工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

ティレル020の終わらない戦い

2020年10月25日 | 自動車、モータースポーツ
 ティレル020は1991年のF1シーズンのためのマシンでしたが、翌年も、さらに次の年も使われることになりました。1992(平成4)年シーズンにはホンダのエンジンからイルモアV10エンジンにスイッチ、タイヤもピレリの撤退でグッドイヤーのワンメイクとなり、ティレルもグッドイヤーを履くことになります。
 ドライバーも一新されました。「壊し屋」の異名を取ったA.デ・チェザリスがジョーダンから移籍したほか、オゼッラ、AGSといった予選通過もままならないチームで苦闘していたO.グルイヤールが加入しました。
 ティレル020Bとなった92年のマシンは紺色と白色の塗装で、スポンサーもだいぶ少なくなりました。イルモアエンジンがホンダよりも軽量だったこと、またグッドイヤータイヤのパフォーマンスが安定していたこともあり、意外な好走を見せました。入賞できたのはデ・チェザリスだけでしたが、日本GPの4位入賞を筆頭に4度の入賞を果たしました。92年日本GPは表彰台をトップ3チームのセカンドドライバー(パトレーゼ、ベルガー、ブランドル)が占めるという意外な結末でした。私は各ドライバーの鈴鹿との相性などから、この結果もあるかも、とちょっと思っていましたし、4位のデ・チェザリスというのも予選の段階で可能性としてはあるのではと予想していましたので、テレビ観戦だけでそこまで予想できるようになったことは、自分もファンとしてちょっとは成長できたかな、と勝手に思ったものです。このレースに関してはいずれ機会をあらためて書きたいと思います。
 なお、前年までティレルのマシンを駆ったモデナはジョーダンに移籍します。この年のジョーダンは前年の快進撃を支えたフォードV8から、ヤマハのV12エンジンにスイッチしました。しかし、マシンは前年の正常進化型で、そこに大きくて重いエンジンを載せたら、というどこかで聞いた話が繰り返され、モデナは入賞1回でシーズンを終え、F1から去っていきます。
 余談になりますが、この年からフットワーク・無限のマシンを駆っていた鈴木亜久里は中団グループでティレルのマシンと戦っていました。グルイヤールやデ・チェザリスと絡んでリタイヤ、という残念なレースもあって「グルイヤールがさぁ・・・」、「チェザリスがさあ・・・」とピットレポーターの川井一仁氏によくぼやいていました。ただ、中団グループのマシンと言うのは前に出ようとどうしても必死になりますから、こういったアクシデントも起こりがちで、そこから抜け出すことが大事なんだ、とも亜久里さんは言っており、このあたりは今も変わらないように思います。その亜久里さんは一昨年の日本GPのトークショーの場ではデ・チェザリスを「ベストオブ変な奴」と称しておりました。もっともこれはコース上の、という意味で、マシンを下りるととてもいいやつ、とも評しています。デ・チェザリスはマシンを壊す、アクシデントを起こす、とトラブルメーカーのように言われていましたが、キャリアの最後の数年になるとそういった「粗さ」も少なくなり、評価されるレースもありました。
 そして1993年、ティレルはヤマハのV10エンジンとジョイントします。グルイヤールの代わりに、日本たばこのスポンサーとともに片山右京が加入します。マシンについては序盤戦のみ020を使う、ということだったらしいのですが、資金不足などもあり、結局前半戦を3年目のマシンが020Cとして戦うことになりました。1970年代の名車、マクラーレンM23やロータス72、ティレル007などは改良を受けながら複数のシーズンを戦いましたが、この時代に3シーズンにまたがって使われたマシンは無かったと思います。93年には多くのチームがセミオートマチックギアを投入しただけでなく、車高を一定に保つ「アクティブサスペンション」も装備していました。残念ながらティレル020Cはそういった装備とも無縁でした。カウルを開けたら「中嶋悟」とサインがしてある、なんていうジョークが私の周りでも話されていました。後半からニューマシンの投入があったものの、この年は一度の入賞もありませんでした。この年のティレル(と片山右京)の苦闘ぶりはテレビで見ていてもよく分かるものがあり、GPCarStory誌上のインタビューでも右京さんは「戻りたくないシーズン」と言っていることからも、やはり辛いシーズンだったということでしょう。ただ、ヤマハのエンジンに関しては1993年のシーズンを通して進歩を続けており、翌1994年にティレル・ヤマハが躍進できたのも、そういった下地ができていたからだったようです。
 
