工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

F1図書館

2019年10月23日 | 自動車、モータースポーツ
 読書の秋というわけではないのですが、本の話をしましょう。F1を題材にした小説というのも多く出版されていますね。有名、無名問わず、また完全なフィクションだったり、チーム、ドライバーが実名で出てきたりするものもあります。なかなか紹介されることがないものも含めて、私のお気に入りをいくつか。
 「No.13 魔のレッドゾーン(ケン・ヴォース著)」は光文社文庫から日本語訳が出ておりました。なかなか設定が面白く、1989年にターボエンジンが禁止されて3.5リッター自然吸気エンジンに統一された際に多く誕生した弱小新興チームが舞台となっており、主人公が失踪した父の謎を追いかけながらシーズンが展開する、という小説です。ミステリーとしてはごく普通の作品ですが、チームの雰囲気、パドックやピットの様子などは丁寧に描かれていて、F1を舞台とした小説としてはリアルさがあってよくできており、主人公とチームに感情移入することができました。実際に1989年の新NA規定では様々なチームが誕生しており、残念ながら「一発屋」にもなれずに消えてしまったチームもありました。この小説の舞台となったチームと主人公がその後どうなったのか、残念ながら邦訳はないようですが、続編を読みたくなりました。
 海外ものではボブ・ジャッドという作家が90年代にF1関連の小説をいくつか発表し、日本語訳も出ていますが、70年代に「あの」アリステア・マクリーンも「歪んだサーキット」というF1を舞台にした小説を書いています。「ナバロンの要塞」、「女王陛下のユリシーズ号」といった名作(私も大好きです)を残した作者の手による小説ですが、ひと昔前あたりにテレビ東京の「二時のロードショー」で放映してそうなミステリー・スリラー映画のような小説でした。

 日本でもF1ブーム以前から小説の舞台に使われたり、さまざまな作品が生まれていますが、私のお気に入りは「紺碧海岸(松本隆著)」です。著者は伝説のバンド「はっぴいえんど」のメンバーとして、また作詞家として多くの作品を生んでおり、説明の必要もありませんが、ちょうど1990年頃には「没落貴族のような生活」をしており、指揮者のチェリビダッケとF1のセナの追っかけをしていた、と何かのインタビューで読んだ記憶があります。
 この本は1990年モナコから1992年南アまでの8つのレース、そして1994年の大晦日のパリが舞台となる短編集です。それぞれの主人公はセナのファンで、サーキットで、テレビ画面の前でセナを応援しています。しかもみなセナのような天才でもなく、どこか生きにくいものを抱えていたり、欠点を持ったりしている人間たちです。
 各編とも実際のレースが舞台になっており、私もテレビで見て覚えているシーンが出てきますが、サーキットの内外の出来事の中には著者本人の経験がかなり反映されているのではないかという場面も出てきます。私もこの中でも特に好きな一編「永遠の一瞬、一瞬の永遠」にインスピレーションを受け、フジミ1/24のポルシェ911とタミヤ1/24のホンダNSXを作って並べました。なぜこの二台なのかは本書をお読みいただければわかるかと思います。この時代のF1をリアルタイムで見知っている方なら、それがたとえテレビ観戦だけであっても共感できるものがたくさんあるのではと思います。
 以前、本書を手にして鈴鹿サーキットを訪れ、スタンドでこの本を読んだことがあります。自己満足といえばそれまでですが、やってみたかったのです。
 他にも実際のレースが登場するものですと「百万ドルの幻聴(メロディ)(斎藤純著)」もあります。こちらは音楽が縦糸に、F1が横糸に織り成すミステリーです。やはりセナが走っていた頃のF1が舞台となっています。
 実際のレースの場面はほとんど出てきませんが「帰郷(海老沢泰久著)」も印象深い作品です。作者はこの作品で直木賞を受賞しています。主人公はホンダの工場の組立工からメカニックとしてグランプリを転戦し、刺激的な、そして忘れられない日々を送りますが、再び工場に戻ると・・・という小説です。作者は80年代の第二期参戦期にホンダチームに密着し、桜井淑敏監督の傍らで取材を続けていたことから、他のチームから「彼はホンダチームのナンバー2か?」と誤解されたほどだったそうです。そのときの取材は「F1地上の夢」、「F1走る魂」として結実していますが、こちらの小説は表に出てこない話をすくいあげ、フィクションとして書き上げたという感があります。

 F1を舞台にした作品はたくさんありますが、F1ブームと呼ばれた頃は実際のグランプリ、ドライバー達の織り成すドラマの方が面白く、フィクションの方が負けていたこともありました。あの頃からグランプリの世界もだいぶ変わりましたが、味のある短編やあっと言わせるスリラーが出てくることを期待しましょう。



