工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

ここのスピードは(本当に)ホンダが速かった、というお話

2020年05月28日 | 自動車、モータースポーツ
 5月24日はモナコグランプリが予定されておりましたが、新型コロナウイルスの影響で中止となり、CS放送のフジテレビNEXTでは1992年モナコGPを当時の実況音声により放送しました。
 1992年のF1シーズンですが、ナイジェル・マンセルと彼のマシン、ウィリアムズFW14B・ルノーが絶好調で、開幕から5連勝を挙げてモナコに乗り込みます。その強さは他を圧倒しており、口には出さないもののセナのファンだった私の母などは「マンセルばかり勝ってつまらない」と言っていたほどです(マンセルファンのみなさまごめんなさい)。モナコでもポールポジションからスタートしたマンセルは終盤までリードを築き、自身のモナコ初優勝が見えていましたが、残り数周というところでホイールのトラブルによりピットイン、ピットアウトした時にはマクラーレン・ホンダを駆るアイルトン・セナに先行を許します。
 ここからマンセルの猛追とセナの逃げ(とブロック)が続き、モナコGP史上に名を残すバトルとなりました。当時、この放送の実況を担当したフジテレビの三宅正治アナウンサーの「ここはモナコ・モンテカルロ、絶対に抜けない」という名調子は日本の視聴者の間でも今も語り草になっています。私も最後の数週は画面にくぎ付けとなり、二人の激しくもフェアな戦いに見入りました。最終ラップに入ったことすらも気が付かないほどで、チェッカーが振られてレースが終わり、セナが優勝した時は、大変感動したものです。
 さて、マンセルがピットアウトした後の三宅アナの実況ですが、横で解説された今宮純氏は三宅アナに「リアルな実況をしてもらったほうが番組のためにもいい」とひたすらしゃべってもらい、自身は合いの手を入れるように短くコメントするように心がけたと述べています。それがあの「一世一代のF1実況」につながったのですが、私は「ここはモナコ・モンテカルロ~」よりも「ここのスピードはホンダは速いぞ」、「ここからの立ち上がりはホンダが速い」という実況の方が気になってしまったものです。いくらセナとホンダパワーを以てしても、ウィリアムズルノーにスピードと加速では勝てないだろう、と思っていました。これは例えとしてはちょっと違うかもしれませんが、スキージャンプの中継で「ここまで飛んでテレマークまで決めてますよ」と思いっきり日本選手に肩入れしちゃう解説を思い出してしまったものです。これは「こんなに遠くまで飛んだ上に、飛型点が加算されるテレマーク姿勢を着地に入れることで高いポイントをマークしている」ということなのですが、中立な立場などこの際関係ないでしょ、というわけです。
 モナコGPに話を戻しますが、実際のところホンダパワーはどうだったのかということですが、本ブログでもよくご紹介しているGPCar Storyに答えのヒントがあります。2013年に刊行されたこのシリーズの3巻目、ウィリアムズFW14Bを取り上げた号で、今宮純氏がこのモナコGPについて解説しています。レース展開に関して言えば、予選3番手だったセナは、スタートで予選2番手でマンセルのチームメイト、リカルド・パトレーゼを抜いて2位に上がっています。マンセルに差をつけられつつも、セナは一周だけスローダウンした(カメラが捉えておらず、なぜセナがタイムを落としたのかは不明だそうです)だけで、あとは一定のペースで2位を走り続け、逆転後はラップタイムではマンセルにかなわないものの、なんとか抑えきっています。予選の行われた土曜までは、スピードではルノーエンジンの方が速かったのですが、決勝日朝のウォームアップ走行では最高速の出るモナコ名物のトンネル出口付近でセナは時速266.6キロ、マンセルは時速265.89キロ、スタート・フィニッシュのコントロールライン付近ではセナは時速246.0キロ、マンセルは時速243.17キロとセナの方が上回っていました。ホンダも時速200キロ以上領域の加速では負けない、という自負があったそうです。もちろん、単純にこのスピードの比較だけですべてを語ることはできませんが「ここのスピードはホンダが(本当に)速かった」と言えるわけで、三宅アナも日曜朝のデータを前提に実況されていたのかもしれないですね。
 このレース、途中まではマンセルの独走なわけですが、他のドライバー達にはさまざまなドラマが待っていました。3位争いはマンセルのチームメイト、当時最多出場を誇るパトレーゼとこの年が初のモナコだったミハエル・シューマッハが延々とバトルを繰り広げました。パトレーゼは1977年からF1に参戦しており、1982年には大混乱のレースを制し、キャリア初優勝をモナコで挙げています。ここでもコーナーの入り口で差を詰められながらも、コーナーの立ち上がりではシューマッハに差をつけ、結果として3位に入っています。シューマッハの車載カメラを見るとパトレーゼが余裕をもってコーナリングをしつつ、リードを保っているのが分かります。まだまだ若手には負けない、というところを見せていました。シューマッハですが「バナナノーズ」と言われたベネトンB192を駆っていました。この年は特徴的なデザインのマシンが多く、フェラーリはF92Aというジェット戦闘機のよう、と評されたマシンを投入しますが、そのラディカルなデザインは早すぎた名機とでも言うべきか、かつてアメリカ海軍で短期間使用されたF7Uカットラス戦闘機に通じるものを持っていました。
 低速コースゆえに非力なマシンでもドライバーの腕次第で・・・となるのもモナコの特徴であり、ベテランのロベルト・モレノやガブリエーレ・タルキーニが弱小チームから予選を勝ち上がって決勝に出走しています。それとは裏腹にこの年のルーキーだった片山右京は予備予選落ちを喫しています。
 また、マンセルのピットインによる首位交代ですが、きちんと把握していたのは独自にカメラを持ち込んでいたフジテレビくらいだったと聞きます。そのあたりの用意周到さも、あの実況を生んだ背景にあるようです。また、この時のモナコ、実は古舘伊知郎氏が実況を担当する予定でしたが本人の体調の問題で三宅アナが代わりに担当したそうで、古館氏はこの一世一代の実況を逃してしまい大いに悔しがっていたとか。

