工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

最近の趣味誌から

2019年12月30日 | 工作雑記帳
 私もネットの普及もあって以前ほどではないですが活字ジャンキーなところがございまして、趣味誌に関してもいろいろ購読しております。本当はもう少し早くご紹介したかったものもありますが、最近の趣味誌から気になったものをいくつか採りあげます。
 鉄道模型趣味の12月号(11月発売)には、復活したTMSコンペの記事とともに、版元の機芸出版社前社長、石橋春生氏の訃報が掲載されていました。石橋春生という本名よりも赤井哲朗のペンネームでも知られた方でして、以前このブログにも書きましたが「陸蒸気からひかりまで」の文章など、後世に残る仕事をたくさんされています。心からご冥福をお祈り申し上げます。
 さて、TMSコンペですが、受賞者の年齢層の高さに驚かされました。最近は目や手をアシストするデバイスも増えているので、年齢を重ねても「作る」模型を楽しめることは素晴らしいことではあります。また、海外のミニチュア作家さんの中には高齢でも素晴らしい作品(しかもフルスクラッチ)を発表されている方もいて、洋の東西を問わないのかもしれません。ただ、他の方も指摘されていますが、16番ゲージを中心とした真鍮工作というのが一定の年齢層に偏っているということの裏返しでもあり、模型工作の今後を考えさせられる感じもいたしました。

 次は新創刊の季刊誌「Vintage Rails」(イカロス出版)です。夏の「国際鉄道模型コンベンション」の記事でも触れましたが、「とれいん」の松本謙一氏が関わる雑誌ということで、どんなものだろう?と思い、買ってみました。余談ですが機芸出版社の故石橋氏も、松本氏も(松本氏のキャリアの初期はは鉄道ジャーナルですが)10代の頃から雑誌作りに関わっています。この世界のトップランナーの方は10代の頃に既に「人生を始めている」ということでしょうか。
 九州のDF50、日南3号のC57といったグラフ記事や、SL末期の宮崎機関区のC57に関する形態分類といった「機関車研究」の記事が目を引きます。DF50は好きな機関車で、模型もこれまで何両か買っていますが、関東に住んでいる人間にとってはなじみがなく、私にとってはあこがれの存在でした。掲載された写真を見ているうちに、模型を引っ張り出してみたくなりました。
 本誌はどちらかというとSLブーム世代に向けて作られているようにも思いますが、古い写真や記事などに興味を引くものが多く、好奇心のある方なら(私のような)ブルトレ世代でも、さらにもっと若い方がご覧になっても得るものはあるかと思います。また、松本謙一氏の記事で秩父鉄道のED38について、デザインのルーツをペンシルバニア鉄道の電気機関車に求めているあたりは、長年アメリカ型と共に過ごされた氏の観察眼と知識が光るものを感じました。秩父鉄道のED38はもともと阪和電鉄の機関車で、独特なスタイルとともに人気があり、引退後の姿を私もカメラに収めていますが、屋外展示だったこともあって荒廃が進み、残念ながら解体されてしまいました。松本氏も指摘されているように、こういった保存車輛がゆめゆめ「いつまである」と油断召されるなというのは、その通りだと思いました。こうした出来事は鉄道車輛のみならず、航空機でも屋外展示機が風雨にさらされて荒廃した結果解体、という話を聞いておりますので、なんとも残念ではあります。
 創刊号ということで実物も模型も、という感じで年代もジャンルもバラエティに富んだ内容でしたが、今後、方向性が定まっていくのかもしれませんね。

