工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

タイムマシンにお願い

2022年10月31日 | 鉄道・鉄道模型
 鉄道が好きな方、とりわけ鉄道の歴史に多少興味を持っている方なら「あと〇年早く生まれていたら××に乗れたのに」とか「〇〇の写真が撮れたのに」なんていう話をされたことがあるかと思います。何年か前にこのブログで回顧展をご紹介した故・黒岩保美氏も「あと何年か早く生まれていたらマレーの牽く列車で箱根八里を越えられたのに」とおっしゃっていたそうです。大正生まれの方らしい願望ではあるわけですが、それを言い出すと鉄道開業まで遡ってしまいそうです。
 日本の鉄道が150周年ということで、タイムマシンがあったらいつの時代の鉄道を見てみたいか、というのを考えてみました。もちろん、開業初日の新橋駅というのも面白そうですね。特に最初の機関車たちは強烈な個性を放っていて、図面や数少ない写真を見てもなかなかの存在感です。
 また、個人的には明治時代全般の鉄道や蒸気機関車に興味があるものですから、大正期以降の黒一色になる前の明治の蒸気機関車がどんな色だったのか、客車がどんな色だったのかというのが大いに気になります。欧米、特にイギリスやアメリカを中心に、蒸気機関車は鉄道によって、また機種によってさまざまな色に塗られていました。日本でも後の時代に通じる黒に赤いライニングというのもあったようですが、緑やマルーン、ロシアン・アイアンと呼ばれた青系の色もあったようです。交通博物館所蔵の「岩崎・渡辺コレクション」は当然明治期の写真のためモノクロですが、明らかに黒ではないよな、という色味や輝きの機関車をみかけます。タイムマシンがあれば、確認してみたいものです。明治の終わりに九州鉄道が購入する予定でアメリカに発注し、車輌が届いた時には国有化されて宙に浮いてしまった「或る列車」も輸入当初はどんな塗装で、どんな内装だったか見てみたかったものです。もちろん、本線を走る車輌のみならず、馬車鉄道や市電も気になります。
 戦前の列車や和食堂車と呼ばれた現在の牛丼チェーン的に椅子が並ぶような食堂車で食事、というのも面白そうですし、戦後の「つばめ」の特ロと呼ばれたスロ60も魅力的です。
 自分の生まれる前に活躍し、乗りたかった車輌といえば、151系・クロ151になるかと思います。パーラーカーと呼ばれ、縦1m、横2mというそれまでにない大きな窓を持っていました。個室と開放室があり、さしずめ現代の「グランクラス」のようなものでしょうか。客車時代の展望車が電車特急になってこういう形で引き継がれたわけですが、それだけにおいそれと乗れるものでもなさそうです。開放室の一人がけの椅子に座り、これで東海道線を旅してみたかったものです。

(模型はカトーのNゲージ車輌、後ろの20系客車もカトー製)
 自分が乗車した列車、経験したイベントなどでもう一回あの時へ、あの場所へ、と問われますと、私は2000年に開催された「第1回 国際鉄道模型コンベンション」を挙げます。確か1回目は新宿NSビルで開催だったかと思います。初回ならではの若干の混乱もありましたが、それもまた妙味であり、それよりもようやく、日本でもアメリカでやっているようなモデラー参加型のコンベンションができた、という喜びが強かったことを覚えています。その後、私も少しお手伝いさせていただいたこともありますし、途中紆余曲折はありながら今年も開催されております。第一回は出展者でなくとも打ち上げのパーティーに参加でき、雲の上のような存在の方ともお酒を飲んで盛り上がったことも思い出深いですし、アメリカから著名なモジュールモデラーが来日され、パーティーでも元気いっぱいに過ごされていたことを覚えています。写真はその時の記念品の升です。私もあれから20数年、いろいろなことがありながら、鉄道模型がそばにある生活を続けています。



 
 
 

