工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

国産ジェット機の系譜 番外編 ロケット機・秋水

2021年06月29日 | 飛行機・飛行機の模型
 ジェット機、橘花については数回に分けてこのブログでご紹介しましたが、橘花と同じように潜水艦で日本にもたらされた技術を元に作られた戦闘機がありました。それが秋水です。国産「ジェット機」とは異なりますが、橘花と同様私の祖父も関わっていたかもしれない機体ですので、ご紹介する次第です。
 第二次大戦では高高度を高速で飛ぶ爆撃機も登場し「より速く、より高い高度へ」というのが迎撃側に求められるようになりました。ドイツではロケットエンジンを装備したメッサーシュミットMe163が登場、実戦配備されます。日本でもB29の迎撃ができる戦闘機が必要となり、それまでのレシプロエンジンの戦闘機では速度、高度ともに足らず、そんな中で高速のロケット機の開発に期待が寄せられたわけです。
 橘花と同様、現物が日本に入ってきたわけではなく、潜水艦を降りて先に航空機で帰国した巌谷中佐が携えた資料から開発が始まりました。正式には昭和19年8月に三菱に対して試作発注が出されました。陸海軍の共同開発として量産の暁には陸海軍が共に配備する予定となっており、陸海軍がそれぞれ同じ機種を使用するというのも珍しいことでした。
 まったく経験のない機種を開発するため、三菱を筆頭に関係する各メーカーとも相当な苦労があったのではと察します。無尾翼で後退翼ということも含め、まだ珍しいものでした。
 動力はロケットエンジンですが、日本では「甲液」と呼ばれる過酸化水素80%とオキシキノリン20%の液体と「乙液」と呼ばれるメタノール57%、水化ヒドラジン30%、水13%の液体が燃料でした。これらを混合させ、ロケットエンジンを燃焼させてパワーを得るというものでした。甲液、乙液ともに人体には有害で、その保管方法なども細心の注意を払う必要がありました。乙液の「ヒドラジン」という言葉の響きが、いかにも毒劇物な感じがしまして、甲類と乙類とは訳が違います(こっちは焼酎でしたね)。これら燃料の開発も未知のもので困難を極め、国内の化学メーカーや研究機関の協力のもと、完成にこぎつけています。
 橘花の組み立て、生産が米軍の攻撃で困難を極めたように、秋水も東南海地震や名古屋地区の大空襲など、試作機の完成に至るまでさまざまな困難がありました。それでも、昭和20年7月には初飛行にこぎつけました。試作機のシンボルである黄橙色に塗られた秋水は7月7日夕刻に犬塚豊彦大尉の手で海軍追浜基地を飛び立ちましたが、途中でエンジンが停止、基地に不時着を試みるも着陸に失敗し機体は大破、犬塚大尉は救出されたものの翌日亡くなりました。残念ながら初飛行は成功とは言えないまま終わりました。エンジン停止の原因ですが、初飛行ということで燃料を軽く積んだことが裏目に出て、深い角度で上昇するうちに燃料の供給がうまくできなくなったから、とも伝えられています。
 その後、飛行試験が行われることはなく終戦を迎えます。秋水は試作、先行量産含めて数機が完成しており、米軍に接収されました。今でも少なくとも1機が米国内で静態保存されています。また、国内で戦後「発掘」された1機が復元され、三菱重工の手で保存されています。
 さて、ロケットエンジンを積んだ航空機ですが、結局Me163が実用化された程度で、そのあとは続きませんでした。確かに高速で高高度に上昇できることは魅力ですが、飛行できる時間=空戦に持ち込める時間は短く、敵爆撃機がロケット機が飛んで来ないところを迂回して飛べば会敵できないわけですし、燃料が切れれば単なるグライダーとなってしまい、格好の獲物となってしまいます。結局、ロケット機は高速度や高高度といった試験に使われる機体(昨年このブログで紹介したX-1など)で採用されるにとどまりました。

 日本ではほかに、ロケット機の範疇に含まれるものとして、固形燃料のロケットブースターを使った航空機がありました。特攻兵器として開発された「桜花」です。こういった兵器を開発するところまで日本は追い込まれていたわけですが、母機として使用した一式陸攻も含め、その多くが撃墜され、多くの命が失われています。桜花についてはジェットエンジン装備型など、派生型が計画されていたそうです。