 最後はプラモデルの雑誌から。今月発売のモデルアートの2月号です。カーモデルの塗装の技法で、思わず「へえ」となった記事がありました。エアブラシで自動車に塗装をする際に模型もエアブラシも小刻みに動かすことで塗料を「まんべんなく乗せる」とありました。鉄道模型などではエアブラシの塗装は「等距離、同じ速度で、対象物は動かさない」と教えられたものですが、ジャンルが違うとまた塗装方法も違う、ということでしょうか。
 さらに秋山いさみ氏のF104Jの作例、この機種特有の銀色をMrカラーの「昔の」銀色のストックから塗った、とありました。Mrカラーの銀色については近年発色が改善され、よりメタリック感が強くなったのですが、昔の銀色もファンが多く、数年前には「プリビアスシルバー」として「復刻」されたほどです。確かに作例として塗られた昔の銀色はグラビア等で見たF104Jの銀色そのものであり、たかが銀色といっても、本当にたくさんあるものです。
 昔の銀色ですが、湿度の高い日はいわゆる「カブり」やすく、取り扱いに苦労したことを思い出しました。
 下地にも左右されますし、傷が残っていれば強調されてしまいますし、銀色は難しいのですが、それでも「きれいに仕上げたい」と思いながら私は今日も工作台に向かっております。

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鉄道博物館へ 走るレストラン展を観てきました

2019年12月24日 | 鉄道・鉄道模型
 食堂車の記事もおかげさまで回を重ねております。3回くらいで止めようと思っていたのですが、皆様から思いのほか反響がありましたのと、書きたい内容が多いものですから、もう少しお付き合いください。
 今年は山陽鉄道が本邦初の食堂車を運行させてから120年ということで、大宮の鉄道博物館でも「走るレストラン 食堂車の物語」という企画展が開催されております(令和2年1月19日まで)。私も先日観てきました。
 これまで書物等で見たことのある資料も含め、明治から令和まで、食堂車の変遷が旧国鉄にとどまらず、私鉄等も含めて紹介されています。海外の鉄道における食堂車のはじまりについても資料が紹介され、日本で言えば幕末~明治期に欧米で食堂車が作られるようになったことが分かります。長距離運行、車輛の大型化も影響しているのでしょう。
 日本でも明治時代に食堂車がデビューしたわけですが、文学作品などにも食堂車が登場しており、本展覧会でも紹介されています。夏目漱石の「行人」には、官設鉄道の食堂車の光景や、南海鉄道の喫茶室が描かれているそうです。漱石の研究をされている方はたくさんいらっしゃるので、門外漢の私がどうこう言えないのですが、胃弱だったと言われる明治の文豪も食堂車を利用していたのでしょうか?
 会場内では各時代の特徴的な食堂車の内装のイラストや、調理器具としておなじみだった石炭レンジも展示されています。鉄道だけでなく鉄道連絡船、戦前の航空機の機内食についても触れられており、こちらも興味深かったです。それにしても冷蔵技術が今ほど発達していなかった時代、和食堂車などで「刺身」というメニューがありましたが、氷だけの冷蔵で鮮度を保てたのか大いに気になるところです。
 また、クリスマス時期限定の展示ではありましたが、昭和25年、昭和20年代後半の上野や仙台の営業所のクリスマス特別メニューが展示されていました。七面鳥などの料理が提供されていたようです。他にも米軍に接収された食堂車でクリスマスの飾り付けが施されている写真もありました。東北本線を走る食堂車でクリスマスメニューがあったということは、東海道でも同じようなサービスがあったのでしょうか。
 食堂車の案内チラシや戦後のビュッフェも含む食堂車のサーピスといった展示もあり、現在のクルーズトレインの食事、厨房の様子についてもJR東日本の「四季島」を例に映像を交えて紹介されており、なかなかお目にかかる機会のない車輛、列車ですので興味深く見ました。場内は撮影禁止ですが、図録がそれを補ってくれますので、興味のある方はぜひ図録も含めてご覧いただければと思います。自然災害などで遅延が生じた際に寝台特急カシオペアで提供された昼食(ご存知のとおりカシオペアの食堂車は通常、夕食と朝食のみの営業でした)のカレーライスの写真も掲載されています。これは言うなれば、食堂車の「裏メニュー」ですね。