 さて、話を1991年に戻しましょう。F1ブームのピークだったあの頃の個人的な思い出をひとつ。鈴鹿ラストランでリタイヤした中嶋選手に声を詰まらせてインタビューする川井一仁リポーターと、それに淡々と答える中嶋選手という物真似なども仲間内で受けたものです。私が「中嶋さん」の真似をして、友達が「川井ちゃん」に扮するのですが、男女問わず受けていたのであの場面をテレビで見ていた人が多かった証拠でしょう。
 また、以前ご紹介した短編小説集「紺碧海岸」(松本隆著)も、1991年のシーズンのエピソードがその半数以上を占めています。秋の夜長に、ページを繰りながらあのシーズンを思い返すというのもいいかもしれないですね。もしかしたら、このブログの読者の方々の中には「歌手」中嶋悟の「悲しき水中翼船」のCDを引っ張り出している方もいらっしゃるのでは、と思います。
 三回に分けてひとつのマシンとその周辺の話を書いてまいりました。そろそろチェッカーフラッグといたしましょう。
 今日(10月25日)は1992年に日本GPの決勝が行われた日ですが、現在のF1ではポルトガルGPの決勝が行われ、ルイス・ハミルトン選手がM.シューマッハの持つ通算勝利記録を塗り替えました。おめでとうございます。現在と過去を行きつ戻りつ、ファンはレースを楽しんでおります。
 

1992年日本GPのプログラムの表紙(上)とティレルチームを紹介するページ

ティレル020Cは1995年パシフィックグランプリで展示されていました。この時点で2年前のマシンが無造作に展示されていて、少々拍子抜けしたものです。フィルムカメラで撮ったものをデジカメで撮り直していますので、ご容赦ください。

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ティレル020と1991年のF1シーズン

2020年10月23日 | 自動車、モータースポーツ
 前回はティレル020というマシンに焦点を当ててお送りしましたが、今回はそのマシンが走った1991(平成3)年のF1の話です。
 この年はシーズン開幕の直前まで湾岸戦争に世界が揺れておりました。開幕戦のアメリカGPでティレルがダブル入賞、さらに鈴木亜久里も6位入賞と、日本のファンにとってもこれ以上はないスタートでしたが、これ以降日本人の入賞はありませんでした。
 この年の最初のハイライトは次のブラジルGPで、A.セナが初めての母国GP優勝を飾りました。このレース、セナは手負いのマシンをなだめすかしながら走り、最後は6速ギアだけで走っていたと伝えられています。そして、開幕からマクラーレン・ホンダはセナの活躍もあり、勝ち星を重ねていきます。ホンダはこの年からV12エンジンを開発、マシンに搭載して勝利を積み重ねました。おそらく、ホンダの「仮想敵」は同じV12エンジンを積むフェラーリだったのでは、と思います。しかし、フェラーリはプロストとアレジを以てしても勝つことはかなわず「暗黒時代」が1994年頃まで続くことになります。
 しかし、フェラーリの代わりにタイトル争いに名乗りを挙げたチームがありました。それがウィリアムズ・ルノーとドライバーのナイジェル・マンセルでした。コンパクトにまとまったルノーV10エンジン(「大佐」ベルナール・デュドが率いるルノーも、ホンダに負けない先頭(戦闘)集団でした)と、空力の魔術師・エイドリアン・ニューウィーのデザインした車体は、F1がトータルなパッケージの時代に入ったのだなと印象づけられました。マンセルと僚友パトレーゼは徐々に調子を上げていきます。特に7月のフランスから9月のイタリアまでのヨーロッパラウンドはヒリヒリするくらいのつばぜり合いが繰り広げられました。その間にホンダの創業者・本田宗一郎氏が亡くなり、中嶋悟が引退表明、さらにはベルギーGPでミハエル・シューマッハが新興チーム・ジョーダンからデビュー→1戦でベネトンに移籍という大きな出来事もありました。ベネトンではこれが最後のシーズンとなったピケとコンビを組みます。また、ジョーダンの緑色のマシンも好走し、注目を集めていました。レースだけでなく、背景にいろいろなことが起きるのがF1ではありますが、90年代のF1のサマーラウンドというのは夏の太陽を追いかけるかのように過ぎていく感がありました。
 セナを追い上げたマンセルではありましたが、ポルトガルGPのピット作業の不手際でピットアウト直後にタイヤが外れるまさかのアクシデントがありました。これでかなり分が悪くなったマンセルですが、次戦のスペイン(今も続くバルセロナ・カタルーニャサーキットでのレースは、これが最初でした)では長いストレートでセナを抜き、タイヤ無交換で勝利を挙げます。
 そこで迎えた鈴鹿ではマンセルのリタイヤでセナのタイトルが確定、レースでもセナが勝つかと思いきや、最後にチームメイト・ベルガーに勝利を譲ったのでありました。露骨に勝利を譲られたベルガーの胸中はどのようなものだったのでしょうか・・・。最終戦の豪州は大雨で短縮終了となり、少々後味の悪いシーズン閉幕でありました。
 今よりもレース数の少ないシーズンでしたが、それぞれにドラマがあり、今でも思い出します。
 
