいで、グランプリのあったミラノ近郊のモンツァも同じような大雨でした。ホテルの部屋で中継を観ておりましたが、ベッテルの初優勝にイタリアメディアも大騒ぎでした。イタリア系のミナルディをルーツに持ち、この年はフェラーリのカスタマーエンジンを積んでいましたのでなおさらです。イタリアのテレビでは彼のことを「セバスティアーノ・フェテル」とイタリア風に呼んでいたのが耳に残っています。
 2009年からは「一軍」のレッドブルに移籍します。この年も勢いに陰りが見えてきたブラウン・メルセデスのバトンをシーズン後半に追い上げ、初めての鈴鹿で優勝も挙げています(ちなみに本当の意味での初めての鈴鹿は2006年、ザウバーのリザーブドライバーとしてフリー走行のみ出走しています)。
 そして2010年からはレッドブル・ルノーと共に快進撃が始まります。最初のタイトルとなった2010年は最終戦でランキング3位という不利なところからライバルの脱落もあって大逆転、初の王座に輝きます。ベッテルがタイトルを獲ったことよりも、タイトルをほぼ手中にしていたフェラーリのアロンソが敗れたことが残念だった、ということでよく覚えております。
 ここから実に4連覇ということで、いつまでベッテルの時代が続くのかという感じでした。この時代のマシンというのが空力に特化して形的には格好悪く見えてしまい、ミニカーもほとんど買っていなかったように思います。その間には僚友ウェバーとの「チームオーダー無視」事件などもあって、ちょっと私の心証も良くなかったのは事実です。しかしそんな輝かしい日々も2014年シーズンには終わりを迎えます。この年からエンジンがターボハイブリッドの「パワーユニット」と呼ばれるようになり、ライバルの後塵を拝するばかりか、ウェバーの代わりにチームメイトとなったリカルドにも遅れを取るようになります。ベッテルはレッドブルからの離脱を決断、その情報が駆け巡ったのが鈴鹿の日本GPでのことでした。フリー走行前の場内アナウンスでその情報が流れ、サーキット内にどよめきが走りました。この年にたまたま近くに座っていたことで仲良くなったアメリカ人のファンに「ベッテルが出ていくらしい」と伝えると「フェラーリに行くって海外メディアが伝えてるよ」と教えてくれました。あわててスマホでBBCだったかイタリアのメディアだったかを検索して、私もその情報を確認しました。

(2012年日本GPの表彰式より。決勝日の翌日にサーキットを訪れたファンのために配布されたカード。1位ベッテル、2位マッサ(フェラーリ)、3位小林(ザウバー)。小林可夢偉がベッテルのことを「ベッちゃん」と呼んでいました)
 フェラーリ移籍中はメルセデスが強かったこともあり、タイトルが少し遠かったような日々でした。ランキング2位に名を連ねたシーズンもあったものの、フェラーリというチームのまずさというか、いろいろな悪いところが結果としてタイトルから遠ざけてしまったかのような感もありました。メルセデスにあって、フェラーリにないものがあったように感じます。イタリア語を習得して、しばしばチーム無線でもイタリア語で呼びかけているのを聞いたことがあります。チームメイトのライコネンとの関係も悪くなく、一度くらいはタイトルが来ても・・・と思ったのですが。