 今回の展示に合わせて、近年開館したエリアの「ヒストリーステーション」でも食堂車に関する展示がありました。オリエント急行が日本で運行された際の夕食のメニュー、ピアノバー車のドリンクメニューなどが目をひきました。オリエント急行の話は昨年の今頃、当ブログで書きましたが、バー車のドリンクメニューを見たのは初めてで、その多彩さには驚かされました。

 さて、本展示会についてはもう一つコラボレーションした企画があります。本館2階の「トレインレストラン 日本食堂」にて、昭和13年の「洋食定食」というメニューが復刻され、提供されています。私も食べてみることにしました。洋食定食の内容ですが、2枚で約300グラムというボリュームある牛肉のステーキに「メントルテールバター」(メートルドテルバター)と呼ばれるバター、パセリ、レモン汁などを混ぜたソース、ニンジンのグラッセ、ジャガイモが付け合わせとなります。やはり当時のレシピで再現されたロールパンがつき、果物は冷凍ミカンが用意され、コーヒーが食後につきます。これまでに他の方も紹介されていますが、私なりの感想も記したいと思います。牛肉そのものはかなり胡椒がきかせてあり、しっかりと焼いてありました。メートルドテルバターの乗ったステーキ、というのは随分前に食べた覚えがありましたが、その時よりもバターの量が多く、味もこってりな感じです。和風おろしソースにお箸で切れるような柔らかい牛肉、というのとは対極かもしれません。ということでソースも含め肉に関しては全体に味がしっかりついているという感じがします。日本の西洋料理の範となったフランス料理ですが、その昔はバターやクリームを大量に使っており、素材を活かした料理が評価されるようになったのは戦後しばらく経ってからのことです。それを思うと胡椒をきかせてしっかり焼いた肉と「メントルテールバター」は日本の西洋料理としても「当時の味」だったのでしょう。また、ロールパンも柔らかく、これも日本のパンのレシピだと思いました。300グラムの肉、となりますと食堂車というより「い〇なりステーキ」な感じがしまして、年齢を重ねるとたくさん肉をいただくということがなく、食べきれるか心配でしたが、気が付いたら平らげておりました。
 食べているとちょうど展示されているC57の汽笛の吹鳴の時間とかさなり、大きな汽笛の音が聞こえてきました。あの時代にタイムスリップして当時の食堂車の乗客の気分を味わうことができました。クリスマスのごちそうには少し早かったのですが、美味しい食事を味わうことができました。ごちそうさまでした。
 みなさまも素敵なクリスマスをお過ごしください。

(見えにくいのですが肉は2枚です。肉の上にあるクリーム色の塊が「メントルテールバター」です。このほかにコーヒーがつきました)

 
 
 
 
 
 
 

