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工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

久しぶりに映画の話 「名もなき者」と、そして・・・

2025年03月16日 | ときどき映画

 今日は久しぶりに映画の話です。アメリカのシンガーソングライターであり、ノーベル文学賞受賞者であるボブ・ディランの若き日を描いた「名もなき者」を観てきました。

 舞台は1961年から1965年頃のアメリカということで、公民権運動、キューバ危機、ケネディ暗殺、ベトナムへの介入という時代です。ニューヨークにやってきた青年・ロバート・アレン・ジママンが歌手ボブ・ディランとして見いだされ、成功を手にし、そして・・・という物語です。この時代にアメリカの音楽界ではフォークミュージックの「復興」運動もあり、その中でディランもフォーク歌手というくくりで捉えられ、多くの聴衆の支持を得て、大きな成功を手にします。しかし、ジャンルにはめられるのを嫌う彼は、彼をメジャーに引き上げてくれたピート・シーガーが主催するフォーク・フェスのトリである行動に出る、というのがストーリーです。

 この映画、なんと言っても主演のティモシー・シャラメがディランそのもの、というくらい風貌などが似せて作っていました。音楽が好きで内気な青年が時間を経ても本質は変わらないところまで、彼自身のディラン像を作り上げていました。しかもあの特徴ある声や歌唱、演奏も吹き替えではなくシャラメ本人によるものだそうで、これも驚きでした。聞くところでは数年かけて体得していったということで、ものまねレベルではない感じがしました。

 ディランをめぐる人々もまた個性的でして、恋人のシルヴィ(本作のオリジナルキャラクターですが、モデルはスージー・ロトロといって、ディランのアルバム「フリーホイーリン」にディランと共にジャケットに映っている女性です)、ディランが登場した時点で既にメジャーとなっており、後に共同制作者でもあり、ディランと関係も持っていたジョーン・バエズ(態度がでかいところも含めて(失礼)モニカ・バルバロが好演)、その才能を評価し、ジャンルにとらわれない、という意味でもディランが自分の良き理解者として接し、心を通わせていたジョニー・キャッシュ、この時代には既に療養中の身ではありながら、見舞いに訪れたディランの才能を見抜いたウディ・ガスリー、フォーク歌手ピート・シーガーの日系人の妻トシ(初音映莉子が好演)は一歩離れたところからディランを見つめながら、時には理解者でもあり、ということで音楽と人間のドラマが展開します。本作のジェームズ・マンゴールド監督は事前にディラン本人と話す機会を持ったということですし、モニカ・バルバロはバエズ本人と電話で話す機会を持つなど、存命中の人物を採り上げる映画ということもあり「本人公認」となっているようです。主演のティモシー・シャラメに対してもディラン自身が好意的な評価をSNSでしたことも話題になりましたし、シルヴィ役のエル・ファニングはもともとディランの大ファンというのも興味深いところです。

そんな中でディランは流されず、時には自分の思いを強く通し、ということで「おいおい、そんなことしたら友達も恋人もなくしちゃうぞ」なわけですが、本人は「自分は作りたい曲を作り、歌いたい詩をそれに乗せて歌うだけ」で「歌手として生きることは社会運動でもなければ勝ち負けでもない」と思っていた節があるのではないでしょうか。自分の思いを通す、生き方を通す、というのはとても難しいし、覚悟もいるわけですが、それを20代の若者が体現していたということでしょう。

実在するミュージシャンの映画というと最近ではボヘミアンラプソディーが有名で、あちらは主人公の人生がジェットコースターのように展開しますが、本作はそこまでの派手さはなくとも、音楽が好きなら若い方であっても気に入ると思います。余談ですが「ボヘミアン~」のハイライトでもある1985年のライブエイドではアメリカ側のステージにディランもバエズも出演しています。当時のMTVで人気を博した演者に歓声が送られる中、二人とも「過去の人」になっていたというのが、まさに「時代は変わる」を体現してしまったように思います。