 さて、ティレル020の話に戻りまして、私も模型で作りました。タミヤ1/20のキットです。写真のマシンを組んだのは今から15年近く前になりますので旧作ですがご容赦ください。

 車体色のガンメタルはタミヤから専用色が出ていましたが、実際にはかなり黒っぽく見えます。当時はまだ流通していたモデラーズのガンメタルのスプレーを吹きました。マーキングはキットの純正ではなく、サードパーティーのものを使用しています。白い帯も塗装にしています。モナコGP(名物のトンネルを抜けた地点で中嶋が最高速をマークしたと言われています)の仕様にしたと思います。
 傍らに立つ中嶋悟のフィギュアはモデラーズ1/20です。長らく手元にあったものを最近仕上げました。モデラーズからはドライバーのフィギュアが何種類か発売されておりましたが、どれも特徴を捉えたものばかりでした。離型剤を落とし、サーフェーサーを吹いた後、グリーンマックスの鉄道カラー・No.21アイボリーAを吹きました。光の当たり方で白というよりもアイボリーに見えるときがあり、この色を使いました。さらにファレホのオフホワイトでハイライトをつけました。他の方も指摘されていましたが、発売からだいぶ経っていたこともあってデカールはかなりダメージを受けており、水につけてバラバラになったものもありました。結局、お腹の「BRAUN」のロゴはネットから落としたものを自作デカールにしています。

 バックのCDはF1をイメージしたT-SQUARE&Friendsのアルバム「F1GRANDPRIX WORLD」です。91年鈴鹿のマシンのエンジン音が入った「TRUTH」や中嶋悟をイメージした「ホームストレートの雨」といった曲もあり、私のお気に入りのCDです。アルバムのラストは中継のエンディングテーマだった「IN THIS COUNTRY」です。

1991年日本グランプリのプログラム(左側)と。
 この頃はあまり速報誌は読まず、年に数回特集が組まれた「Number」誌とフジテレビのF1ポールポジションなどで情報を得ていました。

左側のNumber誌は日本GPのプレビュー号です。中嶋悟・長島茂雄両氏の対談というのも組まれていました。この中で「ミスター」長島氏が「実現しなかったけど若いころにドジャースでプレーするプランがあった」と明かしています。なお、この号でもインタビューの中で中嶋選手がマシンが思ったように仕上がらない、重い、といったことを今宮純氏に打ち明けているのが分かります。他にも1976、1977年の日本GPの話や、海外でF1と関わる企業戦士たちの話など、読み応えのある1冊です。久しぶりにページをめくりながら、あの頃の甘くて苦い思い出がよみがえってきました。
右側はモデルアート1991年10月号。モデルアートでもこの時代はよくF1特集が組まれております。タミヤのキットの紹介記事も掲載されており、参考にした記憶があります。

 さて、GPCarStoryの記事に戻りまして、遠藤俊幸氏が当時21歳の学生としてスタンドから日本GPを観戦した話とともに「中嶋さん」への思いを綴っています。私もとても共感したのが、中嶋悟の引退した38歳という年齢のことで、遠藤氏自身が「38歳の自分は(中嶋さんに比べて)子供だった」という件でした。私もあの頃「中嶋さん」の表情、一挙手一投足を見るにつけ、自分も38歳になったら、ああいう「大人」になっているのだろうか、と想像しましたが、実際にはそんなことはなくて本当に「子供」でありました。没落独身貴族などとうそぶいてあちこちのライブハウスやら、飲み屋やら、スタジアムに行きつつ、でも中嶋さんのような「覚悟」とか「責任」のない男だったように(今でもそうですが)思えるのです。一応仕事では評価していただけることもあったのですが、中嶋さんに比べたら、背負っているものが全然違うのですから、仕方ありません。
 今回のブログ、最後は自分の話になってしまいましたね。さて、このティレル020というマシン、ここで終わりではありませんでした。次の、さらにその次のシーズンまで使われたのです。そのあたりの話も次回したいと思います。
 