 このレース、印象的だったのはレース後のシャンパンファイトで、疲労困憊した三人のドライバーがお互いを称えあっています。マンセルはとうとう路面に座り込んでしまいました。セナを猛追する中で記録した最速ラップが予選4番手のタイムより速いなど、持てる力を使い切ったのでしょう。アクティブサスペンションを搭載したウィリアムズのマシンは従来のマシンとドライビングの感覚も異なるため、マシンの特性を理解するだけでも大変なのですが、そのマシンでモナコの市街地コースを縦横無尽に暴れまわり、さらにはレース終盤に予選並みのアタックをしたわけですから、いくら「猫よりも素早い反射神経」と言われた「ライオンハート」マンセルでも厳しいレースだったのでしょう。勝者セナはこれで1989年以来のモナコ5連勝となり、翌1993年にも優勝しています。逆にマンセルにとってはモナコはとうとう勝てないサーキットになりました。


1992年モナコGPのプログラム。前座のF3レースについては賞金額が示されたページもあります。

この時のモナコのF3レースでは1997年のF1王者ジャック・ヴィルヌーブをはじめフランク・ラゴルス、ミハエル・クルム、マッシミリアーノ・パピス、ペドロ・ラミーといった日本、欧州などで活躍したドライバーがエントリーしていました。


モナコGPのプログラムは長らく、前年のモナコを制したマシンのイラストが表紙を飾っていました。
1992年(1991年マクラーレン・ホンダMP4/6)
1995年(1994年 ベネトン・フォードB194
1997年(1996年 リジェ・無限ホンダJS43)
 
