工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

旧作キットだって楽しい 赤い郵便自動車を作った話

2023年06月30日 | 自動車、モータースポーツ
 6月のラストは模型の話に戻しましょう。毎日ジメジメとしていますが、梅雨の晴れ間のような(?)カラッとした車のキットのご紹介です。
 アオシマ1/24にスバル・サンバー・ハイルーフのキットがあります。もともとはイマイ製の古いキットで、もともとはモーターライズでした。イマイ時代に一度組んだことはあったものの、塗装で失敗などがあり、棚の肥やしになっておりました。アオシマに引き継がれた後、引き続き入手しやすいキットとなっています。バージョン違いなどもあり、私は郵便車を作りました。何年か前に再販された折には、レジン製の丸型の懐かしい郵便ポストもセットされました。製作したのはだいぶ前になりますが、今回ご紹介する次第です。

 実車の方は70年代に登場した「剛力サンバー」と呼ばれるモデルの後期型に当たるそうで、登場時は昭和の名大関、貴ノ花(お父さんの方です)がCMキャラクターだったと聞きます。小さくてよく動く、力持ちで働き者、というのが大関のイメージとぴったりだったのでしょう。
 キット化されたサンバーの実物は1980年代になってもよく見かけました。郵便仕様に限らず、街中で当たり前に見かける車種の一つだったかもしれません。
 指示に従ってストレートに組めば、それほど癖があったり、難しいキットではなかったです。ただ、そこかしこにモーターライズの名残があって、運転席のあたりは「上げ底」感がありました。レジャー用のパーツと共用ゆえの出来事と思いますが、立派なステレオとテレビのパーツが入っています。

こちらは当然使いませんが、ステレオやテレビのパーツというのは珍しいので取っておくことにしました。使い道もいろいろありそうです。ブラウン管のテレビというのも時代を感じますね。
 ボディーカラーをMr.カラー3番の赤にしました。

写真ではやや朱色に近くなっていますが、実際にはもう少し暗めの赤です。

 ストレートに組んだと言いつつも、郵便局のくるま「らしさ」が欲しくなり、荷台部分の窓ガラスの内側に保護棒を組み込んでみました。

 真鍮線を赤く塗って、ゴム系接着剤で固定しただけではありますが、実物でもこういう保護棒の入った郵便車を見かけたりもします。なお、イマイのキットの頃には、荷台部分の窓ガラスは赤く塗りつぶすような塗装指示になっていました。
 そしてポストの方ですが、もともと朱色っぽい色のついたレジン製ではありますが、脱脂し、プライマーを塗った上でMr.カラー79番、シャインレッドを塗りました。ざらざらした感じの質感が実感的です。

 側面には収集時間を記載したデカールが入っていたので貼っています。

 ジオラマ風に撮ってみました。

後ろに商店のようなものが見えますが、これはグリーンマックス製のNゲージ用の商店のキットを組んで写真に撮り、プリンタで出力したものです。
 小さくても存在感のある自動車ができましたが、ついでにこんなスクーターと合わせてみました。

 タミヤのキャンパスフレンズ(初代)に入っていたベスパに乗ったお姉さんです。
こちらも1983年発売でしたが、時代的にも合いそうなので郵便車と組み合わせています。ベスパの赤ともろ被りですね(汗)。

「初代」のお兄さんやお姉さんたちの方が私の年齢に限りなく近いのですが、健康的な明るさが好きです。スクーターがノーヘル、というのが時代を感じます。お尻のあたりの座って見えなくなるところはモールドされていませんが、凹みが見えてしまいそうだったのでエポキシパテで埋めています。
1980年代前半というイメージが自分の中にあって、こちらのCDを聴きながらの製作でした。

ジョーイ・スキャベリーは、テレビシリーズ「アメリカン・ヒーロー」の主題歌で知られる歌手で、本来はカントリー寄りの人らしく、アルバムを聴くとカントリーっぽい歌い方や曲が出てきます。ウィキペディアなんかだと歌手としてでなく、作曲者としても有名なようですね。

