工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

2がつく年のモナコグランプリは・・・

2022年05月27日 | 自動車、モータースポーツ
 この週末がモナコGPということで、さきほどもプロ野球の交流戦の中継が終わったタイミングということもあり、フリー走行1回目をテレビ観戦しておりました。今年は過密日程もあってか、いつものように木曜日がフリー走行、金曜を休んで土曜日が予選、というフォーマットではないのも特徴的です。1929(昭和4)年に第一回が開催された由緒あるグランプリですが、歴史が長いだけにいろいろなドラマもございます。今回は末尾に2のつく年のグランプリのお話をしたいと思います。
 1932年、この年を制したのは以前もご紹介したヌヴォラーリで、アルファロメオを駆っていました。アルファロメオとブガッティ、マセラーティがエントリーしており、コース上の路面電車の線路(!)もこの年から取り払われたと言われています。グリッドはくじ引き(!!)で決めており、ヌヴォラーリは3台が並ぶグリッドの4列目、11番手からスタートし、途中まで地元のルイ・シロンをぴったりとマーク、シロンのリタイア後はトップに立って100周、実に3時間半のハードなレースに勝ちました。2位には同じくアルファロメオのカラツィオラが入り、一周目に6台を抜くなど、こちらも見事なレース運びです。3位はマセラーティのファジオーリが入っています。
 戦後、1952年は2年前からスタートしたF1世界選手権のカレンダーには入らず、スポーツカーでの開催となりました。この年と翌年はF2の規定でF1を開催するという変則的なもので、選手権の日程も決まらず、F1側のシーズン開幕が6月になってからということもあるのでしょう。フェラーリ225が上位を独占、V.マルゾット伯爵が優勝しています。フェラーリのスポーツカー乗りとして活躍した選手でした。他にもE.キャスティロッティ、ピーター・コリンズ、スターリング・モス、レジ・パーネル、ピエール・ルヴェーらの名前がエントリーにありますので、スポーツカーとは言ってもやはりモナコで、実力あるドライバーが集まっていました。
 1962年に優勝したのはブルース・マクラーレンでした。後に自身の名を冠したコンストラクターを作るわけですが、この時はクーパーに乗っており、予選3位からやはり100周を走り切っています。終盤までグラハム・ヒルにリードを奪われたのですがヒルがエンジントラブルで後退、93周からトップに立っての優勝でした。
 1972年、ちょうど50年前ですが、この時は大雨降りしきる中BRMのジャン・ピエール・ベルトワーズが初優勝にしてキャリア唯一の優勝を遂げました。BRMというのは1950年代から70年代まで活躍したイギリスのF1チームで、1960年代のモナコでは幾度も勝利を挙げ、1962年のヒルもBRMでタイトルを獲得していますが、70年代に入ると低落傾向にありました。車体だけでなくエンジンも内製が特徴で、優勝したP160Bは12気筒でした。レースですが、ベルトワーズは予選4位から勢いよくスタート、一気にトップに立つとそのままリードを築きます。大雨のおかげでマシンのスピードが遅くなったことで、かえってマシンへの負担が軽くなり、ブレーキも路面が乾いているときほど酷使されずに済み、これがBRMに有利に働きました。チャンピオンのジャッキー・スチュワートは十二指腸潰瘍で調子を崩していたほか、2位のイクス、3位のフィッティパルディも、ポジションをキープするのがやっとでした。80周の戦いを2時間半近くかけて戦ったベルトワーズの勝利は、BRMにとって最後の優勝となりました。ベルトワーズのこのシーズン唯一の入賞がモナコでの優勝、ということでこれもまた珍しい記録です。大雨のモナコで伏兵の初勝利というと、私などは1996年のパニスの初勝利を思い出しますが、昔を知るファンやジャーナリストは、きっとこの1972年を思い出したのではないでしょうか。
 1982年はモナコ史上まれにみる混乱したレースで、終盤トップが目まぐるしく変わりました。プロストのリタイアから始まり、前回ご紹介したパトレーゼ(当時はブラバム)がスピンして再度復帰、ピローニとデ・チェザリスは最終ラップでガス欠、ということで最初にチェッカーを受けることができたのはパトレーゼで、F1参戦6年目にして初優勝をモナコで挙げました。本人も優勝したことに気づいておらず、周囲に促されて表彰式に向かったと伝えられています。モナコのグレース大公妃はこの年の秋に事故死しており、大公妃の生前最後に祝福されたのがパトレーゼとなりました。1982年シーズンはモナコの前のベルギーGPでフェラーリのエース、ヴィルヌーブが事故死、その後も事故が相次いだほか、勝者も目まぐるしく変わり、実に11人の勝者が誕生しています。惜しかったのはこのモナコで勝利を逃したデ・チェザリスで、目前で勝利を逃してしまい(1983年、1991年ベルギーGPでも惜しいところまで好走しました)、その後も走らないマシンを上位に押し上げる壊し屋だけでない一面もあったのですが、結局一度も表彰台の頂点に立てないまま引退しました。
 1992年は幾度も紹介していますが劣勢のアイルトン・セナが終盤の大逆転でナイジェル・マンセルを抑えきってマンセルの開幕6連勝を阻みました。50回目を記念するような印象に残る決勝レースとなりました。
 2002年を制したのはマクラーレン・メルセデスのD.クルサードでした。予選2位からトップを奪うとそのままトップを守って勝ちました。このシーズン、シューマッハ、バリチェロを擁したフェラーリが圧倒的に強く、勝てなかったのはモナコとマレーシアだけでした。モナコで優勝経験のあるシューマッハが「落とした」という意味では番狂わせだったのかもしれません。
 2012年はレッドブル・ルノーのマーク・ウェバーがポールトゥウィンを飾ります。もともと予選のタイムではメルセデスのシューマッハが上回っていましたが、前戦に受けたペナルティでグリッド降格となっていました。2012年も勝者が8人生まれるという珍しいシーズンでした。
 さて、2022年はどうなるのか。順当な勝利になるのか、それとも伏兵が天候の綾で、なんていう展開があるのか楽しみです。日曜は夜にモナコGP、明け方はインディ500ということで、大きなレースイベントが重なります。激しくもフェアで、そして安全なレースになるよう祈っています。

