工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

マクラーレンMP4/8と1993年のF1シーズン

2020年01月30日 | 自動車、モータースポーツ
 本ブログでもときどき紹介しておりますが、三栄のGPCarStoryのシリーズにマクラーレンMP4/8が加わりました。昨年末に刊行されましたので、ご覧になった方も多いかと思います。ちなみに先日ご紹介した熱田護さんの写真展でも大雨のブラジルGPで疾走するマシンの写真が展示されていました。  
 F1の名門、マクラーレンチームは相思相愛とも言えるホンダとの関係が92年シーズンをもってホンダの撤退という形でピリオドを迎え、93年シーズンをフォードのV8エンジンと共に戦うことになりました。  
 マクラーレンのマシンというと、車体の進化が非常に保守的で、ライバルチームと比べて大胆な空力的な処理を施したりといったことがなく、ホンダパワーとドライバーの腕でマイナス面を補っているような印象がありましたが、93年のマシンは(あくまで私個人の感想ですが)マクラーレンにしてはあか抜けたというか、ホンダの12気筒エンジンのスペースを考える必要が無くなったからか、コンパクトにまとまっている印象でした。また、他のチームに倣い、アクティブサスペンションなど、ハイテクも投入したマシンとなっていました。本書では技術的な話について、デザイナー、エンジニアのインタビューを通して知ることができ、ウィリアムズ・ルノーの後塵を拝したとはいえ、きちんと「勝てるマシンに」なっていたのだなと思いました。  
 このマシンについてはイギリス・ドニントンで開催されたヨーロッパGPでのセナの見事な勝利がいまだに語り草になっているのをはじめ、セナはシーズン5勝を挙げています。私につられてF1をテレビで観るようになった家族も、ドニントンのレースについては「あれがセナのベスト」と言っています。雨がらみになったブラジル、ドニントンだけでなく、ライバルたちがセナの「見えない影」にプレッシャーを受けて自滅していったモナコ、そして終盤の鈴鹿、アデレードの連勝と、印象深いレースが多いです。おととし亡くなったニキ・ラウダもドニントンのセナの勝利を「レース史に残る」と称えたそうです。本書でも先日亡くなった今宮純さんがドニントンの週末のレポートを寄稿されています。これによるとオープニングラップでライバルをごぼう抜きにした「奇跡の1周」についてもフォーメーションラップから周到に準備されたものであったことが分かります。セナは天才と言われますが、勝つために何をすべきか、何をしなくてはいけないかが分かっていた天才なのです。現在のようにスパコンが最適な戦略を考えてくれるレースでは、あんなことはできないでしょう。
 そしてセナのチームメイトのこともインタビューも含めて本書では触れられています。当初、セナは勝てるマシンかどうか分からない、とばかりに1年の休養もしくはアメリカのインディカー(CART)転向をちらつかせていました。セナのチームメイトにはそのCARTのチャンピオン、マイケル・アンドレッティが加入しました。また、セナが乗らなければミカ・ハッキネンがドライブすることになっておりましたが、セナは結局乗り続けることになりましたので、ハッキネンはしばらく「お預け」を食らうことになります。アンドレッティですが、お父さんのマリオはF1で長く活躍、王座にもついています。
 子供のマイケルの方はというと、猪突猛進が仇となり、接触、クラッシュなどが続き、イタリアGPを最後に契約を解除、アンドレッティの後任にハッキネンが座ることになります。ハッキネンは本人にとってのシーズン初戦となったポルトガルでいきなりセナの予選タイムを上回るなどの活躍を見せます。シーズン終盤のマシンのアップデートがうまくいったということもあるようなのですが、今まで走れなかったうっぷんを晴らすかのようでした。  ちなみにF2/F3000からの「進級」ではありましたが、中嶋悟もルーキーとしてのF1デビューシーズンはセナと組んでいました。中嶋はとにかく(時には消極的と思われてしまうくらい)堅実にチェッカーを目指し、結果もついてきたのですが、アンドレッティは大きな期待とは裏腹にステディさを欠き、成績が振るいませんでした。大きな期待を受けた人が実際には振るわなかったり、環境になじめず、ますます孤立してしまうというのはどんな世界でもあることなのですが、することがすべて悪い方に進んでしまった感もあります。彼は父の生まれ故郷イタリアで表彰台に乗ったのを最後に、F1から去ったのでした。もし、セナとハッキネンが一年間チームメイトとして走っていたら、もし、アンドレッティがシーズン序盤はF1に「慣れる」ためにもう少しステディに走っていたらと、このマシンについてはいろいろifを考えてしまいます。
 
