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工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

自分で作るから、楽しい グリーンマックス50周年記念誌

2025年04月27日 | 鉄道・鉄道模型

鈴鹿に出向く直前でしたが、鉄道模型メーカーのグリーンマックス(GMと略)50周年記念誌を入手しました。GMの50周年につきましては、昨年の国際鉄道模型コンベンションでも展示がありましたが、今回は活字と写真で振り返るというもので、ネコ・パブリッシング(RMモデルズ)が編集に関わっています。

往年のカタログを思わせる横長の判型ですが、第一章ではGMの半世紀を各年代ごとに振り返っています。個人的には1970年代、後に大山店の建物となった模型店マックス、さらにその前史的な話が興味深かったです。こちらはGMの社長と縁戚関係にある模型メーカー「ピットロード」の鈴木幹雄社長が語っています。その大山店の建物ですが、以前は2階がファミリー向けのレストランだったとか、知らない話もありました。また、GMと言いますと鉄道模型だけでなくかつては良質の艦船のプラモデルも手掛け、それが現在の「ピットロード」に繋がっていくわけですが、この名前ももともとは東名自動車(現・東名パワード)の名レーサー、鈴木誠一氏(鈴木幹雄氏の長兄)がいたことも関係しています。高原、星野といった1970年代の名レーサーたちの話も触れられています。鈴木誠一は星野、長谷見と言った後の名ドライバーを育て、自らもさまざまなカテゴリーで活躍しましたが、1974年の富士での大事故に巻き込まれ、風戸裕とともに亡くなっています。

GMの50年と言いますと、自分の「鉄道模型史」とほぼ被りますので、それぞれのページに懐かしい写真が随分出てまいりました。数は少ないながらも完成品を1970年代に手掛けていましたし、また、キットも時代が下るにつれ、少しずつ増えていきます。当時は高価な外国型を日本型に改造するか、自作するしかなかったストラクチャーも日本型のキットが発売されるようになります。私鉄車輌や小型車両など、大手メーカーが取り上げないラインナップもあり、あっと言わせ、わくわくさせてくれたものです。まだ小学生、中学生の身では上手に作れなかったことも確かですが・・・。

カスタム電車シリーズ、エコノミーキットなど、今でも流通しているものもあります。今では完成品を買えば済むものもありますし、さまざまなバリエーションを可能にするためにあえて「タイプ」としたものもありましたが、昔のモデラーは腕と経験に合わせて、より実物に近づける工作をしたり、妥協したりを繰り返し、形にしていったのではないかと思います。

現代のグリーンマックスは完成品メーカーとしても知られており、また、動力関連もコアレスモーターを採用してだいぶ進化しました。思えば床下機器も最初はゴツいダイキャストが入っていて、床板パーツにねじ止めしてウエイトを兼ねていたのが1980年代だったか、精密なプラパーツに置き換わりということで、キットも時代が変わるにつれてこれからも進化していくことでしょう。

GMというとオリジナルの塗料をリリースしていることでも知られ、私もかなりお世話になっています。白3号(これはMr.カラーの1・白と同じです)、黒(半艶の黒です)、銀などはノズルの粒子が細かいGMカラースプレーの方がMr.カラーのスプレーより使いやすく、エアブラシを多用するようになった今でも、鉄道模型だけでなく飛行機や車の模型の塗装でもお世話になっています。国鉄の車体色などに合わせたカラーは「最大公約数」のため違って見えることもある、ということで最近一部のカラーがリニューアルされましたが、色数、入手のしやすさ、他に応用がきく、ということでこれからも模型作りに欠かせないと思います。

GMというとスタッフとして関わり、先年亡くなった小林信夫氏の話も出てまいります。もともとトミーで製品開発をされ、入門用の蒸気機関車だったトミーのNゲージのCタンク(我が家の一号機関車でもありました)も小林氏の手によるものと聞いております。小林氏とトミーでともに過ごされた前川健氏(後に童友社でYS-11のキットを手がけられた方です)の話も興味深く、トミーがその昔出していた1/32の航空機キットの箱絵なども小林氏の手によるものだったそうです。GMのカタログや出版物に描かれたイラストの原画も本書では掲載されています。

