工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

国産ジェット機の系譜 橘花 その3

2021年03月31日 | 飛行機・飛行機の模型
 前回、ネ20エンジンが突貫工事ともいうべきスピードで試作されていった話を書きました。橘花に搭載が正式に決まったのも、ネ20が完成し、試験が始まった昭和20年4月のことでした。橘花の機体としての設計も進んでいましたが、当初予定されたネ12エンジンを前提として考えていたようですので、急遽ネ20エンジンに合わせた設計変更も行われました。エンジンも試作ができたからすぐに使えるというわけではありませんでした。テストを行い、不具合をみつけ、改善しという作業の繰り返しとなります。ネ20については、タービンブレードに使うニッケルなどの材料の確保も難しく、耐久性の確保に難がありました。また、部品の取り付け方法など、ドイツからもたらされたエンジンの断面図写真や資料だけではわからないところもあり、日本側の独自の解釈もあったといいます。橘花の場合は本土決戦を前提に考え、沿岸に近づいた敵の艦艇を攻撃できるだけの航続距離があれば、ということで4時間の連続運転ができるところで一応の完成となりました。ただし、エンジン開発で苦労したのは日本だけではないようで、イギリスもドイツも圧縮機の破損など、困難を乗り越えての開発となっています。
 さて、開発が進む中で日本本土への空襲も激しさを増しており、各地の軍需工場はもちろんのこと、市街地への空襲でも甚大な被害が出ておりました。橘花の生産も群馬県小泉の中島飛行機の工場に近い養蚕農家の蚕小屋で行われていました。どうにか機体も完成、ネ20の耐久試験は6月に完了、完成した1号機をいったん分解し、7月には木更津に運び込まれました。試作機とはいえ、短期間で設計変更、そして初飛行までこぎつけたのですから、よくここまでできたものだと思います。
 地上での滑走試験などもあって、初飛行も近づいていました。しかし、すでに制空権を持たない状況で木更津にも8月にも入ってF4Uコルセアのロケット攻撃がありました。いよいよ8月7日、高岡 迪少佐(当時)の手で松根油を含有した燃料を積み、11分間の初飛行を達成しました。この時は燃料も軽く積み、前脚扉やアンテナもつけていない状態でした。

(以前も登場したAZモデル1/72のキット。初飛行時で作っています)
この初飛行成功の後、二度目の飛行が8月11日に行われました。この時は燃料を満タンにし、離陸時の推力補助用に主翼下にロケットブースターを付けた状態で離陸に臨みました。

(ファインモールド1/48のキットより)
この時の飛行で離陸に失敗、滑走路を飛び出して擱座してしまい、ここで橘花の試験は終わり、その4日後に終戦を迎えました。

 さて、同時期にジェットエンジンを開発していた陸軍ですが、こちらは石川島(芝浦タービン)と共同でネ130を開発していました。芝浦タービンは船舶用のタービンなどの実績はあったものの、航空機については経験が浅く、開発にはこちらも苦労が伴いました。芝浦タービンの工場でも部品製造のための木型は作れず、東京・下町の町工場に依頼し(時にはその場で図面の誤りも修正しながら)、木型を作っていきました。下町の工場も、その後の大空襲で焼け野原になってしまいました。エンジンの完成までは紆余曲折がやはりあって、陸海軍が共同して、とは言いつつも海軍側(特に飛行機に詳しくない将校たち)が余計な口をはさんでうまくいかなくなることもあったと前回紹介した中村良夫氏のエッセイにはあります。そんな状況ではありましたがネ20の開発でリーダーシップをとっていた海軍の永野治少佐(当時)の支援もあり、ネ130の開発は陸軍の若手が中心となって開発を続けることができました。
 エンジンを載せるための航空機「火龍」もモックアップができており、中村良夫中尉も操縦席のモックアップに座って本物の火龍を夢見ていたとあります。ネ130については終戦間際にどうにか試運転までこぎつけることができました。その後、フルパワーで壊れるまで回すつもりのところを、異物が混入してタービンの羽根が損傷して、そこで終戦となりました。
 
 今日のところはここまでです。次回はほかのテーマを一回はさんで、戦後の橘花とネ20の話をしたいと思います。

 

