工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

2021年、今年もお世話になりました

2021年12月31日 | 日記
 今年もあとわずかでございます。30日~大晦日というのはいつもながらのバタバタぶりでして、大晦日の午前中は買い出しに出かけ、昼に自宅で年越しそばを食べ、そのあとはおせちの煮物を作り、昨年と同様夕方のライブとなりましたがT-SQUAREのライブに出かけ、帰ってきてから豚児をお風呂に入れ、孤独のグルメを観ながら昼に買ってきた新宿の名店のてんぷらを賞味しつつ故郷ヴェネト州(どこが故郷だよ)の白を飲み、〆はかき揚げをご飯に乗せて、という一日がようやく終わろうとしている今、コーヒー片手にBSで放送している「サボテンブラザース」を観ながら(おいおい)このブログを書いている次第です。
 私のブログでは相変わらずあっちへ行ったりこっちへ行ったりで、いろいろなテーマで書いてまいりました。春に連載しておりました橘花の記事が思いのほかアクセスがございまして、私も少々驚いている次第です。国産ジェット機の系譜については、来年以降も準備ができ次第書いてまいります。
 今年も相変わらずいろいろなことがあって、皆様も(私も)大変だったと思いますが、来年は少しでも穏やかで、それまでの日常が少しでも取り戻せる一年になるよう祈っております。
 では、皆様もよい新年をお迎えください。

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洋上模型の50年

2021年12月30日 | 船だって好き
 今年は1/700の洋上模型、ウォーターラインシリーズがスタートから50年を迎えています。以前のブログでも書きましたが、私も子供の頃からかなりお世話になっておりましたので、この場を借りてお祝いいたします、というのが本日のテーマです。
 ウォーターラインシリーズは昭和46(1971)年、静岡の主要プラモメーカー4社(タミヤ、ハセガワ、フジミ、アオシマ)によってスタートし、後にフジミが抜けて独自に製品開発をしながら今に至っています。もともとこのころに大きなシェアを持っていた今井科学の経営が立ち行かなくなるという業界にとって大きな出来事があり、問屋筋からの要望もあって、みんなで知恵と力を出し合って共同でシリーズものを展開しよう、となったと聞きます。それまでも1/1000などの洋上模型があり(私も子供の頃、こうした小さい艦艇のシリーズは見たことがあります)ましたが、より大きくして1/700で行こう、となったようです。地域的な特性もありましょうが、同じエリアに一定のクオリティを持ったメーカーが複数あって、それが同じテーマで商品開発、展開をしているというのは海外を見ても例がなく、日本独自の「業界内の結びつき」が良い方向に出たのではと思います。また、1/700という縮尺が、かつて日本海軍の図上演習などで使用された模型の縮尺と同じというのも興味深いです。人間にとって見やすく、手になじむ大きさなのでしょうか。
 50年の間には山あり谷ありで、製品開発が進まない「冬の時代」もありました。また、最近になっても第二次大戦の艦艇については「新事実」が明らかになったりしていますので、昔の製品の間違いや新解釈などを加味して、新しく作り直されている製品も多くなっています。さらに、静岡四社以外にもグリーンマックス、ピットロード、シールズモデル、ヤマシタホビーをはじめ、海外メーカーも1/700で艦艇を発売していますので、タミヤの1/35の戦車と同様に「国際スケール」となっている感があります。
 ウォーターラインシリーズを盛り上げたということでは、月刊誌「モデルアート」の功績も大きいと思います。衣島尚一氏の「連合艦隊編成講座」という長期連載がありましたし、1980年代には「ウォーターラインスペシャル」という増刊がありました。現在では「艦戦模型スペシャル」という増刊も季刊で発売され、毎号特集に沿って読み応えのある記事とため息をつきたくなるほど素晴らしい作品が掲載されています。
 近年になって「艦これ」のような形で艦船が注目されるようになりましたし、スマホの海戦ゲームでイギリスの駆逐艦が気になってアオシマの「ジャービス」を買った、という私のような人もいるでしょう。昔ならガレージキットで出ていたものがプラモデルで入手できるというのは、何とも良い時代になったものです。外国艦や現代の護衛艦もファンが多いですから、これからもいろいろな艦船が多くの方の工作台から竣功することでしょう。個人的には戦前、戦中の客船などももっとラインナップがあったら・・・と思いますが・・・。
 私が初めて組んだのは重巡「衣笠」でした。昭和55(1980)年当時、巡洋艦が500円だったので、子供のおこづかいで毎月1隻ずつ、巡洋艦を組んだ思い出があります。大人になってからそれほど組まなくなったこともあり、キットのことを一つ一つ論じることなどとてもできませんが、きっと読者の皆様にも「ベストキット」があるのではと思います。私の工廠は「ネイバル・ホリデー」になってしまって久しいので、途中になっていたあれとか、あれとか(わからないって)進めてみようかと思います。来年は何万トンの艦艇が竣功しているか、自分に目標を立ててみますか。