 そしてこのシーズンについてはテレビ中継を放送したフジテレビにとってもなかなか大変だったのではないかと思いました。前年から絶好調のウィリアムズ・ルノーと日本ではとかく敵役としてとらえられていたのプロストの独走の可能性が高く、セナも走らないかもしれない、となったら後はどうやって放送を盛り上げるのかということで、シーズン当初は当時の若手ドライバーにスポットを当てていました。シューマッハ、アレジ、片山右京、フィッティパルディ、アンドレッティ、ヒルら、若手やルーキーを取り上げてCMを流したりしていました。ところが、ふたを開けてみればシーズン序盤はフランスの教授とブラジルの天才の激突という(これまでと同じような)構図となったわけで、どことなく「軌道修正」したようににも思えました。このシーズン、プロストはヨーロッパラウンドのラストとなったポルトガルでタイトルを決めましたが、ヨーロッパでの各レースを「追っかけ」していたファンのためにも日本、豪州ラウンドの前にタイトルを決めたかった、と伝えられています。このエピソードをフジテレビの「ポールポジション」だったか日本GP前のスペシャル番組だったかで、フジテレビの中村江里子アナウンサーが正直な感想として「プロストっていい人ですねえ」とコメントしたところ、スタジオの古館、今宮両氏が下を向いて苦笑していたのを今でも覚えています。

 さて、このマシンと93年シーズンの話に戻りますが、序盤こそ互角に戦えたマクラーレンとセナも、夏に向かうにつれ次第に差をつけられていくようになりました。この時代のグランプリではイモラ(サンマリノ)、カタロニア(スペイン)、マニクール(フランス)、シルバーストーン(イギリス)で強いドライバーとチームがシーズンを優位に戦っている印象がありましたが、このシーズンもウィリアムズ・ルノーとプロストがこれらのサーキットで優勝しています。また、プロストのチームメイト、デイモン・ヒルも実質的なデビューイヤーではありましたが、初優勝まで少し足踏みしたのちに3連勝を挙げ、チームのタイトル獲得に貢献しています。初優勝まで足踏みした後で連勝、というのは去年のルクレールもそうでしたね。ヒルに関しては日本のジャーナリストの中にはお父さんのグラハム・ヒル(主に1960年代から70年代半ばにかけてロータス等で活躍しF1は二度の王者。モナコGP、インディ500、ル・マン24時間の全てで優勝)のファンだった、という人も多く、親戚のようにデイモンのレースを見守っていた方もいたようです。欧州でもお父さんの活躍した頃から知っているというファンも多いでしょうから、アンドレッティと同様に二世ドライバーの重圧と戦っていたのかもしれません。
 この年はルノーエンジンの「一強」というイメージがあり、同じルノーを積むフランス系のリジェチームも表彰台に届くレースを見せています。他のコンストラクター、エンジンについてですが、フェラーリは3年未勝利というどん底でしたし、フォードも非力を否めず、ということでマクラーレンは1994年に向けてランボルギーニをテストしたり、いろいろな動きをみせましたが、結果的にプジョーのエンジンを積むことになります。本書でもこのあたりのいきさつが関係者の証言等で紹介されています。これは失敗に終わり、1シーズンでメルセデスにスイッチします。マクラーレンが低迷から脱したのは1997年以降のことになります。最近もマクラーレンは苦戦が続いていましたが、過去にもこういうことはあったのです。


 
 写真右は93年日本GPのプログラム。「SUZUKA」の文字はセナの筆によるものだそうです。この年の日本GPは、私の勤め先の同期のF1好き(セナファンでした)が観に行っており、とてもうらやましく感じました。私は抽選(当時は指定席が抽選だったのです)に申し込んだもののすべてハズレております。