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国産ジェット機の系譜 橘花 その2

2021年03月22日 | 飛行機・飛行機の模型
 前回書きましたように、橘花の誕生にはドイツからもたらされた資料が大きな役割を果たしていました。ただし、資料と図面が来たからさあ、作ろうとなったわけではありません。それまでに日本でも、ジェットエンジンの研究は続けられていました。
 海軍の航空機に関する研究、開発を担っていた海軍航空技術廠(空技廠)では、大戦前からジェットエンジン(この時代はまだ「タービン・ロケットエンジン」と呼ばれていました)の研究をしている技術者たちがおりました。橘花の開発の中心人物でもあった種子島時休(たねがしま・ときやす)中佐(当時)らが研究開発に勤しんでおりましたが、自主開発は難航を極めていました。
 伊29がシンガポールに着く前の昭和19年6月、空技廠でジェットエンジンの開発の様子を見学した技術者がいました。東京帝大卒業後、中島飛行機を経て陸軍で航空機エンジンの開発をしていた中村良夫中尉です。中村中尉は戦後、ホンダで四輪車の開発に携わり、第1期F1活動で監督を務めますが、それは先の話です。中村氏のエッセイによれば、空技廠に赴くにあたり「陸軍の軍服のままでは入館手続きが面倒」と言われて、借り物の背広を着て行った、とあります。当時の陸海軍の関係が分かる話ではあります。
 大戦中にジェットエンジンの開発が急ピッチとなりましたが、制空権確保のためより速く、より高くという要求の中で、レシプロエンジンが既に頭打ちの状態であったこと、燃料事情が悪くなる中で、低質の燃料でも飛行可能なエンジンとして活用しようという動きがあったこと、レシプロエンジンより安価で簡単に量産できるという計算があったことなどが理由として挙げられています。
 国内開発のエンジンは思うように進まず、そこに遣独潜水艦作戦で限られた資料とはいえ、既に完成したエンジンの情報がもたらされました。しばらくはそれまで自主開発していた「ネ(燃焼の意味があります)-10」、「ネ-12」エンジンを完成させることを前提にジェット機の開発を進める予定でしたが、結局ドイツからもたらされたBMW 003エンジンをもとに「ネ-20」エンジンを開発する方向となりました。
 海軍は昭和19年12月に中島飛行機に対して「橘花」の計画要求書を提示しています。この時点ではまだ、どのエンジンを搭載するかも決まっていなかったといいます。また、橘花という飛行機ですが「花」がつく名称からも特別攻撃機としての性格を持たせており、爆装を前提にしていました。しかし、防弾装備もあり、通常の攻撃機として、さらには機銃を装備した戦闘機としての開発も想定していたのでは、という説もあります。
 陸軍でも同じころ、ジェットエンジンとそれを装備した機体の開発がスタートしていました。先ほどの中村中尉の訪問の際には陸海軍もまた「省庁」であり、縦割り行政そのものだったわけですが、戦局が厳しい(どころか敗色が濃くなっていく)中で、陸海軍が遅まきながら協力して航空機開発に乗り出そうとしていました。陸軍も同じ「ネ」というコードを使用したネ-130エンジンを装備した「火竜」という戦闘機を計画しており、Me262に似た機体を想定していました。エンジンの開発には石川島、日立航空機が携わることになっており、石川島側の責任者は土光敏夫氏だったと中村氏のエッセイにはあります。そう、後に行革に携わった「メザシの土光さん」です。
 さて、橘花の話に戻りますが、範とするBMW003エンジンやMe262に搭載のJumo004エンジンの資料があるとはいえ、材料も加工技術も限られており、ネ-20のエンジン推力などはBMW003の60%ほどの480kg程度だったと伝えられています。機体も当然Me262に比べれば小さなものになります。
 模型で比較するとよくわかるのではないでしょうか。


Me262はハセガワ1/72、橘花はAZモデル1/72のキット
 ネ-20エンジンに関しては本格的な設計をスタートさせてから3ヶ月程度で試作、試運転にまで持ち込むという突貫工事でした。参考になるのは不鮮明なエンジンのマイクロフィルム写真一枚で、そこから図面を起こし、ここまでたどりついた技術陣の努力には、ただただ敬服するばかりです。ネ-20エンジンに関してはBMW003の粗悪なコピー、とする向きもありますが、細かな部品の取り付け法、加工法などはエンジンの現物が無いため日本側で考えながら解決しなければならないことも多く、お手本にしながら作った、と言った方が相応しいのではないかと思います。アメリカも当初はイギリスから技術情報の提供を受けてジェットエンジンの開発をしていたくらいですから、一部の国を除けば、みなジェットエンジンに関しては「後進国」だったのです。
 

 

