工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

カトー マイトラムクラシックがやってきた

2024年06月25日 | 鉄道・鉄道模型
 ご無沙汰しておりました。本業が忙しく、また模型の方もあれこれ手を出しているうちにパソコンの前になかなか座れず、ということで6月が過ぎてしまいました。
 
 さて、カトーがNゲージで「マイトラムクラシック」という2軸単車のフリーランスの市電を発売しています。クラシカルな2軸市電は広島の「ハノーヴァー電車」がリリースされて久しいわけですが、こちらはバリエーションが4種類ありまして、それぞれ赤/白、青/白、黄/白、緑/白の2トーン塗装で、特定のモデルを持たない自由型となります。冬に赤白塗装が、そして先日青白塗装が我が家にやってきました。
 ちょうど欧州型の建物をいくつか組んだりしていたものですから、トミーテックのワイドトラムレールの上に電車を乗せ、背景に建物を置いて写真を撮ってみました。

建物はファーラー製ですが、壁はファレホで再塗装し、欧州の建物でよく見かける雨戸をプラ材で表現するなど、それなりに手を加えています。
赤白塗り分けの車輌、ウィーンあたりの電車を思わせます。あの赤白塗装はウィーンの街に似合っていたし、このような古くて小さな市電が保存されていると聞きました。

左側はジオコレの教会です。屋根を塗りなおしています。


青白塗り分けの車輌も来ました。路面電車のだいご味、平面交差ですね。青白塗装はその昔ミュンヘンを訪れた際にこの塗り分けの路面電車をたくさん見かけました。鉄道コレクションの海外路面電車シリーズでミュンヘンの車輌もありましたね。バイエルン州の旗が青と白の二色ですので、街のいたるところでこの色を見かけた記憶があります。
マイトラムクラシックは2輌編成のセットですが、もちろん単行で運転もできます。

後ろの映画館「さらば友よ」に「狼の挽歌」ですか。なかなかマニアックな名画座なようです。

さて、肝心の走りの方ですが、スムースかつ静かな走行です。重心が少し高めのせいか、ふらつきもありますが、それもまた実物らしい妙味ということで悪くないものです。
セットには屋根に使う広告看板も入っています。また、ナンバー、行先、系統板などは自分で用意する必要があります。私もこれから手元の在庫を見つつ、まずはこの電車に似合いそうなナンバーを付けたいところです。




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特急用客車の光と影 スハ44系客車の本

2024年06月14日 | 鉄道・鉄道模型
 ネコ・パブリッシングの「RM LIBRARY」は毎号ワンテーマを深く掘り下げて、特定の型式、路線、ときには「工場」まで紹介しているシリーズです。私もこのシリーズは実物への理解、模型の資料と重宝しているのですが、最新の287号は「スハ44系客車の履歴書」(和田 洋著)というテーマで、気になるテーマだったものですから購入いたしました。

 スハ44系は戦後の特急運転再開から少し遅れはしましたが、特急専用の座席客車として新造されました。スハ44、スハ44に車掌室をつけたスハフ43、車体の一部を荷物室にしたスハニ35がそのグループに属します。小さな窓がたくさん並んだ姿は壮観ですが、当時の3等座席車としては特異な立ち位置にありました。というのも、当時の東海道線の特急「つばめ」、「はと」に連結するためにボックス席ではなく2人掛けのクロスシートがずらりと並び、しかも固定されておりました(後に回転するように改造されましたが)。足元も少しゆったりしており、また背もたれもやや角度がついていましたので、通常の3等よりもワンランク上の「特ハ」という呼称も部内ではあったようです(飛行機のプレミアムエコノミーみたいですね)。座席の進行方向を固定していたというのは、当時の特急は機関車のすぐ後ろに荷物室を持った車輌がつき、3等車、2等車、食堂車・・・とつづき最後尾は展望車となっており、終着駅に着くと三角線を使って回送して向きを変えて上り列車でも最後尾に展望車が来るような運用をとっていたことによるものです。この特急の編成の美しさ、と言っても良いと思いますが、それを構成する車輌としてスハニ35、スハ44はマッチしていて、小さな窓が並ぶ姿がより「特別な列車」であることを際立たせていました。
 スハ44については東海道路の特急として、さらには山陽路の「かもめ」に使われ、その後は常磐線・東北本線の「はつかり」に、後には急行列車に併結されて・・・というくらいの知識でおりましたが、それだけではないさまざまな運用の記録が、豊富な編成の記録とともに紹介されていて興味深かったです。どれも模型で再現してみたいですね。
 特急専用として製造されたがゆえに、特急の電車化などで活躍の場がなくなってからの方が実にさまざまな列車に組み込まれています。また、スハニ35については初めから東北に配属されたグループもあって、ローカル列車に組み込まれて走る姿は意外でした。さらに、本書では昭和30年代に運転された団体観光列車として使用されたスハ44系についても触れており、青15号と車体裾にクリーム色の帯を巻いた塗装についても解説があります。
 スハ44は昭和40年代から東海道線の夜行急行に組み込まれており、寝台車の後ろに連なる姿はさしずめ夜行バス的な感じですが、硬くて直角の座席を持つ座席車よりは幾分快適だったことでしょう。こうした優等列車だけでなく、末期には四国でローカル運用にもついており、座席についてもボックスシート化されてしまったものがありました。最後に残ったスハフ43も昭和61年に型式消滅ということで、国鉄の最後まで見届けたような感がありますが、大井川鉄道で保存されております。知っているようで知らない話も多く、楽しみながら勉強させていただいた一冊でした。そうそう、私も「さくら」の青大将時代を作らないと。