本作は私が生まれるよりさらに前の時代を描いているせいもあってか、タバコのシーンも多くて、今どき珍しいくらいだな、というのもまた、この数十年の変化でしょう。映画を観たのは寒い日でしたので、上映後はディランのように背中を丸め、ポケットに手を入れてニューヨークのグリニッジビレッジならぬ歌舞伎町を歩く「ボク・ディラン(Ⓒみうらじゅん)」でした。

 

映画の話をもうひとつ。昨年のイタリア映画祭で上映された「まだ明日がある(C'e ancora domani)」ですが「ドマーニ!愛のことづて」として公開されています。イタリア映画とて上映館も少ないようですが、じわじわ人気になってほしいな、と思っています。コメディエンヌでもあるパオラ・コルテレージ監督・主演作品ということもあり、ヨーロッパ映画、そして女性の権利というテーマの小難しさはコメディで包んでいますので、ヨーロッパの映画なんて、と食わず嫌いしないで観てほしいです。

 

 


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男と、女と、レーシングカーの愛憎劇 映画「フェラーリ」

2024年07月13日 | ときどき映画

 仕事だ模型だと忙しい日々を過ごす中(特に仕事が・・・)、時間ができましたので映画「フェラーリ」(マイケル・マン監督)を観てきました。フェラーリの創業者・エンツォ・フェラーリを主人公にした映画が撮られているという話は噂に聞いておりまして、あまりに偉大な人物ゆえに果たしてどんな仕上がりなのかということで気になっておりました。

(本作のパンフ)

 物語は1957年、前年に愛息を難病で亡くし、さらに会社の経営も傾いて他社への売却の噂が立ち、おまけに愛人と隠し子がいることを夫人に知られて、ということでさまざまな苦境に立たされていたエンツォ・フェラーリが、ミッレ・ミリアと呼ばれる長距離公道ラリーで挽回を目指そうとして・・・ということで展開していきます。

 1957年のミッレ・ミリアについては私も知っていますので「ははあ、あの話が出てくるのね」というところですが、そこに向かうまでのチーム内、ライバル、マスコミそして本妻と愛人という「二つの家族」の物語が盛り上げていきます。ハリウッド映画で当然英語圏の役者さんばかりですので、登場人物がみな英語を話しています。背景などで話されている言語はイタリア語であったりしますので、イタリア語学習者の私にとっては少々違和感があります(ほとんどの方はそれも感じないかもしれないですが)が、やがてそれも気にならなくなりました。ちなみにミッレ・ミリアというのはイタリア北部ブレッシアを発ち、アドリア海側に沿ってイタリア半島を南下、山を越えてローマに出て、ローマからはブレッシアに向けて北上してゴール、というもので、コースの全長が1000マイルを意味するイタリア語から取られた、現代では考えられないレースです。昔は「春の風物詩」的イベントだったようで、クラシックカーのイベントとなった現代でも、私の最初のイタリア語の先生がブレッシアの近くで生まれた方でしたが、ブレッシアの人たちには「ミッレ・ミリア」の街、という誇りがあるようです。

 アダム・ドライバー扮するエンツォ・フェラーリは、同時代に活躍したJ.M.ファンジオを演じても似合いそうな風貌ですが、この人なりの「エンツォ・フェラーリ像」を構築している感がありました。エンツォのシンボルマークのようなサングラスとジャケット姿がさまになっています。

 また、いくつかの映画評にもありましたが、妻・ラウラを演じたペネロペ・クルスの存在感が半端なく、鬼気迫る演技が時に主役を喰うほどで、男として背筋がぞくっとなるような場面もあります。ラウラは妻でもあり「共同経営者」という立場でもありますので、エンツォも弱点と言うか、急所を握られているわけで、妻に対して強く出られないところも含め、よく描いています。映画の中では触れられていませんが、あの頃のイタリアはローマ・カトリックのおひざ元ということでカトリックの影響がとても強く、簡単に離婚ができない制度となっていました。いわゆる「離婚法」ができるのは、もうちょっと後の時代になってからです。