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池袋・鉄道模型芸術祭へ

2021年03月21日 | 鉄道・鉄道模型
 国産ジェット機、橘花の話の続きを書きたかったのですが、文献を読み込むのに少々時間をいただいていたのと、ちょうど20日(土曜日)にお出かけをしましたので、そのレポートをお届けします。
 ということで、池袋・東京芸術劇場で開催の「鉄道模型芸術祭」に行ってきました。一昨年の模様はこちらのブログでもご紹介してすますが、昨年は新型コロナウイルスの感染拡大を受けて中止、今年は緊急事態宣言下ですし、開催できるのか心配でしたが無事に開催の運びとなりました。
 昨年は「国際鉄道模型コンベンション」の開催もなく、私にとってはこうしたモデラー参加のイベントにお邪魔したのが2年ぶりということになりました。会場では密にならないよう、余裕を持った展示となっており、適度に他のお客様とも間隔を取りながら見ることができました。
 自分がNゲージ主体ということもあり、Nの展示に目が行きましたが、その中でも「Nゲージで作る架空地方鉄道模型」という展示は、良い意味でこちらの想像と違った世界を見せていました。地方私鉄というと、以前このブログでご紹介した上田交通のようなイメージなのですが、こちらは新幹線の高架駅の下に地方私鉄のホームがあって、ということで、現代の地方私鉄の風景でありました。車輌も思わず「おおっ」となるようなキットの組み合わせで作られていたりと、発見が多く、また刺激にもなる展示でした。
 また、以前の「国際鉄道模型コンベンション」でも展示されていた「瀧泉寺電気鉄道」もキット切り継ぎや鉄道コレクションの加工品などが多いそうですが、車輌も、さらにはシーナリーも作者の世界観が光るものがあり、その落ち着いた塗装も含め、とても印象に残りました。
 おなじみの「これがレイアウト」の松本謙一氏が制作したアメリカ型の漁港のセクションは、毎年何か発見がありますし、「ナローゲージジャンクション」のように、こういう時ではないと見られないナローゲージの展示も楽しいものがありました。
 また、昭和鉄道高等学校も16番の大型レイアウトで展示をされており、目を惹いておりました。一昨年はベテランモデラーの頑張りが目立ちましたが、今年は若い方もかなり頑張っている印象を持ちました。
 今回は現地で本ブログにたびたび登場の「沿線在住ベテランモデラー」氏とも偶然顔を合わせ、そのまま新宿へ。新宿では新たにオープンしたばかりの「モデルスイモン新宿店」を覗いてきました。お店に入ったとたんに各メーカー等から贈られた胡蝶蘭がずらりと並んでおり、これはこれで少々驚きでしたが、開店したばかりということもあってお客様も「どんなお店なんだろう」という感じで店内を見まわしているという感じでした。
 モデルスイモンは各店舗ともに内装などは同じようなつくりですが、店舗の立地などを踏まえてかそれぞれのお店が特色を出しているように思えます。売り場面積も広く、何より新宿駅にも近いという地の利もあり、今後どのようなお店になっていくかが楽しみです。また、この地域で鉄道模型を扱っているお店(特に年々品ぞろえがベテランファンをもうならすようになっている量販店系)がこの「黒船」にどう対応されるのかも注目したいです。
 さて、前半の話に戻りますが「鉄道模型芸術祭」は20日、21日の開催です。見に行かれる方は、感染対策をしっかりとった上でお楽しみいただけたらと思います。


 

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国産ジェット機の系譜 橘花 その1

2021年03月15日 | 飛行機・飛行機の模型
 昭和20(1945)年8月7日、木更津の飛行場から一機の航空機が飛び立とうとしていました。その航空機には見慣れたプロペラはついておらず、左右の主翼の下に円筒形のものが取り付けてあり、これがエンジンでした。そう、日本初のジェット機、橘花が飛び立とうとしていたのです。

 写真はAZモデル1/72のキット
 今回から国産ジェット機の系譜と題して、日本の空を飛んだ国産ジェット機の話を模型と一部は実物の写真を交えてご紹介します。第一弾は当然ですが、中島飛行機の橘花です。

 さて、時計を橘花の初飛行から1年ほど戻しましょう。一隻の潜水艦が、ドイツ占領下のフランスの港を出発して極東に帰ろうとしていしました。この潜水艦は伊-29といい、昭和18年12月にシンガポールを出港し、インド洋、大西洋を経て翌、昭和19年3月にフランス・ロリアンに入港しました。これは「遣独潜水艦作戦」と呼ばれるもので、日本と同盟国のドイツの間でそれぞれが必要としている戦略的、軍事的物資を交換するために日本海軍の潜水艦をドイツに派遣しておりました。本来なら空路の方が速く、確実なのですが、日本からドイツに向かうとなると、日本との関係は中立国であり、またドイツとは交戦中のソ連上空を避けて飛ぶことはできず、周辺国を刺激しない方法で取られたのが、この洋上を使う作戦でした。
 この時の派遣は第四次にあたりました。ドイツからジェットエンジン(BMW003A)の資料、ロケットエンジンに関する資料などが積まれ、昭和19年4月に伊29はロリアンを出港し、7月にはシンガポールに入港しました。このときにドイツからの帰国便に同乗していた巌谷英一技術中佐が一足先に一部の資料を持ち帰り、残りの資料は日本に向かうこととなりました。