また、関係者・モデラーからの寄稿も充実しています。牛久保孝一氏、嶽部昌治氏といった「中の人」、タヴァサホビーハウスの町田信雄氏、江頭剛氏、Eキットマン氏といったモデラーと、それぞれの立場で語っています。Eキットマン氏のエコノミーキット評はなかなか鋭く、共感したり、さらには「私の一段上のところで苦労されている」と思うこともありました。ちなみに同氏が「最難関」と位置付けている伊豆急のキット、私も苦労はしているのですが、いろいろなタイプの車輌が組める楽しさの方が勝っていた感があります(デカールと水性クリアの相性が悪かったのか銀帯が経年劣化してしまい、見るも無残な姿になってしまったのでリベンジしたい)。

と、長々書いてまいりましたが、私にとって印象に残るキットとというと、名鉄5500系(これは長野電鉄から富山地鉄まで同型の18m級電車を作れる、ということで名鉄や富山地鉄をつくったものです)、キハ04、キニ05の「バリエーションキット」、GMの店舗限定ブランド「クロスポスント」から生まれた地方私鉄タイプ2輌セット、そして通学でお世話になっていた東急の8500形といったところでしょうか。東急については8000として組み、内装、人形を乗せて完成させた後、リアルモデルコンベンションに参加させていただき、その後もNゲージショーなどで展示させていただいておりますし、その後ももう1編成組みましたので、やはり「相性がいい」のでしょうか。

建物では日本の民家シリーズの二階建ての商家でしょうか。こればかりは自作も叶いませんので、キット化は嬉しかったです。東京あたりでは大ぶりな建物となってしまいますし、後にトミーテックからジオコレシリーズで完成品も出ていますが、今でも我が家にストックがございます。

立派な箱に入った本書を眺めていたところ、家人から「なんだか卒業アルバムみたいだね」とツッコミが入ったのですが、板状キットは私の学校であり、卒業できない存在と思います。そしてGMキットと言うとかつて店舗で実施していたコンテストの上位入賞者に私の大学の後輩がおり、しっかりした工作力と美しい塗装は、私にとっても目標でありました。彼は20代で早世し、穏やかな性格も含めて好人物でしたから、私といろいろな意味で正反対の彼がなぜ、と思ったものですが、今でも板状キットをランナーから切り出すためにニッパーを握ると、その後輩を思い出すものです。完成品メーカーとしても地位を築いたGMですが、板状キットやストラクチャーキットのランナーを眺めたときのワクワク感はまさに「これから自分が形にするんだ」という気持ちそのものであり、これからもキットを通じて自分で作る楽しさを気づかせてくれる存在であったら、と思います。

(誌面から。フリーランスのレイアウトと車輛、須津谷急行の記事もあります)

 

(有名なあの文章もありますが「何らかの方法で埋める」というのもなかなかです)

 

(箱にはこんなシリアルナンバーの入ったシールも)

 

 

 

 

 

 


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ワールド工芸、廃業へ

2025年03月31日 | 鉄道・鉄道模型

 年度末にとても残念な話です。鉄道模型メーカーとして真鍮製品を得意としていたワールド工芸が廃業するというニュースを先日聞きました。1970年代に発煙装置を組み込んだ製品などを手掛けており、鉄道模型趣味誌には「発煙装置のワールド工芸」という広告が出ていたのを思い出します。

 やがて真鍮製の機関車などを手掛けるようになり、旧型電機や私鉄の電気機関車、SLなど他社であまり製品がないものを中心にリリースしていたように思いますが、特に90年代以降は真鍮製品ならではの精巧さで、ファンを獲得していたように思います。古典機などの製品化も積極的で、値段もあってなかなか手が出ませんでしたが、魅力的な製品もありました。

 今回の廃業の話、どのような理由なのか私は知りませんが、数十年と続けてきた鉄道模型メーカーとは言え、小さな企業だったでしょうから、会社を続ける、ということが難しくなる要因がいろいろあったのでしょう。鉄道模型メーカーとは言っても小さな所帯も多いですから、こういう話が続くのではと危惧しています。