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こちらのバンドも40周年

2019年12月19日 | ときどき音楽
 昨年のブログで、フュージョンバンドの雄T-SQUARE(本稿ではスクエアと略)が40周年を迎えたことを書きましたが、今年は同じくフュージョンバンドのカシオペア(現名称 カシオペア3rd)がアルバムデビュー40周年を迎えました。今年は40周年を記念したツアーが行われておりましたが、先日ツアーファイナルがメルパルクホールで開催され、私も観に行きました。
 カシオペアの名前を知ったのはかなり古く、デビューから日が浅い時期にNHKの「銀河テレビ小説」の音楽を担当していた時でした。知らない読者の方も多いと思いますので書きますと、銀河テレビ小説というのは主に21時台に20分間放送されるドラマのことで、一つのシリーズが20話程度で構成されていました。いろいろなジャンルの作品が放送されていて、好きな番組でした。
 カシオペアの楽曲を意識したのは1984年に「THE SOUNDGRAPHY」という曲がマクセルのビデオカセット(懐かしいですね)のCM曲に使われていた時でした。このCMではメンバーが南の島の海につかりながら楽器を演奏しているというものでした。CMのインパクトもありましたが、メロディーもキャッチーで、同年夏に放送されていたスクエアの伊東たけしさんが出演されたサントリーのCMとともにフュージョンというジャンルが好きになるきっかけとなりました。
 高校生になってから、当時発売されはじめたCDを買った友人もいましたし、私の高校にもコピーバンドをやっているお兄さんたちもいました。きっと1980年代には全国のあちこちの高校でカシオペアのコピーをやっていた人たちがいたんじゃないかと思います。
 カシオペアは1980年代のスクエアと違って頻繁にメンバーが入れ替わるということは無かったのですが、デビューから1989年までを第一期、ベース、ドラムが交替した1990年以降を第二期としており、活動休止期間を経て2012年に現メンバーでカシオペア3rdとして復活という流れをたどっています。私がライブを見に行くようになったのは第二期の後半、ドラムに第一期を支えた神保彰さんがサポートとして復帰したあたりからでした。
 カシオペアは管楽器がフロントとしてメロディーを奏でるスクエアと違って、ギター、ベース、ドラム、キーボードの編成ですが、デビュー当時に「スリル、スピード、スーパーテクニック」と言われたように鉄壁のアンサンブルと高い演奏技術が特徴です。スクエアと並んで日本の「歌のないポップス」の世界を牽引してきたわけですが、どちらがどうというわけではなく、それぞれに違った魅力があり、私は二つのバンド共に大好きです。スクエアのメンバーにもかつてバンドのリズム隊を担当した則竹裕之、須藤満の両氏と90年代にサックスを担当した本田雅人さんがアマチュア時代にカシオペアのファンだった、と言っていますので、お互い影響しあいながらここまで来た、ということでしょう。
 私が観に行ったライブですが、40周年ということで今年のアルバムと過去の名曲を織り交ぜながらという展開になりました。今回はゲストにホーンセクションとしてBIG HORNS BEEも参加し、にぎやかな一夜となりました。リーダーの野呂一生さん、ドラムの神保さんは還暦を迎えておりますが昔と変わらず涼しい顔ですごーく難しいことをしていますし、ベースの鳴瀬喜博さん(「いか天」の審査員として記憶されている方もいらっしゃると思います)は古希(!)を迎えたばかりですがますます元気で、ワイヤレスのベースを手に客席乱入というお約束のパフォーマンスが炸裂です。バンドの紅一点、オルガンの大髙清美さんもニコニコしながらテクニックとアイデア満載の音を届けています。年齢を重ねても枯れることなく第一線を走り続けるというのは、並大抵のことではないわけですが、私もかくありたい、と思った一夜でした。
 このところカシオペアのツアーは都合がつかずなかなか観に行けなかったのですが「やっぱりこのバンドのライブは凄いや」と再認識しました。忙中閑ありならぬ音楽あり、ということになりましたが、大量に浴びた16分音符とともに幸せな気持ちで家路につきました。
 カシオペアの皆様、このたびはデビュー40周年おめでとうございます。これからも、素晴らしい演奏を聞かせてください。