(子供の頃に上手に作れなくて、大人になって「リベンジ」したのがこちら。軽巡「多摩」はタミヤのキットで、昔のキットとは思えないクオリティの高さに改めて驚いたのと、あの頃は腕が伴わないのに背伸びして作ったのだなということに今更気づかされた次第です)

(外国艦も大人になってから作りました。タミヤの「ネルソン」とO級駆逐艦。O級の方はグリーンマックスが1/700に参入していた頃のキットをタミヤが引き継いだ経緯があります)


(ヴェネツィア、ミラノの「現地取材」で作ったのはこちら。ピットロードの「ヴィットリオ・ヴェネト」)


(歴史好きでもある兄からのリクエストで作ったのがこちら。アオシマの「飛龍1939」。艦載機が96式となっているところが特徴。私の兄が96艦攻好きということでリクエストがありました)

(シールズモデルは明治期の艦艇を多く発売しており、私も三笠をはじめ何隻か作りました。こちらは大正期に地中海に派遣された仕様の「出雲」です)

 

 

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きわめて私的なTOKYO2020雑感

2021年12月29日 | 日記
 今日、これから書く話題には乗り物のことも出てきませんし、いつもの緩い話題もありません。なので興味の無い方は読み飛ばしていただいて構いません。今日はきわめて私的な、TOKYO2020大会への私の思いです。私的な、ということですから組織委員会も、政府・東京都、アスリートを始めとする関係者の意見でもありませんので、あらかじめお断りした上で書いております。
 まず、コロナ禍での開催というのは高度な政治的決断なので是非については書きません。もし、7月時点で11月程度の少ない感染者数なら有観客、お酒の提供ありで開催したのではと思います。こればかりは先を読むことができず、開催、中止どちらの選択でも大変な決断であったと思います。感染症が変異株との戦いであることはこれまでの人類の歴史で証明済みですので、これだけ拡大が早く、ワクチンの開発も時間がかかる中、コロナの収束には2年はかかると思っていたので、個人的には2年延期の方が良かったと思っていましたが、ワクチンは行き届かない、デルタ株は蔓延するといった、結果的に一番大変な時期に開催となった感があります。
 コロナウイルスという想定外すぎる(これ以上に想定外のことは戦争や大災害くらいしか思い当たりません)ことを除いて、どうしても疑問に思っていたことがあります。IOCが開催時期をある程度限定しているからという理由だそうですが、そもそも7月下旬から8月にかけてという猛暑の季節にやるべきだったのかということです。7月下旬から8月上旬というのは、東京では梅雨も明け、最も気温が上がる季節です。気象庁のホームページに過去のデータが掲載されているので誰でも確認できますが、この30年の気温を見ても、この時期に開催するのが適切とはとても思えません。この30年で比較的涼しかったのは長雨でコメ不足になった1993年と2003年くらいです。高温、高湿度がアスリートや観客にとってベストなシーズンである、という理由を逆に説明してほしいです。
 温暖化のみならず、都市化で気温は年々上昇しています。招致が決まった時点から急に暑くなったわけではありません。せめて8月下旬から9月頃に開幕すべきだったかと思います。世界的に温暖化が進んでいると言われる昨今、東京に限らずこの季節に開催できる、という都市は難しくなり、開催できるのは南半球や高緯度、標高の高いの都市になってしまうのではと思います。以前も書きましたが私は都市ボランティアとしての活動をしていましたが、その時のユニフォームも着用できるのは真夏限定、といった感があります。観客を入れての開催だったら熱中症への対策を相当厳重に行う必要があったと思います。この暑さ対策のため、陸上競技ひいては五輪の「象徴」でもあるマラソンを1000キロ近く離れた都市で実施など「ホストシティ軽視」としか思えませんでした。もっとも、これは冬と同様に二都市開催への既成事実かもしれないですね。ちなみに1991年に東京で開催された陸上の世界選手権は8月下旬開催で、マラソンは早朝スタートでした。
 さて、今回の大会ですが、当初は個人的な理由として、招致そのものに疑問を感じていました。