 もちろんレースのシーンは本物(!)も撮影のためのレプリカもふんだんに使われ、迫力のあるシーンが展開します。F1マシンはまだエンジンがドライバーの前方にあった葉巻型の時代で、スポーツカーはどれも流麗なスタイルをしています。マイケル・マン監督も製作に関わっていた「フォードvsフェラーリ」(2020年2月に拙ブログでもご紹介していますが)については、本作より10年くらい後の物語で、あちらはフォード側を主役に据え、ル・マン24時間をめぐるどちらかというと「男の子の映画」という感じですが、こちらはエンツォ、妻のラウラ、愛人のリナ、その子供のピエロ、さらにはフェラーリのドライバー達も含めた重層的な人間ドラマという感じがいたしました。エンツォ・フェラーリというと「謎めいたオールドマン」というイメージでこれまで描かれがちでしたが、血が通い、体温を感じる人間・エンツォに迫った感がいたします。それにしても車を売るのは二の次で、レースの為に会社がある、ということでは、あの時代のフェラーリが多額の負債を抱えてしまうのはむべなるかな、というところで、ネタバレにならない程度に書きますが、紆余曲折があって後にフェラーリはフィアットの傘下に入ることになります。そこが創業者の影響が強いとは言いながらも、レースを「走る実験室」と位置付けたホンダとの違いでしょう。

 この映画で描かれている1957年時点のフェラーリのワークスチームのドライバー達ですが、天寿を全うできたのはピエロ・タルッフィ(日本のモータースポーツにも影響を与えた人物で、本作ではパトリック・デンプシーが好演)とオリビエ・ジャンドビアンら少数で、本作でも重要な役どころのポルターゴ侯爵、キャスティロッティ、コリンズ、ホーソーン、フォン・トリップスといった面々はこのシーズンやそのあとの数年のうちに何らかの事故で世を去っています。フェラーリのみならず、ライバルのマセラーティに乗るジャン・ベーラもですが・・・。それだけ危険と隣り合わせのスポーツだったわけで、それは「フォードvsフェラーリ」の60年代も、さらにそこから10年後の70年代を描いた「ラッシュ プライドと友情」においてもそうでした。本作でも痛ましい事故の場面が出てきます。

 やや小ネタ的な話になりますが、イタリアを舞台にしていますので、イタリアの美しい街並み、そして鉄道のシーンもあります。独特のオリーブ色に塗られたE626形電気機関車が客車を牽いて駅に到着するシーンですが、イギリスや明治期の日本でおなじみの客扉がコンパートメントごとにずらりと並んだ客車が出てきます。1920年代くらいの車輌と思われますが、あのスタイルの客車はイタリアのローカル線ではその後も健在で、大正期の客車が戦後しばらくして淘汰された日本とはだいぶ事情が違います。

 また、本作では1957年の数か月にフォーカスしていますので周辺の話も書きますと、F1はマセラーティのファンジオが5度目のタイトルを獲って引退しています。特にドイツGPの大逆転劇は今でも語り草です。映画では描かれていませんが、フェラーリはF1撤退を決めた同じイタリアのランチアから譲渡されたマシンを元に戦った2年目でもありました。

 レースシーンだけでない、男と女とレーシングカーの愛憎劇、いろいろ重い部分もありますが、興味のある方はぜひ劇場へ。

 

5月にご紹介したこちらも劇場公開中です。実物大の潜水艦セットを作ったプロダクトノートなどが興味深く、パンフ買いました。

 

 

 