1972年、ベルトワーズの優勝車 BRM P160B(スパーク1/43) モデルはちゃんとレインタイヤを履いています。マルボロをスポンサーにしていますが、当時は蛍光色ではなく鮮やかな赤色で、紋章も含めてタバコの箱の色やデザインに忠実でした。

参考文献 Grand Prix de MONACO (Reiner W. Schlegelmilch, Hartmut Lehbrink著 KONEMANN) 、世界の有名な50のレース(A.ヘンリー著、高齋 正訳 グランプリ出版)、 F1全史(ニューズ出版、三栄書房)





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「つなぎ役」以上の働きをしたマシン ウィリアムズFW13B

2022年05月24日 | 自動車、モータースポーツ
 いつも本ブログでご紹介している三栄のGPCar Storyですが、3月に発売された第39号はウィリアムズFW13Bを特集しています。ご紹介が遅れてしまいましたが、今回も興味深く読みました。

 このマシン、1989年にウイリアムズとルノーが手を組んだFW13の改良型に当たります。FW13も含めて、マシン開発に当たったパトリック・ヘッドをはじめ、ドライバーのプーツェン、パトレーゼのいぶし銀コンビ、テストを担当したマーク・ブランデルらのインタビューで、このマシンを紐解いています。1990年、FW13Bはサンマリノ(イモラ)でパトレーゼが、ハンガリーでブーツェンが勝利を挙げています。ただ、このシーズンはマクラーレン(セナ)とフェラーリ(プロスト)の一騎打ちで、ウイリアムズはこの二チーム、さらにベネトンの後ろのコンストラクターズ4位でシーズンを終えています。
 FW13Bについてはドライバー2名の回想によればセッティングが難しく(パトレーゼ)、場所によって好不調が極端(ブーツェン)という評価を下しています。ロングランテストを担当したブランデルによれば、「スィートスポットに当たっていない」ということですので、ベターではあってもベストではない、ということでしょう。それにしても高速でエンジンに厳しいイモラと低速でコーナーが続くハンガリーというのは対照的なコースであり、これはドライバーの勝利でもありますし、エンジンも含めたマシンの総合力が無ければ簡単に勝てるコースではありませんので、ポテンシャルはあったと言えるでしょう。パトレーゼはイモラでの勝利が実に1983年南アGPから99戦ぶりということで話題になりましたし、ブーツェンはハンガリーでタイヤ無交換で走り切り、セナの追撃を抑え込みました。無交換にこだわったのはウィリアムズのピット作業がライバルほど上手ではない、というのもあったようですが。
 そしてFW13Bというマシン、セミオートマチック、アクティブサスペンションといった後のウィリアムズがライバルに先んじたデバイスもテストされていました。実戦デビューは2年後のFW14Bを待たなければなりませんが、こうやってウィリアムズは雌伏の時期を過ごしていたわけです。
 マシンデザインも特徴的で、扁平のインダクションポッドなどは好例ですが、空力的な特性を格別に考慮したものではなかったようです。同チームが初めてCADで設計したマシンだそうですが(そういえば同時期にKATOがNゲージで小田急10000形をCAD/CAMで設計したことが話題になりましたね)、この年はフェラーリ、ティレル、ベネトンなど特徴的なマシンが多く、いずれもGPCar Storyに取り上げられています。F1ブーム真っ只中だった時代ですが、ブームが一部のドライバーに魅かれたから生まれたものではなく、マシンも、さまざまなドライバーも個性が強く、そこに多くの人たちが魅かれたからではないかと思います。
 そして、ルノーについてもリーダーを務めたベルナール・デュドのインタビューが載っています。この時代のルノーと言えばV10エンジンが有名でしたが、もともとはV8、V12なども研究の上、シャーシ側のエンジニアの意見も聞いてV10にした、というのも興味深かったです。1990年代のF1は徐々にエンジンだけでは勝てなくなっており、車体も含めたバランスやパッケージで決まる時代となっていました。そういう意味でも、FW13Bというマシンは、後のウィリアムズ・ルノー黄金期のための基礎を作ったと言えるでしょう。そして、シーズン2勝を挙げることができたという意味では、単なる次へのつなぎ役以上の仕事をしていたと思います。