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電車と機関車の形のボールペン

2022年10月26日 | モノものがたり
私のような趣味人というのは多分にコレクター気質もございまして、長く趣味を続けてまいりますと、さまざまなものが手元に集まってまいります。
そんな私の周りにあるものから、趣味に因んだ珍しいものやおもしろいものをご紹介するのが「モノものがたり」です。
前回はだいぶ前にスイスの鉄道時計をご紹介しましたが、今回も鉄道ネタでございます。鉄道開業150年に因んでこんなものを「蔵出し」してまいりました。
鉄道車輛(というか編成)をかたどったボールペンです。以前、近鉄12200形の引退の際にも少しご紹介しましたが、あれには仲間がいるのです(残念ながらメーカー名不詳)。
これらはいずれも1970年代後半に我が家に来たものですので、かれこれ40年以上経過しています。
最初にやってきたのは新幹線でした。普段はおおよそこういったグッズ類を自ら買ってきたりしない母が、私と兄のために1本ずつ買ってきてくれました。


ご覧のとおり0系がモデルです(当時は0系しかいませんが)。キャップ部分が先頭車のため他の車輌より短くなっています。キャップは後ろ側も外れます。まだ鉄道模型を始める前でしたし、こういったおもちゃ類もさまざまあって、なんとなく眺めたり、手で持って走らせるような感じで畳の上を滑らせていたのかもしれません。以前も書きましたが小学校低学年の頃はバンダイの「ミニミニレール」でよく遊んでいて、それ以外にもチョコレートのおまけでついていた小さな車輌の玩具を集めて編成を組んだりとか、ダイカスケールの車輌を買ってもらったりといった感じでした。
 このボールペンのシリーズ、近所の文具店に私鉄特急もありました。以前ご紹介した近鉄のスナックカーだけでなく、西武5000系レッドアロー、小田急の3100形NSEです。

西武5000系

ペン先側は前頭部のライト類に当たるところが着色されていますが、反対側は着色しておらず、これは他の電車も同じでした。

小田急3100形・実物同様車体が他の形式より短くなっているのも再現しています。

近鉄12200形
私鉄特急など、当時は玩具にもなかなか恵まれませんでした(プラレールではいくつか見かけましたが、今ほどリアルではなかったと思います)。鉄道模型(Nゲージ)ではスナックカーがキット化され、西武5000系も完成品が出ましたが、小田急のNSEはNでは夢のまた夢とその頃は思っていました。あの頃はブルトレ、特急ブームでしたので、国鉄特急の写真や私鉄特急の写真がちりばめられたハンカチなどもあって、私も愛用していたのを覚えています。
 電車だけではありません。SLと客車の組み合わせというのもありました。


C62とスハ43系のようですね。客車は茶色だけでなく青もあったという話を聞いたことがあります。これは万世橋の交通博物館で70年代に買ってもらったのではないかと思いますが、ちょっと記憶が定かではありません。C62とスハ44系「つばめ」の編成は関水の製品を父が持っていたので、子供心にあこがれではありました。

 これらの編成、筆記具としては持ちにくいですから、もっぱら観賞用となりました。他の鉄道玩具が大きくなるとともに他所にもらわれていったりした中で、これは数少なく残ったものとなりました。実家を出てからも私の荷物に入り、今の寓居で鉄道玩具やグッズを入れた箱に収まっているというわけです。

 長じて私も模型でこれらの車輌を入手いたしました。前述の私鉄特急のハンカチに登場した車輌たちでもあり、大人になってこういう車輌が出ていたらいいな、というものが軒並みリリースされており、関東も関西も、さらには西鉄だって買えます。こうした玩具で飽き足らず、精密な模型も欲しい、となって幾星霜ということで、収集というのは子供の頃の夢が色濃く反映されるものなのでしょうか。

これらのボールペン、メーカー名も分かりませんし、製品化許諾という言葉が一般的でなかったので、鉄道事業者や車輌メーカーに断りを入れずに作っている可能性もあります。今ではもっとあか抜けたセンスの製品も豊富にありますので、今日も、どこかで小さな鉄道ファンたちがさまざまなグッズを手にし、身につけていることでしょう。そういえばうちの豚児のリュックもE5系です。昔こういうのがあったら絶対ほしい、というようなグッズもたくさん出ていますね。