(2019年日本GP表彰式より。筆者撮影。メルセデス勢に割って入り、予選1位、決勝2位に。左側、赤いレーシングスーツ姿)
 最後の2シーズンは緑色のマシンが美しいアストンマーチンで過ごしました。優勝経験のあるチームではありましたが、ふだんは中団に位置することが多い印象で、その中でもベストを尽くし、時に上位に進出する姿は「さすがはチャンピオン経験者」という感じで、手腕を感じたものです。2021年のアゼルバイジャンでは2位にも入っています。特に最後の鈴鹿となった昨年は雨の中6位に入るなど、健在ぶりは見事でした。
 かつての若き王者も15シーズン働き続けたベテランということで、後輩にも気軽に話しかけ、かつて自分を気にかけてくれた同郷のミハエル・シューマッハのことを思っていたのか、息子のミック・シューマッハがF1デビューすると、面倒を見ていたと聞きます。チャンピオンらしからぬと言いますか、優しい性格からかライバルではありながらもみんなから慕われる存在となっていました。その証拠に昨年の最終戦が始まる週の木曜日に、現役ドライバー20人全員が集まって夕食会を開き、ベッテルをねぎらったと聞きました。F1ファンなら中を覗いてみたくなりますね。発起人はやはりベテランの域に達しているハミルトンだったそうで、この二人、性格も生き方も正反対ですが、なぜか仲がいいようです。ハミルトンは人種問題などで主張していますが、ベッテルは環境保護といったことに関心を寄せているようです。アスリートという立場から世界の問題に対して自らも発信する、というところでは相通ずるものがあるのかもしれません。
 そしてベッテルというドライバー、天性の速さの上にいい車に乗っているから、あるいは相性がいいマシンだからあれだけ勝てたのでは、と思っていたのですがそれだけではなく、大変仕事熱心なところもあったようです。朝早くサーキットにやってきて、一番最後にサーキットを後にするタイプで、かつてのタイヤサプライヤー、ブリヂストンの浜島裕英氏も、サーキットでの仕事を終えてホテルに向かっていた途中でベッテルに呼び出されたことがあったそうです。ディティールまでこだわって勝利を目指すあたりは、セナやシューマッハを思わせます。この二人も納得がいくまでチームやエンジニアたちとディスカッションするタイプでしたからね。ベッテルの場合もこのこだわりや勝利への強い思いが結果としてタイトルにつながったのだと思います。
 一方でベッテルというドライバーは、さまざまなデザインの「スペシャルヘルメット」を用意し、また自分のマシンには奇抜な名前をつけて呼んでいたことも印象的でした。昨年はウクライナ支援の柄もありましたし、日本GPではそれまでのサポートに感謝する形でアライヘルメットの梱包に使う段ボール箱の柄をモチーフにしていました。もしかしたら真剣に仕事をしながら、そういった「遊び」の部分でバランスを取っていたのかもしれません。
 そして引退ということですが、家族との時間を大切にしたい、という思いがあるようです。過密日程の近年のグランプリでは、いくら夏にまとまって休みがあったりしても、二週に一度家に帰れればいいほうで、下手をしたら3週連続でレース、というのは家族との関係を考えるとつらいところでしょう。ちなみにあまりプライベートを見せるタイプではなく、SNSとも無縁でしたが、引退の弁はSNSで発表したそうで、その日本語訳を読むと、大変まじめで丁寧な人間なのでは、と思いました。特に父親として地球環境への意識や持続可能な社会の実現といったことへの思いも強くしているようで、やはり小さな子供を持つ親として、私もベッテルほどではないにせよ、考えさせられるわけです。
 さて、ベッテルと言えば「鈴鹿大好き」を公言し「神がデザインしたコース」とまで言っていましたが、成績にも表れています。鈴鹿の決勝を初めて走った2009年(前2シーズンの日本GPは富士でした)から昨年までの12戦で4勝、2位1回、3位3回と実に2/3のレースで表彰台に上がっています。近年の人工的なレイアウトではない昔ながらのテクニカルなコースに、変わりやすい天候、そして熱心なファンということで、鈴鹿に愛されたベッテルも幸せですし、ベッテルに愛された私たちも幸せなわけです。
 引退ということで今後はどのような形でレースに関わるのかは分かりませんが、今はやっと訪れた家族との日々を楽しんでいることでしょう。また鈴鹿に来てくれたら嬉しいな。





引退表明のあと、各地のグランプリで惜別の展示が行われました。一部再録となりますが、鈴鹿バージョンです。2011年には鈴鹿でタイトルを決めています。
神がデザインしたコース、か。 

 
 
 


 

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おとぎ話を、ご一緒に ブラウンGPと2009年のF1シーズンの話

2023年02月21日 | 自動車、モータースポーツ
 いつもご紹介している三栄のGPCar Storyですが、今冬に発売された号がブラウンGPチーム・BGP001を特集しています。

