工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

ガチャガチャの戦車でも・・・

2021年05月29日 | 1/150の周辺に
 タカラトミーアーツから「陸上模型 戦車コレクション」という1/150のミニチュア戦車が発売されています。このサイズの戦車や車輛については「ワールドタンクミュージアム」以降、一つのジャンルを確立している感があり、1/35の戦車を作る時間と意欲はなかなかないけど、手軽に戦車を楽しみたい私もハマった一人です。女の子が戦車に乗るアニメのおかげなのか「えっ、こんなものまで」という車種も1/144、1/150で製品化されております。
 さて、製品の話になりますが、ドイツのタイガーⅠ、ソ連のT-34、米国のM-4シャーマン、旧日本軍の97式、89式中戦車などが製品化されており、安価なこともあって買ってみました。
 日本の97式ですが、写真で見るとおり、彩色がだいぶ違うように感じます。特に茶色の赤みが強いように見えます。また、タイガー戦車やT-34では大きな転輪のおかげで気になりませんが、97式やM-4では車体下回りが立体感に乏しく、他社の精密な製品と比べるとやはり厳しいところです。

 せめて塗装だけは実感的にと、97式についてはMr.カラーの旧日本軍の戦車色で塗りなおしてみました。幸いプラモデル用の塗料をはじいたりはしませんので、ストレスなく塗りなおすことができました。なお、日本軍の戦車の迷彩塗装では独特の黄色い帯が有名ですが、私はGM鉄道カラーの黄色5号(総武線の黄色い車体色です)を使っています。和からしのような色、というのを何かで読んだことがあり、この色にしました。レモンイエローやクロームイエローとは違う色です。

 あとはジオラマに組み込んで足回りのあたりを茂みで隠してみよう、というのがこれらの写真です。

 完全には隠れていませんね。地面はタミヤの情景テクスチャーペイントを塗った後で、ミニネイチャー製の草を「置いて」います。マイクロギャラリー製の人形を組み合わせています。地面や草の色からして内地で演習しているような感じですね。
 もっとも、鉄道模型のモデラーであれば、長物車チキを調達して戦車を積載するという遊び方もできます。貨車に乗せて走らせてしまえばあまり気にならないのではと思います。
 M-4シャーマンについては長砲身であることと、かろうじて判別できる足回りなどから戦後自衛隊で使用された「イージーエイト」と呼ばれるタイプに見えます。そんなわけで陸自仕様に塗り替えました。やや青みが強いオリーブドラブが初期の自衛隊戦車(この場合には「特車」でしょうね)のカラーリングの特徴です。
 こちらも同じようにジオラマ仕立てにしました。

こちらは一転して夏草が生い茂る東北か北海道あたりの演習場のようです。
 これらのジオラマベースですが、人形、戦車は固定していませんので、同じベースを使って他のスケールの人形などを置いても面白そうです。
 
 今回のおまけです。

いずれも「ワールドタンクミュージアムキット」から塗り替えています。本ブログの読者の方々なら、元ネタはお判りでしょう。


こちらはレジンキットを組んだM7プリースト。陸上自衛隊で運用されたことはありませんので念のため。
陸上自衛隊の車輌はこのスケールで数多く発売されましたが、初期のM24、M41などはレジンキットや3Dプリンターのキットが出ているにとどまっています。軽戦車然として鉄道輸送もされていたM24や、テレビシリーズ「コンバット」に敵味方関係なくあちこちの役で出演したほか、そのスマートな車体が戦車然としており私も好きなM41についても食玩で出ないかなあとひそかに願っております。


 


