工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

平成最後の日に

2019年04月30日 | 日記
 今日は平成最後の日ということで、メディアなどはとても大きな規模の大晦日のような騒ぎになっております。
 思えば昭和の最後の日々、私は都内の某ターミナル駅でアルバイトをしており、昭和最後の日となった1月7日に「平成」の元号が発表される様子を職場の詰所のテレビで観ておりました。
 このブログは模型のことを主に書いていますので、私の思い出とともに30年間の模型の話や、趣味の話をしましょう。
 鉄道模型、特にNゲージになりますが、各メーカーから毎月のように新製品が発売されるというのは、平成元年時点では考えられないことでした。日本型のラインナップもそれほど豊富ではなく、あの頃の私は「とれいん」誌の影響もあって、真剣に外国型(特にアメリカ型)HOに気持ちが行きかけていたくらいでした。
 そんな中、もともとクオリティーの高さを誇っていたKATOがEF81にフライホイールを装備して発売したときは驚きました。同社の日本型Nでは初の試みではなかったかと思いますが、スローのきく走りを見ながら、見た目だけでなく走り性能も別の次元に到達したなあと感じました。国内の他のメーカーも精密化、美しい塗装・印刷技術などで30年前と比べると大変な進歩でありますが、私にとってはKATOのEF81は特別な製品という感があります。それにしても今の日本型Nゲージの隆盛ぶりは大変なものですね。日本中で走っているほとんどの車輛が手に入るのではないかというくらいです。後は戦前の車輛にもう少しスポットライトが当たってくれたら、と思うのですが。
 真鍮製品が主流だった日本のHO、16番ゲージの世界もプラ製品が随分と増えましたし、模型界全体の流れとしてDCC、LED、3Dプリンターといった新技術が入ってきています。令和の時代には、また新しい技術が鉄道模型の楽しみ方を増やしてくれるのでしょうか。
 平成の鉄道模型というと、私にとっては「国際鉄道模型コンベンション」のスタートが印象に残る出来事です。特に新宿NSビルで開催された第1回JAMは、初回ならではの少々の混乱もありましたが、ようやく日本にもアメリカで行われているようなコンベンションが来た、と嬉しく思ったものです。いろいろと紆余曲折もありましたが、コンベンションそのものは続いていますし、一時期低調だった「クリニック」と呼ばれる講座も近年ではまた盛んになっています。物販を覗くのも楽しいのですが、クラブの展示、クリニックなど、やはり自分が手を動かしたくなるイベントがこれからも続くことを願っています。
 
 実物の鉄道の30年間と私の日々も書きましょうか。平成の30年間はちょうど自分が経済的にも時間的にも自由が増えた(最近はそうでもない?)時期にも重なりますので、日本各地の私鉄などを訪ねたり、さまざまな列車に乗りました。新幹線網の発達も、それに伴う在来線の地盤沈下という課題はありますが、移動時間の短縮に寄与しています。平成元年頃は、まだ関東の大手私鉄にも旧性能車がいましたし、地方私鉄に都会からステンレス車輛が流入する前でしたので、個性豊かな旧型車輛にも出会いました。平成の日々には岐阜の路面電車を追いかけたり、名鉄のパノラマカーや小田急のNSEを追いかけたりといったこともしましたっけ。個人的には「カシオペア」に乗れたのが思い出深いです。また、海外(特に欧州)の列車に乗る機会にも恵まれまして、新しい時代にも機会があれば海外で汽車旅を、と思います。
 また、平成元年頃から私の鉄道趣味の中に、駅の柱などに再利用される古レールを探訪するという楽しみができました。たまたま地元の沿線の駅に明治~大正期のレールが使われていたから、というのが理由なのですが、こちらは駅の近代化でだいぶ数も減っています。鉄道事業者様が文化遺産としてとらえて、保存を進めていただけることを願っています。