(伊29はアオシマ1/700の伊19のキットから加工しました。フランスでドイツ海軍の機銃を装備しており、艦橋の直後に機銃が増設されている写真を見たことがあります。また、シンガポール出港時には既に主砲が外されていたようですので、主砲の位置にも機銃をつけました。見えづらいですが艦橋の上の機銃もドイツ海軍のものです。機銃のパーツはタミヤのZ級駆逐艦からも持ってきました)
 残念ながらシンガポールからの帰途に伊29は撃沈され、日本に向かっていた大部分の資料も失われてしまいました。こうして巌谷中佐が持ち帰ったわずかな資料とともに、ジェットエンジンとそれを積んだ機体の設計を始めなければなりませんでした。

 東京でこれらの図面、資料と格闘している人物がいました。それが私の祖父でした。私の祖父は海軍省に終戦までおりましたが、これらの図面の青焼きを作る仕事に従事しました。もともとは写真にまつわる仕事などもしておりまして、竣工した艦艇の公式試運転の写真をメディア等外部に配信する前に、機関(エンジン)にあたる部分に波を書き足してぼかし、艦艇の心臓部でもある機関の大きさを諸列強に知られないようにする仕事もしていたそうです。誰もが知る艦艇の写真のうちの一枚も、私の祖父が関わっていたという話を聞いたことがあります。
 さて、持ち帰った図面と資料ですが、どれも水をかぶったように湿気を帯びていて、一枚一枚丁寧にはがして青焼きを作るのが大変だった、と生前の祖父は語っていました。「ジェット機やロケット機のものもあった」と言っていましたので、金沢工業大学で現存する唯一の図面の写真コピーも、祖父が関わっていたものかもしれません。祖父はとても寡黙な人でしたので、この話も聞くことができたのは本当に断片的なものでした。30年以上前に祖父はこの世を去っているので、聞きたかったことも聞けずじまいです。
 これらの図面、祖父は「シンガポールで破壊工作に遭って図面が水をかぶった」と伝えられていたそうです。しかし、シンガポールで触雷して沈没したのは第一次作戦の伊30であり、上述のとおりシンガポールまでは無事に航海をしていたわけですから、おそらくは艦内の劣悪な環境で、厳重に保管されていたとしても湿気を帯びてしまったと考える方が無難でしょう。遣独潜水艦作戦については、吉村昭著「深海の使者」にも詳しいのですが、これを読む限りでは敵の飛行機、艦艇に見つからないよう、浮上は必要最低限にとどめ、あとは水中を数か月も航海する潜水艦の艦内環境はかなり厳しかったことが分かります。
 さて、こうしてドイツから資料が届き、日本初のジェットエンジンを積んだ航空機の開発がスタートしました。
 次回以降はそのあたりの話もしたいと思います。


 