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おかえりなさい、モナコGP

2021年05月26日 | 自動車、モータースポーツ
 日曜日に、2年ぶりにF1モナコGPが開催されました。昨年は新型コロナの影響で中止となりましたが、今年はいつもより少ないながらも、お客さんを入れた状態での開催となりました。
 モナコGPはF1世界選手権が始まるもっと前の1929(昭和4)年に第一回が開催されています。この時代ですと、大河ドラマの主人公・渋沢栄一やちょっと前の大河の主人公だった新島八重もまだ存命だった頃です。戦争での中断だけでなく、戦後もスポーツカーレースで開催されたり、1950年にF1が始まってからも事情があって開催されない年もありましたが、この数十年は毎年カレンダーに入っていましたし、その昔は日本GPとともに速報誌の売り上げも多いなどとも言われており、それだけ注目され、F1を代表するグランプリであります。
 歴史の話を始めてしまうとそれこそ一冊本が書けてしまうので、今年のモナコに話を戻しましょう。
 既に報道されているのでご存じかとは思いますが、レッドブル・ホンダのフェルスタッペンが優勝。ホンダに1992(平成4)年以来の勝利をもたらしました。1992年のモナコについては、昨年こちらのブログでも紹介しましたが、セナ対マンセルの終盤のバトルがつとに有名で、ご記憶の方もいらっしゃるでしょう。
 土曜日の予選ではフェラーリの若きエースにして、地元(!)モナコ出身のルクレールがポールポジションを奪いましたが、トップタイムを出した後でクラッシュでマシンの一部を破損というアクシデントがありました。特に「打ちどころ」が悪いギアボックスを交換することでグリッド降格からスタートするという可能性もありましたが、チームは交換を行わず出走を決定しました。抜きにくいモナコで、地元・ルクレールのポールトゥウインという「ギャンブル」に出たのかどうかは分かりませんが、決勝のグリッドにたどりつく前にドライブシャフトを破損して決勝レースをスタートできないという前代未聞の結末が待っていました。ドライブシャフトの破損も予選のクラッシュが原因だったようで、ギアボックス交換をしていればドライブシャフトの不具合にも気づくことができたのでは、という声もあり、フェラーリはどうもここのところチームの決断、戦略というところで果たしてうまくいっているのかなと思います。また、別に私がフェラーリファンだからという訳ではなく、各チームにも影響することなので申し上げたいのですが、こういうトラブルなどは誰にも起こりうるし、事前に予想できませんので、スペアカー(Tカー)持ち込みを各チーム1台ずつ認めるといったことも必要ではないかと思うのですが・・・。準備に準備を重ねた後でスタートできないというのは、気の毒すぎる話ではあります。
 せっかく同郷の大先輩、ルイ・シロン(50歳を超えてからの入賞記録があり、いまだにF1の最年長入賞記録を持っております)をトリビュートした特別なデザインのヘルメットを被ってのレースになるところが、スタートすら切れずということで、本人の悔しさも想像しきれないところではあります。こういう時にグランプリドライバーはどうやって気持ちを切り替えているのでしょうか。
 トラブルに泣いたと言えばメルセデスのボッタスも珍しいトラブルに泣きました。タイヤ交換でホイールの一つが外れなくなってしまい、どうにも交換できず、泣く泣くマシンを降りました。いわゆる「ねじ山を噛んだ」状態になってしまったそうですが、レース後にフェラーリが手を貸しても外れず、結局ファクトリーに戻してから外す、ということになったと外電が伝えています。なかなか外れないという場面は何度か見ていますが、どうにも外れなくなってリタイヤ、というのはF1では見たことがなかったように思います。「ドレメル(精密加工に使われるモーターツール。高速回転する軸の先に円盤などをつけて切削に使う)持ってきて削るしかないか」と、チーム代表のトト・ヴォルフが嘆いたと伝えられています。余談ですがドレメルというと鉄道模型の金属工作などで裕福なモデラーが持っているイメージで、モナコGPの後のインタビューで出てくるとは思いもよりませんでした。
 メルセデスはエース、ハミルトンが精彩を欠いて7位と、こちらも珍しい展開となりました。さんざんな週末で、レースが終わってみればランキングでもフェルスタッペン、レッドブル・ホンダにランキング首位を明け渡しています。とは言ってもシーズンもまだ序盤ですから、これからドラマがたくさん待っていることでしょう。
 今回は2位にフェラーリのサインツが入り、チームメイトの分も頑張りました。3位にマクラーレン・メルセデスのノリスが入り、フェルスタッペンを入れると平均年齢23歳ちょっとの若々しい表彰台となりました。マクラーレンは今回、チームスポンサーのガルフ・オイルをイメージした1970年代を思わせる水色とオレンジのカラーで登場しました。このカラーリングは映画「栄光のル・マン」のポルシェなどでおなじみの色で、野球などでもよくある「復刻ユニフォーム」みたいなものですが、この効果があったようです。ちなみに1970年前後のマクラーレンですが、F1ではガルフカラーではなく、オレンジ一色ということが多かったようです。なお、日曜日は4位にレッドブル・ホンダのペレスが入り、きっちりポイントを持ち帰りましたし、アストンマーチンのベッテルもスリリングな走りを随所に見せて入賞しています。
 モナコGPというと、かつてはセナが五連覇を含む6勝を挙げたり、パニスが初優勝、クルサード2位、ハーバート3位という「バイプレーヤー」たちがスポットライトを浴びた1996年も印象深いです。長く開催されていることでいくつものドラマ、エピソードが生まれたグランプリではありますが、今回はアルベール大公も含め、全員がマスク姿で表彰式に臨んでおり、いつの日かそれも「あのコロナの時代の」歴史のひとこまとして語られることでしょう。
 