 さい、サンバーに戻りますが、郵便車だけでなく、ゴムボートに水中銃(!)とレジャー装備満載のものも出ています。好きなフォルムですし、いつか作ってみたいな、と模型屋さんの棚を見ながら思っています。






 

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言いたくなかったんだけど・・・

2023年06月28日 | 日記
 はじめにお断りしておきますが「ネガティブな話はしない」とこのブログを始めるときに申し上げたお約束と違い、今日は少々ネガティブな話をします。なので、読みたくない方はページを離れて構いません。
 
 私の勤務先がある秋葉原ですが、言わずと知れた「観光地」であります。私は観光業とは全く関係ない仕事をして、周辺のオフィスビルで働く、しがない勤め人でございます。外国人観光客にとってはお買い物(家電だけではなく、趣味のためのお店も多いですから)に、ただあの街並みが見たい、という方もいるでしょうし、このところ大変な賑わいです。おかげさまで職場から5分から10分の距離に模型屋さんがいくつもありますので、私などは「地雷原」の中で仕事をしているようなもので、帰りがけのプラモ屋さんにも海外の方を見かけるようになり、ご同輩の姿を観るのはいずこも同じと思うわけです。中にはラジオ会館のように日本人の方が少ないんじゃないか、というくらい外国人を見かけるときがあります。
 外国からの訪日客がコロナ前の水準に戻りつつあるという報道が出ていました。訪れたい都市のひとつと言われる東京に住むものとして、来ていただけるのは大いに結構、と言いたいところですが、このところコロナ前と比べて「あれ?」と思うこともあります。昨年後半くらいから欧米を皮切りに、今では他のアジア諸国など、世界中のあちこちから東京を訪れる方を沢山見かけているわけですが、コロナ前と比べると明らかにマナーの悪い方が目立つ、と言わざるを得ない場面がいくつかありました。これは肌の色に関係なく(むしろ西洋人の方がひどい時がある)なのですが、ごみを路上に捨てる、禁煙の空間でタバコを吸うと言った残念な光景も見かけます。また、これは私の職場の近くのコンビニで見かけた光景ですが、買った弁当をコンビニの軒下の地べたに座って食べている白人の若いカップルがおり「お行儀が悪い」という言葉は彼らには無いのかなと思ったわけです。秋葉原なら少し歩けば公園もあるし、外に面してはいますがビルの一角で腰を下ろせる空間もあります。イタリアの都市で店舗の軒下の地べたに座る観光客が後を絶たず、各国語で「座るな」という表記がしてあるという記事を読んだことがありましたが、われらがトーキョーもそうなったか、と嘆息したわけです。
 そしてつい先日のことですが、出勤のため秋葉原駅で黄色い電車を降りてホームを歩いていたところ、駆け込み乗車をしようとした白人男性がぶつかってきました。着ているものからこれから仕事に行く感じではなく、観光客のように見えました。幸い痛い思いはしませんでしたし、何事もなかったからいいじゃないか、というところですが、あきらかに私がそこにいないかのように猛然と飛び込んできましたから非常に腹が立ち、振り向きざまに「気を付けろ、コノヤロー」と叫んでしまいました。よっぽど非常停止ボタンを押して「出てこい、トーキョーの仕組みを教えてやる」とやっても良かったのですが、ゴキブリ一匹のためにバズーカ砲を撃つような行為ですから止めました。私は人の流れに従って歩いていましたし、邪魔をしたわけではないので余計に腹が立ちましたし、それ以上に非常にショックでした。だいたい会社の最寄り駅に着いたときというのは、一番緊張していますから。以前、会田雄次氏の「アーロン収容所」を読んだときに、イギリス軍の捕虜となったときの体験として、西洋人は我々がまるでそこにいないかのような仕草をしてくることがある、というようなことを書かれていましたが、あれを思い出したわけです。そもそも見知らぬ人相手の体に触れる行為は彼らが最も嫌うところで、私が逆のことを彼の地でやったら、きっと嫌悪の目を向けられるだけではすまないでしょう。朝の時間帯のJRの電車なんて、3分~5分も待っていれば次が来るのに。
 電車に絡めて申し上げれば、朝のラッシュ時に大きなスーツケースを持ち込まれるのも本音を言えば止めてほしいし、7-9時と夕方の17-19時は慣れない人は乗らない方が無難、と思っています。ドアの前をふさがれることも時にはあってついつい押し出してでも、となってしまいます。私自身も出張などでスーツケースを持って山手線に乗るときは、時間帯、区間にはとても気を使いました。
 私は何も海外の方に来るなとは申し上げませんし、以前から、そして今もですが、駅や街中で困っている海外の旅行者には手を差し伸べますし、我々に最低限の礼儀をわきまえてくれれば、私も同じように相手に敬意を持って接します。東京にしても、他の場所にしても、他の国にしても、訪れる国や人に対しては、最低限の敬意を払ってほしいだけなのです。お行儀に関しては人のことはどうこう言えない私も、海外でそこだけは気をつけるようにしているし、相手にもそうあってほしい、と思うのです。何度も訪れた国であっても、その場所と時間を私はお借りしているだけなので、失礼にならないように、という気持ちはどこかに持っています。
 コロナ禍以降、特に観光客が多く訪れるところではタガが外れたようになっていると聞きますが、こればかりはお上が何を言っても訪れる側は聞く耳を持たないでしょう。日本だけでなく、海外で観光客の傍若無人な振る舞いを見るのは好きではないので、この狂騒が収まるまでは海外に遊びに行くのはやめた方が良いなと思うのです(それ以前にお金もないし)。ということで、言わなきゃいいのに、な話でした。