 また、秋水の開発が進むうちに高高度で行われていたB29の爆撃も我が物顔でさらに低い高度で行われるようになっていました。亡父は昭和20年5月の東京市街地に対する大空襲に遭い、家を失っておりますが、その時のB29のことを「焼夷弾を落とし、爆弾倉を開いたまま飛ぶB29は手を伸ばせば届くのではないかというくらい低い高度のものもいた。燃え盛る町の炎に照らされ、爆弾倉も、さらには機内についている灯りも見えた。ライフルがあれば撃ち落とせたのに、と思うほどだった」と証言しています。

 さて、秋水に話を戻しますが、模型でも作りました。入手しやすいファインモールド1/48製品です。最近はプラ製のシートベルトも同梱されています。

1990年代の製品ですが、丁寧に作ればこの独特な機体を簡単に再現できます。1/48でも手のひらサイズです。

塗装は米軍に接収された一機とされるもので、胴体下面の一部を銀色にしている以外は、全面濃緑色です。キットには初飛行時を再現できるマーキングも入っていますし、実戦配備された架空の姿も(機関砲とデカールも含めて)再現できます。私も発売当初に黄橙色で作っています。
今回は比較用のメッサーシュミットMe163は作っておりませんが、大きさはオリジナルとあまり変わらず、そこがMe262と橘花とは異なるところです。

参考文献 「秋水」と日本陸海軍ジェット・ロケット機(モデルアート社)、ファインモールド1/48 秋水 説明書







 

 


 
 

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山手線の駅で昭和の遺産と出会う

2021年06月22日 | 鉄道・鉄道模型
 JR山手線・高田馬場駅は、学生の頃からよく使っており、今も頻繁に利用する駅となっています。高田馬場というと昔は大学だけでなく予備校や雀荘、学生ローンの店などもあって「学生の街」という風情でしたが、今は留学生向けの予備校の簡体字の看板をよく見かけ、時代の変化を感じます。また、最近は地下鉄東西線の開通の頃に作られたビルが取り壊され、再開発も進んでいます。
 さて、高田馬場駅の跨線橋には古レールが使われており、ホーム側で支えている古レールに、こんなものを見つけました。

 丸にSの文字が入った日本製鉄(旧八幡製鉄所)のレールですが、製造年に注目です。

50 PS Ⓢ 2602 IIIII OH
50ポンドのPS(ペンシルベニア鉄道規格)断面、〇にSマークは八幡製鉄所以来のマーク、2602年5月に平炉(Open Hearth)により製造という意味です。
 製造年を示す四桁の数字には2602とあります。これは西暦ではなく皇紀表示であり、数字の右の縦棒から判読しますと2602(昭和17)年5月製造、となります。昭和16年以降、日本製鉄所のレールについてはそれまでの西暦ではなく皇紀表示で刻印の上、製造されていたようです。このブログの読者の皆様には説明の必要は無いとは思いますが、以前出てきた97式戦車というのは皇紀表示の末尾二けたである2597(昭和12)年に制式化されたことによりますし、ゼロ戦こと零式艦上戦闘機や100式司令部偵察機は皇紀2600(昭和15)年に制式化されたことに由来します。
 西暦を用いず皇紀表示にしたり、英語は敵性語として忌避すらした当時の日本ですが、このレールには皇紀表記としながらも米国の鉄道の規格を示すアルファベットや、平炉の英訳に当たる言葉の略称を刻印に入れています。
 こうした皇紀表記、戦争の期間を通じてレールの刻印に残っているそうです。2602(昭和17)年というのは先の大戦のターニングポイントともなった年で、このレールが作られた翌月の6月にはミッドウェー海戦で日本海軍が空母4隻を失うという大敗を喫しています。また、連合軍の北アフリカ上陸、スターリングラード攻防戦など、開戦以降押し気味だった枢軸国と連合国の立場が変わろうとしていた時でした。ちなみにこの年の7月には関門トンネルが開通、当初は単線ではありましたが本州と九州がレールでつながりました。
 まだ2602年のレールでしたら見かけることができるのですが、さすがに「五式」昭和20年のレールは少ないようで、私も見たことがありません。
 皇紀表示というのは戦争と共に終わったはずですが、戦後製造されたレールにも意外な形で残されていました。西野保行著「鉄道史見てある記」(吉井書店)のレール余話・その三「皇紀二六〇八年製」という記事によりますと、戦後生産された日本製鉄(八幡製鉄所)系のレールの中に2606年、2607年、2608年といった表記が見られるということでした(私も見かけたことがあります)。ところが公式には1948(昭和23)年11月に日本製鉄ではレールの生産を再開したとあります。西暦ではなく皇紀表示となっていた理由について著者の西野氏は「戦後も何らかの理由で非公式にレールが作られており、その間は皇紀表示としていた。正式に生産を再開した時以降、西暦表示に戻したのではないか」と考察しています。
さて、跨線橋を支えている古レールに戻りますが、何十年も使っている駅にも関わらず、今まで気が付きませんでした。もともと売店か自販機か何かがあって隠れていたからでしょうか。見つけやすいところに、刻印も読み取りやすい形で昭和の歴史の一部を伝えるものが残されていますので、探してみてはいかがでしょうか。西武新宿線と山手線を結ぶ跨線橋の山手線ホーム上、目白駅方向の階段を支えている梁にあたります。混み合う駅ですので、くれぐれもマナーを守ってください。