 さて、ワールド工芸というと蒸気機関車や電気機関車のイメージが私などは強いですが、こんな変わったものもありました。

小田急のSSE車です。

連接車体も精密に再現されています。

 

 

下回りはトミックス製を使っています。

 

そしてディーゼル機関車も。

進駐軍が持ち込んだDD12です。

進駐軍の黒塗装、8500です。

そして国鉄の茶色塗装です。

私のコレクションの中でも、ワールド工芸の製品は、やはり異彩を放つものが多く、また「よくこの車輛を製品化してくれました」なものも多いです。ちょっと違った光を放つような製品をたくさん出していただき、ありがとうございました。

 

 

 


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祝! 100周年「JTB時刻表」

2025年03月25日 | 鉄道・鉄道模型

 JTBの時刻表が先日発売の4月号で100周年を迎えました。JTBの時刻表は大正14年に「汽車時間表」として刊行されてから鉄道や旅の歴史と共に歩んできました。JTBの時刻表はご存じの方も多いと思いますが、B5判で1000ページ近い本です。「時刻表ファン」という方もいて、私などがとても論じることなどはできませんし、このところは記念号などで購入する程度という体たらくですが、100周年をお祝いしなきゃ!という気持ちもあって、書店で購入した次第です。

 記念号ということで、タモリさんをはじめ鉄道にゆかりの深い著名人のインタビューが載っているほか(メンバー的に「タモリ電車倶楽部」なのはご愛嬌)、付録としてJR特急系統図と時刻表100年と日本の鉄道の歩みの年表が入っていました。「笑っていいとも!」時代の多忙だったタモリさんが金曜夜から最終の新幹線に乗ってしばしの週末の旅行に出るエピソードは「時間が無いなら自分で作り出すもの」という感がいたしました。

 さて、JTBの時刻表(個人的には「交通公社の時刻表」と言った方がなじみがありますが)ですが、我が家では泊りがけで家族旅行に出るときに長らく旅のお伴でありました。乗り換えなどがないような行先でも、数時間の列車の旅を退屈にさせないための親心だったのでしょう。私も、同じく鉄道好きの兄も、列車の中でよく広げていました。時刻表のおかげで漢字も覚えましたし、日本の地理に関しては少なくとも都道府県の位置関係を覚えましたし、いわゆる「本線」と名の付くところがどんなところを走っているのかを通して、都市の位置を学んだと思います。もちろん、列車の時刻をたどって、ここに書いてある列車に乗っていくと次はどれに乗ることができて、どこまで行けるだろうか?と言った誰もが行っているであろう、頭の中での旅や旅のルートも考えたりしていました。私もそうですが、行ったことのない場所、乗ったことのない路線に思いをはせながらページをめくった方も多いでしょう。

 長じて自分が高校生になり、自由に旅行ができるようになりますと、大きなバッグの一角に必ず時刻表を入れるスペースを作っておきました。スペースも、重さもそれなりにあるのですが、そういった不自由を楽しむのもまた、青春のひとこまだったということでしょう。これは大学生になっても続き、列車に乗ったときも、待つ間も、周遊券や青春18きっぷと共に旅を続けていくことになります。時刻を調べるだけでなく、以前は掲載されていた巻末のホテル・旅館の一覧から泊まりたいところを探して電話で予約する、といったこともよくやっていました。

 やがて就職して、旅の持ち物も少しずつ変わって行き、持っていく時刻表も小さくなりました。しかし、仕事では旅費の計算などで時刻表は必携で、後ろのページの運賃計算など、別の形でお世話になっておりました。こちらも「駅すぱあと」のようなソフトの登場で、職場で時刻表を買うということもいつの間にかなくなりました。

 プライベートでどこかに旅行するときでも、必要なときだけ交通新聞社の「コンパス時刻表」という小型のものを使うようになり、ますます「交通公社の時刻表」は遠くに行ってしましました。スマートホンがあれば時刻が検索でき、さらには指定席まで買えて変えてしまうのですから、紙の時刻表が遠くなってしまうのは致し方ないところです。