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熱田護さんの写真展へ行ってきました

2020年01月21日 | 自動車、モータースポーツ
 F1の取材を中心に活躍されているカメラマン、熱田 護さんの写真展「500GP フォーミュラ1の記憶」が品川のキヤノンギャラリーで開催されており、先日観てきました。熱田さんは1991年からF1の取材を本格的に開始され、昨シーズンで取材も500戦目を迎えられたということで、長くサーキットで撮影を続けてきた中から選りすぐった写真が大きくプリントされて展示されています。ポスター並みのサイズもありますので、迫力もあります。
 この30年というのがセナ、シューマッハ、ハッキネン、アロンソ、ライコネン、ハミルトン、ベッテルといったチャンピオン達によって彩られた時代であり、人気のある彼らの写真や佐藤琢磨ら日本人ドライバーの写真も多く展示されていますが、サーキットの一部とマシンを切り取った躍動感溢れる写真、マシンの一部分をとらえた芸術的なショット、光が差し込むサーキットとマシン、コースを見つめる観客など、美しい作品ばかりです。モータースポーツは被写体として機械や人間だけでなく、ロケーションも自然(豊かな自然の中に位置するサーキットもありますからね)、都会(市街地コースも近年増加しています)、時間帯も朝から夜までと多岐に及びますし、みぞれから真夏の青空と気象条件も様々です。そういう意味ではこれだけ変化に富み、さまざまな組み合わせができるものは珍しいかもしれませんし、カメラマンの腕の見せ所でもありましょう。
 個人的には余計な空力付加物のない90年代初頭のマシンが好きなのですが、最近のマシンも写真であらためて見ると速く走るためにデザイナー、エンジニアの思いが込められているなあと気づかされます。また、サーキットの景色も90年代と現在では随分変わったなと気づかされます。
 私が訪れたときにも行われていましたが、撮影者ご本人によるギャラリートークが開催される日があります。この日は予定の時間をオーバーして皆さん熱心に質問されていました。技法的な話から、ドライバーの印象や撮影の思い出などのお話があり、有意義な時間を過ごすことができました。今回は比較的混みあう時間帯での訪問でしたが、会期中にもう一度訪れて、一点一点の写真とまた向き合いたいなあと思うのでした。

 写真は会場入り口のもの。セナについてはひとつのコーナーを割いて展示があります。セナの写真を感慨深く見つめる方も見受けられ、印象的でした。

 
 さて、この30年というのはカメラにとってもフィルムからデジタルという大きな流れの変化がありました。プロの方と比較などとてもできませんが、私も30年前はキヤノンT-70というカメラを使っていました。樹脂製ボディが特徴でしたが、意外にタフで使いやすく、こちらの思いに応えてくれるカメラで、15年くらい私のメインの機材でした。その後、AF一眼のEOS7を経て、遅ればせながらデジタル一眼デビューを果たし、5年ほど前からEOSkiss x7iを使っております。本ブログの写真の多くもこのカメラで撮っております(なお、今回の写真展の入り口写真はスマホで撮りました)。EOSkissはお母さんが子供の写真を撮るカメラと思っていらっしゃる向きもありましょうが、何より軽いのが魅力でして、自分の腕を考えると大きく、重いカメラでもないだろうということで使っています、などと書いておりましたが写真展の会場の上階にはキヤノンプラザがあり、製品に触れながらやっぱりこれもいいな、あれもいいな、などと腕も伴わないのに思うのでありました。

 

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ROCO社のTEE食堂車に人形を入れてみた

2020年01月13日 | 鉄道・鉄道模型
 昨年のブログでも写真を掲載していますが、HOゲージ、ROCO社のイタリア型TEE客車の食堂車に人形を乗せてみました。工作をしたのは昨年の暮れになりますが、ご覧ください。
 同製品は貫通幌を外して屋根を外せる構造になっています。車体と床板が分離する方が加工しやすいのですが、止むをえないところです。

 食堂車ということで、料理も用意しなくてはいけません。食堂車の料理セットは国内メーカーからも出ていますが、イタリア型の車輛ということで、パスタなどが欲しいところです。まずはお皿から作りましょう。余ったケント紙に3ミリ径の穴をポンチで開けます。