 
 

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記録より記憶に残るマシンだったとしても・・・ ティレル020

2020年10月20日 | 自動車、モータースポーツ
 三栄のGPCar Storyの最新号はティレル・ホンダ020を特集しています。このマシンはイギリスの名門、ティレルチームが1991(平成3)年のシーズンのために開発したF1マシンで、日本人ドライバーのパイオニア、中嶋悟の最後の愛機として知られています。

(写真は2013年筆者撮影)
 ティレルチームは前年に画期的な「ガルウィング」を持つ019というマシンをデビューさせました。

 非力なフォードV8エンジンながら、コンパクトにまとまったマシンはキビキビ走るという感じで、新鋭ジャン・アレジの活躍は大いに話題となりましたし、ロータスから加入した中嶋悟も日本グランプリでの入賞を含め得点を挙げています。そこにマクラーレンでチャンピオンとなったホンダV10エンジンが載る、ということで大いに期待されました。しかし、成績は今一つ振るわず、中嶋悟は5位入賞が1回、チームメイトのステファノ・モデナは最高位2位1回を含む入賞3回にとどまっています(なお、当時は6位までが入賞対象)。
 見てお分かりのとおり前年の019の「正常進化型」とはいえ、車体も新設計ですし、V10エンジンを載せるために改良を加えています。また、ホンダも「中嶋仕様」というべきエンジンを用意し「今年こそは表彰台に」と意気込んでいましたが、残念な結果に終わってしまったばかりか、中嶋の「鈴鹿ラストラン」もリタイヤに終わり、多くの人が残念がったことは、当時を知る方なら覚えていらっしゃるでしょう。
 本書では中嶋悟、森脇基恭両氏の対談の中で、中嶋氏自身が「フォードV8を載せる前提で作ったクルマだったので、そこに重いホンダV10を載せたことで、負荷のかかるサーキットに行けば行くほど多くのトラブルが起きた」という発言をしています。実際にチーム内ではV8エンジンを積みたい、という意見もあったようです。冬場の気温が低い状態でのテストはうまくいったものの、シーズンが始まり、暑くなってくるとトラブルも増えていったほか、一部スタッフのチーム離脱など、好ましくない方向にチームも進んでいました。ちょうど最近、フジテレビNEXTでこの時代の日本グランプリの映像が放映されていたのを見る機会がありましたが、前年の019が軽快な動きをしていたのと対照的に、020は重厚なガンメタルを基調とした塗装も手伝ってか、何か鈍重な感じがしました。もし、このカラーリングでトップグループを走る姿を見ることができたら、そのシャープな姿は日本だけでなく、多くの国のファンにとって印象に残るマシンになったのではないかと思うのですが・・・。
 また、当時は少数派のピレリタイヤに文字通り足を引っ張られた、と報じられていたものです。ホンダの関係者も性能が良かったり悪かったりで安定しなかったと言っていますが、ティレルに特化した開発・改良も行われていたという証言もあります。両者リタイアに終わりましたが、もともと市街地に強いモデナがモナコで予選2番手となったほか、中嶋もこの年のモナコでは予選11位となっています。うまくハマるサーキットでは性能を発揮できたということでしょう。本書ではピレリの関係者のインタビューはありませんでしたが、実際のところどんな開発をしていたのか、知りたくなりました。
 本書では中嶋のチームメイトのステファノ・モデナへのインタビューも掲載されています。この時代のF1では、イタリア人ドライバーはちょっとした勢力を築いており、その中でモデナは物静かな性格もあってかその中では地味な存在ではありましたが、開発、改良を通してホンダからの評価も高かったようですし、インタビューでは本人も当時のことを包み隠さず話しています。引退後はブリヂストンの市販車タイヤ用の開発ドライバーなどをしていたというのも、この人らしいなと思いました。
 マシンのメカニカルな話だけでなく、ティレルチームがマクラーレンと「提携」することでスポンサーシップの管理運営をマクラーレンに任せていたという話も興味深く読みました。青を基調としたカラーが多かったティレルが、この年だけ(日本ではシェーバーでおなじみの)ブラウンをメインスポンサーにしていたのも、そういった関係があったからだそうです。
 このシーズンは私自身がF1を真剣に見るようになった「元年」でもありまして、その中で「中嶋さん」とそのマシンは応援の対象でもありました。子供の頃ならともかく、スポーツ選手に感情移入するというのは大きくなってからは無かったのですが、「中嶋さん」のシャープな走りは、なぜか応援したくなるものがありました。シーズン中に引退を発表したこともあって(本人は引退発表したことで気持ちが切れてしまったと言っていますが)、日本ではあらゆるメディアに取り上げられ、最後の鈴鹿までのカウントダウンは異様な空気だったことを覚えています。ちょうど10月20日という日が、29年前の日本グランプリの決勝日で、当日は20:00から地上波で録画放送があったのですが、裏番組の大河ドラマ「太平記」(こちらも良くできた作品だったのですが)を視聴率で抜いたということからも、当時の状況がお分かりいただけるかと思います。なお、日本グランプリでのリタイヤですが、エンジントラブルや誰かにぶつけられたといったアクシデントではなく、タイロッドエンドの破損が原因でした。車体を提供するティレル側の部品には外注品が多く、納品検査なども満足に行っていない中で起きているトラブルであることから、信頼性の低さが原因と指摘する声もあります。壊れることなく走り続けていたら、表彰台は無理としても、6位には入れていたのではないか(モデナは6位入賞)と思います。
 海外のレースファンから見れば、このティレル020については「雨に強い寡黙な日本人と市街地に強い寡黙なイタリア人のドライブする中団グループのマシン」と片付けられてしまうかもしれませんが、私を含め多くの日本のファンの記憶に残り続ける、そんな感じがするのです。
 今回はマシンにフォーカスして書きましたが、このシーズンのF1については、まだ書き足りないこともあります。次回以降、そのあたりの昔話をさせてください。もちろん、本書についてもここでは書ききれない興味深い話が満載です。あの頃のF1に(もう一度)触れてみたい、あの頃生まれていないけど、知ってみたい、という方にもぜひおすすめします。