 もともと2016年の大会に向けて招致が行われていましたが、2016年も含めて、なんのためにという視点が今一つだったように思います。当初、招致を言い出したのは石原知事時代の話ですが、単に昭和の成功体験で思いついたのかとさえ思えました。知事本人の考えなのか、外部の方からの示唆かは分かりませんが、五輪の他にも都内企業によるジェット旅客機の開発といった政策もありましたので、余計にそのように感じたわけです。
 前回の五輪どころか高度成長期以降に生まれ、バブルがはじけてから社会に出た世代が50代になっています。この人たち(私もそうですが)は、よく言えば成熟、悪く言えば収縮、閉塞していく日本の姿と共に社会に居続けています。もう昔のように若い国、都市ではなくなっただけに都市として成熟した姿を見せる五輪を見せ、それを目指すのかと思っていました(リオの閉会式ではそういう感じはしましたが)。五輪で景気浮揚させようとか、もう一度高度成長を、という年配の方のご意見を聴くと、私の世代であっても強い違和感を感じておりました。
 なぜ、東京が、ということでは、そもそも90年代以降日本国内でも「東京外し」が進んでいたのは事実でした。2002年のサッカーW杯だって東京で試合は行われず、埼玉や横浜に競技場を作っていたくらいですから、あえて東京に集めない、という流れになっていたのが、急に東京が手を挙げたのが不思議な感じでした。
 東京はかつてはNY、ロンドンと並ぶ金融都市、などと自負していましたが、バブル崩壊以降シンガポール、香港、上海にまで遅れをとり、うがった見方ですが都も、もしかしたら政府も東京の価値を高めるために躍起になっていたのではと思います。2000年代以降は23区内の大規模な再開発、観光の振興、外資の導入といったことに積極的ですが、五輪がその集大成にも感じました。招致に際して都民の関心は当初低かったのですが、正直に東京の価値を高めたい、と都民に説明しても良かったのではと都民の一人として思いました。
 招致活動の中で東北の復興、という意味合いがあって、図らずも震災から10年に開催となりました。しかし何を以て復興なのか、というのは難しいと思っています。廃炉に目途が立ったからなのか、仮設住宅がなくなり、みんなが不自由なく暮らせるようになったからなのか、受け止め方はそこは人によって異なるでしょう(そんな中で福島で行われたソフトボールの試合で、海外の監督が「ここで試合ができて良かった」とコメントを残しているので、それが聞けて個人的には心を動かされました)。
 震災に絡めて言いますと、東北の震災以降、首都直下型地震のリスクについても語られるようになり、30年以内に70%といった確率まで語られています。招致の際に開催やそれまでの準備のリスクとしてどれくらい考慮されていたのでしょうか。もし、開催直前又は開催中に発生したら、どうするつもりだったのか、マスコミも招致一色、開催一色(そのあとはコロナ一色でしたが)でしたので、大丈夫なのかという心配は常に(今もですが)ありました。
 五輪、パラも含めるとはそもそも1か月ちょっとの「お祭り」であって、それによってみんなの懐が潤うわけではありません。空からお金が降ってくるわけではないですからね。もちろん、子供たちへのレガシーという以前に大人たちにも良い思い出という精神的な栄養となりましょう。そうは言っても準備には莫大な費用がかかります。大会の開催そのものを今どきの商業五輪で黒字にできても、開催後の施設の管理など、無駄な出費と批判されることもあります。30数年前のバブルでもないのにそのためにたくさんのお金を使う余裕がある、とは言い切れない感がずっとありました。

 それでも自分が背を向けず、さらにボランティアというかたちで「参加」までしたのは
・上記のマイナス面を挙げても、五輪の持つ魅力には単純に抗えない。
・開催が決まった以上、その都市に住む人間として誠実にお迎えしたいという義務感
・前回大会に身内が関わっていた、ということから「お家の仕事」である
・私も含めスポーツ好きの日本人は全ての競技、種目(日本人が出てようがいまいが)に関心が高く、盛り上がらない理由は見当たらない。
という気持ちがあったからでした。
 ちなみに、五輪を特別視するのは日本人だけ、という意見を耳にしますが、海外のニュースサイトを見れば、トップ(あるいはスポーツのトップ)に自国のメダル数を掲載している国も目立ちました。決して日本人だけが特別視しているわけではないと思いますが、どうでしょうか。