 特急用の客車で座席車となりますと、20系寝台車のグループにはナハ20、ナロ20といった座席車もありましたし、波動用ではありますが14系座席車というのも走っていました。電車化、気動車化が進んで「客車特急」は寝台特急を除くと早いうちから珍しいものになりましたが、それゆえに模型では多少のifもあり、ということで20系の座席車で組んだ昼行特急とか、14系座席車に本来なかったグリーン車や食堂車をつけて楽しんでおります。そのあたりのお話はまたいずれ・・・。
 ともあれ、本来の「花形」運用の期間より、さまざまな列車に組み込まれることが長かった形式ではありますが、どの列車でも存在感を放っているように見えます。そこは「元」スターの矜持なのか、どんな場所でも置かれた場所で咲くことができるこの形式の特性だったのかは分かりませんが、模型でもそのさまざまな塗装とともにこの形式が入った編成で楽しみたいものです。

(茶色時代・カトーの「つばめ」セットより)


(青大将時代・カトーの「はと」セットより)



(特急「はつかり」仕様。右からスハニ35、スハフ43、スハ44。スハフにはテールマークがありました)

 
 
 

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いつも行ってたこんな店 音盤遍歴編

2024年06月06日 | ときどき音楽
 銀座の山野楽器本店がCDの取り扱いを止めるというニュースが出ていました。一時期は地下から上階まで様々なジャンルのCDを取り揃えており、私もときどきではありますが、あのバンドの最新アルバムに、海外ミュージシャンのレアな直輸入盤にとお世話になりましたし、カシオペアやサックス奏者の小林香織さんのストアイベントでお邪魔したこともありました。
 音楽が配信などさまざまなチャンネルで聴くことができるようになったこと、通販の発達で欲しいソフトをピンポイントで買えるというのは大きいのですが、レコード屋さんというのは本屋さんと同様、周囲の商品も含めて眺めて、手に取り、さらには試聴してというのが楽しみなわけで、ジャケ買いなんていうこともできるわけです。
 私自身の音盤遍歴には当然さまざまなレコード屋さんがあるわけですが、10代の頃は近所のレコード屋さんにお世話になっていました。こちらは完全に個人経営のお店で、親切なおじさん店主が店番をしていました。昔は各駅停車しか止まらないような私鉄の駅前にも、本屋さん、花やさん、レコード屋さんはあったものです。最初はエアチェックなどのためにカセットテープ(ちなみにソニー党でした)を買い、やがて音楽ソフトとしてのカセットテープ、さらにはCDを買うようになりました。まんべんなく商品を揃えていて、フュージョン、ボサノバも強かった印象があります。T-SQUAREの「WAVE」の初版をここで買っています(写真集がついていました)。また、大学4年の時に就職試験が一段落した帰りに和泉宏隆さんの「アムシー」を買ったのもここでしたし、ジャケットの美しさで気になっていた鳥山雄司さんの「プラチナ通り」も「ジャケ買い」で買ったのがここだったような・・・。