 ドライバーの話に戻りますが、パトレーゼはウィリアムズにいた日々を特別なものとして記憶しているようです。マシンの開発も含めてチームに貢献し、FW13Bだけでなく、それ以降のマシンでも勝利を重ねることができたので偽りのないところでしょう。アクティブサスペンションを搭載した1992年のFW14Bでは「アクティブカー」特有の挙動変化についていくのが厳しく、チームメイトのN.マンセルに後れを取りましたが、しばらくはウィリアムズチームにとどまりたかったようです(結果として1993年にベネトンに移籍し、同年限りで引退)。このあたりの契約事情もやや悔しさをにじませて語っています。ブーツェンもハンガリーでの勝利の時点でチームがマンセルと交渉しており、結局1991年シーズンからマンセル/パトレーゼのコンビとなります。1991年の「ナンバー」誌でせっかく勝ったのにチームからはお祝いの一つもなかった、というようなニュアンスの記事を読んだことがありましたが、ルノーのデュドの発言にあるように「ウィリアムズにとってドライバーは従業員」だったのかもしれません。ブーツェンは91年はリジェでティレルの中嶋と競り合っていましたし、92年にはジョーダンに移籍、シーズン途中で引退しています。興味深いのはパトレーゼのインタビューで、あの頃はコース上で少々激しくやりあっても「ドライバー同士が直接話し合ってルールを決められるというか、お互いに仁義を通していた」と言っていたことで、今のように規則でがんじがらめ、やれスポーツマンらしくない行為でペナルティだ、ということは無かった、と懐かしんでいます。パトレーゼは若いころは少々粗いところもありましたが、この時期には激しいところはあるもののフェアという印象がありました。当時の映像を見ますと、今ならいろいろ言われそうですが、それを言い出すとあの人やあの人もということでキリがなくなりそうです。
 二人とも大相撲でいえば「名大関」ではあり、特にパトレーゼは応援していたのですが、キャリアのラストは寂しいものでした。パトレーゼについてはいずれ稿を改めて触れたいと思っています。
 さて、チームのボスで昨年亡くなったフランク・ウィリアムズの話が出てこないではないかと言われそうですが、ベテランジャーナリストであり、ベネトンなどのチームでグランプリをともに戦った津川哲夫氏が車椅子の闘将の「F1愛」について語っています。チーム運営が思い通りにいかないこともあったわけですが、勝ったり負けたりも含めて自らが身を置き、愛している世界の出来事、と思っていたのでしょうか。
 個性的なマシン、という話をしましたが、F1ブームを追い風に模型でもこのシーズンのマシンは相次いでモデル化されました。このマシンが知られているのも、タミヤが1/20でキット化したからでしょう。私もモデルアート誌でキット評を読んだ記憶があります。タミヤがマクラーレン、レイトンハウス、そしてこのウィリアムズをキット化し、ハセガワは1/24でベネトンとラルースをキット化して日本GPの表彰台トリオが再現できました。また、モデラーズも1/24でティレル019をキット化しています。ある意味目玉だったフェラーリ641/2はタミヤが1/12でキット化しています(後にフジミから1/20でもキット化)。もちろん、レジンキットやトランスキットを含めればもっと出ていましたので、いろいろな意味で幸せな時代であります。当時のタミヤの開発担当だった木谷真人氏のインタビューも掲載されており、なぜこのマシンが選ばれたのかという話や、チームとしてはアクティブサスなど機密に係る部分はパーツ化してくれるなと言われたなど、製品開発の面白さや苦労を知ることができます。キットも割とよく見かけましたが、絶版になって私もあわてて押さえた記憶があります。二人のドライバーとも好きなのですが、やはり「サンマリノGP優勝車」ということで、パトレーゼ仕様で作ることになるのかなあ。