 

 

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お詫びとかお知らせとか・・・

2021年06月16日 | 日記
 こんにちは。
 今日はまずはお詫びから。4月1日に掲載したフィンランド軍の96式艦戦ですが、キャノピーほか一部部品を接着しないでupしてました。既に6月になっていますので、おいおい、今更かよと言われそうですが、正しいものをupします。

付けなければいけない部品を抜いていてはいけませんね。

いやはや、ウソをつくにしても上手につかないと情けないものになってしまいますね。反省です。「もしコメント欄が開いていたら、指摘できたのに」という声もございましょう。
 そこなのですが、私は本ブログにおいて、コメントを受け付けてはおりません。もっと早く書いておくべきで申し訳ないのですが、これについては理由は単純なことでございまして、ただ私が筆不精なためでございます。つまり、せっかくコメントをいただいても私の性分のおかげでコメントをお返しできない、お返ししないことも考えられ、そのことで気分を害される方もいらっしゃると思って、勝手ではありますが、初めからコメントをお受けしないようにしております。
 もともと本ブログは自分自身の活動記録であったり、先日の橘花の記事のように、私や身内の記憶の中でとどめておくのはもったいないから、という気持ちで書いているものもありますが、多くの読者の方を想定せず、内輪向きに作ったものがきっかけでございます。自分自身が読みたい記事を書きたい、という気持ちもありますし、何かのついでに見知らぬ方に読んでいただいて、ふーん、こんなことをしているんだ、くらいに思っていただけたらというのが偽らざるところでございます。もちろん、フォローいただいていることは大変感謝しておりますし、長い文章ばかりの記事が思いもよらないくらいのアクセスをいただくこともあり、嬉しくもありますが、匿名性の高いメディアとは言えなおさら無責任なことは書けないと思っています。
 私は通勤時間も含めると1日のうち半分は生計を得るための仕事に時間を取られています。従って趣味のために時間を取れるのは一日1~2時間といったところで、模型を作ったり、本を読んだりということもありますので、ブログの更新に関しては空いた日に、夜更けのリビングで時には眠い目をこすりながらパソコンを開いていることもあるわけです。いろいろ書きたいことがあって文章もついつい長くなりますし、そうは言っても不特定多数の読者のために言葉を選ぶ必要もありますし、文献を読み込んだり、写真を編集したりといったこともありますので、ブログをアップできる頃にはかぼちゃの馬車の時間となっていることもあります。

(昼間の筆者 イメージ)


(ブログ執筆中の筆者)

今後、人生とお金に余裕ができる生き方ができれば、皆様と対話することも含めて、ブログのためにもう少し丁寧な対応ができるかと思いますが、今すぐに何か、というのは難しいわけで、そこはご理解いただければ幸いです。こんな私ではありますが、これからもマイペースで更新してまいりますので、おつきあいいただければ幸いです。

(安全第一で作業しておりますので、ご理解ください)

(私は文章ばかりのブログは読んだことがありません。ところで足元のおもちゃ、早く片付けてください。掃除のじゃまです)



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鉄道ファン60周年記念号に掲載されたあの列車のこと・・・