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イタリア映画祭2024から

2024年05月14日 | ときどき映画
 先日、潜水艦コマンダンテの話を書きましたが、イタリア映画祭では他にもいくつかの作品を観てまいりました。子育てや仕事を言い訳に、このところイタリア語の学習もだいぶおろそかになっていますので、せめてイタリア語の映画を見て感覚を取り戻せたらというのもあります。
 私が映画祭で観た作品は5本と、ここ数年に比べだいぶ多かったのですが、それだけ観たい作品が集まったのと、コロナ禍が明けて、あちらの映画製作もだいぶ元気になっているというところでしょうか。「潜水艦コマンダンテ」のあと、私が観た4作品を観た順に記していきます。
(タイトル画像は「まだ明日がある」)
1 「ヴォラーレ」
 名女優・マルゲリータ・ブイが初めて監督を務め、主演した作品です。飛行機恐怖症ゆえに海外での仕事をフイにした女優が主人公で、女優として成功したい、という思いと、海外に留学予定の娘のことが気になり、航空会社が主催する恐怖を克服するセミナーに参加して・・・というのがあらすじです。実際にブイ自身が極度の飛行機嫌いで、そういったセミナーに参加した経験がもとになっているとか。数年前の映画祭のガイドブックにも本人の飛行機恐怖症のことが出ていました。セミナーの参加者もさまざまで、エピソードを少々詰め込み過ぎた感もありましたが、そこは本人の演技で救われているように感じました、などと書いたら本作品のセミナー受講者の一人である「必ず否定から入る映画評論家」みたいですね。私も他人のことをどうこう言えません。私も高所恐怖症なところがあって、飛行機好きとは言いながらも鉄道で行ける場所は鉄道で行き、どうしても飛行機でないと行けない場合のみ、飛行機を利用するという人間なのです。この映画、アンナ・ボナユート扮する芸能事務所の女社長のやり手ぶりも見ものです。イタリアのベテラン女優さんってみんな個性が強くて印象に残る演技をしています。

2 「別の世界」
 リカルド・ミラーニ監督の作品には「はずれ」がなく、誰もが楽しめるコメディーを作っています。本作はローマから車で2時間ほど、アブルッツォ州の寒村が舞台です。ローマでの教員生活に疲れ、地方勤務の願いがかなったベテラン教師(アントニオ・アルバネーゼ)ですが、山の集落には都会にはない「別の世界」が待っていました。慣れない生活に(狼の遠吠えですら本人には予期せぬ出来事でした)戸惑いながらも同僚や村の人たちの助けもあり、少しずつ村の人間として認められていきます。しかし。村の小学校は生徒数の減少で廃校の危機に。村の学校がなくなれば、日本風に言えば「限界集落」にとどめを刺すことになりかねません。そこで副校長(ヴィルジニア・ラファエレ)とともにあの手この手で(時にはかなり強引な手段で)子供を確保しようと奮闘します。せっかく作った「ハコモノ」が簡単に打ち捨てられたりといった風景は我が国を思わせますし、また校舎にいる時間以外もさまざまな形で拘束され「月給1400ユーロの私たちは新たな労働者階級」と副校長の台詞にあるように、教師という職業がどこの国でも厳しい仕事になっていることをうかがわせるシーンが出てきます。
 廃校を防ごうとする村の人たちもいれば、廃校されて大いに結構、という街の人たちもいます。また、ロシアのウクライナ侵攻によってイタリアに逃れた難民など「現在の」話題も出てきます。学校の生徒たち(実際にロケが行われたアブルッツォの子供たちが出演しています)の方が大人より一枚上手だったりして、そのあたりも物語のスパイスになっています。ラストはなんとなく想像つきましたが、それでも「この人の映画は面白い」という気持ちにさせてくれます。村の人たちの独特のあいさつが日本語で「おう」と聞こえ、なにかユーモラスな感じがしました。豊かな自然の風景にも☆を一つ多めにあげたいですね。


3 「アモーレの最後の夜」
 俳優としても活動しているアンドレア・ディ・ステファノの監督作品。主演は「潜水艦コマンダンテ」のピエルフランチェスコ・ファビーノです。定年まで拳銃を一度も人に対して撃ったことがないのが自慢の警察官アモーレが、在職最後の夜に巻き込まれる事件を軸に描きます。1970年代あたりにあった犯罪映画のようなテイストですが、チャイニーズマフィアが出てくるところが「今風」ではあります。こちらの舞台はミラノですが、やはり高層ビルのシーンなどはミラノでないと撮れないですからね。おまけに黒幕が・・・おっとこれ以上書くとネタバレになるのでやめましょう。監督は作品の取材をするうちに、警察官の給料がその過酷な職務に見合わない薄給であることに気づいたと言います。映画の台詞に「月収1800ユーロ」とありましたので、偽らざるところなのでしょう。