 

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砂漠を駆け抜けろ~タミヤのSASジープを作ってみました

2023年06月25日 | ジオラマあれこれ
 先日「あまりつくらないジャンルの模型」という話をしましたが、それはAFVのことです。いろいろあって5月、6月はちょっとした「ジープ祭り」になっていまして、タミヤ1/35のウィリスジープ(いずれご紹介します)と同じく1/35のSAS(イギリス軍の特殊部隊)仕様のジープを作っていました。

 SASのジープのキット、昔から知っており入手もしやすいキットです。いつかは作りたいなとは思っていましたがなかなか手が伸びず、キットを買ったのもコロナの緊急事態の前後だったように思います。キットは1974年発売で、ウィリスジープの旧キットをベースにしています。
 SASのジープについては、古今東西さまざまな作例が紹介されていて、今更説明の要もないくらいです。砂漠を長駆走破し、偵察、襲撃などを行うために特化した装備が特徴で、キットでもたくさん積まれた燃料と水のためのジェリカンをはじめとして、装備品をたっぷりセットしています。詳細な説明書にも「同じものは二台としてない」というくらい任務や個人の好みに合わせてバリエーションに富んでいたようで、私もいろいろ考えながら作ってみました。
 ロングセラーの好キットではありますが、やはり今の目で見ると・・・という箇所もあります。ジェリカンについては上部の取っ手がキットでは二本ですが、キットの箱絵などは三本に描いています。私もプラ材でもう一本追加しました。また、キャップについてもモールドをいったん削り、市販の丸パーツをつけました。


 ユーザーが「各自工夫の上」工作して仕上げるものもあります。荷台側のジェリカンのラックも、プラ材から作りました。荷物を車体に提げる際の肩紐や、水筒のストラップなども紙、プラ材など総動員しています。

フロントグリル近くにある復水器についても、箱絵ではいい感じに凹んでいますが、キットのパーツはへこみなどはありません。ピンバイスで表面を軽くさらい、丸い棒やすりでさらったあたりの周囲を広げてみました。もっと派手に凹ませてもいいのですが、私の腕ではこんなところです。ホースは1ミリプラ棒を曲げて作っています。

