工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

バンパイア練習機 極東の空に

2020年02月29日 | 飛行機・飛行機の模型
 まずは本題に入る前に前々回の記事の補足を。
 1966年のル・マン24時間レースですが、フォード、フェラーリ、さらにはシャパラルまで触れておいてポルシェのことを書かないのか、と言われそうなので書きます。この年はポルシェも4位から7位に入る健闘ぷりでした。ヘルマンやシファートといった名手達がドライブしています。やがてフォード対ポルシェの時代が訪れ、スティーブ・マックイーンの「栄光のル・マン」が製作されたのは、ポルシェが頂点に立った頃のことでした。
 それから、前回の記事に関連しての話となりますが、浜松広報館は新型コロナウイルスの影響で3月末まで休館との告知がされております。この混乱が収束したら、ぜひ皆様も浜松で実機をご覧になってください。
 
 それでは本題に入りましょう。
 太平洋戦争後、日本は一切の航空機開発等を禁じられておりましたが、占領が終わるとそれも解除が進み、日本国内も独自の航空機開発の機運が出てまいります、民間航空ではそれがYS11となって実を結ぶのですが、航空自衛隊でも国産の航空機導入の機運が高まりました。それには、当時のパイロット養成も関係があります。
 航空自衛隊創設期には、初等練習機をT-34、中等練習機をT-6、高等練習機をT-33がそれぞれ担っておりました。
 T-34
 
 T-6

 T-33(こちらは実機ではなく、プラッツ1/72キットです)

 このうちT-6については旧式化した米軍の航空機で、おまけに尾輪式(他の機体と違って前脚がありませんね)だったため視界確保が難しいなど、デメリットもありました。そのため、この機体の代わりに新たに練習機を日本で開発、製造しようとなったわけです。防衛庁(当時)の仕様に基づき、各メーカーが案を提出しましたが、富士重工の案が採用されます。昭和31年7月のことでした。自衛隊が発足したのが昭和29年ですから早い時期にジェット機開発の話が上がっていたということですね。そして、同じ昭和31年に防衛庁はバンパイア練習機を購入しています(昭和30年頃購入、とする資料もあります)。機体だけでなく、デ・ハビランド社のテストパイロットも来日しており、関係者と共に写った記念写真を見たことがあります。
 では、なぜバンパイア練習機を購入したかと言うと、その座席配置に理由があります。新しいジェット練習機の開発にあたっては、教官と学生の座席配置をどうするかということも議論されています。タンデムと呼ばれる縦列配置にすべきか、それとも左右に座席を持つサイドバイサイドとすべきか、ということでした。そのメリット、デメリットを検証するためにバンパイア練習機がやってきたわけです。ちなみに縦列配置を検証するためにT-28練習機を購入しました。こちらはもともと中等練習機のために売り込まれたものを航空自衛隊が買い上げたレシプロ機です。
 サイドバイサイドの座席配置では、当然のことながら教官と学生の意思疎通も顔を見ながらできる、というメリットがあります。また、バンパイア練習機の特徴として質素・簡潔な造りで、アメリカ機に比べても経済的、という利点もあったようですが、あまり使われることがなく退役してしまいます。昭和35年のことでした(昭和32年度で既に退役状態だったとする資料もあります)。日本ではなじみの薄いイギリス機ゆえ、不具合が発生した場合の部品の調達も大変だったでしょう。こうして、たいへん長い余生を浜松で過ごすことになったわけです。
 それにしても疑問は残ります。ジェット練習機の仕様が各メーカーに提示されたのが昭和30年12月で、その時点で座席配置もタンデムと決まっておりました。そんな状況でなぜバンパイア練習機を買い、テストをしたのでしょうか。次回はそのあたりの話も含めて考察してみたいと思います。

参考文献 自衛隊航空1987、世界の傑作機114 富士T-1(いずれも文林堂)