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My streamline era

2019年10月22日 | 鉄道・鉄道模型
 先日のブログで流線型の話を書きましたが、私の模型の中で、自由形の流線型車輛がありますので、本日はそれをご紹介しましょう。鉄道模型と自動車の二点です。

1 キロ50000形
 量販店の棚にセール品として長らく置かれたままのSVTケルン(ホビートレイン=カトー製)がありました。戦後の青1色の塗装は魅力に欠けるのか、売れていなかったようでした。
 以前から温めていたテーマを実行に移すべく、この車輛セットを買いました。元の製品は純然たるドイツ型ですが、これを日本型にしてしまおう、というわけです。何年も前に作ったものではあるのですが、ご覧ください。
 キハ43000の登場で本線を走る本格的な気動車編成がデビューした昭和10年代にドイツから高速運転ができる気動車編成を試験的に輸入した、という設定です。実車の紹介風に書くと次のようになるのでしょうか。

 ・・・気動車による高速運転については、既にフリーゲンター・ハンブルガーなどで実績のあるドイツに製作が依頼されました。日本国内を走行するため、機関も日本向けにダウンサイジングし、台車も狭軌向けのものが新たに作られました。試作的要素が強い車輛のため、数編成が輸入され、国内で組み立てられましたが、国内の車輛メーカーで量産されることもなく、それ以上の増備も行われませんでした。
 この編成にはキロ50000という形式が与えられ、名古屋⇔大阪・神戸間を走る急行列車として活躍しました。短い3輛編成ではありますが、午前中に名古屋を出発して関西方面に向かう高速列車だったこともあり、利用客には大いに人気だったと伝えられています。
 ドイツの編成と同様、先頭車に機関を積み、2号車は動力のない付随車です。編成の構成も本家と同様で、日本風の呼称ではキシニ50000+キサロ50000+キロ50000となります。
 1号車「キシニ」は日本では珍しい形式ですが、食堂車としても定員は決して多くなく、軽食が供されることが多かったようです。2号車のキサロは解放室の2等座席車ですが、大きな窓が人気でした(模型ではこの車輛に動力が入っています)。3号車のキロはコンパートメントタイプの2等車です。この時代、日本ではコンパートメントタイプの車輛は少数派でしたが、プライバシーを大事にしたい、仕事をしながら列車で移動したい、という乗客には人気だったと伝えられています。・・・

(フリーゲンター・ハンブルガーと)

(キシニ50000)

(キサロ50000)

(キロ50000)
 
 さて、模型についてですが、基本的には塗り替えしかしていないため、特別なことはしていません。この時代の気動車の特徴で車体は青、クリームのツートンカラーです。塗装はクリームの部分はMrカラー44番のタンで、下半分の青い部分はMrカラー328番・ブルーエンジェルスの紺色です。等級や荷物、食堂といった標記類、車番等をインレタで貼って完成、ということになります。今回のブログ掲載にあたって製作当初は車番がきれいに貼れていなかったことに気づき、再度デカールに貼りなおしたものを貼っています。このツートンカラーにすると日本型の気動車っぽくなるわけですが、車体そのものは何もいじっていないので、そこかしこにオリジナルのドイツ型っぽいところが見え隠れしています。
 この編成、太平洋戦争の勃発による燃料不足から、活躍できた期間は短かったのですが、戦後意外な形で復活を遂げたのでありました。そのあたりの話はいずれまた・・・。

(流電 モハ52と。モハ52はリニア・鉄道館で購入した鉄道コレクションの製品)

2 くろがね四起(民間バージョン)
 旧日本軍の車輛であった「くろがね四起」を民間の車輛に仕立て上げました。模型誌等でもこういった塗り替えや改造の記事が出ていますので、いまさらではありますが、ご覧ください。

 キットはピットロード1/35です。一応、現代の道を走ることができるように、車体後部にプラ材で灯火類を追加しています。

 車体は鉄道カラーの小田急アイボリーとMrカラーGXのスージーブルーの塗り分けとしました。この時代の自動車らしくボンネットにカーマスコットがついています。透明プラ板を切り出したものです。ドライバーは軍人さんから民間人になっていただき、帽子も野球帽風に、服装も白いシャツとジーンズといういでたちにしました。おじいちゃんが大事に乗っているという設定で、オールバックにした銀髪を後ろで束ねていますが、これはプロ野球初期に活躍した苅田久徳氏が晩年にそのような髪型をされていたというインタビュー記事に触発されたものです。横に立つ孫娘はモデルカステン製です。
 しかしこの車輛、随分腰が高いですね。よいしょっという感じで乗り込むことになりそうです。お洒落なおじいちゃんの小粋なロードスターという感じに仕上がりました。


