工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

私を趣味人にした本・飛行機模型編

2019年09月28日 | 飛行機・飛行機の模型
 こんにちは。
 このところブログの更新も滞りがちでした。
 あるコンペに作品を出品するために9月に入ってから「追い込み」状態だったのですが、昔に比べて眼も悪くなったし、集中力も途切れがちで、なかなか進みませんでした。先日、無事に搬入を済ませましたが、その後に風邪をひいてしまうという体たらくで、我ながら困ったものです。なかなかパソコンの前に座れなかったというのはラグビーの中継を観ていたというのもあるんですけどね。日本戦に限らず世界レベルの試合を時差がなく観られるというのは、ありがたいものです。
 さて、このブログも昨年の今頃スタートしまして、2年目に入っております。飽きっぽい私にしては続いているなあと自分でも少々驚いております。また、このようにゆるいブログですがお読みいただいている方がいらっしゃるというのは、誠にありがたいわけです。
 今後ともどうかよろしくお願いします。
 
 今日は、私を趣味人にした書籍の話を少ししようと思います。1970年代後半に雑誌「モデルアート」でデビューされた黒須吉人さんというライターがいました。この方は70年代後半に飛行機のキット評を書かれたり、連載記事を持ったりされていたのですが、連載記事と書きおろしの記事をまとめたのが「プラモロジーAtoZ」と「プラモロジー8G」という増刊号でした。お読みになった方はお分かりかと思いますが、この時代のモデルアートのライター諸氏はかなり個性的で、時にはギャグを散りばめたり、かと思えばとても真面目な記事を書かれていたりと、今のように新製品があふれていたわけではない時代だからこそ、一つ一つの記事が「読ませる」ものばかりでした。
 黒須さんの著作もまさにそんな感じだったのですが、本屋さんで手に取って一気に魅かれ、買って帰ってからも読みふけったことを覚えています。
 一人のライターをフィーチャーして増刊が刊行されるというのも珍しかったわけですが、記事の内容も当時としては他に例を見ないものばかりです。これらの書籍が刊行された1980年代初頭ではまだ高価で珍しかったエアブラシについて準備から塗装、後片付けに至るまで解説をされているほか、シリコン、レジンを使った部品の複製の方法、ウェザリングの技法についても章を割かれています。私自身、今でもウェザリングの記事を参考にしているくらいです。また「プラモロジーAtoZ」の巻末にはプラモデル用語の英和辞典も載っており、これはプラモデルに限らず、実物の航空機趣味にも役立つ内容です。
 エアブラシについては高校生になってから私も購入しました。ピースコン・ヤング88というエントリーモデルで、コンプレッサーを買うお金は当然ありませんでしたので、エア缶に接続していつもガスの残りを気にしながら使っていたものです。
 黒須さんの著作や、モデルアート誌を通じて「飛行機の模型も丁寧に作って美しく彩色をして、ウェザリングを施せば本物を縮尺した素晴らしいものが出来上がるんだ」ということを知ることになり、鉄道趣味と並行して飛行機とその模型への愛情が深まっていくことになります。ただし、飛行機の模型については自分の中である程度メソッドが確立するのは20歳近くになってのことなので、随分と遠回りしていたようにも思えます。

 黒須さんは1980年代には増刊号などでお名前を拝見することが多かったのですが、90年代初頭に連載が復活し、それらの記事を中心にまとめたものが「空モデルテクニック」でした。ここではタミヤのエアブラシ「スプレーワークHG」に着目され、私も二代目のエアブラシとして購入することになります。タミヤのスプレーワークは細かい作業の多い飛行機のプラモデル向きではない、というのが私の周囲での評価でした(ただし、Nゲージのモデラーで美しい塗装をしている方もいました)が、スプレーワークHGについては精密な作業に向いたエアブラシとして、改良を続けながら多くのユーザーに愛されていることは今更説明の必要もないでしょう。