 ここで打ち抜いた円盤がお皿になります。貼ってはがせる程度の強さの両面テープにお皿のパーツを貼り、白で塗装します。乾燥したら、エポキシパテで皿の上の料理を盛っていきます。

 とても小さいものですので、爪楊枝など、加工しやすい方法で形を作り、皿の上盛ります。少し盛り上げればパスタに、平たくすれば肉料理になります。エポキシパテそのものに粘度がありますので、接着しなくてもお皿に固定されます。
 一晩乾かしたら色を塗って料理を仕上げていきます。

 パスタなら先にクリーム色を塗って麺を再現し、その上にソースに相当する色を塗ります。料理に関しては原色を使うと出来の悪い食品サンプルになってしまいますので、あえて色を少し濁らせるくらいがよいでしょう。肉料理は薄茶色をベースに塗っていきます。

 乗客の人形ですが、座席とテーブルをリアルに再現しているため、普通の着席している人形では膝が干渉して上手に取り付けられません。こういうときのためにプライザーはひざ丈までの人形をラインナップに加えています。食堂車でナイフ・フォークを使う乗客もあります(品番10391)。こういった人形を適宜車内に配置していきます。一人旅なのか、二人で利用しているのか、家族連れなのかなどを考えて配置します。TEEはオール1等ですから、それなりの身なりの方が利用していたと思われます。もう少し人形がほしいところでしたが手持ちがこれくらいでしたので、仕方ないところです。人形を配置したところに出来上がった料理と皿を配置していきます。





 瓶などのテーブル上の小物はプライザーの17105、17220を使用しました。瓶もクリアーグリーン成型なら葡萄酒に化けるでしょうし、透明ならミネラルウォーターなどに使えるでしょう。
 ウェイターやコックといったスタッフも配しますが、床がかさ上げされているのか、そのままでは少し背が高すぎるようです。膝の下で一旦切り離し、1ミリから2ミリほど脚を切り詰めて再度接着し、立たせています。
 人形、料理の配置が終わりましたら再び屋根をかぶせ、幌をつけて完成です。窓の外から見るとなかなか悪くはなさそうです。



 食堂車に人形を乗せましたので、残りの座席車にも人形を乗せなくてはいけません。長い道のりになりますが、少しずつ進めてまいりましょう。
 
 
 
 
 

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追悼 今宮純さん

2020年01月11日 | 自動車、モータースポーツ
 1月はモータースポーツ関係の記事になりそうな話をいくつか予定していたのですが、そんな中でとても悲しいニュースがありました。
 モータースポーツジャーナリストとして、またフジテレビのF1中継で解説を長く務められてきた今宮純さんが年明けに急逝されました。ご冥福をお祈りいたします。
 
 今宮さんはフリーランスのモータースポーツジャーナリストの草分け的な存在でもあり、国内レース、さらにはF1の取材等で活躍されてきました。地上波でF1中継が無くなった後も、最近ではさすがに登場回数も減っていましたがCSのF1中継でも解説をされていたほか、雑誌等活字メディアへの寄稿もされていましたし、ツイッターも昨年末まで発信されていたそうです。
 私自身、F1中継に「意識して」チャンネルを合わせるようになったのはF1ブームの真っただ中のことでした。1987年以降の地上波での全戦放送や、セナ・プロスト対決は知っていましたし、模型誌でもよくF1の記事が掲載されていた、そんな時代でした。当時とてもお世話になっていたフジテレビの深夜番組の中に「F1ポールポジション」という情報番組があり、中継を観なくともたまにこれを観ればF1の様子がなんとなく理解でき、そこで解説役を務められていたのも今宮さんでした。
 そんな中、偶然深夜の中継を観てF1にハマり、レースの中継がある日は録画してでも観るようになるわけですが、今宮さんの解説はバランスが取れた視点で、過度にマニアックにならず、モータースポーツとそこに関わる人たちへの愛情も感じられる、分かりやすいものでした。ご本人も自著の中で「たまたま深夜にチャンネルを合わせた人のために初歩的な話をレースの流れに即して話すようにしなければならなかった」と述べていますが、それが(まさに深夜に偶然レースの模様を観ていた私のような)初心者にも受け入れられ、いわゆる「F1ブーム」を支えたことになったのでしょう。初心者にもわかる解説というのは、ご本人もそうだったと記していますが「ミーハーこそマニアが通る道」であり、ミーハーの人たちにも深く理解してほしいという気持ちがあったからだと思います。また、今宮さんは20代から主に国内で豊富な取材経験を重ねており、上位から下位までの選手、チーム関係者、レース後に片づけをしているメカニックなど、なるべく多くの関係者を取材して、そこから雑誌に掲載するレポートを書かれていたそうです。こういった経験が、バランスの取れた視点を生んでいたのではないかと思います。
 