 マンセルはこのモナコをはじめ「勝てなかったレース」が注目されるくらい強さを発揮し、夏にはタイトルを決めています。彼の駆るFW14Bというマシン、やはりこの時代のF1マシンの完成形だったのかなという思いを強くしています。
 

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無限のパワーが世界一をつかみかけたとき~1999年のF1シーズン~

2020年05月17日 | 自動車、モータースポーツ
 F1は先日、初のレースから70周年を迎えました。本来ならお祝いということになりましょうが、言うまでもなくコロナ禍の影響で夏にようやく開幕できるかな、と言っている状況です。そんな中で、既に来季のドライバーの移籍などが話題になっており、開幕もしていないのに・・・というところです。
 さて、このブログでもときどき紹介していますが、三栄のGPCar Storyでジョーダン199が取り上げられました。1999年のシーズンを戦ったマシンであります。発売から時間が経っていますのでご覧になった方も多いとは思いますが、読んでいて1999年のシーズンのことも含め、いろいろ思い出しました。
 このシーズン、夏までは前年のチャンピオン、ミカ・ハッキネン(マクラーレン)とミハエル・シューマッハ(フェラーリ)の攻防が続いていたのですが、イギリスGPでシューマッハが負傷、長期離脱に見舞われます。これでハッキネン優位となるかと思いきやそうはならず、シューマッハの僚友エディ・アーバインがポイントを伸ばしていきます。そういった争いに割って入ったのが中団に位置する黄色いマシン、ジョーダン199でした。ジョーダンのマシンは日本の無限ホンダエンジン(当然のことながらホンダと深い関係にあったわけですが)を積み、シーズン中盤から後半にかけてハインツ・ハラルド・フレンツェンが2勝を挙げるなどタイトル争いに絡みます。最終的にはドライバー選手権でフレンツェン3位、デイモン・ヒル12位、コンストラクターズ(チーム)選手権では3位となりましたが、最終戦鈴鹿を残した数戦の段階では「もしかしたらフレンツェンが混乱を制してタイトルを獲るんじゃないか」と期待を抱かせてくれました。黄色いスズメバチが描かれたマシンは、巨大チームに対抗する中堅チームということも相まって、なにか「イケイケ」な感じがして、日本のエンジンということもあってティフォシ(フェラーリファン)の私でも応援したくなるものを持っていました。
 本に話を戻しますと、マシン開発にあたったエンジニア、それから無限(現M-TEC)の関係者、ドライバーへのインタビューを通じて、ジョーダンチームの「最良の日々」がいかにして生まれたかを解き明かしてます。また、チームにとってはタイトル争いの分水嶺となったヨーロッパGP(ニュルブルクリンク)での二台のリタイアについても関係者の証言をそれぞれの視点で読むことで何が起きたのかを知ることができました。このシリーズの良いところはこの「複数の関係者の視点」にあると思っています。同じチーム内でも一つの出来事についてそれぞれの視点から語られることで読者にさまざまな想像、判断を与えてくれるように思います。
 そして、このシーズン以降の話も含めて語られていることが多く、それもまた印象的でした。無限のF1参戦については、ホンダ本体が第二期参戦を止めた以降、いつの日か訪れるであろう第三期参戦の間までF1のエンジン開発の灯を絶やさないためのものだったということも語られています(これは当時私自身もなんとなくそんな感じで見ていましたが)。しかし、第三期のホンダ参戦についてはホンダ社内の様々な力関係が働き、当初の思惑とは違う方向に進んでいきます。このあたりは関係者が悔しさをにじませる言葉で語っています。
 また、ドライバーのフレンツェンについては、ジョーダンチーム時代のことは語りたくない、とインタビューを拒否されたそうです。この後のシーズンでのチーム内の扱いなどもあり、触れてほしくないこともあるのでしょう。余談ですがフレンツェンはメルセデスのジュニアチーム出身で、途中でF3000参戦に活路を見出し、日本でも走っていたことがありました。その走りを見た「日本一速い男」星野一義が高く評価し「日本でくすぶってないでヨーロッパで戦ってこい」と激励したというエピソードも残っています(フレンツェン本人は大先輩が血相を変えて自分のところに来たので何か失礼をしたのではと心配したそうですが)。
 フレンツェンがインタビューを拒否したというのも、あれだけの活躍をしたシーズンですから外から見れば輝かしい日々かもしれなくても、チームの内側では様々なことが起きていた、ということの現れなのでしょう。それはどんな世界でもあることですし、本人の中で触れてほしくない気持ちが強いのだと思いました。チームメイトのヒルも、3年前のチャンピオンとは思えないほど精彩を欠いており、このシーズンで引退します。引退までの心の葛藤や、チーム内での微妙な立ち位置などもインタビューで知ることができました。
 この1999年シーズンですが、終盤にシューマッハが怪我から復帰し、タイトルはハッキネンとアーバインに絞られて最終戦、鈴鹿を迎えました。鈴鹿ではハッキネンが優勝して二年連続のタイトルを決めました。フェラーリに関してはシューマッハ2位、アーバイン3位ということでタイトル争いをしていたアーバインを先行させませんでした。シューマッハが僚友を先行させず2位、3位をキープすることでコンストラクターズタイトルを優先させた、という報道もありました。
 