このブラウンGPというチーム、2009年の1シーズン限定のチームでした。ファンならご存じの方も多いとは思いますが、このチーム、もともとはホンダの第三期参戦のチームが母体となっていました。前年のシーズンが終了後、ホンダが突如としてF1撤退を発表します。同年(2008年)のリーマンショックに端を発した世界的な景気後退が理由とも言われています。ここで宙に浮いてしまったのがイギリスに本拠を置いていたホンダチームのスタッフや機材などでした。もちろん、ホンダ側のスタッフは日本に帰ることができますが、イギリスで雇用していた現地のスタッフたちは急に職を失う危機に見舞われたわけです。せっかく2009年シーズンに向けて開発も進んでいたところに、まさに青天の霹靂であったことでしょう。
 ここで、それまでチームの指揮を執っていたロス・ブラウンがホンダと協議を重ね、チーム存続の道を探ることになります。結果的にホンダから1ポンドでチームを買い取るという形でチーム消滅の危機は免れます。ロス・ブラウン本人をはじめチームスタッフへのインタビューで、ホンダ撤退~チームの存続、開幕を迎えるまでの話を読むと、チームスタッフたちが必死に働き、なんとかチームを維持し、結果的には従業員たちの多くが引き続き働ける体制にまで持っていったことがうかがえます。ブラウンGPという名前もあまり深く考えずに決まったようですが、ファンはシーズン(いや、シーズン前のテストからですね)を通して、この新しいチーム名を幾度となく目にし、耳にすることになります。数々のチームで指揮を執り、特にベネトンとフェラーリを常勝軍団にしたロス・ブラウンの手腕が、意外な形ではありますが、試されようとしていました。
 チーム存続のために動き出したときに、フェラーリやメルセデスらがエンジン供給などで声をかけてきたというのも興味深かったです。時には足を引っ張ってでもというライバルたちも、こういうときには手を差し伸べるあたりがF1の「仲間意識」のようなものなのでしょう。結局、2009年のマシンにはメルセデスのエンジンが搭載されます。メルセデスも90年代からの参戦でタイトルを何度も獲得しておりますし、前年はマクラーレンに積まれ、ハミルトンの最初のタイトルに貢献しています。こうして信頼できるエンジンを積むことができました。
 はたして開幕前のテストから新チーム・ブラウンGPとエースのジェンソン・バトンは好タイムを連発、いきなり台風の目となります。開幕戦はバトン、バリチェロの1-2フィニッシュと幸先のいいスタートを切ると、前半7戦でバトン6勝と大きく選手権をリードし、誰もが驚くことになります。カラフルでたくさんのスポンサーロゴが入ったマシンではなく、スポンサーもほとんどついていない真っ白のマシンが最速という、F1ではありえないようなことが起きたのです。

(ミニチャンプス1/43のミニカー・バトン車。スポンサーロゴがほとんどないマシンに注目)
さすがに中盤以降、レッドブル・ルノーほか、ライバルたちの追い上げを受けますが、何とか逃げ切ったバトンが初の(そして唯一の)タイトルを獲りました。チームメイトのバリチェロも2勝、ランキング3位につけ、コンストラクターズタイトルにも貢献しました。この二人にとっても「まさか」という展開で、シーズンオフにいきなりチーム消滅、失業の危機だったわけですから、不安もあったでしょうが、インタビューを読む限り二人ともどこかで「腹をくくった」という感じがしました。
 なぜこのマシンが速かったのか。2009年の車輌規定改正に合わせ、当時のホンダの開発の方向性が当たった、というのが大きいようです。車輌規定の裏をかく「ダブルディフューザー」と呼ばれたマシン底面の空力処理によりスピードを乗せることができていたのでは、と当時は言われたものです。ダブルディフューザーの効果もあったのですが、それだけで勝っているとライバルに思わせるということもしたようで、実際には他の空力パーツや空力処理も勝利に大きく貢献していたようです。規定を真面目に読み込んだ「シングルディフューザー」でも勝てた、という意見もあるようで、このあたりの開発の過程も詳しく読むことができ、このマシンの強さの秘密を知る一助となりました。
 車体まである程度開発しておきながら、結局は撤退したホンダにとっては「逃した魚」はとても大きかったかもしれません。では、もしホンダが2009年も残っていたら・・・という記事もおもしろかったです。ギアボックスなどにかなりの「新機軸」を持ち込んでいただろうと言われています。それが吉と出たか凶と出たかは分かりませんが・・・。ブラウンGPの快進撃に、うちの家族は「ホンダとメルセデスのジョイントなんて、反則級の最高の組み合わせじゃないか(笑)」と言っていましたが、ホンダ用に開発した車体にメルセデスのエンジンを乗せるのは細かな寸法の違いをはじめ、苦労も多くあったようです。
 中盤以降ライバルたちに追い上げられたのも、やはり資金難からくる開発の遅れと無縁ではありませんでした。現在のようにレース数が20戦を超えていたら勝てなかったのでは、という指摘もうなずけます(2009年は年間17戦)。私自身はブラウンGPの快進撃を見ながら、もともとがホンダ由来のチームですから、がんばれ、というより「巨大メーカー主導のチームや、歴史と伝統にあぐらをかいているチームどもに、一泡吹かせちゃえ!」という感覚で見ていましたが、それと同時に「これがすべてホンダだったらなあ」という感傷も持ちながらの観戦でした。特に2007、2008シーズンとも満足のいく結果ではありませんでしたのでなおさらでした。
 さて、この年は日本GPが3年ぶりに鈴鹿で開催されました。前の2年間が富士スピードウェイでしたので、ファンにとっては改装されてきれいになった鈴鹿での最初のグランプリとなりました。私も三日間観に行っています。富士もきれいで近代的なサーキットではありましたが、久々の鈴鹿にファンもうきうきしている感じで、私も含めて「やっぱり鈴鹿のF1って楽しい」という気持ちがみんなの表情に浮かんでいるように思いました。
 ロス・ブラウンを含め関係者たちは「おとぎ話のよう」とこのシーズンとこのチームを形容しています。このシーズンの後、メルセデスがワークスチームとして参入、それがブラウンの後身となります。後年の日本GPを観戦した際に、ツアーで泊ったホテルにメルセデスのチームスタッフも宿泊していて、ホンダ第三期由来の方もいた、と同じツアーの方が教えてくれました。「おとぎ話」というのは言い得て妙でありますが、あの時代のグランプリもまた、私にとってはおとぎ話のようです。なぜなら、2000年代というのはフェラーリ、ホンダ、メルセデス、トヨタ、ルノー、BMWと巨大メーカーの戦いの場でもありました。今のF1ももちろん面白いと思いますが、あの頃は別の意味で盛り上がっていたように感じます。