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軍旗は引き継がれる

2021年05月17日 | 自動車、モータースポーツ
 5月というのは著名なグランプリ・ドライバーがサーキットで事故死しており、アイルトン・セナ(1994年5月1日)、ジル・ヴィルヌーブ(1982年5月8日)が亡くなっているため、節目の年には追悼行事が開かれるなど、こうした事故のことを思い返し、サーキットやレースの安全対策に終わりがないことを再認識するような月となっています。
 日本でフジテレビの全戦中継が始まったのは1987年ですが、その前年、1986年5月15日にテスト中の事故でF1ドライバーが亡くなっています。
 彼の名はエリオ・デ・エンジェリスといい、イタリア・ローマ出身で貴族の末裔と言われています。1979年にシャドウでデビュー、以来、ロータスに長く在籍したほか、ブラバムにも在籍し、1984年シーズンにはマクラーレンの2台に差をつけられてはいますが、ロータスでランキング3位になっています。1958年生まれですので、ピケ(1952年生まれ)、プロスト(1955年生まれ)より年下でセナ(1960年生まれ)より少し年上という世代にあたります。

(デ・アンジェリス最後のマシンとなったブラバムBT55 ミニチャンプス1/43)
 貴族の血を引き、ハンサムな風貌にピアノが特技ということで、古き良き時代のドライバーを思わせるところがありました。ピアノに関してはこんなエピソードもあります。1980年代初頭、F1の運営・興行をめぐってFOCA(F1製造者協会・イギリス系のコンストラクター=製造者が中心)とFISA(国際自動車スポーツ連盟・ヨーロッパ大陸系のチームが支持)が対立、一部のレースをFOCA系がボイコットしたり、独自にグランプリを開催を企図するなど、いまから見ると不毛な争いにも見えるような出来事がありました。1982年南アフリカGPでドライバーへのスーパーライセンス発給を巡ってFISAとドライバー達が対立、ホテルにこもってやれストライキだといきり立っている中で、そこにあったピアノを演奏してその場の空気を和ませ、みんなを諫めたのがデ・アンジェリスだったと伝えられています。
 黒と金のJPSカラーのロータスが似合うデ・アンジェリスでしたが、チーム内で台頭してきた若きセナに押し出されるように1986年にブラバムに移籍、チームメイトは同じイタリア人のパトレーゼでした。このシーズンのマシンは低い車体が特徴のBT55で、ブラバムで野心的なマシンづくりをしていたゴードン・マレーがデザインしていました。5月14日にフランス・ポールリカールサーキットでのテスト中に事故が発生、テスト中だったこともありサーキットに救助活動ができるスタッフも少なく、救助が遅れた上にマシンから火災が発生、救助活動が難航した上に救急搬送にも遅れが生じ、翌15日に亡くなっています。これがもしレース中だったら、救助、消火活動ができるコースマーシャルが十分に配置されていたら、と思うと言葉がありません。28歳の若さであり、グランプリ通算2勝でしたが、もっと勝つことができたのではないかと思わせる資質を持っており、早すぎる死でした。