 この鈴鹿のレースは私も現地で観ておりました。フェラーリとしてはドライバーのタイトルは来年にお預けだな、まあ、みんなで頑張ってコンストラクターズタイトルを16年ぶりに取ったから良しとしよう、と思いながらサーキットの出口に向かって歩いていると、私の前を歩く親子連れの会話が耳に入りました。小さな男の子はフェラーリを応援していたらしく、アーバインがタイトルを獲れなかったことを残念そうに話していました。するとお父さんが「チャンピオンになりたければ誰かに手助けしてもらうのではなく、自分の力でトップに立って勝たなければならないんだよ」と優しく諭すように話していました。お父さん、いいこと言うじゃないか、と思ったものです。あの男の子も成人しているでしょうから、あの時の思い出を胸に今でも観戦しているのでしょうか。

1999年日本グランプリのプログラムとチケット。当時、チケットは観戦券と指定券という形で別々になっていました。

同プログラムから、ジョーダンチームを紹介するページ

このブログでもたびたび登場するドイツの玩具プレイモービルでも、F1マシンの入ったセットがありました。銀色はマクラーレン・メルセデス、黄色はジョーダンでしょう。他にもフェラーリを模した赤い色のものなどがありました。ドイツでのF1人気がうかがえます。黄色と銀色のセットはアクセサリーがたくさん入った豪華版でして、いずれ「玩具道楽」のカテゴリーで紹介したいと思います。


 