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旅は食堂車とともに イタリア編 つづき

2019年12月14日 | 鉄道・鉄道模型
 前回お話ししたように、フランスからイタリアへの移動で夜行列車を使い、食堂車で食事を楽しんだことがありました。前回は2000年の話でしたが、今回は2002年、2004年の話です。
 2002年の夏の終わり、私はパリで美術館めぐりを楽しみ、その後ローマ行きの列車に乗るため、パリ・ベルシー駅に向かうことにしました。パリ・ベルシー駅というのはパリ・リヨン駅の近くにある、もともとはカートレインなどの発着駅でした。以前私にオロ61の塗装を依頼した沿線在住ベテランモデラー氏は書籍などを通して欧州の列車事情に通じておりますので、ベルシーなんて珍しいところから出発するんだねえ、と驚いていました。パリ・ベルシー駅はリヨン駅に比べたら規模も小さく、一応待合室などもありましたが居心地が悪く、私は早々に発車番線に向かい、列車の入線とともにローマ行きユーロナイト「パラティーノ」に乗りこみました。パラティーノというのはローマの建国伝説にも出てくるローマ市内の丘の名前です。
 私が乗車したのは「エクセルシオール」という豪華な一等寝台車でした。各室に狭いながらシャワー、トイレを持ち、二人用個室と一人用個室がありました。寝台車の方に気を取られたのか、食堂車のメニューについては旅の日記に記載がありません。この時の食堂車は前回のような革張りの立派な椅子ではなく、四人掛けテーブルが通路を挟んで並んでおり、椅子は乗客が座っていないときは座面が跳ね上がるタイプでした。テーブルを囲んでいたのはパリからローマに帰るイタリア人男性の二人組、ローマで週末を過ごす一人旅のフランス人男性、そして私ということで、フランス人はイタリア語を、イタリア人はフランス語を解さないようで、なんとも会話が弾まない食卓でした。ところが、列車が大きく揺れてイタリア人二人組が頼んだ葡萄酒の瓶が倒れました。ほとんど飲み終わった後だったのですが、それでも残ったお酒がテーブルクロスを赤く染めました。私はイタリア語で思わず「葡萄酒の海だ~」と言ったので他の三人も笑い出し、ちょっとだけ食卓の会話が盛り上がりました。
 この時は寝台車のサービススタッフ(ワゴン・リ)の方と、後は終点ローマまでという1時間くらいの間で、日本とイタリアの夜行列車事情を中心に話をしました。日本にはどこからどこまで行く夜行列車があるのか?時間はどれくらいかかるのか、料金はいくらぐらいかかるのか?といった質問が出た覚えがあります。冬季五輪の開催地として、一定の世代以上の方は「札幌」という地名を知っているので、東京から札幌方向に向かう夜行列車にはスタッフ氏も興味津々のようでした。なお、ワゴン・リのスタッフは実質2人でエクセルシオールクラスと他の一等寝台2輛の計3輛分の旅客の面倒を見ており、なかなか大変な乗務だなあと思いました。エクセルシオールクラスの車輛には車端部にコーヒーマシンもあり、朝食用のコーヒーもここで用意されていたようです。

 その二年後、今度はパリ・ベルシー駅からヴェネツィア行きの「リアルト」に再び乗車しています。ちなみにリアルトというのはヴェネツィアの大運河にかかる有名な橋とその周辺の地区のことです。中世には経済の中心地として、現代のウォール街のような活気だったそうです。このときは食堂車でペンネのトマトソース、蒸した七面鳥の胸肉・レモン添え、ナスの炒め物とゆでたジャガイモ、ガトーショコラという夕食を楽しみました。値段は34ユーロ(当時のレートで4,500円くらい)だったと日記にあります。ナスの炒め物はイタリアでは温野菜料理でよく出てきます。スライスしたナスをただオリーブオイルで炒めただけなので味もあまりついていないのですが、私も残さずいただきました。また、デザートに関しては日本の方が美味しく感じられました。もちろん、イタリアにも郷土色豊かなケーキあり、なんといっても美味しいジェラートありと日本で食べるよりも美味しいものはあるのですが・・・。