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Grosser Preis von PLAYMOBILLAND!? その2

2020年10月15日 | 玩具道楽
 ということで前回の続きです。プレイモービルとモータースポーツですが、1970年代の終わり頃に単座、オープンタイプのスポーツカー(古いファンには富士のグラチャンカーを想像すれば分かりやすいかもしれません)を発売しており、こちらは何度が再販されました。その後もハッチバックタイプの自動車のバージョン替えでラリーカーが発売されています。
 フォーミュラカーの発売と前後するようにタイヤメーカーのロゴが入ったサービスカーや、トレーラーのキャブの部分だけを使ってレースを行う(欧州では盛んに行われています)ための車輛もラインナップに加わりました。また、細部まで再現されたゴーカートも発売されていましたので、実物と同様に初心者まで裾野が広がっていたようです。
 2000年代に入ってからはラリートラック(こちらもおまけがいっぱいついていて遊び甲斐がありそうです)などが発売されたほか、最近ではポルシェとのコラボでポルシェカップのマシンも製品化されました。こちらもいずれご紹介しましょう。

 話をフォーミュラカーに戻します。今日はプレイモービルランドGPが開催されています。おなじみTViの独占中継でお届けしています。TViというのはプレイモービルのテレビクルーにお馴染みのロゴで、プレイモービルの国の公共放送なのでしょう。

レース前のグリッドですが、ドライバーにインタビューが行われています。最近は見かけない光景ですね。それにしても手前の銀色のマシンはピレリのマークをつけ、後方に映っている赤いマシンはグッドイヤーですから、タイヤ戦争が勃発しています。ピットレポーターはサッカーのシリーズから、カメラマンはジャンク品です。
 レースがスタートしておりますが、ピットクルーなどが製品化されていないため、レース中の緊迫した光景は再現できません。あしからず。レース中ですが、この製品の話をもう少ししましょう。
 前回少し触れましたが、このセットにはデジタル式の腕時計が入っています。私のところにきたときには既に電池も切れていましたが、同梱の説明書によれば時刻表示だけでなく、アラームなどがセットできるものだったようです。

また、カーナンバーのスペアのステッカーが三台分入っていました。説明書にもありますが、赤いマシンの分も含めて変えられるようになっていたようです。

もし、中古品などでオリジナルと番号が違うマシンがあれば、それは前の持ち主がシールを上から貼ったもの、ということになりましょう。
 ということで上位三台が僅差でフィニッシュ、という場面です。