4 「まだ明日がある」
 リカルド・ミラーニ夫人でもあるコメディエンヌ、パオラ・コルテレージの初監督作品。イタリア本国ではハリウッド作品などを抑えての大ヒットだったそうです。作品は終戦直後のローマが舞台です。先に降伏してうまく立ち回ったつもりのイタリアも、結局のところアメリカを「進駐軍」として受け入れ、日本と同様多くの人が貧しかった時代です。モラハラ・パワハラで甲斐性なしの夫(ヴァレリオ・マスタンドレアが好演)に耐え、義父の面倒を見て、さらに自らはパートを掛け持ちして家計を助けるという主人公デリアを監督自身が演じています。この時代、多くの国でそうだったと思いますが、イタリアでも男女の平等は夢物語であり、主人公が経験するように学歴、賃金、さまざまな権利とあらゆるところで格差・不平等がありました。主人公夫婦には三人の子供がいますが、長女は「女だから」という理由で高等教育を受けられません。もっとも、主人公のパート先の上流階級のお屋敷でも「女は口を挟むな」的な会話を主人公が聞いてしまう場面があります。娘にも縁談が来ますが、相手の男が娘に求めるものが結局これまでの男たちと変わらぬことに気づいた主人公は、たまたま知り合った米兵に頼んで、とんでもないことをしてしまうのが、なかなか痛快ではあります。この映画の時代より少しだけ下りますが、どこかの国でも「これ以上理屈っぽくなってどうする」と父親から大学進学を許されず、短大に進んだなんていう女性の話を聞いたことがありますからね。
 そんな主人公のところに、ある日一通の手紙が届きます。そこから彼女の人生が(今の目で見れば小さなことですが)変わっていきます。「手紙」の意味がラストになってようやく明かされますが、私などは「ヤラレタ!」と言いたくなり「パオラ姐さん、やるじゃん」と思いながら、明るくなったホールの席を立ちました。
 この映画、女性の自立、平等といったテーマでもあり、重い内容なのかと思いましたが、きちんとコメディの形を借りており、全編モノクロの画面は終戦直後のネオレアリズモ映画を思わせます。夫の暴力のシーンをあえてミュージカルっぽく撮っているのもこの「監督」らしさかなと思いました。パオラ・コルテレージというと、私などは以前イタリアを訪れた際に見た、ミネラルウォーターのCMに出演していた動きの多い女優さんとして認識していたのですが、デビュー作にして(脚本については夫の作品に共同執筆していますが)たいへん素晴らしい作品を撮りました。イタリアの映画賞である「ダヴィド・ディ・ドナテッロ賞」でやはり今回の映画祭で公開されていた「僕はキャプテン」と分け合うかののように各賞を受賞し、たくさんのトロフィーを両手で抱えてほほ笑むパオラ・コルテレージ監督の画像がネットに出ていました。コメディの形を借りながらもちゃんと観客に考えさせ、劇場を出るときにはとても明るい気分にさせてくれた本作は、日本でも劇場公開してほしい、たくさんの方に見てほしい作品です。その時には邦題もオリジナルを無視したつまらないものではなく「まだ明日がある」という原題の直訳そのものでも十分と思います。

なお、昨年私がご紹介した「あなたのもとに走る」は今夏に「しあわせのイタリアーノ」という名前で公開されます。こちらもオリジナルとは全く関係ない無粋な邦題で、なんでこういう題名にしたのか理解に苦しみます。原題の方がよほど作品を表しているのに。


 