2021年06月12日 | 鉄道・鉄道模型
 鉄道ファン誌が現在発売中の7月号で創刊60周年を迎えました。おめでとうございます。以前も書きましたが、50周年・600号が大きな「お祝い」という感があり、60周年でどのような特集になるのかと思いましたら「赤いパノラマ」ということで創刊号の表紙を飾った名鉄7000系と現在の「赤いパノラマ特急」小田急70000形を軸に、古今の「パノラマ特急」を振り返るという内容でした。子供の頃、名鉄の7000系や当時の小田急ロマンスカー3100形は憧れの存在であり、「国電」山手線・総武線のホームからガラス越しに小田急のホームにたたずむ3100形は、まさに小田急の看板列車だったことを思い出します。両方の形式とも大人になってから写真を撮りに行ったりしています。
 さて、この特集の中でパノラマカーやロマンスカーが影響を受けた、と言われるイタリア国鉄ETR300(セッテベロ)形についてページが割かれていました。執筆者のフリーランスプロダクツ曰く「ETR300のデビュー当時、イタリアの鉄道技術誌に記載されていたセッテベロについての記事をまとめた復刻本があった」ことで詳述することができたそうです。
 セッテベロことETR300は私も大好きな形式で、子供の頃の図鑑にはたいてい海外の代表的な列車の一つとして紹介されていました。イタリアは第二次大戦で国土が戦場になり、しかも途中から「内戦」状態で推移したこともあり、国土が荒廃しておりました。そんな戦争の傷跡が残っていたであろう1953(昭和28)年にデビューしているというのも驚きです。日本ではまだ「茶色い」つばめ、はとが看板列車だった頃です。ファン誌の記載にもありましたが、イタリアでは戦前から電車による高速運転なども行われており、豪華な電車特急が生まれる下地は既にあったと見るべきでしょう。主要都市の駅に行き止まり式ホームが多く、停車のたびに方向が変わる欧州では米国(日本もそうですが)のように展望車が発達したわけではなく、それゆえに展望客車のような前頭部にして運転台を階上につけるというデザインは画期的なことでした。セッテベロという列車名はよく言われるように、イタリアの「スコパ」というカードゲームの切り札から採られています。もともとこの形式が生産される際に外部に存在を秘匿するための名称だったようなのですが、7輌編成とイタリア語で7を表す「セッテ」をかけたのではないかと思います。いずれにしてもそんな「コードネーム」が列車名になったというのが興味深いです。座席車はすべて一等で、編成の中央に食堂車や荷物車を配置していました。客車列車なら編成の前部(または最後部)に連結する荷物車(ラジオ、電報等の部屋もありました)が中央にあるというのも珍しいものでした。
 セッテベロが運転されたのはミラノ→ボローニャ→フィレンツェ→ローマ→ナポリ間の言わばドル箱路線であり、当然のことではありますが、イタリア国鉄の「顔」となったわけです。一時は国内運行ながらTEE(欧州国際特急)列車として君臨しておりました。7輌編成のセッテベロに加えて4輌編成の「アルレッキーノ」も誕生しましたが、1990年代には第一線を退いています。イタリア国鉄と言いますと西ドイツやスイスなどと比べて「時刻に正確に運行されていない」といったネガティブなイメージで語られることもあり、また1970年代のイタリアなどは特にテロが横行した時代で、子供心に「おっかない国だな」と思っており、そんな記憶とともに今回のファン誌の特集を読みました。
 さて、その後はETR300のような「パノラマ列車」がイタリアで生まれることはありませんでした。イタリア国鉄はその後、高速新線の建設と列車そのものの高速化(振り子式車両の研究、投入などもありました)を地道に行うことで幹線の近代化を図りました。ちょうどセッテベロが走った区間についてもユーロスター・イタリア(現フレッチャ・ロッサなど)やイタロといった高速列車が走り、本数も昔とは比べ物にならないくらい多く運行されています。


写真はETR300形式を紹介する英文パンフレットの復刻版から。A.C.M.E社製HOゲージの模型に同梱されていました。そろそろNゲージでこの形式、出ないですかねえ。






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新宿駅は、ドコデスカ?