 食堂車を昼間に利用したのは5年後の2009年でした。「ユーロスターイタリア」と呼ばれるETR500形の編成です。ETR500形はスポーツカーなどでおなじみピニンファリーナのデザインです。
 イタリアでは昼食でも食堂車でフルコースが供されるといった話を聞いておりましたが、ちょうどお昼時だし、もし昼にコース料理が出てきたら夕食を減らしてもいいから食べてみるか、と思い食堂車に向かってみました。この「昼にフルコース」というところに、イタリアのお国柄が出ています。都市部ではさすがに昼は簡単に済ませる、というのが一般的ですが、かつては昼は家に帰って家族揃って食べるという習慣があり、昼を正餐としていたのです。今でも農村では昼は自宅で家族と食べるという映像を見たことがありますし、休日のお昼は都市部でも家族が揃ってパスタやメインの肉料理をたらふく食べるということがあるようです。
 食堂車の話に戻りますが、昼間の列車では特に予約等も不要で、空いた席に座ってメニューを眺めていたところ、メニューには「昨今の顧客の好みの変化と、健康志向の高まりによって料理をフルコースで提供するだけでなく、コースの中から料理を選ぶこともできます」と書いてありました。私はパスタとデザートを選ぶことにしました。パスタはリガトーニと言って大きめのショートパスタ(矛盾した言い方ですが)で、これにトマトソースがかかっていました。デザートはここでもガトーショコラでした。イタリアは車窓の風景が美しいところが多いので、また食事と風景を楽しめることができたら、と思います。

 食堂車以外にも、ヨーロッパの高速列車ではクラス、時間帯によってはシートサービスで食事が提供されることがあります。英仏海峡のユーロスターやパリからベルギーに向かうタリスでは、機内食のように座席で食事が提供されました。近年ではヨーロッパ内の飛行機の移動では機内食が出ることはないので、こういうサービス(味もなかなかのものでした)はありがたいです。現代欧州の高速列車については、実際に乗車する経験もありましたので、好きな列車がいくつかあり、Nゲージで模型を持っているものもあります。
 食堂車の話も個人的な経験をあれこれ書いてまいりました。ここに書ききれなかった話や模型の話も近日中にできたらと思っています。
 

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旅は食堂車とともに・・・イタリア編

2019年12月10日 | 鉄道・鉄道模型
 私がイタリアをはじめとするヨーロッパの国々をよく訪れていたのは1990年代後半から2000年代の頃でした。その頃にイタリア・ヴェネツィアで今も変わらず続く友情(年齢が離れていますので私にとっては親戚の叔父さんかのような感じですが)を育むことになる人物と出会ったことも大きいのですが、私自身がイタリアを気に入り、何度も訪れたものです。イタリア一か国だけでなく、パリを観光した後でイタリアに入ったり、ロンドン、ウィーン、ベルギーの諸都市など、イタリア以外の一か国の都市を観光してイタリアに行く、ということをよくやっていました。
 そういった場合の移動では大概空路を使っていたのですが、パリからの移動で列車を使うこともありました。手元の記録を読み返したところ、2000年、2002年、2004年に夜行列車でフランスからイタリアに移動しています。今日は、その頃の話をしましょう。