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浜松に異端の翼を探して

2020年02月28日 | 飛行機・飛行機の模型
 1月のことになりますが、浜松に出かけてきました。うなぎや餃子、はたまた「さわやか」のハンバーグが目当てだったわけではなく、航空自衛隊の浜松広報館に行ってきました。
 このブログの読者なら訪れた方もいらっしゃるのではないかと思いますが、浜松広報館というのは航空自衛隊の広報・展示施設であり、浜松基地に隣接して建てられています。浜松基地というのは航空自衛隊発祥にゆかりのある地でして、浜松広報館では航空自衛隊の活動ぷりを映像、パネルで展示しているほか、歴代の使用機を広い展示格納庫で展示しています。建物から浜松基地を離着陸する航空機も見え、T-4練習機や時間帯によってはE-767早期警戒機を見かけることもできます。
 さて、展示格納庫に入りますと銀色の小さな、独特の形のジェット機が目に飛び込んできます。

 説明にはデ・ハビランド バンパイアT.55練習機とあります。本稿ではバンバイア練習機と呼ぶことにしましょう。この航空機、イギリス製のジェット練習機で、草創期の航空自衛隊に1機のみ輸入されました。今回から、バンバイア練習機と航空自衛隊の関係も含めて述べてみたいと思います。

 まず、バンパイアという飛行機ですが、第二次大戦中にイギリスで開発された単座の戦闘機でした。グロスター・ミーティアなどと同じくジェット戦闘機としては最初の世代に属します。配備が進んだのは戦後になってからでしたが、イギリスだけでなくNATO各国を中心に一部の中立国などでも使用されました。複座の夜間戦闘機から練習機も開発され、1950年代から配備されるようになりました。

 胴体にはコクピットの直後にエンジンを搭載し、主翼の後ろから突き出た双ブームで尾翼を支えているなんとも独特のスタイルです。
 このようなちょっと変わった飛行機が、なぜ航空自衛隊にやってきたのか、次回はそのあたりを触れてみたいと思います。
 