日本GPのプログラム。決勝日には完売したと聞きました。

バトン(左)、バリチェロを紹介したページ

観戦ガイドにノベルティなど。過去の名場面を収録したDVDも配布されました(右上)。
ステッカーには「ただいま、SUZUKA。 おかえり、日本グランプリ。」とあります。

 

 

 

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カトーの90年代トヨタ車で遊んでみました その2

2023年02月15日 | 1/150の周辺に
前回はひととおり塗り替えたりして遊んでみましたが、今回は続きとして応用編をご紹介しましょう。
1 ノアを空港で働くくるま風にする


ノアですが、白いモールド色の車体はそのまま白を塗装して、その上からデカールを貼ればさまざまな「働くくるま」に化けてくれそうです。空港で航空会社の業務用に使われているような車輌を(それらしく)再現してみました。空港の車輌というとスタイルもサイズも変わったものが多いわけですが、そんな中で「普通の」自動車も混じっていることがあります。今回ご紹介した二つとも、ネットから落とした航空会社のロゴを自作デカールにして貼っています。1/144の飛行機をバックに写真に収めてみました。実際にはヨーロッパの空港で見かけるのはルノー・カングーあたりでしょうか。

以前やはり自作デカールを貼ったカーコレクション第5弾のいすゞエルフと。どこかにありそうな「AIRPORT SERVICE」というロゴをつけています。
1/144の旅客機をNゲージのセクションに組み込んだりしている様子はよく見かけます。旅客機を美しく仕上げ、さらには電飾まで・・・ということで、モデラーの皆様の工作力には敬服するしかないのですが、こういったセクションに「いかにもいそうな自動車」としてこういった車輌を配置してみてはいかがでしょうか。よりリアルな風景になると思いますが・・・。

2  ハリアーを緊急車両に
SUV車はその快速ぶりや、それなりに広いスペースを持つことから緊急車両としても使われています。

赤十字をつけて輸血用の血液を運んでいるSUVを見たことがあります。ハリアーがそういった任に就いていたかどうかは定かではありませんが、救急車だけでない赤十字をつけた車輌はいかがでしょうか。ハリアーについては成形色が白の製品がありましたのでそれを使います。車体にスプレーでMr.カラー69番「グランプリホワイト」を吹き、赤い帯のデカールを同じ長さに切り、丁寧に十字に組みあわせて赤十字を作りました。コーションデータデカールから車体の横に入れる文字を貼ってあります。赤色灯はプラモデルの透明ランナーを熱であぶって伸ばし、任意の太さになったところで適当な長さに切り出します。赤色灯部分にクリアーレッドを塗って、屋根に接着して完成です。病院などのストラクチャーの前につければ「この後のオペに間に合わせるために血液運んできました!」ということもできます。
赤色灯だけではありません。海外の警察でSUVを使用している国があるので、こちらも雰囲気重視で加工してみました。

左側はイタリアの財務省警察をイメージしています。ちょっとオリーブの入ったダークグレーで車体を塗り、黄色のデカールを貼りました。上記の赤十字と違い、伸ばしランナーをクリアーブルーで塗りました。本来なら車体に財務省警察を表すイタリア語の表記がつきますが、さすがにこのスケールになると小さすぎてしまい再現していません。ピンボケになってしまいましたが国家警察の車輌も作りました。GMカラー47番・ブルーEで塗装しています。

3 赤いクラウンには何が似合う?