1990年日本GPプログラム(筆者蔵)より

ウィリアムズとドライバー二人を紹介したページ。左の広告は当時、チームのタイトルスポンサーだったキヤノンです。



シーズンのハイライトの記事。
あとで知ったことですが、ブーツェンは母国ベルギーでは我々日本人が思っている以上に人気があり、企業広告などにも登場している、と川井一仁氏が書いていました。もっとも、外国人が見たらあの頃の中嶋悟もそのように言われていたかもしれないですね。

 
 
 
 



 
 
 
 

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重要文化財になった気動車 キハ07

2022年05月22日 | 鉄道・鉄道模型
 昨年10月、JR九州が保有し、門司港の九州鉄道記念館で展示されているキハ07 41が国の重要文化財に指定されました。重文指定された鉄道車輛というのはこれまでもありましたし、昭和生まれの車輌についても東京地下鉄道(現・東京メトロ)1001号のような事例がありますが、内燃車輛の指定は初めてで、意義のあるものです。プレスアイゼンバーンの「レイル」122号では「国重要文化財キハ42000・キハ07形」という特集を組み、キハ07の前身のキハ42000からその歴史を紐解き、また、門司港のキハ07 41が重要文化財に指定されるまでの経緯などについても触れられています。
 本ブログの読者の方、特に鉄道好きの方ならば触れるまでもありませんが、キハ42000は昭和10年にデビューした大型のガソリンカーでした。この時代の内燃車輛はガソリンエンジン車が一般的でした。車体は前頭部が半円型をしていて、それがこの形式の特徴ではあるのですが、これも鉄道省が東京帝大の航空研究所に依頼した風洞試験を経て生まれたものです。内燃車輛については特に軽量、高速をある程度意識して空力(というほど大げさではありませんが)を考慮して設計されており、流線形気動車のキハ43000形などもその流れを汲んでいます。
 ディーゼルエンジン化したキハ42500形もほどなく登場しましたが、戦中、戦後の燃料不足は内燃車輛にとっては厳しい時期であり、中には天然ガスによる代用燃料車も作られました。戦後、ガソリンエンジンの車輌もディーゼルエンジンに換装することになりました。もともとガソリンカーは引火すると燃えやすく、本形式も昭和15年西成線における転覆火災事故という大惨事も経験しています。昭和32年以降、形式呼称の改正によってキハ07形となりましたが、変速装置もシフトレバーによる機械式(歯車式)で総括制御も難しく、戦後生まれの気動車たちが配置されるようになるとその場を追われ、昭和40年代には国鉄から姿を消しました。地方私鉄に払い下げられた車輌が平成まで働き続けていたので、乗車された方もいらっしゃるでしょう。
 さて、門司港のキハ07に戻りますが、同誌では小野田滋氏が「国重要文化財としてのキハ07 41号の意義」の中で、この車輛の文化財としての価値を車体や内装に新造時の原型の姿をとどめていること、機械式による駆動機構が残っていること、などとして挙げています。重文、国宝といったものは長い歴史の中で修復を繰り返した後、後世までその姿を残しているわけですが、作られた当時のかたちを大きく変えないことも大切です。仏像や埴輪などで、修復の過程で勝手に体のパーツを取り換えたりすれば、文化財としての価値も減じてしまいますし、考古遺物などは出土地や出土状況、来歴を確認する必要もあります。その点鉄道車輛は途中で改造を受け、原型を保っていなかったりするものもありますが、ガソリンエンジンからディーゼルエンジンへの換装のように、改造が技術の進歩や安全の為であれば評価されるでしょうし、記録もしっかりと残されています。門司港は長らく訪れていませんが、いつか再訪を果たし、キハ07を見てみたいものです。
 模型でもキハ07はいくつか持っております。もともと内燃車輛は好きな上に個人的に好きな車輌ですので、購入の優先順位も高かったように思います。
 最初にやってきたのは16番の製品でした。奄美屋のキット組み立て品で、まだ住友の三角ビルに入っていた頃の天賞堂新宿店で買ったもので、かれこれ25年は経っています。