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1966年のル・マン24時間レース 

2020年02月23日 | 自動車、モータースポーツ
 前回のブログでも少し触れましたが、映画「フォードvsフェラーリ」に合わせて、映画のハイライトとなった1966年のル・マン24時間のことを調べておりました。そんな中「オートスポーツ」誌が2月8日号で別綴じとして「1966年ル・マン24時間の真実」という特集を掲載しており、私も買ってみました。この特集記事では、映画であまり触れられなかったマシンができるまでの過程も含めて知ることができます。1966年ル・マンの様子をとらえた写真など、興味深い内容も多いのですが、別冊の裏表紙に掲載されたレースのエントリーリストとリザルトを追っていきますと、まさにこの時代のモータースポーツの紳士録という感があり、特に興味深いものでした。
 24時間レースということで、当然一人でレースを完遂することはできないわけで、この時代は2人交代でレースをしていました(現在は3人です)。フォードの顔ぶれから見ていきましよう。
 映画の主役の一人、ケン・マイルズのチームメイトはデニス・ハルムでした。この時代に多く渡欧した南半球出身のレーサーの一人で、ニュージーランド出身でした。F1でもブラバム、初期のマクラーレンチームに在籍し、1967年にはブラバムのマシンに乗り、F1でチャンピオンとなっています。1966年のハルムはF1、ル・マンだけでなく、F2にも乗っていました。当時はF1とF2の掛け持ちということも行われており、F1ドライバーも多数出場していたのです。ハルムはF2でもブラバムチームに在籍していましたが、エンジンはホンダでした。ホンダは第一期F1参戦時に欧州のF2にも参戦しており、車体まで作っていたF1とは違ってF2では既存チームにエンジンを供給する形をとっていました。F1と同様、当初は相当苦労と失敗を続けていましたが、1966年には苦労が実を結び、エースのジャック・ブラバムとハルムで11連勝を成し遂げています。また、ハルムはそれまでもホンダと縁があり、1964年にはホンダS-600でニュルブルクリンク500kmに出場しています。
 マイルズ・ハルム組以外のフォードMkⅡのドライバーの顔ぶれもなかなかです。
 マイルズ・ハルム組と並ぶエース格のブルース・マクラーレン、クリス・エイモン組から紹介しましょう。ブルース・マクラーレンは今も続くマクラーレンチームの創始者であり、F1では既に自身のチームを興していましたが、ル・マン24時間ではフォードのマシンを駆っていました。エイモンもF1で活躍した選手です。F1では優勝することはかなわなかったのですが、ニュージーランド出身のこの二人の能力をフォードが評価していたということなのでしょう。
他にも、第一期ホンダF1の最初のドライバーだったロニー・バックナム、空冷ポルシェF1に勝利をもたらしたダン・ガーニー(いずれも米国)、先日のブログでマクラーレンMP4/8の話をした際に触れましたが、モナコGP、ル・マン、インディを制したグラハム・ヒル(英)らもフォードMkⅡのステアリングを握っています。ヒルはこの年のル・マンの直前にインディ500に出走、荒れた展開のレースを制してのル・マン入りでした。F1、インディ500、ル・マンと主要なレースを掛け持ちというのは今では考えられないことですね。1991年、マツダのル・マン初優勝のメンバーの一人だったジョニー・ハーバートはF1と全日本F3000、ル・マンという掛け持ちをしていましたが、それも当時としては珍しい方でした。
 他にもマリオ・アンドレッティ、ルシアン・ビアンキの二人がコンビを組んで出走しています。マリオ・アンドレッティの子供がセナとチームメイトだったマイケルで、という話は先日もふれましたが、1966年のル・マンはマリオ・アンドレッティにとって初参戦でした。この時点では北米を中心に活躍する若手ドライバーで、F1デビューもこの2年後です。ルシアン・ビアンキですが、ル・マンで後に優勝するなど、実績のあるドライバーでした。ルシアンの弟、マウロ・ビアンキもこのレースにフランスのアルピーヌのマシンを駆って完走しています。そしてこのマウロの孫が、先年鈴鹿の日本GPでの事故が元で亡くなったジュール・ビアンキでした。