武装は箱絵と同じくビッカース機銃を搭載しました。荷台にはジェリカン以外にも弾薬をはじめさまざまな物資を積んでいますが、キットのパーツから賄っており、他のキットのものは使っていません(キットのパーツが豊富でたとえ使いたくても置く場所がない)。

礼儀正しくというか、整理整頓されて荷物が積まれていますが、戦闘中でとっ散らかっている状態ならともかく、比較的動きの少ない状況というところで、きちんと積んでいます。私の机の上よりよほど整理整頓ができています。
車体後方にはサンドチャンネルを取り付けてあります。

塗装については車体の基本色としてMr.カラー39番 ダークイエローで塗装していますが、タミヤ・アクリル塗料を中心に汚し塗装をかけているので、だいぶ印象が変わります。ジェリカンなどのパーツはタミヤ・アクリルのXF60 ダークイエローで塗装しました。ジープに乗る二人ですが、軍服の部分はカーキで、ターバンはバフで塗った後、ファレホのオフホワイトでハイライトをつけました。パーティングラインが残っており、取るのに難儀しました。ターバン姿やグリルを取り除いたジープのフロント部がこのキット(というかSASとその装備)の見せ場という感があり、ターバンを塗りながら「昔タミヤのカタログで見たあれを、自分が今塗っている」と妙な感慨にとらわれました。過酷な任務で体もドロドロ、という感じを出すために、肌の部分はオリーブドラブ系の色でフィルタリングしています。本当は顔のゴーグルで隠れる部分とそれ以外の箇所で色が大きく変わるのですが、出撃前の姿ということで、そこまでは再現していません。
ジープの横に立つ士官は、ウクライナ・ミニアート製の「BRITISH OFFICERS」というキットから持ってきました。

右手はポケットに入れ、左手にはタバコ(葉巻?)が握られているという姿で、曲者感のある風貌がなかなか絵になります。塗装指示では軍服はフラットブラウンということでしたが、もっとフラットアース側に振った色でもよかったかもしれません。タミヤの説明書にはコート姿の士官がジープの傍らに立っている写真が掲載されていますが、コート姿の士官もセットされていますので、こちらを再現することも可能です。
ジープと士官の舞台を再現すべくビネット風に地面を作ってみました。台座はハンズで売られていたもので、こういう小さな軍用車両などをジオラマ化した際にちょうどいい大きさなので使っています。水性のウレタンニスで塗り、よく乾かした後で地面を作っていきます。地面の凹凸はキッチンペーパーをちぎってそれらしく形にしたもので、石は鉄道模型の情景用のものです。砂漠部分に当初はタミヤの情景テクスチャーペイント・ライトサンドを塗布してみましたが、黄土色の砂浜、という感じになってしまい、イメージと違う気がしましたので、結局その上にアクリルガッシュで白っぽくトーンを落とした色で彩色しました。

かくして、この異色感あるキットが完成です。あまりにも有名なキットで、AFVを専門にされている方なら一度や二度は作られているのではないかと思います。普段こういったものを作らないモデラーが作るとこうなります、程度に見ていただけたらと思います。冒頭にも述べましたがこのキットを作る前に現行製品のタミヤのウィリスジープを作っておりまして、当たり前ですが現行製品の方が作りやすく、さらには精密にできているわけですが、昔のジープのキットもまじめなつくりと言いますか、基本に忠実な工作を求められつつも、ユーザーの「遊び」の要素も残されているように感じました。そのへんは旧製品のシュビムワーゲンでも感じたのですが、こういうところがタミヤのミリタリーミニチュアシリーズの良さで、それが今も生き続いているように感じます。今、この車輛を製品化すれば人形も細かな彫刻が施され、ターバンなどは別パーツにして、復水器もはじめから凹んだ状態でパーツ化するのではないでしょうか。ユーザーの創意工夫が必要なキットではありますが、その分工作を楽しむことができました。楽しく作れるか、というのも大事ですからね。