動力は天賞堂のパワートラックで、お店でのテスト走行の際「うち(天賞堂)のパワトラだから走りはこんな感じです」と言われたのを覚えています。内装も入っていませんでしたので、市販品の椅子のパーツなどをあれこれ買って、カトーの人形やプライザーの未塗装の人形に色を塗って、乗客や乗務員になっていただきました。


少々オーバーなウェザリングですね。
椅子は実物の方が軽量化のため背もたれの高さを低くしており、模型の方は正確ではありません。レタリングは製品付属でしたが、キハ42503は後に片上鉄道→水島臨海鉄道へと渡った車輌です。
Nゲージではワールド工芸から発売された完成品があります。

製品にはアーノルドカプラーが付属していましたが、取り付けるとお辞儀してしまうのと、もともと製品が小さなモーターで非力なこと、また客貨車をけん引することもなさそうなので、カトーカプラーを接着剤で固定しています。また、車番も自分で調達しています。MODEMOのスハ32系用の数字が使いやすく、今回もインレタをクリアーデカールに貼り、それを切り出して貼っています。キハ07はヘッドライトの位置等が生産時期等によって異なり、それが外観上の特徴であるほか、ドアも後年プレスドアに換装されたりしています。
マイクロエースはこちらを発売。

こちらは樽見線4連仕様ということで、液体式変速機に改造され、総括制御に対応できるようになったキハ07-200番台となっています。総括制御ができなかった頃は、内燃車輛は先頭車の乗務員がブザーで二両目の乗務員に知らせて変速していました。もともと車体幅が狭いため、動力車は床下側がはみ出んばかりです。


実物の話に戻りますが、キハ07はさまざまな改造のタネ車としても知られています。ガスタービンエンジンを積んだキハ07-901は有名ですし、電気検測試験車のキヤ92もありました。この系列の乗車歴は鹿島鉄道で使われていたキハ602だけです。半円形の運転室を切妻化しておりますので、往時の面影をとどめておりませんでしたが、ロングシートの車内が長く感じられたものです。

さて、キハ07についてはRMライブラリーの比較的初期に「キハ07ものがたり」という号が発行され、最近一冊にまとめて復刻を行っています。こちらもこの形式が俯瞰できる好著です。模型でも書籍でも楽しめる形式なので、皆様にもお勧めする次第です。














 