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イタリア映画祭 「潜水艦コマンダンテ」を観てきました

2024年05月02日 | ときどき映画
 ゴールデンウィークには東京で開催されるイタリア映画祭を観に行くことが多いのですが、今年は5/1から始まりました。初日夜の上映が「潜水艦コマンダンテ 誇り高き決断」という作品で、第二次大戦にあった秘話を元に描いた作品ということで、観てまいりました。
 1940年、大西洋での作戦のため、イタリア海軍の潜水艦コマンダンテ・カペリーニが出港します。ジブラルタル海峡を苦労して通過した後、一隻の貨物船と交戦ののち、潜水艦に搭載の艦砲で撃沈します。この時、輸送船からボートで脱出した乗組員たちを見捨てるという選択肢もありましたが、潜水艦の艦長の命で乗組員を収容し、ただでさえ狭い艦内に捕虜という「招かれざる客」が現れました。水線上の司令塔まで捕虜を乗せたことから潜航が難しくなった艦はひたすら浮上したまま中立国に向かいます。浮上したままの潜水艦がいかに無力な存在かは、このブログの読者ならご存じでしょう。ところが、そこにイギリス艦隊が現れて、潜水艦の艦長はある決断をする・・・というのがストーリーです。
 イタリア艦が撃沈した輸送船はベルギーの貨物船で、この時点ではベルギーは中立を保っていましたが、ほどなくして連合国側につきます。この航海もイギリスのための物資輸送でした。時に不穏な空気も流れますが、艦長と貨物船の船長ら士官クラスとは奇妙な友情がめばえます。
 この映画、実物大の潜水艦のセットを用意したほか、艦内も当時の写真を元に「イタリア艦らしさ」を出す形でよく再現されています。映画祭に合わせて来日したエドゥアルド・デ・アンジェリス監督によると、安易にCGに頼らず、波しぶきなどは本物の水を使ったそうです。それ故にキャストの中には低体温症で救急搬送(幸いすぐ回復したそうですが)、ということもあったようです。また、夜のシーンが多かったので、撮影スタッフの腕の見せ所ではあるのですが、暗くなり過ぎず明るすぎずで映画として見るにはとてもリアルに撮れていました。
 この映画、なんと言っても艦長役を演じたピエルフランチェスコ・ファビーノ(チラシ中央)の存在感ある演技に尽きます。小さく、狭い潜水艦ではありますが、艦長として乗組員全員の命を預かる大きな存在であるとともに、副長とのやりとりに見られる海賊船の船長のような野蛮な一面もあれば、預言者めいた部分、そして時折瞑想にふけったり、また自分たちの身を危険にさらしてまで捕虜を見捨てないという人間として大切な部分という多面的なキャラクターを演じ切りました。実際の艦長がヴェネト州で育ったことから、主役のファビーノもかなり癖のあるヴェネト地方の方言でしゃべっており、ずいぶん字幕のお世話になりました。監督曰く細部にわたって役作りをしてきたということで、名優の演技を見られるという点でもこの映画お勧めです。昨年の映画祭では「あなたのもとに走る」という映画でしょうもないプレイボーイを演じていましたが、今作では重厚なこの人らしい演技がみられます。
 映画の中では食に関するシーンもずいぶん出てきます。ここも監督がこだわったところで、海中をずっと進む潜水艦では食べることがどこの国でも重要視され、また最も大きな楽しみでもあります。艦長の命令で艦の料理人がイタリア各地の料理の名前を言いながら具のほとんど入っていないスープを各自に盛り付ける場面が出てきたり、捕虜にしたベルギー人からポテトフライ(彼の地ではフリッツと言いますが)を教えてもらうシーンもあり「なんでも揚げ物にするナポリ人でさえ考えつかなかった」というセリフには観ているこちらも楽しくなります。 艦内はさまざまな地域の出身者で構成され、別の星から来た人たちのよう、と形容されるシーンもありますが、それでも乗組員は「イタリア人」としてイタリアのため、さらには艦という小さな社会のボスである艦長のために働くシーンが随所に描かれていました。
 映画のラスト近く、ベルギーの船長が「なぜ私たちを見捨てなかった」と問うと、艦長から「我々がイタリア人だからだ」という言葉が返ってきます。このせりふにぐっと来ました。
 この映画、今夏に全国公開だそうです。イタリア海軍が当然のように全面協力した作品、機会があればぜひ劇場でお楽しみください。