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自分はどれだけの路線に乗ってきたのか

2022年10月18日 | 鉄道・鉄道模型
 私はいわゆる「乗りつぶし」を趣味とはしておりませんが、これまで自分がどれくらいの数の鉄道路線に乗ってきたのか、あらためて数えてみることにしました。区間を完乗した路線がどれくらいあるのか「日本鉄道旅行地図帳 増結第3列車(新潮社)」が手元にありましたので、これを参考に数えてみました。
 国鉄、JR、国鉄由来の第三セクター、新幹線 約130路線
 JRの航路 2路線
 民鉄 約170路線
 というのがその結果でした。記憶があいまいなところもあって、確実な数ではないのですが、ざっとこんなところです。東北本線から新幹線開業後にいわて銀河鉄道、青い森鉄道となった区間は東北本線として1路線でカウントしています(新幹線開業後にもこれらの路線に乗っていますので、カウントしてもよいのですが)。また、西武山口線のように二本のレールを持つ鉄道路線から新交通システムとなった区間は、両方でカウントしました。
 当然、一部区間だけ乗った路線も含めるともっと多くなるでしょう。四国とか北海道の路線は、完乗していない区間もあるのです。私の知り合いに、1980年代にまだ筑豊地方のローカル線がたくさん残っていた時に国鉄全線完乗を成し遂げた、という人物がおりますが、私などはそういった猛者に比べますと実におとなしいものです。
 それでも高校時代にはお金は無いけど時間だけはあるような季節を過ごしていましたので、春休みや夏休みに友人たちと青春18きっぷで遠出をしたものです。とにかく、24時間でどこまで乗れるか行ってみよう的な旅でしたので、この時にのりつぶした路線が増えたように思います。それでも、高校一年生の時に乗った只見線の景色の美しさは忘れられませんし、高校2年に上がる春休みに北陸から関西、東海を抜けて車中泊3泊、ホテル1泊というとんでもない旅行をしたときは、下車印がたくさん押された青春18きっぷがあたかも勲章のようでしたし、仲間につられて普段は買わない硬券の入場券もたくさん買って帰ってきました。
 民営化前夜でしたので、鉄道ファンとわかると現場の国鉄マンが記念乗車券などを勧めに来たのも懐かしいです。また、いま流行りの鉄印帳ではありませんが、お世話になった駅長さんに色紙を渡して一言書いていただいたりといったことをしている仲間もおりました。
 民鉄については就職して仕事で乗ったという路線も多いです。30代の後半に外回りの仕事が多く、そのときに初めて通しで乗ったという路線もありました。また、今年に入ってからつくばエクスプレスに仕事で乗って完乗しています。
 JR、民鉄ともにあまり意識して乗りつぶすということはしない主義で、おなかがすいていたり観光したいときはそちらを優先してしまうのですが、廃止直前に偶然乗った大社線とか、廃止まで何度も通った名鉄の岐阜市内線など、思い出深い路線もあります。時間もあってせっかくだから通して乗ってしまおうということで乗った名古屋の地下鉄のようなケースもあります。これからも、少しずつではありますが、自分で狙って、あるいは図らずもという形で、乗りつぶした路線が増えていくことでしょう。

こちらの18きっぷは一人旅のときのものです。宇高航路に乗ったときのもので、宇野駅と播州赤穂駅の下車印があります。

 

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鈴鹿への旅・拾遺

2022年10月16日 | 日記
 レースの話を中心に久々の遠出の話を書いてまいりましたが、そこに出てこない(どうでもいい)話などもここでご紹介です。
1 黄色いスポーツカー
 名古屋駅のコンコースにこんなものがありました。