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40年前、その愛すべき存在に出会った日

2020年05月15日 | 日記
 またまた昔話で失礼いたします。
 今から40年前の昭和55(1980)年の5月、私は初めて飛行機のプラモデルを組みました。これが今まで続くプラモデルとの長い付き合いの始まりとなりました。
 それ以前にもグリーンマックスの「板状キット」でNゲージの客車を組んだことがありましたが、鉄道模型以外のプラキットはこの時が初めてでした。グリーンマックスのキットをもっと上手に組みたいなあ、というのと鉄道模型以外のスケールモデルへの興味も少しありまして、プラモデルを組んで経験を積んでみたい、となりました。当時住んでいた家から少し離れたところにあった科学教材のお店でプラモデルを扱っているのを知っていましたので、ある日の放課後、私はそのお店に出かけてみました。
 そこで私が買ったのはハセガワ1/72の紫電改でした。当時の価格は350円だったと思います。正直申し上げてちゃんと組めなかったのですが、それでも完成させた飛行機の姿に私は満足でした。ここから飛行機一筋だったかと言うとそうではなく、飛行機とどちらにしようか迷った軍艦の方に私の心は向かうことになります。次に購入したのは1/700ウォーターラインシリーズの重巡洋艦「衣笠」でした。当時のウォーターラインシリーズは巡洋艦でも500円でしたので、小学生のお小遣いで買えたのです。
 それから1~2年ほど、しばらくは軍艦に夢中になりました。ほとんどが塗装せずストレートに組んだだけでしたが、空母も駆逐艦も戦艦もという感じで、我が家の押し入れはさながら軍港状態になったのです。
 ちょうどそのころ、世の中ではガンダムのプラモデルが流行していました。初めて入る模型屋さんに行くと「うちはガンダムは扱ってないよ」とか「売り切れだよ」などと開口一番言われたことも一度や二度ではありませんでした。しかし私はガンダムのメカよりも旧日本海軍の軍艦に親近感を感じており、それらの諸元を空で言えるような(かなり変わった)子供でしたので、ウォーターラインシリーズの細長い箱を手にレジに向かうと、店のご主人から好奇の目で見られたものです。
 駆逐艦以上の大きさの船を、各タイプ一隻ずつは作ったことで作りたいものもなくなってきたことと、家からさほど遠くない距離に航空自衛隊の基地があったことで、やがて飛行機の方に興味が戻り、今に至っているというわけです。大人になってからもたまに軍艦のプラモデルを作ることがありますが、超精密な技巧を持っていらっしゃる他のモデラーの方々には到底太刀打ちできませんので、専らそういう方々の作品を眺めることとが主となっています。港で公開される海上自衛隊の艦艇を観に行くのも好きなので「軍艦趣味」がなくなったわけではありませんが・・・。

 さて、初めて作ったプラモデルから40年ということで、ハセガワ1/72の紫電改を再び組んでみることにしました。

箱絵は昔と変わりません。

 このキット、初版は昭和52(1977)年ということですが、繊細な凹モールドのキットです。このスケールでは他にアオシマからもキットが出ています。ハセガワのキットですが、さすがにくたびれている感はあるものの、バリを丁寧に取り、翼の後縁部を薄くしてあげれば十分に見られるものになります。コクピットなど、細部はさすがに最近のキットにかないませんが、なかなかよくできたパイロットも入っていますので、お腹にできたピンホールを埋めて操縦席に座ってもらえば十分です。

 塗装とマーキングについては有名な松山の343航空隊のものですが、現行のキットのデカールでは胴体の帯は赤と黄色から選択するようになっています。昔作った際に入っていたデカールの白い二本の帯が忘れられず、キットのオリジナルではなく「アシタのデカール」からもってきました。

主翼後縁の「フムナ」標記はキットのオリジナルですが、シルバリングをおこしています。失礼。

全般に汚しは控えめにしました。紫電改は機体上面の塗装のスレハゲが有名ですが、このスケールではくどくなってしまうように感じます。
 数年前に1/48で紫電改を作ったことがあり、そのときは1か月以上「川西の緑色」まみれになるくらい紫電改とおつきあいしましたが、今回は2回の週末でさらっと作ることができました。気軽に作れる小さなキットですが、40年目の記念になりました。

今回のおまけ 大人になってから「建造した」艦艇です。

 手前はイージス艦の「みょうこう」、奥が先代の重巡洋艦「妙高」です。こうして大きさ比較が容易にできるのも模型の愉しみのひとつです。


 武勲と強運の駆逐艦「雪風」(手前)と病院船時代の氷川丸です。

 
 