 フォードは従来型のGT40も持ち込んでいました。後にル・マンで6回も優勝することになるジャッキー・イクス(ベルギー)も、ル・マンデビューのこの年にフォードをドライブしていました。また、フレンチブルーの車体でおなじみのリジェ・チームのオーナーだったギ・リジェもこの時代はまだドライバーであり、フォードに乗っていました。他にもフォーミュラカー、スポーツカーで活躍したピーター・レブソンなどの名前も見えます。前年にフェラーリでル・マンを制したドライバーの一人であり、後にF1でチャンピオンとなった(ことを天国で知ることになる)ヨッヘン・リントもベテランのイネス・アイルランドと組んで出走しています。
 迎え撃つフェラーリ勢もバンディーニはF1も含めてフェラーリのエースでしたし、スカルフィオッティとパークス組の二人はこの年のF1でも活躍しています。F1、ル・マンだけでなく、この頃はシチリア島で開催されるスポーツカーによる「公道ラリー」とでもいうべき「タルガ・フローリオ」というレースもありました。この時代のドライバーはさまざまな車をドライブする能力に長けてなければならないわけですから、今とは違った能力が求められていたわけです。他にもフェラーリにはP.ロドリゲス(メキシコ)とギンサー(米)がコンビを組んでいます。ギンサーは前年までホンダF1をドライブし、ホンダに初勝利をもたらした人物です。フェラーリもフォードほどの物量作戦とは行かなかったのですが、前年の覇者、マステン・グレゴリー(米)もフェラーリをドライブしていますので、実力のある選手を揃えていました。しかし、ル・マン直前にエースだったジョン・サーティース(英)がチームと対立してチームを離脱しています。サーティースは翌年ホンダに迎え入れられ、ホンダの二勝目に貢献することになります。
 他にもアメリカのコンストラクター、シャパラルをドライブしたのはル・マン3度の優勝経験のあるフィル・ヒル(米)と当時珍しかった北欧出身のジョー・ボニエ(スウェーデン)のコンビで、フィル・ヒルはF1でアメリカ人初のチャンピオンを取った人物です。
 一人ひとり挙げていくとキリがありませんのでこのあたりにしますが、実に多彩な顔ぶれだったことがお分かりいただけたでしょうか。
 映画の話に少しだけ戻りますが、映画の製作にガーニー、バックナム、フィル・ヒルの子息も参加されており、父と同じレーサーの道を歩んでいるアレックス・ガーニーは父・ダン・ガーニー役を演じています。
 そして映画のもう一人の主役、キャロル・シェルビーについても、ドライバーとしての実績を再発見する機会となりました。シェルビーの名前は車を作る人としてのイメージが強かったのですが、映画でも描かれたとおり、1958年にル・マン優勝を果たしています。また、同じ頃にマセラーティでF1をドライブしています。この時代のマセラーティのマシンはまとまった台数が製造され、様々なドライバーがレースに出場していました。
 キャロル・シェルビーはその昔に日本を訪れ、ホンダの工場を訪問している写真が残されています。第一期ホンダF1の監督だった故・中村良夫氏の「私のグランプリ・アルバム」によれば、シェルビーはリッチー・ギンサーの案内で訪れたとあり、背広姿のシェルビー、ギンサーと作業服姿の本田宗一郎、中村良夫両氏がカメラに収まっている姿を見ることができます。中村氏は後にアメリカを訪れた際にシェルビー・コブラをドライブしたとあり、その時にシェルビー・コブラのテストを担当していた「ケン・マイルズのヘルメットを借りて・・」とあります。シェルビーとマイルズの関係がうかがえるエピソードです。
 さて、この映画で描かれた1966年ですが、日本ではビートルズ来日といった出来事もありました。モータースポーツはまだよちよち歩きだった時代ですが、春にはF1のチャンピオン、ジム・クラークが富士スピードウェイで走行する機会があったほか、秋にはインディカーのレースを「日本インディ」として富士スピードウェイで開催、といったこともありました。
 こうしてみると一つのレースに様々な人生が交錯しているものです。そしてそのことが子供たちの世代まで受け継がれ、また交錯しているというあたりも(モータースポーツに限りませんが)、歴史をたどり、書籍を紐解く楽しさであったりします。
 モータースポーツの話が多くなりましたが、そろそろそれ以外の乗り物の話に移りたいと思います。