 テレビ解説だけでなく、スポーツ誌「Number」でもF1特集が組まれた際に取材の裏話などのコラムやエッセイを執筆されており、それを読むのも好きでした。こちらもテレビ中継と同じく、「Number」誌が様々な読者層を対象にしていることもあるとは思いますが、分かりやすく、また後味の良い文章が多かった気がいたします。今日のようにインターネットで海外の情報がリアルタイムで入ってくるわけではなく、また個人が海外での観戦記をブログなどでアップしていたわけではない時代でしたので、サーキットの風景やパドックでの出来事、移動中にあった話などを通して、私もF1や海外に憧れを強めていくのでありました。
 厳しい意見をされていたのは今はなくなってしまった「F1倶楽部」誌での、やはりベテランジャーナリストの赤井邦彦氏との対談記事くらいだったかと思います。それもご自身の取材など、確かな裏付けのあるコメントでしたので、説得力があるものでした。
  
 また、今宮さんとテレビ中継というと、1994年にアイルトン・セナがイモラサーキットで事故死した際のコメントを覚えている、という方も多いようです。ご本人は「涙が止まらず、みっともないコメントだったと今でも恥じている」と語っていましたが、フジテレビの当時のプロデューサーは、本当に辛かったのは現地にいた彼ら(今宮さんや実況の三宅アナ)であり、今でもあのときの彼らに感謝している、と後にインタビューで答えています。あの場所で、生でああいったことを目撃された方に、機械のように感情を交えずに伝えろ、というのも酷なことではあります。セナのレース人生、そして事故死に関連しては私も書きたいことがあるのですが、きちんとまとめるにはまだ時間がかかりそうです。

 今宮さんは多くの著書を遺されていますが、F1中継の解説者に至るまでの道のりをつづった「モータースポーツジャーナリスト青春篇」(三樹書房)は私の好きな一冊で、本稿も同書を参考にしています。また、夫人の今宮雅子さんもジャーナリストとして活躍されていますが、二人の馴れ初めについては夫人が執筆された「サーキットへいらっしゃい」(大日本図書)に触れられています。 
 
 さて、私も国内だけではありますが「現地観戦」するようになりますと、鈴鹿で今宮さんご本人の姿を生でお見かけすることもありました。都内の電車の車内ですれ違ったこともあり、ここで遭遇するとは、とちょっと驚いたこともありました。直接お話をしたことはありませんでしたが、昨年亡くなったニキ・ラウダといい、サーキットで当たり前のように見かけた方ともう会えないというのは、なんとも寂しく感じます。
 セナやラウダをはじめ、あちらに旅立った関係者も多く、また、チームのインサイダーから文章を書く側に回った元ホンダの中村良夫さんも亡くなってから随分経っています。きっと向こうでこういった方たちと再会して、取材をしているのでしょうか。どうか日本のモータースポーツを空の上から見守ってください、と願いつつ、本稿の結びといたします。
 
 
 
 
 