 鉄道趣味のことを中心に書きましたが、プラモデル(スケールモデル)の方もこの30年間でだいぶ変わりましたね。旧ソ連、東欧、中国などのメーカーの伸長は、30年前には予測できなかったものです。中には精密なだけで金型屋さんの自己満足みたいな組みにくいキットもあり、そんな中で組みやすさと精密さを両立させている国内メーカーの存在というのは、やはり頼もしいものがあります。あとはデカールがもう少し良くなってくれたら嬉しいのですが。

 平成ももう少しで幕となります。私は鉄道模型好きらしい方法で、新しい時代を迎えたいと思います。
 このブログにつきましても、令和の時代もまた、よろしくお願いいたします。
 
 

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1000戦を超えたF1グランプリと・・・

2019年04月29日 | 自動車、モータースポーツ
 F1グランプリ(GP)は先日の中国GPで1000戦を迎え、昨日決勝が行われたアゼルバイジャンGPで1001戦目を終えました。
 1950(昭和25)年に、ドライバーに対する世界選手権として始まったF1GPが英国・シルバーストーンサーキットで開催され、英国王ジョージ6世(当時)(映画「英国王のスピーチ」でも描かれた国王ですね)らロイヤルファミリーも来場されたと伝えられています。以来70年、多くの国とサーキットを舞台にレースが開催されています。日本も1964年のホンダの参戦、1976年のF1初開催といった出来事をはじめ、サーキット、メーカー、ドライバーなどさまざまな形でかかわりを持っています。
 では、日本人として初めてF1を観戦したのは誰か?ということになりますが、これまでもさまざまな形で紹介されておりますが、天皇陛下が記録として残っている最初のF1観戦をされた日本人の一人、と言われています。
 昭和28(1953)年、英国のエリザベス2世の戴冠に合わせ、当時皇太子だった天皇陛下は北米を経由して欧州を訪問されています。英国女王の戴冠式に参列された後、欧州各国を訪問され、ドイツに到着されました。ちょうど公式行事が無い8月2日に随員から「近くで自動車競争があるからご覧になられては」と促され、ドイツGPが行われるニュルブルクリンクを訪問された、と言われています。
 私がこの話を初めて知ったのは、今はなくなってしまった雑誌「F1倶楽部」(双葉社)vol.7(平成6年)の「ニッポンのF1」という特集記事にあった「殿下、F1でございます」という記事でした。本稿もその記事の引用となりますが、ご容赦ください。
 このときに皇太子殿下はこのレースを観戦されただけでなく、表彰式では優勝者のジュゼッペ・ファリーナに賞品を渡し、一緒にカメラに収まっています。急遽決まった観戦で、しかも表彰式にも参加された、ということで、現代のように全てがスケジュール通り進行する表彰式とはだいぶ様相が異なるところも興味深いです。今日、いくつかのメディアでも紹介されている、表彰式で19歳の皇太子殿下と優勝したファリーナが並んでいる写真は、F1倶楽部誌が取材の過程で朝日新聞社に問い合わせたところ「発掘」されたもので「キャプションもなく倉庫で眠っていた写真で、やっと日の目を見た」というものだったそうです。長らく、写真でしかこの時の様子を知るものはなかったのですが、最近では当時のニュースフィルムと思しき映像もインターネットで見ることができます。
 このレース、実に3時間の長丁場(当時のF1には今のような「2時間ルール」はありませんでした)だったのですが、宮内庁の記録によれば皇太子殿下はレース後に「用意された車でコースを1周され、『自動車競争は初めてであり、非常に楽しかった』と述べられた」そうです。また、随員を務められた吉川重国氏の著書もF1倶楽部誌で紹介され、それによればサーキットで皇太子殿下は拍手で迎えられ、レース後に場内を1周された際も観客はほとんど立ち去らなかったとあります。また、車でのコース1周は30分かかった(ちなみに決勝の最速ラップは9分56秒)そうで、1周23キロのニュルブルクリンク旧コースですから「ひどい山坂、急カーブがたくさんあった」とあります。当時の写真を見るとニュルブルクリンクのコースは現代の管理されたサーキットというよりはまさに「山坂道」という感じですから、ちょっとした山道のドライブのような感覚だったのではないでしょうか。