 コロナに絡めての話として、開催していたから気が緩んで感染者が増えた、というのもどうなのかと思いました。政府、都はテレワークなどを奨励していましたが、電車の混み方はあまり変わらない感じがしました。例年の学校が夏休みになった8月と変わらなかった感があります。都はテレワークを奨励し、企業がテレワークのための規程を作ったり、設備を導入した場合にお金を出していたようですが、実際にどれだけの企業の何割の従業員がテレワークに参加していたのでしょうか。感染者が増えたのはワクチン接種が進まない中でデルタ株が急速に流行したことが大きな要因ではなかったのか?科学的な検証をしてほしいところです。
 また、ボランティアについても五輪のためとは謳っていないにしても、都の場合ボランティア休暇を導入した企業にお金を支給していて、それらの企業は公表されています。果たしてこれらの企業からどれだけの人数が会場ボランティアや都市ボランティアに応募したのかも気になります。当初はボランティアが足りない、などと言われていましたし、観客を入れることを想定した時点でシフトの希望を聞かれたときには「土日は希望が集中するので平日に入れてほしい」といったことを言われています。ボランティア休暇があれば、平日でも支障なく参加できたのではと思います。ボランティア休暇導入のための都の補助金の 募集要項を見ますと、ボランティアを行った日の扱いについては給料を無給にしてもよいという規程でも許されていたようです。無給の上にボランティアだから当然お金も交通費程度しか出ない、となったら、その会社の社員はボランティアをするでしょうか?こういった規程を作って誰が得をするのでしょうか。代理申請も許されていたようですから、コンサルや士業といった企業の代理をした人たちなのでしょうか?
 テレワークの実態やボランティアについて、我こそは、という気鋭のジャーナリストがいらっしゃれば、調査報道をしてみてはいかがでしょうか。
 コロナが無く海外からの観客を入れて「完全な状態」でやっていたらどうだったでしょうか。そもそもテレワーク、在宅勤務はコロナでそうせざるを得なかったところから出発している企業も多かったのではないかと思います。テレワークも掛け声だけで十分に進まず、電車、商業地域、観光地は大変な混雑だったことが想像できます。コロナ以前も朝のラッシュ時に大荷物の外国人観光客が乗り合わせ、揺れたりするたびにワー、キャーとなって、あまりいい気分ではなかったことを覚えています。電車は遅れるし混むばかりで身動きもとれなくて五輪なんて迷惑、と思う人がいたかもしれません。

 批判めいたことばかり書くのか、と言われそうですが、もっとこうすれば(無観客でも)良い大会になったのに、と思うことがあります。
 既に書いていますが、個人的には開催時期はずらした方が良かったと思います。9月なら夜もだいぶ気温が下がりますし、あえて時期を早めて晴天の多い5月というのはどうでしょうか。もちろん、7月、8月がよく言われるアメリカのテレビ局に配慮した理由だからというのもありますし、欧州のサッカーもオフシーズンだったり、シーズン開幕直後というのもあるからでしょうが、選手のことを第一に考えれば、梅雨明けの暑さと湿度が厳しき折、というのが開催に適した季節とは到底言い切れません。これは観客、関係者にとっても同じことでしょう。気候変動を正面からとらえた上で、IOCが今後柔軟な対応をされることを期待したいです。
 見たい競技が(テレビでも)被るのは避けたかったところです。初めて見る競技や四年に一度しか見る機会がない競技にも魅力はたくさんあります。球技と陸上が被るといったこともありました。特に開催国にとってはテレビであっても生で見ることに感動と喜びがあるわけで、各競技の日程も余裕をもってほしかったところです。この競技数だからこそ大会期間は3週間など、長めにせざるを得ないのではと思いました。そうなると開催国・都市の負担も相当なものになりますので、難しいのでしょうが。ちなみに私の家人は高飛び込みの中継を偶然通しで観てとても面白かったと言っておりました。今まで通して観たみたことが無かったので各選手の違い、競技の難しさがよく分かったと言っていました。こうして、新しいファンが生まれることだってあります。
 おそらく私の現役世代中に東京(とその周辺)で五輪はないでしょうから、もうお手伝いする機会もないでしょう。TOKYO2020についてこのブログ上で何か書くこともないでしょうから、年が新しくなる前に自分の思いを書かせていただきました。やっぱり、満員のお客さんで試合を見たかったな&こんなことなら会場ボランティアにも応募しておけばよかったな、という思いはずっと消えずにおります。