 北欧製のブロック玩具(レゴって言えよ)でできたGRスープラです。レゴランドとトヨタのコラボ企画らしく、後ろに本物もありました。

2 気動車でクモハとはこれいかに
 名古屋駅のホームでこんな車輛を見かけました。

 JR東海の最新鋭ハイブリッドディーゼルカー、HC85系です。エンジン音を響かせ、黒い煙を短く上げて走り出していますが、形式は電車と同じ「クモハ」です。

 今は「ひだ」号での運用のようですが、いずれ「南紀」にも入ってくるのかな。
3 今年も美味しい食事をありがとうございます
 サーキットでのお昼ご飯や間食はスタンドの裏手ということもあって今年も「ドミニク・ドゥーセの店」のラザニアやパンのお世話になっていました。昼からお酒は飲まない私ですが、フランス直輸入のシードル(りんごのお酒)が美味しく、3日間とも買ってしまいました。ドミニク・ドゥーセさんはフランス生まれのパン職人で、1987年に鈴鹿でF1日本GPを開催する際に招聘され、以来、鈴鹿で美味しいパンを作り続けています。ラザニアだけでなく、クロワッサンなどの本場のパンが美味しく、小腹が空いたときにミートパイやパンオクレマを食べていました。先年、カヌレの工場を焼失するという出来事もありましたが、ここの焼き菓子は美味しく、フィナンシェはうちの家人のお気に入りで、お土産で一番喜ばれています。
 パンだけでなく、WALT(バルト)という関西で活動されているキッチンカーのステーキ丼も美味しかったです。ここでしか味わえない、というのもグランプリのご飯の魅力だったりで・・・。
 表彰式の公式スパークリングワイン(フランス製ではないからシャンパンではなくて)のフェラーリ社(自動車の方とは無関係です)のスパークリングも紙コップでいただきました。ボトルを持って表彰台ごっこもでき、記念写真も撮っていただけるのですが、それを見たうちの家人から「アンタ調子に乗りすぎでしょ」と言われたのでここでは掲載いたしません。
 泊ったホテルの朝食バイキングも、観光客が減ってどうなのかな、と思いましたがむしろ質は高くなっていて美味しかったです。足りない野菜も補えました。晩御飯は東京系のお店ばかりでしたが・・・。ごちそうさまでした。
4 総理ご来場
 岸田首相がサーキットに来るらしいという話は、金曜日の夕方にはサーキットにいる我々にもSNSで広まっていました。トヨタのトップに「五輪は良くて四輪はだめなのか」と言われたので負い目があったのでは、とかいろいろ言われていましたが、週末に合計20万人を集めたイベントがつつがなく行われていることで、コロナと共存している姿をアピールしたかったでしょうし、自身は「屋外マスクなし」をアピールしたかったようです。客席でマスクなしの人はほとんど見かけなかったけど。首相だけでなく、室伏スポーツ庁長官の登場にも大きな拍手がおくられていました。金メダリストですからね。
 その昔(1998年)、羽田元首相親子と鳩山由紀夫夫妻が鈴鹿を訪れたことがあり、決勝日に当時ミナルディにいた中野信治のピットを訪れているのが客席から見えました。ティレルの高木虎之介のところに出向いた一行、とうとう会ってくれなかったようで、やむなく出てきました。マイペースな虎ちゃん、さすが「虎の時間が流れている」と言わしめたことだけあるなあ。
5 雨の日と日曜日は・・・
 初日の金曜日と決勝の日曜は雨となりましたが、観客も雨対策をしっかりしています。中には野外フェスのような長靴姿の方も見かけました。私はポンチョにしないで上下セパレートタイプのものを着て過ごしましたし、防水仕様のウォーキングシューズで臨みました。靴の方は完璧ではないものの雨は凌げました。防水衣はだいぶ古くなっており、そろそろ考えなきゃというところです。
6 日本のファンは世界一?
 日本の「コスプレ」ファンはすっかり有名ですが、それに限らずうちわ、横断幕と熱心なファンも私の周囲にいました。女性の場合ネイルは「推し」のチームカラーです。見ていて楽しいものですが私などはそれに比べればおとなしい方です。中には「ありがとう、中嶋悟」という1991年の引退の年に出ていた日の丸を持ったファンを見かけました。どこかの国みたいに気に入らない選手の紹介にブーイングとかしないし、世界トップクラスのドライバー、マシン、スタッフがはるばる日本に来てくれたのだから、私たちも大切にお迎えして、同時にF1というお祭りを楽しもう、という感覚なのかなと思います。もっとも、私もこういうものを持ち込んで写真に撮っています。