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男たちの熱き戦い

2020年02月12日 | ときどき映画
 こんにちは。
 ブログを少々ご無沙汰しておりました。公私ともに忙しいのと、工作台の方も忙しくなっており、いずれこのブログでご紹介する作例も含めて作っている模型がありまして、今月初の記事となりました。
 先日、映画「フォードvsフェラーリ」を観に行ってきました。「パラサイト」の作品賞等受賞で話題になった今年のアカデミー賞ですが、本作も2部門で受賞しました。私が観に行ったのは1月下旬でしたが、平日の夜の回でかなり混みあっておりました。モータースポーツの映画ですと、何年か前に「RUSH プライドと友情」があり、あちらは観客の年齢層が比較的高めという印象でしたが、こちらは若い方も随分見かけました。
 この「フォードvsフェラーリ」ですが、1960年代にル・マン24時間レースでフォードとフェラーリが熾烈な争いを繰り広げた出来事をベースにしております。もちろん、実話に基づくフィクションですので史実と多少違うところはありますし、ネタバレになる話を書くのも野暮ですのでここでは触れませんが、フォードがフェラーリの買収交渉(これは実際にあった話です)を進めるものの、ご破算に終わった上にフェラーリのトップ、エンツォ・フェラーリから屈辱的な言葉まで浴びせられ「負けるもんか、絶対にル・マンで絶対王者となっているフェラーリを破って見せる」とばかりにマシンを開発し、レースに挑んで・・・というストーリーが展開していきます。史実とは違う、と書きましたが、それでも冒頭にボンデュラント、ランス=リベントロウ、ギンサーといった懐かしいドライバーの名前も出てきて、私などは一気に引き込まれました。
 本作ではフォード(マーケティング戦略を担当するリー・アイアコッカ)の命を受けてマシン開発とレース活動を行ったキャロル・シェルビー(マット・デイモン)と、シェルビーの下でマシンをテストし、作り上げていくイギリス人ドライバー、ケン・マイルズ(クリスチャン・ベイル)の二人を軸に物語が展開します。キャロル・シェルビーはモータースポーツやスポーツカーに興味のある方にとっては有名ですが、ケン・マイルズはよほどレースの歴史に興味のある人でないと分からないかと思います。そしてこのマイルズという人物、映画ではとても真っ直ぐで、純粋で、歯に衣着せぬところもあり、でも自分の仕事には人一倍誇りを持っている魅力ある男として描かれています。粗にして野だが卑ではない、というキャラクターですが、それゆえにフォード本社にとっては少々面倒くさい存在であるわけで、当然彼を嫌う人物もいるわけです。大きな組織にとってはこういう人は「面倒くさいベテラン」なわけで、私も本業の仕事に関しては多少そういう性格なものですから、こういう人は嫌われるよな、と思いながら観ておりました。「RUSH」はドライバー二人のライバル関係と友情を主に描いていましたが、こちらは人間対人間というより、人間対組織、組織対組織の側面が描かれています。
 こうして、フォードはル・マンに向けて「フォードGT40」というマシンを開発するもののフェラーリに跳ね返され、ついに1966年のル・マンにGT40、さらにはその発展型のGTⅡを持ち込み・・・ということでここから先は映画館でのお楽しみ、といたしましょう。GT40はいかにもアメリカ車らしい格好いいスタイルですし、フェラーリのP330は流麗なスタイルの実に美しいマシンです。この二つの車もまた、本作のもう一つの主役という感があります。なお、フォードGT40については、映画では「イギリスからマシンが届いた」のセリフで片付けられていましたが、実際にはイギリスのローラ社がシェルビーと協力して車体を作っています。
 私もフォードのル・マン挑戦に関してはものの本で「フォードは物量作戦を展開して・・・」ということしか知りませんでしたので、知っている話も、知らない話も含めて楽しめました。登場人物はケン・マイルズ夫人を除けばほとんど男という、実に男臭い映画ではありますが、もちろん女性が観てもドラマとして面白いと思います。サーキットでレースを観た後の満足感や心地よい疲労感と同じ気分を味わいながら映画館を後にすることができました。
 
 映画の中では、エンツォ・フェラーリがファクトリーの中でテーブルを出して食事をしているシーンが出てきます。「RUSH」でもテストコースでマシンが走り抜ける傍で新聞を読む場面がありました。神秘に満ちたエンツォの姿を描いているということなのでしょうが、エンツォ・フェラーリ本人が観たら「俺、あんなことしないよ。落ち着いてご飯食べたいし、新聞も静かなところで読みたい」と言うかもしれません。これがホンダなら白い作業服の本田宗一郎がスパナで殴ったり、工場の床にチョークで図面を描き始めたりするのでしょうか!?

 余談ですがこの映画のパンフレットにはキャストやスタッフが「初めて自分でハンドルを握った車」を聞かれて答えており、これがなかなか面白かったです。マット・デイモンは兄から買った1986年型のホンダ・アコードで大好きだったと言っています。80年代以降、日本車は(嫌われるくらい)世界を席巻していたわけですが、アメリカ勢も黙っていませんでした。例えばクライスラーは企業努力の甲斐もあって80年代に業績を回復させています。そのクライスラーを率いたのが、フォードを追われたリー・アイアコッカだったことは、ある一定の世代以上の方ならご存知でしょう。

 この映画を観た前後で、1966年のル・マンやら、登場人物たちのことを調べておりました。ここでは書ききれなかったので、稿をあらためて、1966年のル・マンとその周辺に関する話も(映画のネタバレにならない程度に)したいと思います。
 


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