 黒須さんはモデルアートだけでなく、大日本絵画などでも活躍されましたが、残念なことに何年か前に亡くなられています。生前、プラモテルの展示会の場でだったと思いますが、何度がお目にかかったことがありました。少年時代の憧れの方に会えてとても嬉しかったのと、緊張したことを覚えています。お話の中で一つ一つのキットを時間をかけて丁寧に作っている様子をうかがうことができましたし、ファンからいただいた手紙についてはすべて取ってあるというお話に、読者と対話するということを大切にされていたことをを思い出しました。
 
 本ブログの一回目に私の工作台の周辺のものや、お気に入りのものを配置して撮った写真があるかと思いますが、あれはまさしく「プラモロジーAtoZ」の表紙に影響を受けたものでございます。黒須さんの足元には及ばないわたくしではありますが、モデラーとして、ブログという場所ではありますが文章を書く者として敬意を表したものと思っていただければ幸いです。




 

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「流線型の鉄道」展へ行ってきました

2019年09月15日 | 鉄道・鉄道模型
 旧新橋停車場鉄道歴史展示室で開催中の「流線型の鉄道」展に行ってきました。
 1930年代、鉄道の世界では「流線型」が一大ブームとなり、これらの現象が鉄道だけではなく、他の乗り物、さらには生活用品などの世界にも波及しました。蒸気機関車は曲線で構成された平滑なカバーで覆われ、旅客車もウインドシル・ヘッダーがなく、曲面で構成された車体となった、あの時代のことです。
 本展覧会では、主に蒸気機関車にスポットをあてながら、この流線型時代について写真、ポスター、Oゲージなどの大型の鉄道模型も交えて紹介しています。
 速度への挑戦が華やかだったこの時代、英独は蒸気機関車の速度記録を競い、アメリカでは各鉄道会社が蒸気機関車だけでなく、伸長しつつあった内燃機関の車輛も速度を競い、さらには車体の素材として使われるようになったステンレスがそれに拍車をかけておりました。
 日本でもC53の1両とC55の21両を流線型としてデビューさせています。これらの車輛には、後の新幹線にも関わることになる鉄道技術者の島秀雄が関与しています。C53、C55とも流線型にすることで速度の向上に特段寄与するものではなかったと言いますが、蒸気機関車ならではの排煙の流れなどを考慮して設計したというあたり、デザインと実用の両方を考慮したものだったのでしょう。個人的なことになりますが、日本の流線型機関車については子供の頃に写真で見た折に、デザインとしては受け入れることが難しく、良さを見出すことができたのは大人になってからでした。
 日本の車輛については他にもEF55や日本製、ということでは忘れてはいけない南満州鉄道のパシナと「あじあ号」も紹介されています。満鉄については、模型等の展示はありませんがパシハやダブサといった機関車も欧米の機関車と遜色ないスタイルをしています。
 流線型と蒸気機関車というのは、決して相性の合うものではありませんでした。動輪を中心に走り装置など、保守点検を容易にするためには車体全体をカバーで覆うのは実用的ではありません。ドイツでは動輪にあたるところはシャッターをつけています。アメリカではとうとう走り装置をむき出しにし、動輪やロッド類もデザインの一部として取り込むことでデザインと実用を両立するようになりました。
 本展覧会では蒸気機関車にスポットを当てていますので、ディーゼルカー、電車についての紹介は少なめです。これらを含めるとこの展示室で開催するよりも大宮の鉄道博物館で開催する規模になりますので、致し方ないところでしょう。それよりも大型の鉄道模型をこれだけ展示したというのも珍しく、中には実物の車輛が現役の時に作られたものもあると思われますので、これらの模型だけでも見る価値があると言えるでしょう。