 次回以降は模型の話題です。




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「アイスマン」の引退

2021年12月26日 | 自動車、モータースポーツ
 今シーズン限りで、2007年のF1チャンピオン、キミ・ライコネンが引退しました。最多出走記録を誇り、ルックスもさることながらストレートな言動や昔のレーサーを思わせる自由人ぶりなど、日本に限らず世界中にファンがいました。
 ライコネンがデビューしたのは2001年シーズンでした。彼の出身地フィンランドは90年代からハッキネンを始めとして優秀なドライバーが続々とデビューしており、彼のデビューについても、また金髪碧眼の若手が出てきた、という印象でした。F1までにレース経験が浅く、異例の昇格だったことから、当初は「仮免」状態でのデビューでしたが、デビュー戦で6位に入賞、ほどなくライセンスも認められました。実力がすべての世界ですから、うまくいかなければシートを失ってしまいますし、その前年に20歳のジェンソン・バトンがデビューするなど、若い選手が登場していましたので、きっとある程度の実力があってF1の舞台に来たのだろう、という思いましたし、その実力が本物であることはすぐに分かりました。

(デビュー年の日本GPプログラムより。この頃はまだ笑顔を見せることが多かったようです)
 デビューのザウバーからマクラーレンに抜擢され、フェラーリファンの私としてはしばらくは「ライバル側」の人物でありました。初優勝は2003年でした。このころはフェラーリ優勢の中でもしっかり表彰台に上がり、顔つきは若いながらもマシンを上手に扱い、しぶとい印象は変わらなかったのですが、2005(平成17)年の日本GPで、場内に流れるメルセデスのCMを見たときに「顔つきがグランプリドライバーらしくなったな」と思いました。果たしてこの時のグランプリでは、予選で下位に沈みながらも、決勝ではぐんぐん順位を上げ、最終ラップでジャンカルロ・フィジケラをパス、見事な逆転優勝を挙げました。このレースは日本のファンだけでなく、世界中のファンにも名レースとして語り継がれており、イタリアびいきの私としてはイタリア人のフィジケラの優勝を奪われたのは残念ではありましたが、それでもライコネンの快挙に一人のレースファンとして拍手しました。

(2005年日本GPプログラムより。左ページがライコネン。右ページはチームメイトのモントーヤ)

(マクラーレン時代。熱田護氏の写真展より、主催者の了解を得て撮影したもの)
 2007年にはフェラーリ入りを果たし、同年には最終戦で逆転してチャンピオンを獲得しています。マクラーレンの二人(アロンソとルーキーイヤーのハミルトン)のチーム内対立を横目に、タイトルを獲ったあたりはさすがでした。翌年もランキング3位につけ、コンストラクターズタイトルに貢献しています。一度はF1を離れ、ラリーに出場するなどの日々でしたが2012年に復帰、中堅チームのロータス・ルノーで優勝も果たします。昔のJPSカラーにインスパイアされた黒と金のマシンは日本でも人気で、この色のグッズもよく見かけました(ティフォシの私もポロシャツを持っている)。ロータス時代にはチームとの無線で「ほっといてくれ、自分がしていることは分かってるよ」とか、「何度も繰り返すな」といった発言がオンエアされて、彼を象徴する発言となりました。