(F1倶楽部 第10号 特集「レーサーの死」より。デ・アンジェリスの事故の模様についてはベテランジャーナリスト、ダグ・ナイ氏が解説しています)
現在ではテストはシーズン前に数日行われる程度しか認められておりませんが、かつてはシーズン中に頻繫にテストが行われ、ホンダも鈴鹿サーキットを使って国内のドライバーなどの手でF1エンジンのテストをしています。中嶋悟もF1デビュー前はウィリアムズ・ホンダのマシンを鈴鹿で走らせ、エンジンのテストをしていたのもこの頃です。
 私がデ・アンジェリスの名を意識したのは1991年か92年のシーズンで、その頃フジテレビのF1中継では放送作家の高桐唯詩氏の文章に乗せ、オープニングにそのグランプリにゆかりのある元ドライバーらを紹介していました。その中で前述のピアノのエピソードとともに、デ・アンジェリスのことが城達也氏のナレーションで語られていました。
 さて、デ・アンジェリスの物語はここで終わったわけではありません。あるドライバーが彼の遺志を受け継ぐように、自らのヘルメットにデ・アンジェリスのヘルメットのデザインを取り入れました。そのドライバーはジャン・アレジで、アレジはジル・ヴィルヌーブのファンでもありましたが、デ・アンジェリスにも敬意を抱いており、本人へのインタビュー記事によれば「戦士は倒れても軍旗は引き継がれる」という言葉とともに、デ・アンジェリスのヘルメットのデザインであるサイドの紺と赤の帯を配したヘルメットを被っているということでした。頭頂部の青はアレジ本人のオリジナルですが、ヘルメットの地色がクロームメッキのような仕上げになったときも青と赤の帯は変えずにいました。

(デ・アンジェリスのヘルメットのデザインは紺と赤を配したシンプルなもの。80年代のドライバーの多くがこうしたシンプルなデザインでした)

(1989年日本GPプログラムより。当時は「アレージ」と紹介されていた。ページ中央のヘルメットのデザインに注目)

(1994年オーストラリアGPプログラムより)
 アレジの子息、ジュリアーノ・アレジが日本でもレースに参戦しており、日曜に行われたスーパーフォーミュラのレースで雨による途中終了ではありましたが、見事に優勝を遂げています。そのジュリアーノ・アレジのヘルメットのデザインもまた、父と、そしてデ・アンジェリスと同じく、青と赤の帯を配したものとなっています。軍旗は、引き継がれているようです。

 

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モノものがたり スイスの鉄道時計

2021年05月10日 | モノものがたり
 私のような趣味人というのは多分にコレクター気質もございまして、長く趣味を続けてまいりますと、さまざまなものが手元に集まってまいります。
 そんな私の周りにあるものから、趣味に因んだ珍しいものやおもしろいものをご紹介するのが「モノものがたり」です。
 今回ご紹介するのはこちら、スイスの鉄道時計です。