 この展覧会にはありませんが、電車についても流線型時代には鉄道省がモハ52をデビューさせています。こちらは実車が「リニア鉄道館」にありますね。諸外国でもイタリアのように電化が進んだ国では、楔型とも言うような独特の先頭形状のETR200形がデビューしています。また、内燃機関の車輛でも本展覧会で紹介されているドイツのフリーゲンター・ハンブルガーが有名ですし、日本でもキハ43000、東横キハ1など流線型を車体デザインに取り入れた車輛が生まれています。他にも前頭部を少し傾けたり、少し丸めたりと言ったものもありましたが、極めつけは九州は朝倉軌道の木造ガソリンカーで、名もない職人さんたちが作ったであろう木製車体は、一度見たら忘れない、でも誰が見ても流線型、と言える強烈なスタイルをしています。あれはきっと、都会で流行っている「流線型」を再現してみたかったのでしょう。

 本ブログは乗り物をネタにしていますので、他の乗り物とこの時代のことも書きましょうか。この時代、もともと空気抵抗を考慮しなくてはならない航空機はもちろんのこと、船舶も艦橋や煙突が丸みを帯びたデザインとなったり、流線型はあちこちに波及していきます。自動車でも無骨なスタイルから徐々にスマートなスタイルが主流を占めるようになり、フォルクスワーゲン・ビートルもあの時代が生んだデザインと言う感がありますし、日本の「くろがね四起」も軍用自動車ではありますがデザイン的にはあの時代を感じさせるものがあります。
 本展覧会でも言及されているところではありますが、デザインとしての流線型は、過度な装飾を廃し、シンプルな直線や曲線で構成されたアール・デコとも結びついて生活の中に入っていくようになりました。考えてみるとEF55の車体の飾り帯なども、アール・デコ様式の影響を感じさせますね。

 流線型時代は戦後生まれの私にとっては遠い昔の話ではあるのですが、この時代の車輛には好きなものもあり、日本型、外国型問わず模型でも持っています。機能だけではない、デザインの美しさに魅かれてのことなのでしょうか。それから、EF55が「復活」して旧型客車を牽引した列車に一度乗車したことがあります。私の中では蒸気機関車と同様、いやそれ以上に「伝説」の存在であり、ことのほか印象に残る旅となりました。
 
 



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Summer of ’86

2019年09月01日 | 鉄道・鉄道模型
 今日は趣向を変えて昔話でもいたしましょう。
 昭和61(1986)年7月に、私は上田交通を訪れています。上田交通とその個性豊かな車輛たち意識したのは「とれいん」誌100号(1983年4月号)に特集記事が掲載されたときだったかと思います。地方私鉄に興味を持ち始めてはいましたが、上田はなかなか訪れる機会もありませんでした。ところが、昭和61年秋に昇圧のため旧型車が全廃、東急5000形が入線、というニュースを聞き、旧型車が廃止になる前に行ってみなくてはと思い、上田へ向かったというわけです。
 既に学校も夏休みに入っておりまして、私は上田までの往復乗車券を手に特急電車に乗り込みました。高校生の頃は「青春18きっぷ」を愛用していましたが、上田までは日帰りで各駅停車で行くには少々遠いこと、また、信越本線の横川~軽井沢間は普通列車の本数が少ないため、特急を使ったのでしょう。
 列車が上田駅に着き、上田交通のホームに向かいます。いましたいました、丸窓電車ことモハ5250形が停車しています。早速これに乗って、まずは終点の別所温泉まで乗ってみることにしました。

 さて、今回の記事に掲載している写真ですが、コンパクトカメラで撮ったスナップ的なものばかりで本来なら鑑賞に耐えるものではありません。まともな形式写真の一枚くらい撮っておけよ、と33年前の自分に突っ込みを入れながら、このブログを書いております。形式写真や構図を意識した写真を撮るようになったのは、「とれいん」誌で松本謙一氏の鉄道写真に関する連載記事を読んでからなので、もう少し後のことになります。
 さて、本題に戻りまして、丸窓電車の写真を何枚か撮りながら、今度は上田まで戻り、途中、車庫のある上田原で降りてみようと思いました。
 ニス塗が美しい車内です。

 上田原で下車して車庫の様子を撮影しました。車庫の方が顔を出してきて「次の電車が来るのは〇〇時〇〇分なので、それまで好きに撮っていいよ」と庫内での撮影を許していただきました。