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サステナ車輌って何ぞや

2022年05月16日 | 鉄道・鉄道模型
 西武鉄道を傘下におさめる西武ホールディングスが先ごろ発表した「西武グループ中期経営計画」の中で、固定費節減を目的として「サステナ車両の導入」を挙げたことが話題になっています。この「サステナ車両」は「無塗装車体でVVVFインバータ制御車両等の他社からの譲渡車両を当社独自の呼称として定義」しています。各事業者がステンレス車体でVVVF車を導入しているのは時代の趨勢で珍しくもないわけですが、まがりなりにも大手の西武が他社からの譲渡車両を活用するということで、ちょっとした話題になっています。ただ、長年の西武線ユーザーから見ますと、他社からの譲渡もあるだろうなというのが正直な印象でした。そもそも通勤車輛はこの20年程度でJR、民鉄問わずますます「標準化」が進んでおります。また、西武鉄道も経営環境が厳しい状態はずっと続いていて、魔改造でもなんでも自社工場で車輛をまかなっていた頃とは違い、新造車にコストをかけるよりは他社の車輌を活用しても、となるのは自然な流れでしょう。新宿線のような「本線」ですらダイヤ改正のたびに本数が減っていて、昔に比べたら不便になるばかりの現状を知っていれば、大きな驚きにはならないわけです。
 西武鉄道は小田急や京王、東急などの「ブランド力」とは少し外れていましたが、ユーザーとして魅力を感じていました。例えば冷房化率も関東の大手私鉄の中では早くから高い方でした。東横線が地下鉄乗り入れ車を除いてもまだ非冷房車がいたり、山手線に非冷房の103系が間に挟まれていた時であっても、新宿線や池袋線ではすでにほぼ100%の冷房化率を誇っていたことは、ユーザーとしてはちょっとした自慢でした。しかし時は流れ、設備のバリアフリーなどでは必要な取り組みが行われ、池袋線の複々線化なども実現したとはいえ、厳しい経営状況から他社の傘下に入るのでは、といった報道がなされたことも記憶に新しいところです。新宿線では連続立体交差事業なども進んでいますが、複々線化を「正式に」断念していますし、高田馬場駅のように構造上今更ホームを広げたくても広げられない中、夕方~夜などは身動きが取れないほどの混雑で、ホーム上に人が溢れないように改札からホーム階までのエスカレーターを止めてしまうことも行われています。だからといって増便が行われるわけでもありませんし、純粋に車輌を増備することも考えていない、ということであれば、現状の車輌置き換えに譲渡車が使われるというのも経営努力、となるでしょう。
 さて、その車輌ですが、銀色の車輌たちではない「黄色い」車輌が淘汰の対象になると言われています。また、新宿線特急に使われる10000系もいずれ置き換えられるでしょうか。登場からそれなりに期間が経っていますので、引退も時代の流れ、と今後は言われるのかもしれません。新宿線の特急もこれを機に「拝島ライナー」のようになるか、平日は40000系あたりが入り、特急車の運用は土日のみといった運用が行われるかもしれません。いきなりすべて置き換えるのは難しいでしょうから、少しずつ置き換えられるにしても、どこから、どの車輌が譲渡されるかなど、今後も話題が尽きないように思います。ちなみに「銀色の車輌」といっても東急8500と現在のステンレス車輛では、省エネ化率も格段に違うそうですから、車歴がそれほど長くない車輛の譲り受け、というのもポイントになりそうです。また、車輌のことばかり書きましたが、今後は駅業務の無人化なども俎上に上がっているようですから、これらの取り組みは西武が先鞭をつけて、将来他社にも波及するといったことが起きるかもしれませんね。
 

 

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欧州の空の旅 何度もお世話になっている翼を作る

2022年05月14日 | 飛行機・飛行機の模型
 前回のブログではエールフランスの客室乗務員のプレイモービルを紹介しましたが、そのエールフランスの機体を模型で再現したというのが今回のテーマです。年明けに747-400を紹介していますが、前後して作っていたものがありまして、1/144ドイツレベル・エアバスA320です。キットはさまざまな会社の機体で(主にドイツの航空会社ですが)キット化されています。また、ハセガワからピーチの機体としても発売されているので、比較的入手しやすいでしょう。
 エアバスA320(319,321などのシリーズを含めます)については、LCCの機体として日本でもおなじみですし、欧州内の移動で何度もお世話になっています。1990年代は737やDC-9/MD-80シリーズの機体が多かった欧州のハブ空港から各都市間の路線も、A320ファミリーに席巻されることになります。比較的距離が短い都市間の移動がメインのため、特別に快適というわけではありませんが、オーソドックスな作りの機体には多少の愛着もあり、これを模型で再現してみようということで、キットを買い、さらにデカールを買って、作ってみたわけです。
 このキット、胴体は客室の窓が開いた状態になっていますが、窓ガラスのパーツが入っていないので、エポキシパテなどで胴体の裏側から窓を埋めていく作業が必要となります。