 それでも、久しぶりに開いたJTB時刻表ですが、長年見慣れた作りであることもあってか、久しぶりではありながら見やすく、探しやすい感じがしました。また、特急の運転系統図や後ろのページにある優等列車の編成表を見ながら、この区間のこの列車は何両編成で・・・なんていうことも確認でき、やはりこれだけの情報量は侮れず、しばしページを繰っておりました。国鉄の民営化以降、各地域でさまざまな車輌がデビューし、私などはなかなかついていけなくなってしまっておりますが、時刻表をみることで運用といったことも理解できます。たまには時刻表を買って「今」の鉄道を知ろう、と思いました。

 先日久しぶりに宮脇俊三氏の「最長片道切符の旅」を読んでおりましたが、ああいった旅行も時刻表をめくりながらでないと計画できません。また、前述のタモリさんの言葉として「旅の計画は時刻表でなければなりません。ネット検索では連続性が感じられず不安」というのがあり、まさに出版物としての時刻表の存在意義を言い表しています。以前のように駅名を順番に暗記できるほどの若い頭脳ではありませんし、遠近両用メガネをかけるくらい眼も老化しておりますが、これからも時刻表とおつきあいしていこう、と思うのでした。

 

 

 


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家族で「リニア・鉄道館」へ

2025年02月17日 | 鉄道・鉄道模型

本業が昨年から忙しく、自分もなかなか休みを取れなかったのと、このままでは家族にも「家庭を顧みないお父さん」になってしまいますので、家族3人で旅行をしよう、となりまして、新幹線と「あおなみ線」を乗り継いで、久々にこちらへ。

リニア・鉄道館、私も久々の訪問です。

出迎えてくれたのはこちら。129kmの速度記録を打ち立てたC62-17号機。記録を作ったのも木曽川橋梁ですから、地元ゆかりの機関車です。

そしてこちらは300Xこと955形。

こちらは443kmの速度記録を持っております。隣はリニアモーターカーなのですが、この暗い空間ではぶれてしまって掲載できません。別に中央・リニアに対して他意があるわけではありませんので、念のため。いつも思うのですが、この「シンボル展示」のゾーンは暗くしてあるため、写真が撮りづらいのと、豚児のように暗いところが苦手、という子供にはちょっと厳しい空間です。

メインの車輌展示エリアへ。やはり新幹線は大人気。

0系と100系です。100系の食堂車、一度利用してみたかったです。

100系の食堂車入り口には明治からこの車輛が登場した昭和60年頃までの東海道を彩った車輌たちのエッチング装飾があります。国鉄でグリーン車のマークやヘッドマークの数々を手がけた黒岩保美氏の手によるものです。

最近の新幹線も、700系、切れてしまっています。失礼。

そんな700系の車内にはこのステッカーが。

将来、オリンピックをやりたいとか、オリンピックで一花咲かせたいとか、景気浮揚させたいとか不埒な考えを持つ人がいたら、このステッカーを見て、TOKYO2020のことを思い出すように。

 

初代ドクターイエローもいます。先日引退したドクターイエローも、既に展示が決まっているようです。

 

0系のカット。昭和50年代の東京駅をイメージしました。

 

東海道新幹線60年を記念したこんな展示も。

各都市の名産、ランドマークなどをかたどったオブジェ。名古屋は金のしゃちほこ、エビフライ、そしてぴよりんも。

在来線の車輌も見てみましょう。

C57は大宮の鉄道博物館にもありますが、こちらはお召機仕様。ランボード上の手すりなどが特徴。

給水を行っている様子を模しています。SLは水と石炭が無ければ走れません。

 

こちらは蒸気動車ホジ6014。明治生まれです。

小さな蒸気機関車のついた客車、という感じです。日本の気動車の始祖にあたります。

客室の先には機関室があります。

 

時代はぐっと下ってこちらは381系。振り子式電車ですね。

名古屋ゆかりの形式でもあり、特急「しなの」に使われました。中学生の頃「くろしお」で乗ったことがありますが、振り子式電車特有の揺れで、珍しく乗り物酔いになりました。

 