2021年06月08日 | 鉄道・鉄道模型
 このところ本業が多忙なのと、模型で佳境に入っているものがあったのと、さらにはF1が毎レース退屈しない展開だったので、パソコンの前に座ることがなく、ブログの更新もしておりませんでした。今日もテーマは鉄道ではありますが、鉄道趣味とはあまり関係の無い話です。
 さすがにコロナ禍もあって見かけなくなりましたが、一時は外国からの観光客が「えっ、こんな場所まで」というところまで来てましたね。また、2019年のラグビーW杯でも普段外国人を見かけない私鉄の駅に、おそろいのジャージ姿のグループを見かけることがあり、民泊の利用者かなと思ったものです。
 私は新宿が「準地元」のようなところがあり、休日に出向いたりもするものですから、以前は新宿で地図を持って迷っている外国人を見かけると、積極的に声をかけるようにしていました。せっかく日本に来てくれたのだから、嫌な思いをして帰ってほしくないし、自分も海外で親切に教えてくれる人がいると、やはりありがたく感じるものです。以前スーツケースが届かず、不便な思いをしたマルタ島では、あちこちのお店の方が親切に買う物を一緒に選んでくれたこともあり、それ以来私も、少しでも困っている人を見たら手をさしのべよう、という気持ちになったわけです。
 スマホの地図機能のおかげで以前ほど迷う人は少なくなりましたが、電車の乗り換えや駅はどこだろう?みたいな感じの方も見かけました。
 5,6年前のこと、地下鉄丸ノ内線の新宿駅の改札を出たところで、若い白人のグループが迷っている感じでした。どこに行きたいのか聞くと「JRの新宿駅に行きたい」ということでした。どうやらだいぶ歩いて迷っていた様子で「ここからなら階段を少し上って、良かったらついてきて」とJRの券売機まで連れて行きました。そうすると彼らはパスモを取り出し「これでJRに乗れるのか」と聞いてきましたので「もちろん。パスモもスイカも同じようなものだから」と言って改札まで送っていきました。聞けば彼らはオランダからの観光客で、山手線に乗りたかったのだけど迷ったとのこと。考えてみればJRの新宿駅の場合、西口は地上から見えるのは小田急と京王のデパートですから、さて、駅はどこだろう、となってしまうでしょう。これが南口や東口ならまだ探しやすかったかもしれません。新宿は日本有数のターミナル故、かの地のアムステルダム中央駅のように目立つ建物かと思ったら・・・となったのかもしれないですね。また、〇〇駅に行きたい、という場合は、ついでに目的地も聞くようにしています。観光客の多くはJRが渡してくれた地図か、地下鉄の路線図のいずれかしか手にしていないことが多いので、ものすごい遠回りをして行こうとしていることもあります。乗り換えアプリなども「なんで秋葉原から上野まで行くのに日比谷線をわざわざ検索上位にもって来るかなあ。今いるのは京浜東北線のホームで、しかもこの人たちは上野の国立博物館に行くのに」ということがありました。
 新宿の場合を例にとっても、旧国鉄系のJRに、民鉄、地下鉄は二事業者と関係する鉄道は事業者もバラバラで、海外の方からしたら不思議に感じるのかもしれません。あとは意外ですが、駅ナンバリングの数字で質問されるより、〇〇ステーション、と必死にローマ字を読んで聞いてくる人の方が多いようにも思います。
 新宿に関しては多少詳しいつもりでも、近年知らない建物が次々と誕生し、ホテルなども増えています。「俺はここの近くの病院で生まれたから(これは本当)ラッキーだったね。」と調子こいていると知らないホテルの名前を聞かれて、どこだったっけ、となります。「新宿」と名前のつく駅も西新宿や東新宿、西武新宿に西新宿五丁目までさまざまです。海外から来られた方には東京人でもなかなか分からないんだよ、と言っておりますが・・・。新宿西口も再開発の話が出ていたり、西武新宿と新宿駅を結ぶ通路の話も具体化しておりますので、また風景が変わっていくようです。
 そうそう、新宿に関してはもう一つ。新宿駅の西口を歩いていた時に、スウェーデンから来たという二人組に「メモリーレーンはどこですか」と聞かれました。一瞬なんのことかわからなかったのですが「ああ、思い出横丁のことね」となり、道を教えたことがありました。間違っても昔の俗称「ショ〇べ〇横丁」なんていう言葉は教えませんでしたが、彼らもマイケル・ブースあたりが書いた本を頼りに焼き鳥か焼きそばでも食べに来たのでしょうか。お願いだからああいうお店ではお水だけで何時間も粘ったりしないでね。

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