 やがて沿線の都会、高田馬場でも買うようになります。ここには大正時代に創業した「ムトウ楽器店」という老舗がありました。高田馬場から比較的近いところにあった亡母の実家には蓄音機があったそうで、ムトウ楽器店の方が御用聞きよろしく訪ねてきて「今度こんなレコードがでました」と営業していたと母から聞いたことがありました。もちろん、平成のレコード屋さんはそんなことはなく、高田馬場駅近くにあった本店だけでなく、ジャズ・クラシックで近くのビルに別の店があったり、映像ソフトだけ近くのBIGBOXで売っていたりといったこともありました。洋楽、邦楽問わず品ぞろえは十分で、ワールドミュージックもありました。どうでもいいことですが、シャンソンのところには「セルジュ・シャルロット・ゲンズブール」、「ジェーン・バーキン」と並んでたなあ。
 ジャズ・クラシックのコーナーは大人だけでなく、学生の街ということもあってか大学生もよく訪れていました。大学のサークルなどで演奏している人たちが「勉強のため」買っている感じもありましたし、バンドならデビューから最新作まできちんとそろっていましたし、未知のミュージシャンのCDも随分買い、そこからファンになったりもしました。また、大阪の「澤野工房」からリリースのティツィアーノ・ヨースト・トリオというヨーロッパのジャズミュージシャンのCDもお店でかかっていたのがきっかけで買い、愛聴盤になっています。発売日に入荷していない、なんていうことが稀なくらいで、随分とお世話になったものです。かなり珍しいものもCD化されているものなら網羅している感じでした。大学2年の頃、バイトの給料を握りしめて、スクエアの「TRUTH」と「YES,NO」を買ったのも思い出です。当時は発売日と同時に買うことがあまりなく、スクエアに関して言えば「NATURAL」あたりから発売直後に買った記憶があります。割引券みたいなものもあって、CDを10枚くらい買えば、集めた割引券で1枚分タダなるような仕組みだったと思います。1990年代から2000年代半ばくらいまでは、本屋さん。模型屋さん、CD屋さんが私の帰り道のルートになっており。そういうことにいちばんお金を使っていたのではないかと思います。ムトウさんに関して言えば、他のショップならジャズ・フュージョンにある高中正義さんのCDはなぜかJ-POPのところにありました。そのムトウさんも最後はローカル系も含めたアイドルに強いお店として生き残りを図りますが、2013年に閉店しています。
 ムトウさんに限らず、職場の近くにレコード屋さんがあったときは、そこで買ったこともありましたし、HMVやタワレコのお世話にもなっています。また、時代が前後しますが大学2~4年次は家からJRの駅まで少し長く歩いて行き、そこから大学に通っていたのですが、駅の近くに小さなレコード屋さんがあって、カシオペアの「ハレ」をちょっと安く買った記憶があります。
 ムトウさんがなくなってからは特に、銀座の山野楽器さんにお世話になったことも多いのですが、次第にCDの購入も昔ほどではなくなり、自分の耳が保守的になってしまったのか、お金の遣い方が変わったのかは分かりませんが、ここ数年はごくごく限られているように感じます。CDも今では通販で買う物になってしまい、お店が無いから通販に頼るのか、そこは何とも難しいところですが、棚に並んだCDを手にとっては戻して、週末に聴く一枚を選ぶようなことがなかなかできなくなっているのは、なんとも残念であります。