 さて、このレースですが、F1初期のレジェンドでもあるファリーナ、ファンジオ、アスカーリらが出走し、後にタイトルを獲得するホーソーン、当時はまだイギリスの若手だったモス、アジア初のF1ドライバーとして名を残したタイのB・ビラ王子も出走しています。F1の歴史に以前から関心を持っている私にとっては、天皇陛下は若き日になんとも贅沢なメンバーのレースをご覧になったのだなあと思うのです。
 また、このレースですが、出走台数が史上最多の34台となり、今も破られていない記録です。1950年代に世界選手権に組み込まれていたインディ500の33台よりも多かったのです。これには事情がありまして、1952年、53年シーズンにはF2規定でF1を開催するという変則的なルールが適用され、現代と違ってスポット参戦が自由だった時代ですので、ドイツGPでは地元で作られた多数のF2マシンが参戦したというものです。中には東ドイツから参戦したマシン、ドライバーもありました。また、この時代のF1の特徴でもありますが、優勝したファリーナは46歳、4位のボネットは49歳(!)と今では考えられないくらい高年齢のドライバーが活躍していました。

 その後、天皇陛下がF1を観戦されたという記録は残っておりません。私の手元にあります「クルマよこんにちは」(中村良夫著・三樹書房)によれば、天皇陛下は皇太子時代にホンダの研究所内のテストコースでホンダのF1マシン走行をご覧になり、ドライバーのリッチー・ギンサーと握手をされた、とあります。1960年代の第一期参戦の時のことでしょう。
 皇族方とF1の関連ということですと、昭和51(1976)年と翌52(1977)年に富士スピードウェイで開催されたF1GPで、主催者が高松宮殿下に大会名誉総裁を依頼されたのと、昭和62(1987)年に鈴鹿で開催された日本GPに三笠宮宜仁殿下(のちの桂宮様)が特別来賓として観戦されている記録があります。

 天皇陛下が自動車好きという話は聞いたことがありますし、近年、運転免許を返納されるまで御所の中でホンダ・インテグラのハンドルを握られていたそうです。あの日、ニュルブルクリンクでご覧になったレースから、長い年月が経ち、マシンもサーキットもだいぶ変わっておりますが、日本もF1の一員として地位を築いており、グランプリは今も続いております。
 

