工作台の休日

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フレンチブルーはグランプリ制覇を夢見て 昔、リジェと言うチームがあった

2023年11月12日 | 自動車、モータースポーツ
 これからF1関係の話が少し続きます。三栄の「GP Car Story」では特定のマシンだけでなく、チームにフォーカスした号も出ており、既にイタリアの中堅・ミナルディの号もありましたが、9月にリジェチームの号が発売されました。リジェの名前を聞いて懐かしい、と思われる方はかなり古いファンでしょう。フレンチブルーを身にまとい、タバコのジタンをはじめフランス系のスポンサーをつけたマシンで知られていました。創設者のギ・リジェも既に物故者となっているほか、関係者もかなり高齢化していますので、インタビューを集めるのも苦労があったようです。

 リジェの創設者、ギ・リジェですが、第二次大戦後ラグビーやボートの選手を経て、道路建設業に乗り出します。ここでフランソワ・ミッテランという政治家と知己を得ます。後のフランス大統領ですが、この頃から彼と彼の属する社会党とのパイプができます。建設業で財を成し、リジェ自身はレーシングドライバーとしても活動します。F1ドライバーとしても結果は残せなかったものの参戦経験があり、ちょうどホンダ第一期の頃でしたので、当時の中村良夫監督はその頃の「好漢」リジェのことをエッセイに書かれています。そのホンダの空冷マシンにリジェの盟友、ジョー・シュレッサーが乗ってデビューを果たしますが、マシンはクラッシュ・炎上してシュレッサーは還らぬ人となります。リジェもドライバーに見切りをつけ、やがてレーシングカーのコンストラクターに転身しました。マシンの頭にはシュレッサーのイニシャルから「JS」というコードがつけられました。
 念願のF1参入は1976年でした。巨大なインダクションポッド(ティーポットとあだ名された異形のマシンです)をつけたJS5は、やはりフランスのマトラエンジンとともに(マトラ社の名前はミラージュ戦闘機とセットで出てくるマトラ・マジックというミサイルでご存じのファンもいるのでは)デビューしました。インダクションポッドがでかくなったのは他のチームでもありましたが、リジェのそれはかなり独特な形でした(ミニカーとか持っていないので見たい人はググってください)。1977年にはジャック・ラフィットの手で初優勝を遂げます。本書でもラフィットのインタビューが掲載されていますが、彼はチームのエースとして途中ウィリアムズに移籍した時期はあったもののけがで引退するまでチームにおり、チームの「顔」でもありました。コンストラクターとしても79年3位、80年2位と、侮れない実力を持ったチームでした。
 ところが、サーキットにターボエンジンのサウンドが響くようになった1980年代以降低迷し、優勝はおろか入賞さえおぼつかなくなります。1987年には開幕直前にアルファロメオと組む話が反故にされるなど、参戦そのものが危ぶまれることもありました。ちょうどF1ブームの頃「妖怪とうせんぼじじい」と揶揄されたアルヌーがいた時代です。フランスでは社会党の長期政権となっており、かつて知己を得たミッテランもエリゼ宮の主でした。このあたりからリジェは「政治力」の方も発揮するようになります。1980年代のフランス政界では大統領は社会党、首相は共和国連合という「コアビタシオン」の時期もありましたが、この時期に社会党系首相も復活し、盤石な権力基盤を築いていました。そんな中、社会党の地盤でもあったようですがリジェ・チームの本拠地があるマニ・クールのサーキットにフランスGPが移ったことも話題になりました。マニ・クールでは2000年代までフランスGPが続きます。また、同じフランス系のラルース(代表のジェラール・ラルースはかつてリジェの元で働いていましたが)に難癖をつけて、コンストラクターズポイントをFIAに圧力をかけてはく奪させ、さらには同チームのランボルギーニエンジンまで奪う、ということまでやってのけます。ポイントはく奪を行うことで自チームのコンストラクター順位が10位に繰り上がり、グランプリ転戦の際の輸送費などで便宜を受けられるなどの「特典」が欲しかったからだと言われています。ラルースはバブル崩壊で日本企業のスポンサーを失っただけでなく、ここでも割を食う形になり、同チームで表彰台に上がった鈴木亜久里にとっても不利な状況に追い込まれてしまいました。この一件で日本のファンの中にはリジェっていやな奴、というイメージを持たれた方もいるのではと思います。
 1992年に念願かなって当時の最強エンジン、ルノーV10を積むことができました。ちょうど「浪人」中のアラン・プロストがテストし、リジェもプロストを乗せたがったのですが袖にされ、リジェもショックを受けたと言います。チーム運営の情熱も失ってしまったのか、名前こそ残りましたがチーム運営からは撤退、以降、さまざまなオーナーの元で主に中団を走るチームとして戦いました。鈴木亜久里も95年にシーズンの半分を走り、ジタンの広告にも使われています。1996年に無限と組んで優勝したのがリジェにとっての最後の勝利でした(最後の数年はジタンではなくゴロワースがスポンサーでした)。チームはかつて袖にされたアラン・プロストに買収され、1997年に「プロスト・グランプリ」として再出発するも、5年で活動を止め、ここに名実ともにリジェの名はなくなりました。