クラウンですが、黒、紺以外に赤という成形色もあります。ところが実車ではなかなか赤色というのは見かけるのが難しく、おまけに塗料次第ではせっかく別の色に塗っても赤い成分が染みあがってくる心配があります。結局、上半分を銀色(クレオスの「アルミナイズドシルバー」)に塗り、下半分を赤としました。プラ材から行燈を作ってタクシーにしました。なんだか香港や上海あたりのタクシーみたいです。香港のトラムのミニカーをバックに撮っています。




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カトーの90年代トヨタ車で遊んでみました その1

2023年02月14日 | 1/150の周辺に
 カトーからNゲージ用のアクセサリーでいろいろな自動車の模型が発売されていて、90年代日産車などはこのブログでも何度かご紹介しています。トヨタ車についても90年代のくるま達が発売されており、昨年末から年明けにかけて久々に再販されています。今回はこれを使っていろいろ遊んでみました、というテーマです。
 90年代日産車の方はセドリックとパルサーでしたが、こちらはなんと6種類、ヴィッツ、アルテッツア、クラウン、ノア、ハリアー、エスティマということで、90年代から2000年代にかけて街中でよく見かけた車輌たちということになります。

 6台とも無塗装で、各車種とも成形色の違いで数種類発売されているようですが、やはり塗装して色差しをした方が俄然見栄えもよくなりますので、セットを少しずつ買い足しながらいろいろな色に塗りました。
各車に共通していることではありますが、車軸がとても細く、車体を外す際に曲がったり、折損する場合があります。別に走らせるためのものでもありませんので、タイヤは固定でもいいと思いますが・・・。なお、車体を分解する際はシャシーと車体の間にデザインナイフなどを入れて丁寧に広げてあげるときれいに外れます。
1 ヴィッツ


成形色では白、赤を見かけています。左端が製品そのままの赤。残りの4台はさまざまな色に塗ったものです。黄色はガイアノーツから発売のメカトロウィーゴカラー「レモン」です。中央のメタリック色は当時よくみかけたボディカラーで、銀にクリアーオレンジ、クリアーレッドを少量足したものです。隣の赤はモンツァレッドさらに隣はガイアノーツカラーのエメラルドグリーンです。もちろん、灯火類もそれぞれ塗っています。
ヴィッツというとカラフルでポップなイメージが強いですが、欧州で販売されていた「ヤリス」については、赤、銀、黒と言った色を見かけました。ヴィッツは企業の業務車としても使われていましたし、初心者向けのワンメイクレースでも知られていました。
2 アルテッツア


スポーツモデルを意識した小さめのセダンでした。実際にモータースポーツでも活躍しています。成形色は白、赤、紺などを見かけています。こちらも左が成形色のまま、以降右に向かってモンツァレッド、タミヤのライトガンメタル、クレオスのGXメタルダークブルーで塗ったものです。ガンメタル系の色はこのスケールですと粒子が目立ち、リアルさに欠ける感じもあります。メタルダークブルーについては今どきの車のメタリックカラーとして使えそうです(ただし少々値が張ります)。一応エアブラシ推奨なのですが、筆塗りでも十分いけます。
3 クラウン


おなじみクラウンです。ク5000用の積み荷のクラウンとは別物ですので注意してください。成形色では黒、紺、赤を見かけています。銀や黒といった色が無難な感じです。黒ならハイヤーとか、公用車(最近は公用車もセダンではなくボックスタイプが増えていると聞きましたが)で使えそうです。右側の黒についてもクレオスのウィノーブラックに塗っています。
4 タウンエースノア


奥の白い車体のみ成形色です。はじめにお詫びですが、後方の灯火の位置を思い切り間違えております。実車では灯火が上半分に配置されていました。ミニバンこそは90年代以降を彩った自動車の一つですから、レイアウトの街にも山にも連れ出してあげましょう。また、ノアは商用車由来のミニバンですので、銀などのあまり派手にならない程度の色に塗るとオーソドックスな商用車として十分使えます。
5 ハリアー


SUVというジャンルも昔は無かったものです。こちらの製品、成形色は白や紺などがあります。右は車体上部をメタルダークブルーに、下の部分をタミヤのチタンシルバーに塗っています。ノアとハリアーは別の形で次回またお目にかけたいと思います。
6 エスティマ