 私の流線型好みを決定づけた「とれいん」誌1982年8月号と。9mmの軌間の上を走る流線型の模型も、日本型、外国型問わずたくさんあります。





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2019F1日本グランプリ・決勝

2019年10月15日 | 自動車、モータースポーツ
 はじめに、このたびの台風により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。

 前回のブログでも書きましたが、日本グランプリは予選、決勝を一日で開催する変則日程となりました。イベントが中止、順延となった土曜日にドライバー達は何をしていたのでしょうか。ハミルトン選手のように「休みなら東京に行きたい」と言ってチーム側が慌てて止めたといった話が伝えられていますが、興味深い休みの使い方をしたのはグロージャン選手でしょう。あらかじめ入手したタミヤ1/20のタイレルP34(6輪車)のプラモデルを部屋で組み立てていたそうです。さすがに塗装まではできなかったようですが、素組みの上にデカールを貼った写真がアップされており、とてもきれいに仕上がっていました。青と白のツートンの77年タイプを組み立てていたようです。私も人のことをどうこう言えません。平成16(2004)年に初めてワンデーレースとなったときに、予選が行われるはずだった土曜日はホテルで食玩の飛行機のキットを組み立てていました。
 私は名古屋に滞在していましたが、風雨も止んだ土曜日の夜、名古屋駅まで歩いて行ってみました。JRも運休していましたし、店舗はほとんど開いていません。がらんとした構内で特にすることも見ることもなく、ホテルに戻りました。

 さて、日曜日の話をしましょう。風は強いですがよく晴れています。10:00から約1時間、予選が行われます。このため、朝からたくさんの観客がサーキットに詰めかけました。いつもなら土日共に午前中にF1マシンの走行機会は少ないため(日曜に至っては決勝以外に走行はしません)、朝はゆっくり起きてもいいわけですが、今年ばかりはそうはなりませんでした。予選ではクラッシュによる二度の赤旗=セッション中断があったのですが、そのたびに鈴鹿サーキットのオフィシャルの方たちが大きな竹ぼうきを手に駆け付け、路面を掃いたり、破片を片付けたりしていました。あっと言う間にセッションを再開できるように片付けを済ませたのはさすがです。
 予選ではなんとフェラーリのベッテル選手がコースレコードをマーク、2位にはチームメートのルクレール選手が入り、フェラーリ1-2というこれ以上望みようがない結果でした。
 予選終了から決勝のスタートまで3時間近く、この間に決勝前恒例のドライバーパレードも行われますし、それほど時間はありません。売店などは長蛇の列ですし、いくつかあるグッズの売り場も人が群がっています。私もお昼ご飯を買い、早々に席に戻りました。決勝に向けての準備も進み、興奮がヨス、じゃなかったマックスに達します(おいおい)。
 決勝前にはホンダジェットの飛行もありました。私も飛んでいるところは初めて見ました。

 決勝は14:10スタート。ポールポジションのベッテル選手はスタートで失敗。ルクレール選手もレッドブル・ホンダのフェルスタッペン選手と一週目で接触、大きく順位を落とします。フェルスタッペン選手もその後リタイアします。ホンダ勢を応援している方の多くはフェルスタッペン選手の表彰台を期待していたでしょうから、ショックも大きかったのではと思います。
 ひいきにしていた選手が早々にアクシデントなど、こういうことが起きてしまうのもモータースポーツでは避けられないことではあります。ルクレール、フェルスタッペンの二人とも、今年のシーズンを盛り上げ、これからのF1を背負って立つ存在になるでしょうから、次はクリーンでフェアなバトルを期待しましょう(ホンダエンジンのマシンとフェラーリのマシンが1周目で絡むのは今に始まったことではありませんが)。
 レースはメルセデスのボッタス選手がリードして優勝。2位ベッテル、3位ハミルトンとなり、結果的にメルセデス1-3となりました。終盤のベッテル、ハミルトン両選手による2位争いは百戦錬磨の選手同士のバトルという感じであり、大いに盛り上がりました。ボッタス選手はエースのハミルトン選手と比較されることもありますので、この優勝は喜びもひとしおでしょう。ベッテル選手もチーム内で若手のルクレール選手の方が最近は勢いをつけており、その中できちんと存在感を示した感があります。メルセデスは6年連続でコンストラクターズ(チーム)タイトルを獲得。鈴鹿でもこのところ勝つのはメルセデスのどちらかの選手であります。こうして三者三様、喜びの表彰式です。私もホームストレートに入場を許されましたので、近くで写真を撮ることができました。