 2000年の8月のある日、私はパリ・リヨン駅からユーロナイト(国際夜行列車)の「リアルト」号に乗り込みました。ヨーロッパで夜行列車に乗るのは初めてでした。私の乗った車輛は「MU」といわれる一等寝台車で、日本のオロネ25をイメージすれば分かりやすいと思いますが、一人(ベッドは壁にも収納されているので2段で使うこともできます)用の個室がレールと直角方向に並んでいます。
 始発駅に停車しているときに、食堂車のスタッフが「Carrozza Ristrante~ Dinning Car~」と各国語で「食堂車」と声を張り上げながら寝台車の通路を歩いていきます。このときにスタッフを呼び止めて予約をしなくてはなりません。各個室を回って直接聞いてくるわけではなく、私も最初は予約の仕組みが分からず、列車が動き出してから食堂車に行き、予約を受けてもらいました。
 食堂車はかつてのTEE(ヨーロッパ国際特急)に合わせて製造された「グランコンフォート」タイプの車輛で、通路を挟んで4人がけテーブルと2人がけテーブルが配置されており、シートは大きく革張りという立派なものです。
 さて、この時のメニューですが、ファルファッレ(イタリア語で蝶の意味、蝶ネクタイ型のショートパスタです)のキノコ、トマトソースあえが最初に出てきました。シェフが鍋からできたてのパスタ料理を各テーブルを回りながら取り分けていきます。薄暮の風景を眺めながら食べる料理は最高です。キノコはまいたけのような食感で、日本では食べたことがないような味です。トマトソースの味はそれほど濃くなく、だいぶ煮込んで残骸になってはいましたが牛肉も入っているようです。
 日本に帰ってからだいぶたってこのときの話をしたところ、イタリアンのシェフの方が「そのキノコはアンズタケじゃないかな」と言っていました。アンズタケというのは日本ではなじみが薄いのですが、ヨーロッパではよく食されている品種のようです。
 メインは蒸し鶏と付け合わせがゆでたジャガイモ、グリーンピースでした。お酒ももちろん注文できます。イタリア行きということで、トスカーナの赤が出てきました。グラスは列車の揺れで倒れないよう、円錐を逆さにして台座をつけたような形のプラスチック製でした。後に乗った時はガラスでできた湯飲み茶わんのようなグラスが出てきたことがあります。
 この時は四人掛けテーブル席の一つに座っておりましたが、フランスからイタリア・パドバに帰るという親子三世代の三人と相席になりました。孫の世代の男の子はサッカー好きで、日本にはどこにどんなチームがあるのか?ということを聞かれました。ちょうど中田、名波といった選手たちがセリエAでプレーしていた頃ですので、興味があったのでしょう。簡単な日本地図を描いて、都市の名前とJリーグのチーム名を書いてあげました。また、この頃は現地の子供たちを中心に日本のカラフルなテレホンカードなどを集めるのが流行っており、イオカードをあげた、と旅行の日記帳に書いてあります(チップの代わりに子供にあげたいのでテレホンカードを一枚ちょうだい、とレストランのウェイターに言われたこともあり、残高が0円になったテレカやイオカードを何枚か旅行に持って行ったものです)。
 デザートは生のフルーツを各自一つ選ぶというものでした。その場で食べず、部屋に持ち帰る人が(私を含めて)多かったように思います。季節柄生菓子を積むのはリスクがあったのでしょう。
 一等寝台に関しては翌朝の食事がルームサービスされます。乗車した時に寝台車のサービススタッフから「翌朝はコーヒーと紅茶とどちらにしますか?」と聞かれています。果たして翌朝に朝食が部屋に届けられました。パンとコーヒー、オレンジジュース、パウンドケーキ一切れという内容です。もともとイタリアでは朝食をがっつり食べるという習慣はなく、ホテルでも卵料理を別料金にしているところがあったほどです。この朝食の構成は後年乗った夜行列車や、朝早く出発する高速列車でも同じでした。
 「グランコンフォート」タイプの食堂車で食事をしたのはこれ一度きりでした。薄暮のフランスの田園地帯を眺めながらの食事、旅で出会った人たちと片言の英語やイタリア語で話した会話など、忘れられない一夜となりました。ただ、夜行列車は遅延も多く、この「リアルト」号も翌朝1時間遅れとなっており、私も途中で降りて乗り換えるはずが既に乗り継ぎの列車は出て行ってしまい、他の列車を見つけて重い荷物を引きずりながら乗り込んだのでありました。
 イタリア夜行列車の食堂車事情、一回では書ききれなかったですね。次回は昼行列車の話も含めて書きましょう。

模型はイタリアのTEE客車の食堂車(ROCO製HO)。私が乗ったのは実物写真にあるグレー・クリームのカラーリングでした。右は部屋に運ばれた朝食。


朝食の内容はその後もあまり変わりありません。左が2002年、右が2004年。クロワッサンと少し硬めのパン、オレンジジュース、コーヒーまたは紅茶、ヨーグルトが付く場合もありました。


MU寝台車。模型はジュエフ製HO。実物写真は2000年・ヴェネツィア・サンタ・ルチア駅にて。分かりづらいかもしれませんが、この時代にはまだ青い車体に黄色い帯の「国際寝台車会社」塗装の車輛が走っていたものです。よく見るとFS(イタリア国鉄)のロゴが入っていました。

 


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