 リジェ自身の生前のインタビューでは、やはりドライバーからオーナーになったフランク・ウィリアムズのようになりたかった、というのが印象的でした。リジェ自身は「オールフレンチ」にこだわりはなかった、とも述べていて、グランプリを制するためにはホンダなど「外国企業」と組むのも必要と感じていたようですが、フランス国内の反発が予想以上に激しくて諦めたと言っていたのが意外でした。リジェはフランス産業省に出向いて支援を求め、産業省の役人から「善処します」と言われても結局何もならず、ということで「彼らの言葉を信じた自分が愚かだった」と言っています。確かにフランク・ウィリアムズはアラブ系のスポンサーをつけてみたり、ホンダ、ルノー、BMW、トヨタとさまざまなメーカーと柔軟に組んでいましたね。既にチーム運営からは退いていたものの無限と組んで勝ったのを見て復活の兆しがある、と感じていたようでが・・・。
 彼の元で走ったドライバーも「相思相愛」だったラフィットや表彰台に上がる活躍をしたチーバー、最後の優勝者となったパニスなど、いい思い出を持っている人たちもいますが、中には「いい思い出がなかった」としている人もいて、そのあたりはリジェが憧れたウィリアムズ同様、ドライバーも「従業員」だったのかなと思わせるエピソードです。ギ・リジェが退いた後の1993年にはイギリス人コンビ、ブランドルとブランデルという紛らわしい名前の二人になっています。今でも親友同士らしく、一緒に事業をしたりという仲だそうですが、実際にはウィリアムズがルノーエンジンをライバルのベネトンに取られたくなくて、ギアボックスも含めてリジェに提供していたというのも興味深いところです。ブランデルもウィリアムズのテストを行ったことがありましたし、セカンドチーム的な立ち位置になっていたということでしょう。ただ、表彰台に乗れる力をつけるなど、それまでよりは随分と良くなっていたという印象が私もありました。仲の良い二人であってもコース上で絡んでしまうこともあって、その帰りの飛行機の機内の様子はインタビューを読む限り微笑ましいものがあります。状況は変わったとは言いつつも、やはりフランス系チームにイギリス人コンビは居づらかったようで、二人とも翌年にはチームを去っています。
 リジェとしての最後にエンジン供給者となった無限の坂井典次エンジニアのインタビューでも、お互い英語が母国語ではない同士だったのが良かったのか、英語でのコミュニケーションもかえってスムーズだったし、フランス人の方が懐に入ってくる感じでイギリス人より付き合いやすかったとも述懐しています。このシリーズでの無限エンジンを特集した号でもインタビューはありましたが、今回はリジェのスタッフとの思い出やモナコ勝利の裏話が出ています。ただ、ブランドル、ブランデルにしても、坂井氏にしても、ファクトリーで作業の手を止めて昼間からワインを飲むフランス人の習慣にはついていけなかったようですが。
 ドライバーにしても、エンジニアにしてもインタビューを読んで感じたのは牧歌的なところがありながらも組織がきちんとしていた「プロフェッショナルなチーム」だったこと、さらにボスであるギ・リジェが父親のような存在だったということで、さまざまな理由でチーム存続危機となってもつぶれずに済んだのはリジェ本人の不屈の闘志と情熱のおかげ、と口を揃えているのもこのチームが浮き沈みを経験しながら20年余りを過ごせた理由かなと思いました。前述の中村良夫氏のエッセイによればリジェ自身は道路関係の国際会議で来日するなど、実業家としての顔も持っていたようですし、本書によればレースカーだけでなく、産業用のマイクロカーでも成功を収めています。なかなか知っていたようで知らないリジェとそのチームを知る機会になった好著でした。
 
思えばリジェのマシンって、ミニカーで持っていたのはこれと以前ご紹介した無限と組んだものくらい。1993年シーズンの終盤にブランドル車のみヒューゴ・プラットがデザインしたカラーリングのマシンです(デアゴスティーニのF1マシンコレクションから)。タバコ広告はこうしたものでも規制されるため、肝心のジタンのシンボルである踊る女性像が入っていません(泣)。1993年日本GPプログラムにも、ジタンブロンドの広告と共に掲載されました。



1988年ベルギーGPの映像、何年か前にフジテレビNEXTで放送されましたが、アルヌーがリタイアしたシーンになぜかうちの豚児が反応して駆け寄った場面です。奥でリタイアしているのはデ・チェザリス(!)。息子よ、そこに食いつくか。

参考文献 私のグランプリ・アルバム 中村良夫著 二玄社

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