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もうひとつの「特急さくら」

2020年05月14日 | 鉄道・鉄道模型
 前回のブログで東海道を走っていた茶色い客車時代の「特急さくら」を紹介しましたが、ここにたどりつくまでにもう一つの客車編成がありまして、それが本日ご紹介するものです。
 ここで40年ほど(我ながらその年月に驚いています)時計を戻しましょう。私は父が買ってきた入門用の車輛からNゲージの世界に触れましたが、そろそろ編成ものも欲しいなあとなりました。その頃、関水金属(現在のブランド名のカトーではなく、この時代ですから関水と呼んだ方がいいでしょう)がC62とスハ44系の「つばめ」(もちろん茶色い客車です)編成などを発売していました。今どきの車輛ではなく、既に本線上では見られなくなった編成の方に私たちは興味があったのか、C62の「つばめ」は父が、EF58の青大将編成は兄(今もバリバリの鉄道趣味人です)が買い「はと」のマークをつけていました。では次男の私は、となりますが「スハ43が新製品で出たし、スハ43系で組める編成にしてみよう」となったわけです。戦後の「さくら」がスハ43系を使用していた時期があったということで私の編成は「さくら」を名乗ることになりました。ただし、客車については既に茶色い客車の編成もありましたので青15号となり、「さくら」とは言っておりましたが史実とは全く異なる編成となりました。
 関水金属のスハ44系は茶色だけでなく、青大将(現在の製品の淡緑色とは違い、白緑色という感じです)、青15号のバリエーションがありました(さすがに展望車は茶色と青大将だけだと思います)。こうしてスハフ42、スハ43、マシ35、スロ60、スハフ42を青い客車で揃えることになりました。今日のように特定日の特定編成が発売されているわけではなかったですので、モデラーは時に妥協したり、想像力を今以上にふくらませて楽しんでいたわけで「まあ、模型の世界だから」ということで何の疑いもなく、史実と違う色の客車編成が出来上がりました。
 
青のスロ60です。そもそも青く塗られていたことがあったのか、ということになりますが・・・

マシ35の青色はこのタイプではなく、GMキットに見られる資材搬入口がついたタイプが正しいです。

スハ43については、客扉が原型を保っており、現行の製品とは異なります。

 これらの客車を牽引したのは関水のEF57でした。勢力としては少数派の機関車ではありましたが、EF57はその頃引退したばかりで、製品化されたのもファンから注目されていたということがあったからでしょう。私もこの機関車の無骨なスタイルが好きで、交友社の「EF57ものがたり」を買ったくらいでした(今も私の書架にあります)。それにしても小学生でEF65-1000番台ではなくEF57が好き、というのも我ながら相当変わっていますね。模型のEF57ですが、末期の東北本線の姿ですので、東海道時代でもありません。ますますこの「さくら号」は時と場所を超えた列車になってしまいました。それでもお小遣いを貯めて、当時高田馬場にあった関水金属のショールームに買いに行ったこれらの車輛達は、少年時代の私にとっては特別な存在だったのです。

 時は流れて私も大人になり、C62の「つばめ」も、EF58の青大将も自分で購入しましたし、EF57はワールド工芸から東海道時代の完成品が発売されており、私のコレクションに加わりました。だからといって子供の頃に買ったこの客車たちの価値がなくなったのかと言えばそんなことはありません。例えば、マイクロエースから発売の試作ディーゼル機関車DF90に牽かせると意外に似合うのです。


 もともとの編成が架空のものですから、こういった試作機が牽くとなんとも言えない味があります。DF90は当初常磐線での運用にあたり、後に秋田地区にいたということですが、ここでは再び常磐線と東北本線に来ていただき、気動車時代の「はつかり」を補完する臨時列車といった設定で楽しんでいます。

 前回の茶色い「さくら」や青大将色時代の「さくら」ですが、ほとんどの形式が既存の製品で再現可能となっています。特定編成を特別企画品でリリースされているカトーさんが発売してもおかしくなさそうですが・・・。そのときはぜひEF57も東海道時代で製品化していただきたいです。茶色い「つばめ」や「はと」の先頭にも立ってましたからね。
(この記事は令和2年5月15日に一部加筆しました)

 
 