トヨタの天才タマゴ、なんていうキャッチフレーズがありました。成形色は赤、黒を見かけています。左が成形色のまま、真ん中はクレオスのGXメタルブラッディレッドとタミヤのライトガンメタルのツートン、右はタミヤのチタンゴールドとチタンシルバーのツートンとしています。メタルブラッディレッドやチタンゴールドも自動車の色として使い道はたくさんありそうです。

今回活躍した塗料はこちら

クレオスのGXメタルダークブルー、メタルブラッディレッド、タミヤのチタンゴールド、チタンシルバー、ライトガンメタルの順です。小さな模型のために高い塗料にお金を投じるなんて・・・と思う方もいらっしゃるでしょう。ただ、ここぞという時には(下手なりにも)その車輌に似合う色ということも考えてのことですので、お分かりいただけたらと思います。









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映画が恋した音楽家

2023年02月08日 | ときどき映画
 公開中の「モリコーネ 映画が恋した音楽家」を先日観てきました。エンニオ・モリコーネについては亡くなったときにブログでご紹介していますが、晩年の彼をジュゼッペ・トルナトーレ監督が密着しており、本人のインタビュー映像と関係者の証言でつづったのがこの作品です。
 既に「エンニオ・モリコーネ 自身を語る」という本で、本人の半生や思いなどを知ることができましたが、映画ではより時系列的に彼の人生を見つめることができます。トランペット奏者の父の指示によって音楽院に進み、やがて作曲を学んだ後、ポップスの編曲で糊口をしのぎ、やがて映画音楽を仕事の中心としていった様子が本人の口から、そして周囲のインタビューから明かされていきます。同じ音楽の道を歩むことになった父との葛藤、音楽院での「正統な」音楽教育を受けた人間が、B級とも言うべきマカロニ・ウェスタンの音楽で評価されたことに対する周囲と本人の複雑な思い、特に音楽院の恩師との関係などは、一つのドラマを見ているように感じました。もともとマカロニ・ウェスタンの仕事では偽名を使っていたくらいなので、本人にもある種の負い目のようなものがあったのかもしれません。
 また、若き日に実験的な音楽(楽器だけでなく、様々な道具なども含めて)にトライしたことが、後の作曲に役立てられたことも知りました。マカロニ・ウェスタンの楽曲では口笛あり、金床ありという感じで効果音のような形で音が入っていますが、若き日の経験が本人の引き出しを作っていたように感じました。
 映画音楽で評価されつつも、本人は時が来たら止めたいとずっと思っていたようです。トルナトーレ監督と初めて組んだ「ニュー・シネマ・パラダイス」についても最初はオファーに対して乗り気ではなかったものの、脚本を読んで作曲を決めたそうです。映画音楽については監督のイメージを具現化する立場ですから、さまざまな性格の監督と話し合いながら作品を作り上げていく苦労もあったかと思います。
 だいぶ経ってから自身で作りたい交響楽と映画音楽が収斂していった、と述懐していますが、きっとそれはある種の境地に本人が達したということなのでしょう。また、ノミネートされながらもオスカーからは遠い日々が続いていましたが、2006年にそれまでの功績をたたえてアカデミー名誉賞を受賞しています。さらにタランティーノ作品で2015年に作曲賞を受賞しており、生涯現役を貫いたことを示すエピソードでもあります。オスカー像を一番の理解者であり、批評家であった夫人に対して掲げる映像は「やっと獲ったぞ」と心の中で叫んでいるようにも見えました。
 本人のインタビューだけでなく、関係者の証言も大変興味深いものがありました。イタリア映画の監督、関係者、ジョン・ウィリアムズやハンス・ジマーといったハリウッドの映画音楽の巨匠、イーストウッドら俳優、そしてブルース・スプリングスティーンといったロック・ポップス界の人たちまで、それぞれが作品への経緯と本人への愛情をこめて、たっぷり語っています。
 そしてこの映画、とにかくモリコーネ自身の言葉に含蓄があり、ノートに書き留めておきたくなるくらい心に響きました。ものを作る、何かを表現するといったことを生業に、そうでなくても生涯の楽しみとしている人にも、ぜひ観ていただきたい映画です。トルナトーレ監督らしく、2時間半という長い作品ではありますが、きっと得られるものはあると思います。


左が映画パンフ、右がインタビューによる自叙伝である「エンニオ・モリコーネ、自身を語る」

 

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