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イタリア映画祭2019

2019年04月28日 | ときどき映画
 10連休が始まりましたが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
 毎年この時期には、有楽町の朝日ホールでイタリア映画がまとめて上映される「イタリア映画祭」というイベントがあり、この10年ほどは何本かイタリア映画を観るのが恒例となっています。
 私自身、もともとイタリアの歴史、文化に興味を持ち、イタリアを何度か訪れるうちに、イタリア社会に対しても興味を持つようになりました。一時期はイタリア語の学校にも通っていたのですが、映画は語学の学習にもうってつけで、社会背景なども知ることができるので、今も楽しみなイベントとなっています。
 やや難しいテーマや重いテーマのものから、理屈なしで楽しめるコメディまで、イタリア本国で話題になった作品が上映されており、反響の高さから後に劇場公開されるものもあります。
 今日、私が観たのは「帰ってきたムッソリーニ」という作品でした。これは以前日本でも公開された「帰ってきたヒトラー」のイタリア版リメイクという位置づけです。「帰ってきたヒトラー」について、私は原作の日本語訳を読んだだけですが、現代に蘇ったムッソリーニがネットの動画を経由してテレビの人気者になり・・・というあらすじも「ヒトラー」と同じです。
 ちょうど今日、4月28日というのは1945年にムッソリーニがミラノで処刑された日でもあり、それを選んで本日の上映となったのでしょう。余談になりますが、終戦直後日本の映画館で最初に上映されたニュース映画のうちの一本が、このムッソリーニの処刑の場面だった、と亡父が話していました。
 この作品はコメディータッチではありますが、途中途中で一般市民へのインタビュー映像も挿入され、半分ドキュメンタリーのような形で進んでいきます。映画祭に合わせて来日した、この作品のルカ・ミニエーロ監督が上映後に観衆の質問に答える形でこの作品について語っていたところでは、イタリア人のファシズムに対する評価がドイツのナチズムに対する否定の仕方とは違う(イタリアの方がやや寛容という意味で)、といった趣旨の発言もありました。車に乗って行進するムッソリーニ(もちろん実際には役者さんが演じている訳ですが)に対して、ファシズム式の敬礼をした一般市民もいたということで、ドイツと同様、本来禁止されている行為ですので、イタリア本国での公開時にはショックを受けた人もいたそうです。今日のイタリアでは、移民や難民の問題、少子化や貧困層の存在、経済の低迷など、重い問題をいくつも抱えています。そういった社会に「救世主」として映りかねない人物を主人公として映画化したわけですが、ちょうど彼の地の総選挙に合わせて公開されたこともあり、大変な反響だったそうです。ムッソリーニの演説や大真面目なセリフが時には笑いを誘うわけですが、ここで笑われているのはむしろ我々観衆なのでは、と思わされる場面もありました。
 テーマがテーマなので連休早々、少々重い話になってしまいました。この作品は映画祭での上映は今日一回限りでしたが、秋にはロードショー公開されます。もし、秋になったら見に行きたい、という方は、彼の伝記なり、あの時代のことが分かる書籍なりを読んでから見ると、一層理解が深まるかと思います。

 5月4日まで映画祭は開催されます。最近の作品が中心ですが、過去に評価の高かった作品も上映されるということで、私もあと何回か足を運ぶことになりそうです。作品によってはイタリア社会のことをある程度知らないと入っていけないものや、結末がきちんと示されず、観衆に答えを任せるものもあるかもしれませんが、ハリウッドや日本映画とも違うテイストの映画を味わいたい方にはお勧めします。イタリアってこれまで知らなかったけど、いい役者さんが本当に多いです。
 



 
 
 

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Make TMS great again?

2019年04月21日 | 鉄道・鉄道模型
 月刊誌「鉄道模型趣味」(「TMS」)は、昭和22年以来、現存する最古の鉄道模型雑誌として機芸出版社から刊行が続けられていましたが、今月発売の2019年5月号で、機芸出版社の代表にメーカー、小売店であるIMONの井門義博氏が就任し、同誌の編集長にネコパブリッシング出身で、かつてのライバル誌の編集長だった名取紀之氏が就任したことが明らかにされ話題になっております。
 TMSは長らく日本で唯一の鉄道模型月刊誌として君臨し、後発の「とれいん」、「レイルマガジン(そこから独立したRM MODELSも含め)」が刊行されてからも鉄道模型月刊誌の一角を占める存在であり続けました。しかし、今月号の巻頭言によれば、前社長の体調不良など(経営陣の高齢化ということでもありますが)で事業の継続が難しくなり、結果としてIMONが引き継ぐことになった、とあります。
 かつては私も愛読している雑誌でしたが、近年は熱心な読者とはとても言えないような状況でした。ただ、機芸出版社の刊行物は子供の頃からお世話になっており、自分が生まれる前の車輛を体系的に知ることができた、という意味では「陸蒸気からひかりまで」はバイブルのような存在ですし、ブームやノスタルジーではない、リアルな昭和の情景を知るという意味で「シーナリィ・ガイド」は本当に役に立つ書籍と思っています。そのほかにも「明治の機関車コレクション」や「ナローゲージモデリング」など、実物、模型を問わず高い評価を受けている刊行物もあります。月刊誌としてのTMSにとどまらず、こうした書籍がこれからも刊行されるのであれば、歓迎すべきことと思います。IMONの代表である井門義博氏も編集長の名取氏も、長く続いてきたこの雑誌を止めるわけにはいかない、ということで大役を引き受けられており「もう一度TMSを偉大に」というお気持ちが巻頭言や巻末の「編集者の手帳」からもうかがえます。
 近年は中小企業の事業承継が話題になっておりますが、その観点からすれば、引き継ぐ相手が登場したということですから、悪いことではないはずです。これまでのTMSでは、長らく主筆を務められた故・山崎喜陽氏の方針とは思いますが、車輛工作も、車輛を走らせる場であるレイアウトも同じように扱い、紹介しており、私も含め多くのファンが「いつかはレイアウト」と思っていたのではないでしょうか。IMONさんはこれまでの編集方針は堅持し「お金は出すけど口は出さない」と言われておりますが、新しいTMSの誌面に今後、どのような変化が起きるのか見守りたいと思います。
 