流線形のスマートな車体はモハ52。飯田線ゆかりの形式ですが、関西で活躍した戦前の姿です。家人が「内装も含めてアール・デコだね」と気に入っておりました。昭和12年製造ですので、アール・デコの時代に相当します。

 

昔は交通博物館にあった国鉄(鉄道省)第一号のバスもあります。地元愛知県ゆかりの車輌です。こちらも昭和初期の優美なデザインです。

 

鉄道ジオラマもあります。名古屋を中心に東はスカイツリーから西は甲子園球場と、昔の鳥観図のようなサービス精神旺盛な内容です。名古屋駅も将来のリニアの駅が地下に作られています。JR東海の車輌たちが縦横無尽に走っています。

鉄道博物館のそれと違って近寄ってみることができるのが売りで、ジオラマ内の人形たちの中に昔話の登場人物がいたり、見ていて愉しくなります。

夕景がとてもきれいですね。

夜のシーンでは火災発生、救急車と消防車が駆けつけています。

 

豚児はATCの仕組みやCTCの仕組みを模型で表したものに興味津々でした。こういう自動運転とか、仕組みものが好きなようです。

もっとも、帰京してからプラレールやおもちゃの電車たちを横に並べ、自分版「リニア・鉄道館」をやっていました。

 

今回のラストはこの一枚で。モハ52をモノクロで撮りました。後ろの腕木信号機、木造電車など、戦前の駅の風景に見えてきませんか?

 

旅は続きます。名古屋に戻って、今度は近鉄に乗り換えました。アーバンライナーでどこに向かうのでしょうか。続きはまた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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東急 暮らしと街の文化展に行ってきました

2025年01月25日 | 鉄道・鉄道模型

とれいん誌に関連して東急の話を先日もこのブログ内でしましたが、世田谷美術館では、東急100周年に関連して「東急 暮らしと街の文化」という展覧会が開催されており(2/2まで)、私も観てきました。

 

(上の入り口の手前にあって、最初に現れるのがこのレール。東横百貨店解体の際、工事現場から「発掘」された玉電渋谷駅のものです)

(台車の大型模型もありました。かつての7000形のパイオニアⅢ台車です。)

東急の路線を構成する目黒蒲田電鉄から100年ということで、まずは社業のメインである鉄道について、電車とバスの博物館の収蔵品を中心に、写真、模型、昔の沿線案内、記念乗車券などの展示に多くの人が集まっていました。沿線案内などは書物で見たことがあるものが多かったのですが、実物がこれだけ多く展示されますと、なかなか見どころがあります。記念乗車券もいろいろな種類が出ていたのですね。

(ガラス越しになりますが、戦前の沿線案内の表紙はこちらのキハ1形。これは話せば長くなりますが、戦前の一時期、東横線では急行運用に気動車が使われていました)

 

(電車、バスの模型も多く展示されていました。こちらは1923年当時の目黒駅と周辺の模型)

(暗くて恐縮ですが、1966年当時の溝の口駅。当時は溝ノ口と「の」がカタカナ表記でした)

 

(こちらは1958年当時の蒲田駅。いずれのジオラマもデフォルメなし、省略なし、スケールに忠実という感じですので、どこかの「えせジオラマ」とはリアルさが違います。手前に記念乗車券が見えます)

車輛の写真も数多くありました。写真も1970年頃ですと、7000形が中心選手で、デビューしたばかりの8000形は「末弟」という感じなのがおもしろいですね。

貴重な図面などの展示もあって、中身の濃い展示です。写真撮影が可能なのはここまでです。

(名車・3450形の形式図です)

 

(7000形の図面もありました)

東急と言いますと沿線開発とともに伸長したということもあり、都市開発について章を割いています。田園都市構想など、東急沿線と言いますと有名なものもありますが、建築家・蔵田周忠によるバウハウス建築などに影響を受けた住宅群の建設(結局住宅群にはならず、数件が建築されたのみでした)などの話は貴重ですね。

美術館ということもあり、東急沿線にゆかりのある画家などの美術作品の展示もあります。向井潤吉、野見山暁治、舟越桂、長谷川町子とさまざまな作品が並び、美術館らしい感じがします。また、岡本太郎は上野毛にアトリエを持ち、前衛芸術運動「夜の会」がそこで生まれたと述べています。