 前述の「とれいん」誌では見ていましたがなんとも風情のある車庫周辺です。旧型車廃車を惜しむファンがたくさん来ているのかと思いきや、上田原にいたのは私のほか2人くらいだったと思います。車庫の立ち入りについても、事務所で記帳を求められたりすることもなく、なんともおおらかでした。

元は長野電鉄にいた「川造タイプ」のモハ5270形(左)と複雑な来歴を持つモハ5370形(掲載にあたってトリミングしています)
 上田原というと必ず紹介されるのが、木造車体が転じて倉庫となったこれです。

 電気機関車のED25です。

 水田を挟んだ道路の側から、留置されている車輛を撮りました。
 長野電鉄の車籍を持つモハ610形

 サハ60形。こちらもルーツが省線電車だったりと、車体はおとなしいですが個性的です。

 持ち込んだカメラが限られていたこともあり、思ったほど撮れた形式も少ないです。一形式一輛が魅力の鉄道でしたので、今ならあれを撮って、これを撮って、となっていたことでしょう。
 お昼ご飯もこのあたりで買いました。駅の近くに雑誌なども置いている食品スーパーがあって(今ならコンビニでしょうね)、そこで買ったものを食べた記憶があります。当時は電車に乗る、写真を撮るということに精一杯でしたから、土地の名物を食べるとか、そういうことに目が向かなかったと思います。後年、長野電鉄を撮りに行ったときは、美味しい信州のお蕎麦をいただいております。
 そうそう、東急からの貸し出し車輛もいました。

 電気容量の関係で上田⇔中塩田の区間運用となっていました。隣の自動車も80年代しています。
 後方にはガソリンスタンドとセブンイレブンの看板が見えます。あの時代、東京23区内では個人商店がまだ強く、コンビニは少数派でしたが、地方ではコンビニが進出していたのですね。
 しばらくは上田原周辺で写真を撮りました。


 後ろにコンクリ造りの集合住宅が見えます。旧型電車にコンクリの建物という組み合わせは決して背景にしないような構図ですが、この時代の空気を感じ取っていただきたく、掲載しました(トリミングしています)。

 上田交通の車輛ですが、地方私鉄ということでもっと薄汚れたりしているものかと思いましたが、留置されて使用されていない車輛はともかく、現役の車輛達はとてもきれいに手入れされていたのが印象的でした。車体の濃紺も光線によって色合いが違って見え、それもまた魅力的でした。
 陽も傾いてきましたので、帰ることにしました。新型車投入の告知が貼りだされておりました。

 おそらく途中まで特急を使い、高崎あたりから普通列車で上野まで帰ってきたころには、すっかり暗くなっていました。
 
 この上田行ですが、私にとって地方私鉄が趣味の対象となる決定打となりました。その後も旧型車が残る各地に足を運び、自分なりの風景や車輛を構築できないかとグリーンマックスのキットを切り継いだりしながら、架空の地方私鉄車輛を作っていくことになります。
 そして、あれから時が流れ、Nゲージでは完成品なんか出ないだろう、と思った上田交通の車輛も、鉄道コレクションでプラ製品が入手できる時代になりました。あとはそれを走らせる舞台を用意しなくてはいけませんね。
 T-SQUAREの「Autumn of '75」という美しいバラードを聴きながら、あの夏の日を思い出していました(曲名は秋ですけどね)。とても暑く感じられた日でしたが、記録を見ると30度に達していなかったようです。この年は上田だけでなく、春には友人たちと青春18きっぷで本州を半周するような大旅行をしています。また、飛行機の趣味でも初めて浜松基地に足を運ぶなど、行動範囲が広がった一年でした。そして、次の年の春に、国鉄が民営化されることになります。

 今回はカラーネガをデジタル化したものを掲載しました。プリントの方はまだ劣化していないのですが、ネガはだいぶ劣化が進んでおり、空の色などが抜けてしまっていました。飛行機の写真もデジタル化したものがありますので、いずれまたご紹介しましょう。
 

 
 



 
 


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