 地元ということで大いに期待されたホンダエンジン勢ですが、アルボン選手が4位に入ったのが最高位でした。単独走行になっていましたが、ゴールまでマシンを運ぶのもまた、大切な仕事です。タイ国籍でエントリーしているアルボン選手ですが、これで同郷の大先輩「B・ビラ」王子の持つタイ人ドライバーの最高位に並びました。中団ではルノーのリカルド、マクラーレンのサインツの両選手の走りが印象に残りました。
 表彰式の後、片付けをしている各チームのピットガレージですが、旧知の仲なのかフェラーリとメルセデスのスタッフが長い時間談笑していました。

 レースが終わるまではしのぎを削るライバルですが、レースが終われば同じ目的で戦う仲間同士、きっと相通じるものがあるのでしょう。
 
 私もサーキットを後にすることにしました。やはり一日で予選、決勝となりますと相当濃厚な一日となります。土曜日に一日休養を取っていますので、金土日で疲れが徐々に蓄積する、ということはないのですが、朝も早いですし、やはり疲れがたまります。
 帰路はサーキットから名古屋までバスでの移動となりました。今回、往路も名古屋まで珍しくJRのドリーム号でしたし、今回はバス旅が多くなりました。サーキットから高速道路に入るまで2時間近くかかったのですが、その後は順調に進み、20:00近くに名古屋につきました。
 新幹線で帰京しましたが、新幹線が新横浜に着いたところ、ラグビーの日本戦帰りのファンが大挙乗車してきました。こちらもものすごい試合だったようですね。興奮冷めやらぬ、という感じがこちらにも伝わってきました。テレビで録画放送を観ましたが、最後の30分は気持ちと気持ちのぶつかり合いと言う感じで、これぞラグビーの醍醐味、というのを味わうことができました。日本もそうですし、敗れたスコットランドも称えたい試合でした。

優勝したボッタス選手のマシン

2位ベッテル選手のマシン

レッドブル・ホンダ フェルスタッペン選手のマシン

この三台の写真については金曜日に撮影

 かくして、グランプリの少々あわただしい週末が幕を閉じ、日常がスタートしました。

 本稿は10月18日に加筆しました。 

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F1日本グランプリはワンデーレースに

2019年10月11日 | 自動車、モータースポーツ
 F1の日本グランプリ(GP)が開幕し、本日(金曜日)はフリー走行が開催されました。年一度の大イベント、ということでファンも盛り上がっており、今年はホンダエンジンが好調なこともあってか、金曜日から列車も混みあっております。また、ラグビーのワールドカップを観戦とセットでF1も観に来ているという感じの外国の方もサーキットで見かけました。
 金曜日午前のフリー走行のみの出走ではありましたが、山本尚貴選手もトロ・ロッソのマシンをドライブし、久々の日本人選手の登場というのも話題を呼んでおります。
 そんな日本GPですが、皆様もご存知のとおり、と言いますか、台風の接近により土曜日の全てのセッションは中止、日曜に順延となりました。つまり、本来土曜に実施する予選と決勝を1日で行う「ワンデーレース」となったわけです。

 このワンデーレース、日本GPでは過去に二回ありました。私は二度とも鈴鹿で経験しております。
 2004年(平成16年)、台風の接近で金曜日から雨具が効かないほどの大雨となっていました。この台風が予想進路や強さから「伊勢湾台風以来」と呼ばれており、安全を考慮して土曜日はサーキットそのものを閉鎖、日曜日に予選と決勝を日開催することになりました。ワンデーレースはF1の歴史が始まって以来はじめてでした。特に東海地方の方にとっては伊勢湾台風というのは特別な意味を持つのか、この大雨ではF1だけでなく、イベントの中止やお店の営業短縮はやむをえない、という感じでした。
 また、日曜日に全部実施するというのは果たしてどういう流れになるだろうか?という不安もありました。日曜の決勝日はよく晴れた天気となり、無事に予選、決勝が行われました。チーム、ドライバーも大変だったと思いますが、見る側にとっても慌しい週末となりました。
 今回の台風では事前に交通機関の運休や施設、店舗の閉鎖などが伝えられましたが、このときは多くの施設や店舗も開いていましたし、鉄道も(特に地下鉄は)運行していました。
 
 二度目は2010年(平成22年)のことでした。このときは土曜日に雨が本降りとなり、予選ができないか15:30頃まで検討がなされたのですが、結局予選、決勝を一日で実施するということになりました(2019/10/15訂正。当時の写真を見たところ予選については〇〇時まで順延、というのを繰り返し、15:30頃に順延が決まったようです)。土曜日にほとんどのマシンがピットから出てこなかったことを考えると、チーム側もワンデーレースをある程度予想していたと思われます。

 今回は金曜日の時点では小雨程度でしたが、それでも土曜日は大荒れになるという予報がありましたので、このような決定になったのだと思います。いずれにしても安全第一を優先に考えた結果ですので、明日は皆様、お気をつけてお過ごしください。

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