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名列車を楽しむ 特急さくら

2020年05月11日 | 鉄道・鉄道模型
 久々に鉄道模型の記事でございます。
 鉄道模型の魅力として、特定の路線や列車の変遷を楽しむというものがあるかと思います。テーマを決めて地元の路線やあこがれの列車をコレクションしている方も多いでしょう。
 私の場合、このブログを始めたころに紹介した、583系を使用していた特急「はつかり」や東急のステンレスカーがそれに該当します。それ以外にも列車の変遷ということですと特急「さくら」も歴代の編成が(すべてではありませんが)私の模型のコレクションにはあります。
 多くの方の記憶やイメージですと、特急「さくら」は東京と長崎を結ぶブルートレインだったり、九州方面の新幹線の愛称だったりするわけで、模型でも製品が出ており、特に20系寝台車についてはカニ22やマヤ20と言った変わり種もいることから、模型的な面白さもありますが、今日は「さくら」がブルートレインになる前の話となります。
 「さくら」という愛称は戦前の特急に遡ることができますが、戦前は東海道の特急「燕」、「富士」に次ぐ存在で、三等車主体でした。戦時中に特急運転が一旦取りやめとなり、戦後の昭和24年に「平和」号の運転で復活しました。「平和」は程なくして「つばめ」に改称、続いて「はと」も運転されます。「さくら」は「つばめ」、「はと」を補完する臨時特急として復活します。
 臨時特急ということで「つばめ」、「はと」がスハ44系、スロ60を使用していたのに対し、「さくら」は急行用のスハ43系、スロ54が使用され、食堂車は連結されていましたが、展望車は連結されていませんでした。それでも座席指定の特急であり、スピードも「つばめ」、「はと」に劣らなかったので好評だったそうです。
 ということでそれが今回ご紹介する編成です。

 昭和30年前後の編成をイメージしています。カトーのスハフ42、スハ43、マシ35、スロ54をつなぎ、編成の最後尾はスハフ42となります。スハ43系は単品で買いそろえたもの、食堂車マシ35はカトーの旧製品を中古で購入したもの、スロ54はカトーの「かもめ」号用のASSYパーツをアソートしたものが数年前にホビーセンターカトーで売られており、それを購入して組み立てたものです。年代的には模型のぶどう色2号ではなく、もっと暗いぶどう色1号が正しいわけですが、それぞれの製品を極力生かすこととし、塗り直していません。スハ43、スハフ42については等級を示す「Ⅲ」の標記をインレタで貼り、スロ54については窓下のサボに行き先が表記されていたので青の水性塗料で行き先を塗りつぶしている程度です。
スハフ42にはバックサインがありました。

 こちらは昔懐かしいグリーンマックスの金属製トレインマークを使用しています。おそらく1970年代だったと思いますが、客車列車、電車、気動車用のトレインマークがグリーンマックスから各種発売されていました。古いファンなら目にしたこともあるかと思います。なかなか美しい仕上がりなのですが、機関車につけるには若干大きめでした。むしろ客車のバックサインなどに使えそうです。
 牽引機は電化区間では茶色のEF58が、非電化区間ではC59などがその任にあたっていました。実物についてはヘッドマークをつけて運転した写真も残されています。

 マイクロエースのC59が牽引しています。編成全体のイメージはこんな感じです。我が家のお座敷を走っています。

 車輛ケースには金属製のマークを貼りつけています。

 実物の編成に戻りますが、マシ35ではなく三軸ボギーのマシ29やマシ38といった食堂車が入ることもあったほか、臨時特急という性質もあり、外国の団体客の輸送だったのか編成の後尾に一等車や展望車が併結されたこともありました。
 茶色だった「さくら」の編成も東海道本線の全線電化で「つばめ」などと同様に「青大将」色に変わりました。客車もスハ44系主体で展望車がつかないでスハフ43が最後尾を務めるという編成となりました。こちらはマイクロエースからも発売されていました。
 さて、なぜどちらかと言えば地味な、茶色い「さくら」を再現してみようとなったのか、これにはもう一つの客車編成の存在があります。それについては次回書くことにしましょう。


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