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祝!  モナコ生まれのドライバーのモナコGP優勝

2024年06月05日 | 自動車、モータースポーツ
 先日開催されたF1モナコGPで、フェラーリに乗るシャルル・ルクレールが優勝しました。ルクレールはモナコ生まれ(当然モナコ国籍です)ということで、地元GPの優勝となりました。レースそのものは1周目に複数個所で大きなクラッシュがあって中断、再スタートといった波乱もありましたが、ルクレールは混乱をよそにレースをリードし、見事に優勝を飾りました。2位にマクラーレンのピアストリ、3位にフェラーリのチームメイト、サインツが上がるということで、久々にレッドブルがいない表彰台となりました。フェラーリとマクラーレンで占めたモナコなんて、昔の「セナ・プロ」時代のようですが、そのマクラーレンはセナ没後30年に合わせ「モナコ・マイスター」セナをトリビュートしたブラジルカラーのマシンでレースに臨みました。表彰台に立てて、大先輩を称えることができたかな。ルクレールに関しては何度も挑戦するもいいところが無かったり、思わぬ形でレースを諦めたりと、地元優勝に向けた挑戦は試練の連続でしたので、モナコ初優勝にはライバルたちも素直に称えていましたし、感極まっているオフィシャルもいました。さらには表彰式でロイヤルファミリーも大喜び。大公も一緒にシャンパンを開けてラッパ飲み(現大公は以前にも表彰式でラッパ飲みをしており、なかなか茶目っ気のある方です)している姿が映し出されておりました。モナコに住んでいるF1ドライバーはいても、モナコ生まれとなりますと数えるほどで、そこで優勝ですから大公のみならず多くのファンが喜ぶのも当然でしょう。
 以前もご紹介しましたがモナコGPは戦前から開催されている歴史あるレースで、第一回は1929(昭和4)年に開催されました。F1・世界選手権が始まったのが1950(昭和25)年ですから歴史を感じます。モナコ生まれ・モナコ国籍のドライバーがモナコGPを制したのは1931(昭和6)年にもありました。ルイ・シロンというドライバーが優勝しています。このころはまだドイツ勢が席巻する前夜でしたので、ブガッティやアルファロメオといったあたりが活躍していました。ルイ・シロンは1899年(19世紀ですよ!)生まれで、第一次世界大戦ではフランス軍のフォッシュ元帥(フランス海軍の空母の名前にもなっていましたが)の運転手を務めたこともあります。シロンは第二次大戦を挟んで戦後もレースに出走しています。1950年のF1初年度のモナコでなんと3位に入る活躍を見せます。実に50歳での快挙です。現在活躍中のF1ドライバー、フェルナンド・アロンソはこの記事を書いている時点で42歳ということで、40代の選手が近年では稀ですからいろいろと注目を集める存在ですが、あの時代の50歳というのは、今よりももっと「お年寄り」に感じられるのではと思います。余談ですがちょうどこの時のモナコと同じ昭和25年5月、日本ではプロ野球の阪急で浜崎真二投手が48歳で勝利投手となっていて、こちらも今なら果たしていくつくらいかな、と思います。この年のモナコも今年と同じで1周目に多重事故がありました。
 その後もシロンは1958年までモナコGPにエントリーしており(当時はマシンも含めた「スポット参戦」が自由な時代でした)、1955年には6位に入っています(この時代は5位までが入賞でした)。
 さて、1950年のモナコについては、5位にアジア人初のF1ドライバーだったタイの「B.ビラ」王子も入賞しています。戦前に英国に留学した際にレースと出会い、戦後にかけて活躍したドライバーでした。戦中はタイ王室の一員としてイギリスとの関係を深める役目も担っていたそうですが、エキゾチックな顔立ちのレーサーは西欧でも珍しく、人気だったそうです。
 モナコ人のドライバーというと小さな国ゆえ本当に少なく、90年代にオリビエ・ベレッタという選手がいましたが、1994年に当時決して上位に進むのが容易ではなかったラルースのマシンを駆り、8位に入っています。ラッツェンバーガー、セナの事故死、さらにはヴェンドリンガーの大事故という重い空気の中のモナコでしたが、地の利を生かしての走りでした。
 今回のモナコでもルクレールの優勝、タイ国籍のアルボンが9位ということで、モナコ、タイの国籍のドライバーがモナコで揃って入賞というのが54年ぶりということで、それも珍しい記録かもしれません。また、日本の角田が8位ということで、アジア系が二人入賞というのも、そもそもアジア系は少数勢力なので珍しい記録です。スクーデリア・フェラーリのSNSなどでもこの1-3フィニッシュの週末が様々な形で紹介されました。このところサインツに押され気味だったルクレールの優勝で、ちょっとはずみがついて「レッドブル無双」だったこのところのF1を面白くする存在になったら、と期待しています。
 地元GPに強いドライバーやなかなか勝てないドライバーもいて、そこがレースの難しいところだったり、だいご味だったりするのですが、「モナコ・マイスター」のセナも母国ブラジルではなかなか勝てず、1991年の初優勝もきわどい勝利でした。逆にナイジェル・マンセルのようにイギリスGPを得意としたドライバーもいました。日本GPでもいつの日か日本人が表彰台の頂点に立つ日が来たら・・・と願っています。

(モナコで優勝したルクレール。日本にもファンが多いです。あと10年くらいしたらプロストみたいに渋いドライバーに・・・なんてね)


(右から2人目がタイ国籍のアルボンです)