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ホンダF1の特番を観ていたらあの場面を思い出した

2020年01月03日 | 自動車、モータースポーツ
 元旦の特番でしたが、NHK-BS1で「最速に挑む ホンダF1はなぜ勝てたのか」という番組が放映されていました。私も録画して観てみました。
 NHKとF1、というのは一見つながりがないように見えますが、ホンダがF1に復帰後、毎年のようにホンダとその技術者、チームの1年を振り返る番組が放送されていますし、シーズン中はBS1のスポーツ番組で各レース翌日にダイジェストも放送されています。
 2019年シーズンはシーズンに3勝でき、さらにブラジルGPでは1-2フィニッシュという快挙も成し遂げました。番組でもオーストラリア、オーストリア、ドイツ、日本、ブラジルの各GPを中心にホンダF1の1年を振り返っていました。
 ホンダは2019年からトップチームの一つ、レッドブルにパワーユニットを供給しています。2018年から引き続いているトロ・ロッソチーム(こちらはかつてのイタリアの中堅チーム、ミナルディを祖に持ち、レッドブルのジュニアチームという位置づけですが)と共に2チーム、4台のマシンがホンダパワーのマシンということになります。
 レッドブルが3勝しただけでなく、トロ・ロッソも表彰台に上がるレースがあり、復帰後初めてホンダもファンも手ごたえを感じたシーズンだったと言えるのではないでしょうか。もちろん、メルセデスの絶対的な優位は昨シーズンも変わりませんでしたので、2020年はそこを崩すのがどこになるのか、という期待をしたいと思います。
 ホンダについては復帰当初は名門・マクラーレンと組むも、なかなか成績が振るわず、ということで、パワーユニットに起因するトラブルにも悩まされました。ホンダはここで航空機部門の力を借りて改良に取り組み・・・といったメディアを通じて伝えられている話も関係者のインタビュー等で明らかにされています。具体的にどこをどう改良して、といった話も図解を交えて説明されていましたので、F1をあまり知らない方でも理解できたのではないかと思います。ホンダも製品を売って利益を得る企業ですから、こういった話は格好の宣伝材料にもなるでしょう。当たり前のことですが、大きな組織で他部門の力を借りる、というのは力を借りに行く方も、力を貸す方も簡単にはいかないことであります。そのあたりの苦労も含めてインタビューの中では語られていました。私もともすれば他部署が何をしているか知らないことも多いし、組織も仕事も複雑化している中で・・・と考えてしまい、なんだか正月早々仕事モードに少しだけなりました。

 NHKがホンダF1と関わりを持ったのは最近だけではありません。第二期(1983~1992年)参戦期にもホンダ側が国内でのF1開催も含めた知名度向上の一環としてNHKのニュース番組で取り上げてもらう、ということもあったようですし、鈴鹿での日本GP開催が決まった1987年以降のシーズンのテレビ放映権をめぐって、最終的に放映権を得たフジテレビだけでなく、それまでダイジェスト的に放送をしていたTBSとともにNHKも手を挙げていたという話を読んだことがあります。ニュース番組の中での紹介は私も覚えていて「ホンダはF1で頑張っているんだ。世界を転戦して大変だなあ」という感想を持ったものです。
 さて、あれは1986年か1987年のことですが、NHKの夕方の情報番組の中で「今日はスタジオにF1マシンを持ってきました」と言ってウィリアムズ・ホンダのマシンが持ち込まれたことがありました。それを観たとき、私はとても驚きました。別にそれがノッポさんが段ボールで作った工作だったとか、そういうわけではなく、当時のチームスポンサーで言えば「Canon」ならaの一文字だけを白いテープで隠すなどして、スポンサーのブランド名、企業名を一文字ずつ隠すということをしたのでした。かなりアナログな「モザイク処理」ではありますが、当時のNHKは今以上に商品名、ブランド名を隠したり、タイアップ曲を流さないといった傾向にありましたので(ギネスブックだって「世界記録を集めた本」と言っていたくらいですからね)、何とかしてスポンサーロゴを消したかったのでしょう。
余談ですが1987年にTHE SQUARE(現T-SQUARE)のライブをテレビ放送した際もその年のアルバム「Truth」をフィーチャーしたツアーのはずが、フジテレビのF1中継のテーマだった「Truth」は放送されなかったので、タイアップ曲は流さないのかなあと思いました(のちにそこまで露骨なことはなくなりましたが)。この「一文字だけ隠しました」のときには、スタジオの裏で誰かがドヤ顔で「NHKですから!」と言っていたんじゃないかと思います。このなんとも珍妙な処理をされたマシンのインパクトに押されて、番組でどんな話が出ていたかも覚えておりません。あの記憶がいまだにあるだけに、NHKがコマーシャリズム全開のようなF1を特集しているというのは、という感慨を持ちながら特番を観たのでした。
 

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