沿線風景を中心に街を撮った写真も展示されています。桑原甲子雄の撮った渋谷は「地元」だった亡父も見た風景だったことでしょうし、アラーキーこと荒木経惟の1980年代の渋谷は、私が見た風景でもあります。アラーキーの撮る東京の風景は、都市のリアルを足し算も引き算もしないで見せている感があります。

東急というと文化事業、教育事業にも力を入れており、古くは多摩川河川敷にあった「多摩川スピードウェイ」の展示もあります。戦前にあったオーバルコースの「サーキット」であり、昭和11年のレースのエントリーリストなども展示されていますが、若き日の本田宗一郎の名前が載っていたりします。サーキットの観客席だった部分は戦後も河川敷の石段として、最近まで健在でした。

(こちらのリーフレットの写真は鉄道関連の展示の中で、沿線案内などとともに写真で展示されていたもの)

また、東横劇場に東急文化会館と今は無い施設についても紹介があります。文化会館のプラネタリウムの丸屋根も渋谷のランドマークでした。高校生の頃、父と三者面談の帰りに文化会館の中の蕎麦屋に入ったことを思い出しました。方向感覚が分からなくなるくらい再開発が進む今の渋谷と違い、駅前に高層建築もなく、東急文化会館や東急プラザがランドマークだった頃が、ちょっと懐かしくも感じます。どうも今の渋谷は・・・と思ってしまうのは、私が年を取ったからですね。

東横劇場も「東横落語会」のポスターが出ていましたが、さよなら公演では小朝、談志、円楽、志ん朝、小さんと団体を越えたオールスター勢ぞろいだったようですね。

エンタテイメントについては「Bunkamura」が後年誕生し、ホールやミュージアムに足を何度か運んでいます。コロナ前でしたが、ジプシー・キングスの公演がオーチャードホールだったように記憶しています。さまざまな演目のポスターが並び、東京のさらに先端たらんと、とんがったことを発信し続けていることが分かります。今は休館中の施設もあると聞きますが、美術展の帰りに家人と二人でお茶したこともありましたし、以前ここのお洒落な書店でパスタのレシピ集を買って今でも愛用しています。

東急と言えばプロ野球にも関わっていた時期もあり、扱いは小さいですが駒沢球場の写真もあります。今の北海道日本ハムファイターズのご先祖様だったフライヤーズにも東急は関わっていました。以前、職場で一緒だった方が幼少期に駒沢球場の近くに住んでいて「あのあたりは暗くて風紀もあまりよくなく、子供だけでは球場に遊びに行けないような感じだった」と語っていました。あの頃の職業野球(特にパ・リーグ)は今ほど明るくなく、健全とは言い難いところもあったのでしょう。球場完成は昭和28年、ナイター照明が整ったのは昭和30年で、対トンボユニオンズ戦の写真がありました。ユニオンズは短命の消滅球団でした。

スポーツでは他にも田園コロシアム(懐かしい!)の写真もあります。テニスだけでなく、格闘技にコンサートと屋外のイベント会場というイメージでした。

また、東急の文化事業として五島美術館からも出展がありました。創業者の五島慶太は美術品の蒐集もしており、当時の財界人らしく茶道の器などもあるほか、書や棟方志功の作品が紹介されています。五島の遺志を受けて美術館として公開されることになりますが、現代の作家の作品も多く収蔵しています。前述の岡本太郎の作品も石原慎太郎蔵を経て寄贈されたというものがありました。

と、長々書いてまいりましたが、鉄道・バス、沿線開発、文化事業とそれぞれのテーマで分けてもいいくらいの内容でした。電車の形を模した箱に入った羊羹をお土産に、帰宅いたしました。東急の100年史も(大著でお値段もしますが)限定販売されています。

左がつり革型のキーホルダー。昔は「東横お好み食堂」の広告の入ったつり革でしたね。羊羹の箱は食べ終わったら豚児の玩具です。形式によって味も違いますが、美味しかったです。

 

図録も史料価値いっぱいです。

 


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