 また、決して前方でレースはできていないハースチームの代表のトークイベントにも、たくさんのファンが集まっていました。ギュンター・シュタイナー代表、日本にもファンがたくさんいます。名前も風貌もドイツ系ですが、イタリアのチロル地方生まれです。あのあたりはイタリア語でもなく、ドイツ語でもない言葉を話しているとヴェネツィア生まれの方が言ってましたっけ。
7 決戦は金曜日?
 今年は木曜日のイベント(ドライバーのサイン会など)が無く、お店も開かなかったせいか、金曜日は午前からショップが大混雑でした。特に鈴鹿サーキットのオフィシャルショップの混雑ぶりは相当なもので、何十分待ちという経験は初めてでした。私も実用を兼ねて手ぬぐいやTシャツを買いました。みんな3年待ったから、というのもありますが、木曜日もイベントがないのにたくさんファンが詰めかけていたそうですから、来年は木曜日も開けていただけないでしょうか?また、バスや鉄道の混雑も金曜日は相当なものでした。チケットの売れ行きやSNSでファンの動向をつかみつつ、来年は増便、車輌の増結もぜひ。
8 ホンダってどういう関りなの?
 昨年の最終戦を前に「二度と戻ってこないような」広告まで出しておりましたが、鈴鹿ではマシンに「HONDA」のロゴまで復活しています。Hののマークこそないものの、復活したの?と思われた方もいるでしょう。レッドブル、トロロッソの両チームは「レッドブル・パワートレインズ」のパワーユニット(昔風に言うとエンジン)が搭載されていますが、実質的にはホンダが製造していたパワーユニットを引き継いでおり、ホンダは子会社のホンダ・レーシングを通じてパワーユニットの製造、組み立て等を行っています。今のところ本田技研としては直接関わらないという立ち位置で、この関係は2025年まで続くとされ、2026年以降の車輌規定の変更でホンダの去就も含めて注目を集めています。二度目のドライバーズタイトルを獲得しましたし、コンストラクターズタイトルも射程に収めていますが、勝てるようになったら自分の手柄、となると釈然としないものを感じてしまいます。
9 サーキットに映える色
 テレビ中継では気づかなかったのですが、実際にサーキットで観て美しい色と思ったのが、アストンマーチン(ベッテル車)

アルピーヌ(アロンソ車)

ウィリアムズ

でした。雨ということもあっていつもと違って見えたのかもしれません。アストンマーチンのベッテルとアルピーヌのアロンソ、タイトル獲得経験のある二人ですが、決勝ではスタート直後に絡むなどひやりとする場面もありましたが、再スタート後は6位争いを演じ、最後は並ぶようにしてチェッカーを受けました。ベテラン二人の競り合いはなかなか面白かったです。優勝争いだけでないのが、サーキットでレースを見る楽しみでもあります。
10 30年前にこれがあったら・・・
 ここ数年、テレビ中継でもサーキットでも、セッション開始時に勇壮な音楽とともにドライバーを紹介する映像が流れたり、ドライバーがさまざまなポーズを取る映像が流れたり、サーキットにものぼりやパネルが立ったりしています。


パネルのモデルは昨年までホンダで陣頭指揮を執った山本雅史氏から「サンダーバードのキャラみたい」と言われたジョージ・ラッセル。
 1991年シーズンのドライバーでこれがあったらなあ、と思いませんか?デ・チェザリスやアルボレート、鈴木亜久里に中嶋悟、モデナ、ピケにモレノにマンセル・・・とつづいて最後は当然プロストとセナです。正直、今より役者が半端ないでしょ?もっとも、ピケやプロストがガッツポーズとか見せたりするようには思えないな。
11 二世ドライバー花ざかり
 タイトルを獲得したマックス・フェルスタッペンをはじめ、親子でF1に出場した選手が現在では3名います。ハースはマグヌッセン、シューマッハの二人とも二世です。マグヌッセン父のデビュー戦が1995年パシフィックGPで、それを自分が見てたんだよなと思うと感慨深いです。

左がマグヌッセン、中央がシューマッハ
12 車窓の景色も令和風?
 名古屋からサーキットに向かう車窓風景が好き、と以前書きましたが、車窓の風景も少しずつ変わっています。大きなソーラーパネルができたり、郊外型のショッピングモールも増えたように感じました。もし、現代のローカル風景を鉄道模型で再現すると、こういった施設も必須になりますね。
13 乗り物あれこれ
 東京から名古屋までは今年もJRの夜行バスでした。三列独立シートでカーテンもかけられますのでプライバシーが保てますが、窓もカーテンが固定されていますし、閉所恐怖症の方には苦手かも。クレイドルシートというのも私には少し使いづらく感じました。もう一度乗って「寝心地」を確かめたいところです。初日の帰りは津まで出て、新型特急車の「ひのとり」に乗りました。レギュラーシートでも居住性は申し分なく、名阪特急のエースに相応しい車輛でした。 
14 コンパクトデジカメ頑張る
 旅のお伴はデジタル一眼とコンパクトデジカメですが、今回は特にコンデジが頑張ってくれました。ドライバーズパレードに向かうドライバーなどの写真もコンデジで撮ったものです。普段ならメモ的に使うのですが、望遠レンズの代わりも果たしてくれました。コンデジそのものが絶滅危惧種のなか、まだまだ使い道がありそうです。