SASについてはその後もさまざまな戦争、紛争に投入されているほか、特殊作戦を遂行することもあります。元隊員だったアンディ・マクナブが記した湾岸戦争当時の手記「ブラボー・ツー・ゼロ」や「SAS戦闘員」についてはお読みになった方もいらっしゃるでしょう。特に後者は各地の地域紛争、特殊作戦に従事した際の話が生々しく語られています。


 


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電気で走るフォーミュラカーのレースがやってくるそうです

2023年06月22日 | 自動車、モータースポーツ
 既に新聞等でも報じられていますが、電気で走るF1とも言われる「フォーミュラE」の選手権が東京でも開催されることが正式に決まりました。来年3月末に東京ビッグサイト周辺で開催されるとかで、SNS界隈でもこのニュースでさまざまな声が上がっています。FIA(国際自動車連盟)の世界選手権戦ということですから、格式もありますし、東京都としてもゼロエミッションに力を入れているので、見える形、分かる形でのイベントというのは歓迎、というところなのでしょう。
 私もテレビ中継でたまに観ることがありますし、豚児などはF1とまではいかなくても、スーパーGT、WRCと同じくらいの興味があるようで、けっこう食いついています。たぶん世界各地の市街地で行われるレースがもの珍しいからでしょう。ドライバーについてはF1から離れてきた中堅~下位チームの選手もみかけますが、私も「こういうレースもあるのね」という感じで観ています。F1を離れた選手、と書きましたが、40台近くエントリーしていた昔と違い20人しかF1に枠がない以上、昔なら予選通過のボーダーラインにいたような選手や、さまざまな理由でF1にたどり着けないでいる有能な若手選手たちもこういうカテゴリーで存在感を示しているのだと思います。
 気になったこともあります。既にどなたかが指摘していますが、コース予定地となる臨海副都心は埋立地由来ですので、どうしても路盤に凸凹が発生しやすいと聞いたことがあります。昔のF1ベルギーGPみたいに「やっぱ再舗装しなきゃいけないので延期します」といったことが起きないことを祈ります。また、市街地での本格的なレースというのは東京どころか国内的にもカテゴリー問わず初めてでしょうから、警備やパーマネントのサーキットとは異なるコースでのオフィシャルの教育など、課題もあるように思います。
 この報道が出た後である国会議員が、3月末がフォーミュラEで、翌週に鈴鹿でF1日本GPが開催される、とツイートしたそうですが、これは噂レベルの話で、まだ正式に決まったわけではないようです。春に中東で開幕してオセアニア、アジアラウンドという流れで秋開催だった日本GPを春開催に、という話は聞いていますが、正式なカレンダーとして決まったわけではありません。リップサービスのつもりだったのでしょうが、公人の立場で決まっていないことをつぶやかれるというのも・・・という気がしました。
 ともあれ、こういう形で大きなイベントが東京の臨海副都心にやってくるということで、一番喜んでいるのは臨海副都心の開発の言い出しっぺだった泉下の鈴木元知事と、やれるならF1だってやりたいくらいの発言をしていた石原元知事じゃないでしょうか。特に石原氏は1966年の「日本インディ」でレースを招聘したアートライフの相談役として、プログラムにも寄稿していましたし、三宅島でマン島TTレースのようなバイクレースをやりたい、と言うほどでしたから、レースには理解があったのでしょう。
 海外からも人気の都市、東京でのレースですから、レース後はシャンパンファイトじゃなくて、ご当地のお酒を用意しましたってことで、デンキブランファイトなんてどうでしょう(神谷バーかよ)。なにせ電気で走るくるまですから(こらこら)。えっ?ご当地ならホッピーとか天羽の梅だって?F1が(無駄なくらい)ラグジュアリー路線なら、こちらは立ち飲み路線にしたみたら、と少々脱線しました。市街地ですからコースアウトはガードレールにズドン、となってしまいますね。

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「教授」のインタビューを読んでいたらあの日々を思い出した