 スイスの鉄道時計は写真のとおりそのシンプルかつ見やすいデザインが有名で、掛け時計だけでなく、腕時計なども発売され、日本でも入手が可能です。
 もともとは1944(昭和19)年にスイス国鉄のエンジニアがデザインしたもの(時計を製造・販売しているモンディーン社のサイトより)だそうです。私がこのデザインの時計を知ったのは1990年代の初めだったかと思います。来日したオリエント急行の長身の車掌・ダニエル・グフェラー氏が普段はスイス国鉄で乗務しているといったことから知ったのかもしれません。
 大人になり、実家を出てから今の寓居に住まうことになり、掛け時計を選ぶことにしましたが、あるお店でスイスの鉄道時計が置いてあり、値段は少々張ったのですが、即決で買いました。
 ちなみにスイスの鉄道時計と言いますと、詳しい方は「一周した秒針が一時停止して分針が新しい分を刻むのと同時に動き出す」という「Stop To Go」という仕組みをご存じの方もいらっしゃるでしょう。しかし、我が家の時計はドイツ製のクォーツを使用しており、「Stop To Go」の機構は入っておりません。
 それはさておき、我が家の柱時計として長年時を刻むことになりました。見やすく、飽きの来ないデザインですし、何より鉄道好きの家にぴったりなわけです。その間、震度5クラスの地震にも数回見舞われましたが、それでも止まることなく動き続けていました。
 しかし、この数年はいきなり遅れたり、止まったり、ということが増えてまいりまして、家人から「リビングの時計が正確でないのは困ります。遅れたりしない電波時計にしてください」と強く言われまして、とうとう買い替えることになりました。電波時計については下手をするとオフィスや出先などでいつも見上げたりしているものと同じデザインになり、どうも気に入りません。やはりデザイン的に個性があった方がいいなと探しまして、安くて視認性がよくて、デザインもそれなりに主張しているものを買いました。
 そんなわけでこの柱時計、とうとうリタイヤとなった、はずなのですが、柱にかけると止まるくせに、平たいところに置くと何食わぬ顔で(もともと表情はありませんが)動きます。こうして今日も、物置代わりの部屋の隅で、コチコチという音が・・・あれは、もしかして・・・。

 さて、スイスの鉄道時計、買ったのはこれが初めてというわけではありませんでした。1992(平成4)年2月に私は卒業旅行でヨーロッパを訪れています。二週間余りで6か国プラス複数の小さな国を訪れるという、いかにも学生の卒業旅行なのですが、旅の後半にスイスを訪れました。ジュネーブ駅構内に売店が並ぶ一角があり、そのなかに鉄道時計を扱うお店がありました。ジュネーブからはTGVでフランスに行くだけ、となりましたがスイス国内であまりお金を使わなかったこともあり、スイスフランがだいぶ残っておりました。ということで日本円で1万円程度でしたが、懐中時計を買いました。

この懐中時計、専用のプラスチックケースに入っておりました。

帰国後、実家の私の机の上で、しばらくの間動き続けておりました。こちらも「Stop To Go」の機構はありません。

 スイスの鉄道については、山国で電化が進んだこと、また国鉄の技術陣が戦後、軽量客車を設計する際にスイスの客車を参考にしたことなどもあり、どこか親近感を覚える車輌が多いように感じます。TEEのゴッタルドにRIC客車、落ち着いたデザインの電気機関車など、さらには飛び跳ねるニワトリやチーズが描かれたラッピング機関車など、我が家にも模型がずいぶんと集まりました。そういえば、私の好きな西武のE51、鉄道省のED54もスイス製でしたね。

 さて「モノものがたり」、いかがでしたか。鉄道ネタに限らず、これからも不定期的にこんな話をさせていただけたらと思います。

 