26号車が黄色いマシンのドライバーをピックアップしています。黄色いマシンはフィニッシュラインを超えた後で止まってしまったようです。

今はこういう「タクシー」行為は禁じられているようです。

上位の選手たちが健闘を称えあっております。
表彰式です。三人のドライバーが表彰台に立って・・・

シャンパンファイトでございます。


 残念ながらプレイモービルのフォーミュラカーはラインナップから外れて久しく、インディカーを思わせる炎をイメージしたような派手な柄のマシンがアドオンで見かけるくらいです。ただし、近年になってブラインドパッケージのfi?uresから、レーサーの人形が出ていました。

 どう見てもレッドブルのレーシングスーツてすね。ドイツのセバスチャン・ベッテル選手がレッドブルに在籍し、タイトルを獲得していますので、それをイメージしているのでしょう。
 マシンの方は20年以上前のスタイルという感じですから、このレーサーに合うマシンが欲しいところです。ポルシェは玩具ながらなかなか精巧にできていましたので、モデルチェンジしてプレイモービルらしい凝ったフォーミュラカーが観たいものです。






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Grosser Preis von PLAYMOBILLAND!? その1

2020年10月13日 | 玩具道楽
 前回もお伝えしたように先週末は日本グランプリが予定されていましたがコロナ禍で中止、代わりにドイツでアイフェルGPが開催されました。ハミルトン選手が優勝してM.シューマッハの持っていた最多勝利記録に並んだほか、ライコネン選手も最多出走の記録を達成するなど、話題の多い週末でした。
 F1が観られなかったと言って残念がっている小さなお友達のために、というわけではありませんが、今日はおもちゃのF1マシンの登場です。
 このブログでときどき取り上げておりますドイツの玩具・プレイモービルですが、以前はモータースポーツに関する製品がいくつか発売されていました。フォーミュラカーが初めてラインナップに入ったのは1994年のこと、品番3603です。

筆者が持っているのは中古品のため、箱に傷みがあります。
 製品に入っているのはマシンとドライバー、エンジニア(監督?)というセットです(背景の看板は別のセットから持ってきたものです)。

エンジニアはストップウォッチのついたクラシカルなボードを手にしております。

黄色や黄緑、青を取り入れたマシンの色ですが、シューマッハが在籍していた1992年、93年のベネトンチームのカラーを意識しているようです。シューマッハの初優勝が1992年ですから、ちょうどドイツでF1人気が盛り上がっていたのでしょう。
 品番3603ですが、1997年にカラーリングが変わります。

 フェラーリを意識したような赤い塗装になりました。これも1996年にシューマッハがフェラーリに移籍したからでしょう。こちらは1999年までカタログに載っていました。私が持っているのはカタログ落ちした後で袋に詰めて発売されていた「アドオン」と言われる形態のもので、ドライバーとマシン、シール類が入っているだけでした。
 余談になりますがこの「アドオン」、兵隊さんだけ入った3体入りのセット、といったまとまった数の人形が欲しい時に便利なセットも売られていて、私も古代ローマシリーズではお世話になりました。
 これだけではとどまらず、2000年には「Limited Edition」として次の製品が発売されました。品番3930です。

 こちらは銀と黄色のマシンが一台ずつ入っています。


銀色は当時最速だったマクラーレン・メルセデスを、黄色はドイツ人のフレンツェンがドライブしたジョーダン・無限のマシンを模しているのでしょう。人形はそれぞれのドライバー、箱絵ではチェッカーフラッグを持っているのでオフィシャルと思しき一体の計3体が入っています。他に表彰台やシャンパンのボトルなどの小物類が入ります。

 それからこのセットには腕時計(!)もセットされています。
 プレイモービルのF1マシン、色違いだけで特にマシンごとに違いはありません。カウルは一部が外せるようになっています。

10気筒に見えますが、その前にさらに2気筒隠れています。やけに横に広いV12エンジンです。サイドポンツーン上部の「Brandstatter」はプレイモービルの発売元、ジオブラ・ブランドスタッター社のことです。サイドに「PLAYMOBIL」と入っていますが、実際のマクラーレンのマシンではこの部分にスポンサーのタバコブランド「West」のロゴが入っていました。
 コクピットは人形が握れるよう、ステアリングが大きくなっています。よく見ると右側にシフトノブのようなものが見えますので、セミオートマチックではないようです。

 リアエンドはこんな形をしています。

タイヤの取り付けには「バールのようなもの」(笑)ではなく、専用の道具が入っていて、メカニック気分を味わえるようになっています。

タミヤのF1マシンのキットも最後にタイヤを六角レンチのような専用のパーツで止められるようになってましたね。

 長くなってまいりましたので次回に続きます。






 

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