 エポキシパテが胴体表面から少しはみ出るくらい埋めておき、乾燥したら耐水ペーパーで胴体を平滑に仕上げ、左右胴体を貼り合わせます。この時に操縦席の窓ガラスパーツも接着し、隙間や段差をならしておくとよいでしょう。
 他の方も指摘されていることなのですが、海外製のキットということもあり、国内メーカーのそれとはテイストも異なりますし、正直なところ合いもあまり良くありません。特に問題なのが主翼と胴体の合いの悪さで、主翼側に胴体を接着する際のガイドがついていますが正直なところ役に立ちません。この部分(説明書を赤丸で囲ったところ)は切り取り、胴体と主翼を接着したところは隙間や不連続な面になっていますので隙間を埋め、パテや瞬間接着剤で埋め、ペーパー掛けを繰り返して形にしました。その後、1000番のサーフェーサーを吹いて、1000番の耐水ペーパーで軽く水とぎしました。

 エールフランスの場合、塗装は胴体が白一色ですので、それほど苦にはなりません。主翼はMr.カラー315番(FS16440)と内側は73番エアクラフトグレーです。特にエアクラフトグレーの方はややざらつきが残るように吹き付けました。手元に実機の写真があるわけではありませんし、ディティールについては分からないところもあり、ネットに上がっている実機の写真や後述のデカールの塗装指示なども参考にしています。
 さて、デカールですが、一番乗っている回数が多いエールフランスの機体にすべく、フランスのF-DECAL(https://www.f-dcal.fr)というメーカーのエールフランスA320用のセットを取り寄せました。エールフランスは1974年にデザインを大きく変え、国旗と同じ赤・青・白をデザインに取り入れました。2009年にロゴなどはマイナーチェンジしていますが、私が注文したのは1974-2009年のデザインの方です。このメーカーですが、古今東西のさまざまな航空会社の機体のデカールを製品化しています。残念ながら日本国内に販路を持っていないため、ネットで直接注文して入手となりますが、スタッフに訪日経験のある方がいることもあってとても親切で、また迅速に対応いただきました。デカールを入手したのは5~6年前で、まだコロナ禍やウクライナの紛争以前でしたから、海外からの製品もスムーズに入っておりましたが、現状では大変なのではと案じております。
 窓を始めとしたディティールはA319,320,321共通のシルクスクリーン印刷のデカールで、それ以外の各会社のロゴや機体番号、記号等についてはレーザープリンターのデカールとなっています。シルクスクリーンのデカールはかなり薄いです。レーザープリンターデカールの強度やクリアーの上塗りへの耐性がよく分からなかったので、クリアーがけは軽くにとどめ、モデリングワックスなどできれいに磨きました。こうして完成です。

反対側です。

今回はこんなグッズを飛行機と一緒に並べてみました。

左はエールフランス公式のラゲージタグ。現行のロゴになっています。右はキーホルダーで、成田空港内の売店で買ったのではないかと思います。世界各国の航空会社の垂直尾翼のマークや塗装をあしらったものが販売されていて、航空をテーマにした博物館や航空グッズに強い書店などでも目にします。キーホルダーだけでも機内持ち込みの手荷物につけておくと心証が違う(?)ようで、空港のスタッフも「この人エールフランスのファンなのかな」という顔をしている時があります。
 いささか使い古された言葉ではありますが、ファッションの国フランスは航空会社もデザインがお洒落、と子供の頃言われていた記憶があります。白を基調としたシンプルなデザインは美しく、機内も青や赤を使ったデザインです。737-200も「乗った機体」として以前作りました。A320についてはヴェネツィア-パリ間のフライトで何度もお世話になっていますが、離陸した後、名残惜しそうにヴェネツィアの街を見下ろしながら上昇していると「あんなに小さな街を自分は何日間も駆けずり回っていたのか」と思いますし、偶然にもミラノ郊外のモンツァサーキットが上空から見えたこともありました。アルプスを越えるときはいつも機体が少し震えますし、以前も書きましたがパリに向けて高度を下げているときに、ユーロスターが眼下に見えたこともありました。A320シリーズは「NEO」といった機体も登場し、次回乗るときはそれかもしれません。
 さて、ドイツレベルのA320ファミリー、他の「乗った機体」も数社ございます。形にするのが大変なのですぐに、とは申し上げにくいのですが、またお目にかけたいと思います。また、エールフランスの機体についても作りたいものがありますので、またこのブログでご紹介したいと思います。



 
 
 




 
 

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