2023年06月21日 | 日記
 ごぶさたしていました。このことろは仕事以外は普段あまり作っていないジャンルの模型にちょっと足をつっこんでいたり、豚児と飛行機を観に行ったり、さらにはライブに出向いたりなんていう日々でした。模型誌も古書で掘り出し物があって、懐かしく読んだり(実家で兄が愛蔵しているのですが、私も手元に置きたくなったのです)と、結局PCに向き合う機会があまりなかったというわけです。模型の方はブログでもご紹介しますので、期待しないで待っていてください。

 今日は模型と違う話を少し。今年に入ってから、YMOで活躍された高橋幸宏さん、坂本龍一さんが亡くなり、私もとても悲しい気持ちになったのと、自分の中の1980年代がだいぶ遠くに行ってしまった、という感覚がいたしました。坂本龍一さんについては昨年末にNHKで「これが最後の演奏になるかも」という触れ込みで特番が放映されましたし、図らずも「追悼特集」となってしまった芸術新潮や、本人へのインタビュー集の「音楽は自由にする」が文庫になり、これらの書籍は私も買いました。「音楽は自由にする」についてはとても興味深い本でして、稿を改めて感想を書きたいと思っているのですが、読んでいく中で本題の音楽と関係ないことで思い出したことがあって・・・というのが今日のテーマです。
 本書の中で「俳優」坂本龍一としての活動も当然語られておりまして「戦場のメリークリスマス」、「ラストエンペラー」についてはご覧になった方も多いでしょう。「ラストエンペラー」の撮影中のひとこまということで、甘粕大尉を演じた「教授」の隣に溥儀帝の妃を演じたジョアン・チェンが立っている写真がありました。ジョアン・チェンについては、この映画と関係ないところで思い出したことがありました。
 平成の初めころ、私は昼間は大学に通いながら、夜は週に何日か中国語の学校に通っておりました。生徒は私のような学生から社会人までさまざまでした。ちょうど天安門事件があった頃で、中国と海外の関係も今とは別の形で緊張感が高まっていた時期でもあります。学校で使うテキストは本だけではなく、ビデオの教材もありました。あの頃の中国は「四つの近代化」の時代で、まだまだ途上国ではありつつも、どうにかみんなご飯にありつけるような状態でして、映像教材の出来も頑張って作っている感はありましたが、それなりの出来でした(テレビ放送についてもNHKがアジア各国に技術指導をしていた時代でした)。この教材では各課ともドラマっぽい展開の後、キーフレーズを改めて若い女優さんが読みあげていました。スタジオで撮られている映像なのですが、なぜかその女優さんの髪が風で揺れていることが多く、扇風機で風を送りながら撮っているのか、それとも単なる演出なのかは謎で、クラスの中ではこの女優さんは「風に吹かれる女」とあだ名されていました。
 なんとも独特なテイストの教材だったものですから、みんな変な愛着を持っていました。授業の時に誰かが「天安門事件で大変な状況だけど、あのビデオに出演している役者さんとか、風に吹かれる女は無事かなあ」みたいな話になりました。特に天安門事件直後は、軍もさまざまな動きをしていて「もしやクーデターとか、軍同士の衝突があるのでは」とも報じられていたからです。すると先生が「ああ、あの女優さんはラストエンペラーで溥儀の妃を演じた人で、アメリカに渡って向こうで暮らしているよ」と答えたので、みんなが一様に驚きました。この驚きには中国を代表する女優さんが語学の教材ビデオに出演されている、というのと、アメリカで暮らしているという両方に対してのものであるわけですが。「アメリカに渡った」というのが「うまいこと中国を抜け出したな」という感じに聞こえました。昔は中国語の教材に、彼の地でも有名な俳優さんが出演されていたこともあり、自国の言葉を教える教材に出演するということで、俳優さんにとっても名誉なことだったのでしょう。
 何年か前、日本国内で泊まっていたホテルで中国語の放送が入るテレビがありました。なんとなく観ていたら中国語の語学番組のようなものをやっていて、あの頃の独特なテイストではなく、明るいスタジオでポップな感じの装飾の中で番組が展開し、女優さんが風に吹かれたりもしていませんでした。時代の流れを感じました。
 
 
 

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