(2007年チャンピオン。フェラーリ、あれ以降タイトルから遠いなあ)
 フェラーリに再び在籍、メルセデス一強となったグランプリにあっても表彰台に立つレースは多く、2018年シーズンには総合3位となっています。また、2018年アメリカGPでの優勝(キャリア最後の勝利でしたが)では、一つの優勝から次の優勝まで113戦もブランクが開いており、これもF1の記録となっています(それまでは「鉄人」パトレーゼの99戦)。この3年間はアルファロメオに在籍しました。デビューを果たしたザウバーチームが前身で、アルファロメオと言っても実質的にフェラーリの影響が強いチームでキャリアの最後を過ごしました。入賞圏内に入ることも厳しかったのですが、それでもサーキットでの声援は大きかったことを覚えています。復活した名門アルファロメオの名を冠したチームがこの人には似合っており、レースを見ながら「いまライコネン何位につけてるかなあ」とトップ争いの合間に順位をチェックしておりました。
 最近では40代のドライバーは少ないですし、本人もF1でやりきったようなので、今年で引退となりました。メディア嫌いなところもありますし、もともと口数も少ないので本人の思いなどが出てこないタイプなのですが、フィンランドの作家・カリ・ホタカイネン著「知られざるキミ・ライコネン」では本人・周囲への取材で「アイスマン」の実像に迫っています。もともとモータースポーツとは縁遠い著者による本のため、かえって人間としてのライコネンを知ることができたように思います。決して裕福とは言えない家庭で育ち、ただ車を運転するのが好きだった若者が、大きなチャンスをつかんでF1の世界に入ったことで、本人の予期しないこともたくさんあったのではと思います。口数が少ないのも、誰かに媚びを売ることなどできない性分で、車を運転することに集中したいからかな、と思いました。そんな彼もF1デビュー前には兵役についていたことがあります。想像はつきますが集団生活が苦手だったようで、興味深いエピソードも書かれています。本書ではサーキットを離れ、ラリーを楽しむ姿についても触れられていますが、フィンランドの人たちはラリー選手のことを親しみを込めて「ラリー野郎」と呼ぶそうです。スターではなく、誰でも気軽に近づける近所のお兄さんで、雑草魂を持った庶民の代表者といった意味が込められているとか。ライコネン本人もどこかでそういう気持ちを持ち続けていて、サーキットでスター扱いされるのが苦手だったのかもしれません。プライベートで仲間や家族と過ごしているときの写真も本書には紹介されていますが、これが本来の彼の姿なのかなと思いました。ライコネンと言えばお酒のエピソードも豊富ですが、昔はともかく、今ではだいぶおとなしくなったようです。二人の子供の父ですし、これだけ長い期間にわたって第一線にいる人物ですから、節制はどこかでしているということでしょう。彼のあこがれはかつてのチャンピオン、ジェームス・ハントであり、ヘルメットもそれにインスパイアされたものを被っていたことがありますが、ハントのように酒、たばこ、クスリ・・・とはいかないのが現代のF1ドライバーであり、ドーピング検査を受ける様子も記されています。
 日本GPでラストイヤーを見られなかったのは本当に残念ですが、これからは自分自身や家族のために時間を費やすことも、以前より多くなるでしょう。サーキットに現れたりすることはあまり想像できませんが、どこかでラリーに出場したり「昔に比べてお金がかかりすぎる」とぼやきながら息子さんのカートレースを見守っているかもしれませんね。今まで、本当にお疲れさまでした。

(アルファロメオのマシンをドライブするライコネン。2019年鈴鹿にて)

(ヘルメット、レーシングスーツ姿ですが、もちろん本人ではありません。こうした熱烈なファンも見かけました)

(アルファの名前にF1ファンは弱いのです。帽子やらミニカーやら買っています)






 

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私を趣味人にした本 鉄道・鉄道模型編

2021年12月24日 | 鉄道・鉄道模型
 以前こんなテーマで飛行機のプラモデルに関する本を紹介しましたが、今日は鉄道関連です。
 鉄道趣味に関しては幼少期からですので、これまでに出会った本の多くが私を趣味人にしてくれたと思っています。学研の図鑑の「機関車・電車」はぼろぼろになるほど見ていましたし、子供たちに大人気の「きかんしゃトーマス」の原作である「汽車のえほん」は日本語訳の全巻が家にありました。また、1970年代後半の鉄道ファン誌からも多くの知識と美しい写真と情報を得ております。
 さまざまな本の中から、たぶん他の方があまり紹介されないであろう三冊を今日は紹介しましょう。