 かつて「とれいん」誌上で、井門義博氏は自身のメーカー、小売店を興す前に、天賞堂銀座店の4階にあった「エバーグリーンショップ」でモデルワーゲン製1/87、12mmの日本型HOの製品を「魔が差して」たまたま入手したことで「日本型HO」に足を踏み入れることになった、というようなことを言われています。ご存知のとおり、日本では長らく「日本型で16.5mmの軌間の鉄道模型」では16番ゲージと呼ばれる1/80、16.5mmが幅をきかせておりました(その16番ゲージの誕生にもTMSと主筆の山崎喜陽氏が深くかかわっております)。一方、1/87、12mmは外国型と同じ縮尺、日本の在来線の狭軌感をリアルに再現できるということで一定のファンがおり、この時のことがきっかけでIMONさんもメーカーとしては1/87・12mmを中心に展開されています。IMONの名前は小売店としても、さらには「国際鉄道模型コンベンション」の運営を引き受けるなど、鉄道模型の世界で大きな存在となっています。あのとき、モデルワーゲン製の模型を他の方が買われていたら、日本の鉄道模型の世界は別の道を歩んでいたのでは、などと思うのです。

本稿は平成31年4月25日に一部加筆しました。

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更正の余地!?

2019年04月20日 | 鉄道・鉄道模型
 それは更生の余地でしょう、と突っ込みが入りそうですが、今回も鉄道車輛以外のNゲージの話です。
 この駄文に毎回お付き合いいただいている読者の方ならご存知のとおり、私は鉄道趣味だけでなく、飛行機などにも興味があります。それだけでなくミリタリー系への関心も多少あるものですから、戦車や軍艦のプラモデルなども昔は随分と作りました。
 かれこれ十数年前から、1/144や1/150スケールの戦車のミニチュアなどが人気を集めるようになり、私もそれにはまった一人です。現在でも食玩からレジンキット、3Dプリンター出力キットなどで、かなりマイナーな車種まで発売されています。今日は、そんな車輛達を近いスケールであるNゲージの鉄道模型の世界に活かせないかな、というお話です。
 