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都会の音楽と人は云うなり

2021年03月13日 | ときどき音楽
 月刊誌「東京人」がこの4月号でシティ・ポップを特集しています。シティ・ポップというのは定義が難しいのですが、1970年代に洋楽の影響を受けながら、都会的で洗練された音楽を指す言葉として使われているようです。「はっぴいえんど」をルーツとし、「シュガー・ベイブ」をはじめとして1970年代から80年代にかけて流行った都会的なポップスということになりましょう。アーティストの名前を挙げるとキリがありませんが、この特集でさまざまな立場のリスナーが挙げた「My Best」の顔ぶれを見れば、大瀧詠一、荒井由実、山下達郎、竹内まりや、吉田美奈子といったあたりが共通して入っていますので、皆さんもお分かりいただけるかと思います。また、いわゆる「アイドル」系の人たちでも、作詞・作曲にシティ・ポップ系の人物が関わっていれば「アイドル歌謡」ではなくなるわけで、明確な定義が難しい、というのはそういうところにあります。
 この特集では、シティ・ポップのまさに当事者である松本隆や松任谷正隆へのインタビューをはじめ、レコード会社の担当者の回想、名曲の録音の舞台となったスタジオ「音響ハウス」の関係者のインタビューなど、この時代の音楽の当事者、ファンなどさまざまな立場の方が語っているわけですが、ことに近年、シティ・ポップは海外での評価が高く、その中でも台湾などのアジア諸国で影響を受けているアーティストが多いという記事も興味深く読みました。海外での評価という話は、NHK-BSの「COOL JAPAN」という番組でだいぶ前に取り上げられ「へえ、意外なものに興味を持つもんだねえ」と思ったものですが、インターネットを経由してこうした楽曲に触れたり、時には来日して中古のレコードを買ってというファンもいるようですから(今は難しいでしょうが)、日本語のちょっと昔のポップス(そもそも「はっぴいえんど」と言えば「日本語ロック論争」の当事者でもあるわけで)が海外に受け入れられているというのは、面白い時代になったものだという感があります。
 1970年代、80年代のポップスということですので、同時代として体験した曲もありますが、私よりもう少し上の世代の方が時を同じくして体験された方ということになりましょう。テレビの歌番組には出ない人もいましたし、私の中ではなじみのある人もいれば、そうでない人もいます。あの時代ですと「洋楽しか聞かない(邦楽は認めない)」という人や、逆に「邦楽しか聞かない」という人もいましたので、その中でのシティ・ポップ(そもそも当時はそういう言葉はあまり聞かなかったように思います)の占める位置は決して普遍的、絶対的ではなかったとは思いますが、名曲とその作り手、歌い手はずっと高い評価を受けております。
 私も大人になってから、シティ・ポップの歌手の一人、南佳孝のライブに何度か出かけたことがあります。毎年暮れに六本木のスィートベイジルでライブがあり、没落独身貴族だった私は「一人忘年会」を楽しんでおりました。お客さんはほとんど私より一回り上の方たちでして「今日は私よりお兄さん、お姉さんたちが主役の日でしょう」とばかりに私は後ろの方のカウンター席に腰かけて美味しいお酒をいただき、大人になるのも悪くないなあ、などとカッコつけておりました。また、2000年代の初めに数回行われたフェス「クロスオーバー・ジャパン」では鈴木茂や井上鑑が出演し、私なぞは「わあ、伝説の人だあ」と舞い上がったことを覚えています。
 本ブログでさんざん書いておりますが、私自身は歌のないインストゥルメンタル・ポップをよく聴いております。1980年代初頭のザ・スクエア(現T-SQUARE)のアルバムにも都会的な曲が並び、また一部の曲にはボーカルも入っていますので、やはりこの時代の影響があったのでしょう。ちなみに「東京人」の特集の中で、アルバムのアートワークの好例として紹介されているユーミンの「パール・ピアス」の「真珠のピアス」という曲は、ユーミン本人の弁によると「安藤君(スクエアのリーダー)のストーカー的ファンのエピソードをもとに書いた」そうです(T-SQUARE25th ANNIVERSARY  リットーミュージックより)。スクエアもこの時代にユーミンのバックバンドを務めたり、ユーミンから楽曲提供を受けていますので、シティ・ポップの関係者、と言えそうです。ユーミンに関しては個人的な感想ですが、バブル期以前の方が好きな楽曲が多く、そういう意味では私も「シティ・ポップ」のフォロワー、ということになりましょうか。
 「東京人」の特集に戻りますと、シティ・ポップのアーティストの相関図というのもあって、これも面白いのですが「山下達郎のプロデュースを受けた鈴木雅之の名前がないぞ」とか「都会のポップの源流をたどれば服部メロディーまで行きつくんじゃないか」といった声も聞こえてきそうです。定義が難しい、というのはまさにそこであり、都市(特に東京)が常に変転し、膨張していく中で、都市生活者から愛され、共感を得ているポップスをシティ・ポップと呼ぶのかもしれませんね。
 さて、このブログが乗り物をメインにしているため、乗り物のことも書きたいところですが、シティ・ポップに似合う電車というと、東急8500系を思い浮かべてしまうのです。爆音電車などと今では言われているようですが、つりかけモーターの私鉄電車や国電の101系、103系のヘビーな走行音を知っている世代としては、どこが爆音なの、という気がします。あの時代(特に1970年代後半から80年代)、ステンレスの車体に赤い帯は、都会の垢ぬけたおしゃれな存在そのものでした。




南佳孝さんのアルバム「SMILE YES」のジャケットと本人のサイン。ライブの後で「とっても楽しかったです」と、実に単純な感想を申し上げながらジャケットを差し出すと「僕もその言葉が一番嬉しい」という言葉とサインをいただきました。ありがとうございます。

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