1  「もっともくわしい特急列車図鑑」(竹島紀元著 朝日ソノラマ)
 本書は子供向けの鉄道図鑑です。しかし執筆されたのが「鉄道ジャーナル」の竹島紀元氏ですから、子供向けとはいえ本格的でした。本書では昭和51(1976)年3月改正(新幹線の博多開業ですね)時点での新幹線、在来線の特急列車を網羅しています。第一章として明治からはじまる優等列車の歴史をひもとき、これを読むと戦前、戦後に至る特急列車の歴史が俯瞰できます。第二章が本書の大半を占めるのですが本書刊行時点での新幹線、在来線すべての特急列車の解説となっています。本数、所要時間、表定速度などが記されています。ここに付属している「全特急列車の編成図」を通して、編成として列車に注目するきっかけになったように思いますし、この時代の列車編成を知ることができる貴重な資料でもあります。第三章で特急牽引機を、第四章で機関車、客車等の車内の紹介があり、第五章で全国の私鉄特急についても代表的なものを採り上げています。第六章が撮影地ガイドとなっています。


特急列車の解説ページ

全国の特急列車が網羅されていた編成表
 本書で「表定速度」という言葉を覚えて、いっちょまえに「特急列車を名乗る以上グリーン車と食堂車がついて、表定速度は80km/h、せめて75km/h以上ないとな」と自分なりの特急列車への定義を持っていました。0系しかいなかった新幹線と比べ、在来線はの特急は形態、形式とも多彩だったわけですが、その中でもスピードを出していたのが東北路の「はつかり」、「はくつる」、「やまびこ」あたりでしたから、583系や485系がますます好きになったわけです。逆に食堂車ははじめから製造されず、短距離の運用が多かった183系はあまり好きではありませんでした。東海道のブルートレインも、子供達には「富士」、「はやぶさ」が人気だったのですが、ブルートレインの「元祖」であり、スピードも速かった「あさかぜ」の方も好きでした。こちらの本、鉄道好きの兄がおそらく実家で持っていると思われますが、私も大人になってから古本屋さんでみつけたものですから、ご紹介しました。

2 鉄道模型趣味 1980年5月号
 TMS誌は我が家に鉄道模型がやってきたタイミングから読んでいました。この中で特に私が飽きずに何度も読んだのが「軽便車輛検修所」と「ブーピープ・バレイ鉄道の車輛たち」でした。前者は現在、模型メーカーのモデルワーゲンを主宰されている森川幸一氏の作品で、東北の架空の軽便鉄道の車輛検修庫を中心としたミニセクションで、小さなセクションに完成された世界が展開されていて、Nゲージや16番のレイアウトとは違う世界を知る扉を開いたような記事でした。後者は「愉快なナローライン」の副題がついており、山田晴久氏の独特の世界観が随所にちりばめられたナローゲージの車輌たちが紹介されています。また、本号には西武百貨店主催(西武百貨店には当時「しぐなるはうす」という模型店が入っていました)のペーパーキットコンテストの記事もあり(表紙もその作品の一部ですが)、紙からここまで作れるのかあ、と思いながら自分もこんな模型が作れるかなあと勝手に想像していました。


3  とれいん 1985年12月号
 この時代の「とれいん」誌は特に好きで、特集記事や車輌模型の製作記事、連載などがTMS誌にないものばかりで、とても新鮮で毎月の発売日が待ち遠しかったほどです。
 特集に「ネームドトレインの編成とかたち」とあり、この場合のネームドトレインというのは「看板列車」、「その国の中の交通体系で重要な路線を走り、少なくとも優等客車を二輌以上連結している列車」と、同誌の版元の社長(当時)の松本謙一氏は定義しています。日本を中心にさまざまな看板列車の編成について紹介されていますが、興味深かったのはブルマン社が作ったさまざまな種類の寝台用の設備について詳細な紹介があったことで、実は本書に影響されて、ある自由型の編成を作ろうとずっと思っています。また、この雑誌らしくオリエント急行の木造客車の記事があるほか、戦前の豪華列車「下関行7列車」、満鉄の国際急行列車「大陸」の記事も出ています。
 この時期のとれいん誌は、松本氏の人気記事として「50州あるふぁべっと 模型で綴る黄金時代の米国の汽車」という連載があったほか、前述の森川氏がとれいんの編集部に加わり、車輌の製作記事やコラムなどを執筆されていて、こちらも楽しみな記事でした。


そんなわけで私の本棚から3冊、ご紹介しました。どれも相当古いですから、なかなか入手が難しいものもあるかと思いますが、ご寛恕ください。他にもご紹介したいものがありますが、それはまたの機会にということで。だいぶ冷え込みが厳しいクリスマスになるようですから、皆様どうか気を付けてお過ごしください。


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