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親子がつづる、めくるめくスピードの世界

2021年05月06日 | 日記
 前回の「ワーゲン占い」、早速本ブログの読者(昭和41年生まれ・男性)から「赤いワーゲンは恋愛運だけど消防なら火難の相かも」といったメールをいただきました。子供の日にしばし童心に還った元・男の子たちもいらっしゃったようですね。
 今回はこのコロナの時代を生きている子供が出てくる本の話です。
 昨年の暮れ、三栄から「ピット・イン」(いしいしんじ著、いしいひとひ絵)というエッセイ集が出版されました。雑誌「AUTOSPORTS」に連載されているエッセイをまとめたもので、著者のいしいしんじ氏の文章に小学生の息子の「ひとひ君」のイラストが載せられており、私も雑誌掲載時に読んだことがあったので、ちょっと関心があり、今年に入ってからですが買ってみました。
 毎回、著者と息子の間で交わされる会話を軸に、直近のレースのこと、レースと同じくらい好きな馬のこと、日常のことなどがつづられています。「ひとひ君」は乗り物好き、とりわけ自動車と自動車レースが好きな男の子で、これは洋の東西を問わないでしょう。ただ、CS放送でF1をながら見している私と違って、F1も、WRC(世界ラリー選手権)も、日本のスーパーフォーミュラもスーパーGTも同じくらいの愛情と熱量を持って見ている様子が伝わってきます。彼はこう言います「レースは、いいとか、わるいとか、ないねん。レースは、ぜんぶ、すばらしいん」と。子供時代に自分の周囲が自分の好きなもので満たされていて、それを中心に日々が回っていくということは、その「もの」の多寡や質の高低と関係なく経験された方もいらっしゃるのではないかと思います。いずれ、社会とか、理不尽な仕事とか、ローンだとか、年金だとか難しい大人の世界を経験するわけで、それと関係なく生きられる時間というのは幸せなことであります。
 「ひとひ君」は熱量と愛情を持って見ているから、レースへの観察眼は大人顔負けです。子供らしい願望や感想を漏らすこともあるし、「フェルスタッペンくん」を応援しつつも「現在」の無敵ドライバー、ルイス・ハミルトンに対しては「かなん(かなわん)なあ、かなん、かなんで!」と感嘆し、セナの古い映像(黒いロータス・ルノー時代)を観れば「やっぱり最初からすごいんやなあ、こんなんでマクラーレン行ってホンダのエンジンやったらみんなかなんなあ」、「みんながクラッシュしたときはやっぱしプロストが行くんやなあ」と感想を言うあたり、本当によくわかっています。
 だから大人たちも彼を子供扱いせず、レースと車が好きな者同士として対しています。「日本一速い男」星野一義監督が「ひとひ君」にかけた激励の言葉、これは本書を読んでいただいてのお楽しみですが、いかにもこの人らしいなと思いました。
 将来は「ニューウェイさん」(多くのチャンピオンマシンを生み出したデザイナー、エイドリアン・ニューウェイ)のようになりたい、という「ひとひ君」ですが、その夢がかなうのか、それとも他の道を進むのかは分かりません。成長していけばほかに興味を持つ対象も出てくるかもしれません。でも、レースや自動車が人一倍好きな、日本や世界にたくさんいる「ひとひ君」たちは、大きくなってもサーキットに足を運び続けたり、一度遠のいても戻ってくるのではないかと思います。もちろん、自動車だけでなく、鉄道だったり、飛行機だったり、これは他の対象とて同じで、子供の頃に誰より深く愛情を注いだものというのはなかなか忘れないものです。もし子供時代に好きだったことを仕事に選ぶとしたら、それが直接的でなく、間接的に関係する仕事であっても当人にとっては幸せなことだ、仕事で知り合ったあるキャリアカウンセラーさんから聞いたことがあります。もちろん、職業として選ばなくても、自分の楽しみとしてずっとつき合い続けることもできましょう。でなければ40年以上も鉄道模型とつきあいつづけ、深夜のリビングで買ってきたC62を走らせたり、何編成目かの583系をお店に予約したりしないでしょう?
 本書に戻りますが、著者のいしいしんじ氏自身の観察眼やレースへの感想は非常に深く、それも本書の魅力であります。ニキ・ラウダが健在だったころのメルセデスのピットガレージの様子を指し、代表のトト・ヴォルフとラウダがいるピットはSF映画の宇宙船の指令室のよう、と形容するくだりには私も強く同感しましたし、中嶋悟、一貴父子の走りに共通するものを「ずっと観ていたくなる走り」、「勝ち負けより、なにか起こりそうなドラマティックなドライビング」と述べているあたりは、私(もしかしたらF1やモータースポーツに無縁だった多くの日本人が)がなぜ中嶋悟に感情移入したのか、腑に落ちた感がありました。
 巻末に書き下ろしの短編小説「ブルドッグのアイルトン」も収められています。セナの命日のこの季節に改めて読み返しておりますが、こちらもお勧めです。
  

 

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