キヤノンのパワーショット。5年ほど前に購入したものです。フェラーリのポーチは鈴鹿でアウトレット品で購入しました。




 


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鉄道開業150年

2022年10月14日 | 鉄道・鉄道模型
 本日10月14日は、明治5(1872)年に新橋~横浜間に鉄道が開業してからちょうど150年ということで、既にメディア等でも大きく報じられているところです。趣味の対象として、もちろん乗客として一年365日のうち、300日以上はどこかの路線にお世話になっており、このささやかなブログの場ではありますが、150年の誕生日をお祝いいたします。
 昭和47年の鉄道100年から今日までの50年間というのが、ちょうど自分が物心ついてから今日までの期間と重なりまして、SLブームは「家の外の世界」の出来事として覚えていますし、厳しい経営状況にあった国鉄が民営化で一気に花が咲いたように明るくなった印象を持ったこともありました。時が流れて平成の後半から令和にかけての鉄道輸送も以前とは違う変化をさまざまな形で感じ取っておりましたし、今日ではコロナ禍という想定していなかった日常の中で、鉄道の在り方もまた、変わっているように思います。
 鉄道趣味においてもこの50年で大きく変わっています。50年前のSLブーム、さらに40年ほどの前のブルトレブームはありましたが、総じて鉄道趣味は「いい大人が電車を追いかけている」的に捉えられていたという一面があったことは否めません。以前、某有名模型店のカウンターに立つ方と話していたときに出たことですが、80年代、90年代前半においては鉄道趣味や模型趣味といったインドア系の趣味は特にオタクという言葉で括られた「日陰者」であり「世間の邪魔はしないからどうか放っておいてくれ、自分たちが好きでやっていることだから触らないでくれ」という多少ネガティブな立ち位置だったという話題になり、同じような思いをされた方もいらっしゃるのではないかと思います。今ではテレビで鉄道ネタは硬軟とりまぜて放送されますし、本屋さんに行けば出来の良しあしもありますが、鉄道書はたくさん出ています。また、子供の頃こんなグッズがあったらよかったのに、という商品も多数で出いますし、大人が思わず手に取ってにんまりしちゃうものもあります。鉄道が好き、鉄道模型が好きというのは、年齢も性別も関係なくなっています。世間一般にこうして認知されるようになったからこそ、迷惑をかけない、節度のある行動も必要かと思います。
 さて、現実には鉄道150周年とは言ってもおめでたい、とは言い難いことも多くありまして、人口減(特に地方の)は鉄道の経営環境にとってますます厳しい現実をつきつけていますし、新幹線の開業は旅行者にとっては便利になりましたが、並行する在来線がやせ細っていくのは喜ばしい事ではありません。また、災害の激甚化は地方の路線を痛めつけて、長期間の運休も常態化していますし、都市交通でもこれまで以上に慎重に対応しなくてはならない状況を産んでいます。
 そんなわけで他の方の言葉を借りれば「めでたさも中くらいなり」な150年ですが、これからもさまざまな形で鉄道にはお世話になりますし、鉄道が社会にとってずっと必要な存在であり続けることを祈っています。いろいろ大変な状況とは言いつつも、これからもレールの先には見知らぬ土地と希望が待っていることを祈っています。

 今日は150年のお祝いということで、各地でイベントもあったようですが、同じ150年で思い出すのは、1985年にドイツの鉄道が150年を迎えたときのことです。当時の西ドイツで動態保存の車輌が総出演で機関車、列車の大行進が行われたことがありました。日本ではこういうことはなかなか難しいよなあと彼の地がうらやましかったわけですが、模型なら明治の機関車から令和の新幹線まで再現できます。ほら、1号機関車が汽笛を鳴らしてやってきました。



200周年のお祝いを、きみはどんな風に迎えているかな。

次回は鈴鹿のこぼれ話となりますが、そのあとは鉄道関連の記事が続くかと思います。


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