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ブラボー! ジプシー

2024年06月01日 | ときどき音楽
 5月は本業に、お出かけに、模型にと忙しく過ごしていたのですが、どうしても観に行きたいライブがありまして、行ってきました。それはジプシー・キングスの来日公演で、実に7年ぶりだそうです。前回はBUNKAMURAのオーチャードホールだったように記憶していますが、今回の東京公演は昭和女子大学人見記念講堂でした。
 ジプシー・キングスにはスペインのロマ(ジプシー)にルーツを持つミュージシャンで、彼らの親、祖父の代がスペイン内戦を逃れてフランスに逃れて定住したことから、彼らの楽曲はフランスに住みながら歌詞がスペイン語となっています。1980年代初頭にレコードデビューするも、フラメンコギターというのか、アコースティックなアルバムはメリハリとパンチに欠けてあまり人気が出ませんでした。この頃の彼らの写真を見ると、パリ・リヨン駅あたりに所在なげにたむろしている(できれば近づかない方がよい)お兄ちゃんたちという風貌です。1980年代後半にクロード・マルチネスというプロデューサーを迎え、ポップをはじめとして「味付け」を加えていくことでバンボレオ、ベン・ベン・マリアなどの曲がヒット、いわゆる「ワールドミュージック」の世界を牽引しました。最初はアコースティックで売れない、というのはサイモンとガーファンクルもそうでしたね。
 日本ではインスト曲の「インスピレイション」が時代劇のエンディングに使われているほか、カンツォーネの名曲をカバーした「Volare!」あたりがおなじみですし、「空耳アワー」で採り上げられた曲も多いのですが、CDを買って彼らの音楽を聴くようになったのは90年代初頭だったと思いますし、来日公演も2000年頃を皮切りに何度か観に行っております。哀愁と情熱のボーカル、そしてギターの巧みさと美しさに魅かれた、というところで、特に熱く、時に乾いた感じの演奏や曲もあって、都会的に洗練されたサウンドゆえか、東京に暮らしていても似合う音、と勝手に思っています。音楽に関しては雑食性なところがありますが、クイーンと同様、100m先から聞いてもジプシー・キングスの音楽だと分かりますし、そこが魅力なのだと思います。そういえば青森で津軽三味線の生演奏を聴いたときに、ジプシー・キングスの演奏を思い出したものです。あちらも哀愁と情熱、という感がいたします。
 さて、メンバーも昔と今日ではだいぶ違っていて、90年代にはチコ・ブーシキーが脱退し「チコ・ザ・ジプシーズ」を立ち上げ、こちらのライブも何度か見たことがあります。今回の来日メンバーも昔からだいぶ若返っていて「ジプシー・キングス feat,ニコラ・レイエス」として、オリジナルメンバーのニコラ・レイエスをフィーチャーした、という表記になっています。
 ライブの方は「定番曲」という感じのオンパレードで、久々の来日ですし、やはりみんなが知っている曲を、となったのでしょう。おそらく「インスピレイション」などは日本限定なのでは、と思います。どの楽曲においても情熱も、哀愁も今までより熱く、深くなっている感があり、そこはリードボーカルのニコラ・レイエスの年齢を重ねてこその成せる業のように感じました。フラメンコよろしくギターとボーカルだけ、といったコーナーもあって、ライブならではという感がありましたし、ちょっと他の曲とは毛色が違う「モンターニャ(山)」は、私の好きな曲ということもあるのですが、いい曲やいい演奏ってジャンルは関係ないよな、と思うのでした(この曲、演歌やベテランのポップスの歌手が訳詞をつけて歌っていたとしても不思議でないし)。もともとがフラメンコギターという伝統に根ざした世界の出身からか、年齢を重ねていくことで出る深みみたいなものがあり、そこは落語や歌舞伎といった世界にも通じるように感じました。
 コアなファンからすれば、レゲエっぽいアレンジの曲や変化球を期待したいところですが、年齢高めの客席はみんな大興奮、途中から立ち上がる人も多く、また興奮が過ぎて通路に出て前方に駆け出し、係員に制止される人(こちらは外国人が多かったですが)もいました。
 そんなわけで私も「バンボレオ」で「医者も手が空いちゃたまんねーな」と口ずさみ「バーモス・ア・バイラール」(日本語だと「さあ踊ろう」という感じですか)で踊っていたクチですが、スペイン語にはイタリア語と発音の近い単語もあって、そのあたりも楽しみながらの2時間でした。
 アンコールはアカペラの「マイ・ウェイ」で、この曲って日本では昭和のおじさんがカラオケで歌って部下から嫌われる曲というイメージになっているのですが(そんなことを知っているのも、私くらいの世代で最後かも)、私はオリジナルの「くさみ」みたいなものがなくなって、ジプシーバージョンの方は好きです(自分で歌ったりはしないけど)。ライブで聴くと鳥肌ものなんです、これ。
 あっという間のライブではありましたが、ステージからたくさんエネルギーをいただいて、会場を後にしました。

リードボーカルのニコラ・レイエス。ライブではスマホの撮影がOKでした。

 
 


 

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