 最近、こうしたキットを発売しているYSKから1/150で「戦車改造ドーザー」と呼ばれる車輛のキットが発売されました。
 先の大戦後、旧日本軍は武装解除され、装備は大半が廃棄されたり、破壊されたわけですが、生き残った戦車の中には、排土板を取り付けて急造のブルドーザーや牽引車として使われたものがありました。こうした元戦車は「更正戦車」などと呼ばれていたそうです。
 製品は97式中戦車の砲塔を取り除いて、排土板をつけたタイプをキット化しています。キットと言っても一体成型で組み立ての必要がなく、同社の他の戦車などと同様、大変シャープな出来となっています。レジンキットですので、離型剤を落としたうえでプライマーサーフェーサーを吹き、好みの色に塗って、デカールを貼れば出来上がり、ということで週末のモデリングで十分作れます。
 こちらのキットには「東京都」の文字と都の紋章が入っています。東京都が戦災のがれきの除去や除雪などに使用するために保有していたようです。塗装についてはキットの説明では日本陸軍の戦車の土地色を指定していますが、模型ということで違う色でもありでしょう、と思いまして、都電の事業用車に塗られていたような緑色にしてみました。鉄道カラーの緑2号にMr.カラー128番灰緑色と、5番の青色を少量ずつ混ぜました。排土板はタミヤエナメルのメタリックグレイです。車内にトミーテックのザ・人間「現場の人々」から一体を塗り替えて立たせてみました。余談になりますがキットのデカールにもあります東京都の紋章は現在でも「正式な」都の紋章でありまして、都営交通などでみかけるいちょうの葉を連想させる(いちょうではなく、Tの文字をモチーフにしています)緑色のマークはシンボルマークという位置づけです。

 更正戦車のキットにつきましては「紙でコロコロ」というメーカーからも、95式軽戦車を改造した車輛がキット化されています。こちらは北海道で長年使われていたもので、冬の間車輪の代わりにそりをつけたバスの車体を牽引するなど、当地らしい使われ方をしていたようです。近年実車が「発掘」されてカラー写真も公開されています。
 私はどこかの工事現場に紛れ込んでいるという設定で建機らしい色に塗り、キャブ上には電車から拝借した二灯のライトをつけています。パーツもいくつか追加していますので、キットのオリジナルではありません。ご容赦ください。

 優れた性能を持つ軍用車両の中には、戦後も生産されたものがありました。ドイツ軍の小型半装軌車「ケッテンクラート」は、戦後も生産が行われて農業などの現場で使われていたそうです。こちらは食玩のMe163のおまけ(おまけのおまけと言うべきですね)でついていたものを塗り替えたものです。日本の軽トラック(トミーテックのカーコレクションより)と比較すると大きさが分かりますね。


もちろん、ケッテンクラートがホンダTN7やスバル・サンバーと並んでどこかの農作業の現場や、工事現場にいたということはないと思いますが、現場で働いていたらこんな感じではないでしょうか。
 こういった車輛たちを鉄道模型のレイアウトの中に登場させる場合ですが、目立つところに置かないで、例えば他の自動車や日常の風景の中にさりげなく置いた方が、見る側も「おおっ」と驚いてくれそうです。
 それからこちらもご覧ください。ドイツ軍のキューベルワーゲンが鮮やかな色に塗り替えられて河原に来ています。隣にはオフロードバイクもいます。両方とも食玩に入っていたもので、オフロードバイクは陸上自衛隊のものを塗り替えています。ジオラマのベースはスチレンボードの切れ端です。水面はリキテックスで塗ったあとにグロスメディウムやジェルメディウムなどで水の流れを再現しています。地面の部分はタミヤの情景テクスチャーペイントを塗ったのち、情景用の小石などを敷きました。手持ちの材料から使ったので、比較的大きめの石を配置する感じになりました。スケール的には大きな岩ということで、流れも急なようなので、川の上流でしょうね。


 さて、更正戦車というと、先の97式中戦車を改造したドーザーが警察でも使用され、昭和20年代前半に発生した「東宝争議」にも動員されている写真が有名です。一応、エンジン部分のグリルなどに鉄板で覆いがついていますが、オープントップですので、投石や火炎瓶といったものが飛んできたときはどう対処するつもりだったのか気になります。それにしても、どうして「更正」という言葉を使ったのでしょうか。私などは脳内で変換ミスをして、グレた97式中戦車が立ち直って塀の中から出てくる姿を想像してしまいます。ということでこのキット、いずれ警察バージョンでも作ってみたいです。

 



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