 


 

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スクリーンで手に汗握る 映画「グランツーリスモ」

2023年11月07日 | ときどき映画
 F1に工作、それから本業も忙しくしており、なかなか観に行けなかったのと、ブログにも書けなかったのですが、数週間前に映画「グランツーリスモ」を観てきました。たぶん上映はほとんど終わってしまっていて、配信やおそらく発売されるであろうDVDを見ていただくことになるかと思いますが、この作品の話におつきあいください。
 この映画、ソニーのプレステで有名な同名のゲームのチャンピオンが実際のレースで通用するのか、という話です。実在するレーシングドライバーで、まさにゲームのチャンピオンから本物のレーシングカーに乗ることがかなった青年ヤン・マーデンボロー(演じるのはアーチー・マデクウィ)の実話が元になっています。マーデンボローは日本でもレースに出場していたことがあり、私も名前は知っていましたが、詳しいバックグラウンドまでは知りませんでした。
 映画は若者の挑戦と挫折、そして栄光をつかむまでという様々な形で繰り返されてきたストーリーですが、ゲームと実車といった対比、さらに主人公とその周囲の大人たちとの関係、そして何より実車を使った迫力のレースシーンが魅力です。
 実際に日産がソニーと組んでゲームのチャンピオンたちのための「アカデミー」を開設しており、映画でも主人公が他のライバルたちと切磋琢磨しながら成長していきます。そして彼らの指導役であるデヴィッド・ハーバー演じるソルターという元レーサーが、口は悪いしスパルタだし、という一面と、主人公の判断が正しければそれを尊重する、単なる頑固おやじじゃないところもあって、何とも魅力的です。また、このアカデミーの言い出しっぺでもあるオーランド・ブルーム演じるムーアという男も、日産側の人間として野心を隠さず、マーケティング優先の考え方ではありつつも、現場の意見もちゃんと尊重しており、ソルターに対しても信頼を置いていることがわかります。
 マーデンボローはアカデミーを首席で卒業し、晴れて「本物の」レースの舞台に立ちます。最初はソルターの無線の指示なしにはレースができなかった彼も、次第に自分の意志と力でレースをしていきます。こういうドラマにはつきものの金持ちのボンボンレーサーの意地悪とか、老獪なライバルに邪魔されたり、といったことも起こります。大きな事故やリタイアを経験しながら、クライマックスはアカデミー出身の他のドライバー達と組んで挑むル・マン24時間で表彰台を目指す・・・という展開で、後は映画を見てのお楽しみ、としておきましょう。実車もCGもありますが、レースシーンは本当に迫力があります。このゲームの製作者の山内一典(映画では平岳大が演じています)は細かなところまでかなりリアルにこだわっており、それがグランツーリスモというゲームの特色であり、魅力だそうですが、この映画でも製作総指揮をとっており、そこは変わらないようです。
 アカデミーのシーンでは当然日産車が使われますし、カセットテープでブラック・サバスを聴くソルターのために東京でお土産に買うのはソニーのウォークマンで、ソニーと日産のプロモーション映画みたいなところもありますが、それは仕方ないでしょう。レースシーンではランボルギーニあり、ポルシェありで楽しめますよ。
 劇中、主人公とガールフレンドが東京を訪れる場面があり、渋谷や新宿界隈も出てきます。ああ、あのあたりは歩くなあとか、空撮映像がおいおい、西武新宿に歌舞伎町じゃね、ということで自分の身近な街が横文字の映画に出てくると奇妙な感じがします。新宿のシーンでは実際にロケしたのかどうかは分かりませんが「思い出横丁」なんかが映ったりしています。主人公もそうなのですが、トーキョーは憧れなんでしょうね。
 主人公・ヤン・マーデンボローの話に戻りますが、父親が元サッカー選手というのも実話のようで、お父さんは約20シーズンにわたって、プレミアリーグの一つ下のリーグを中心にプレーしていたようです。映画ではお母さん役にジェリ・ハエウル・ホーナーが出演しています。この名前を知らなくても、元スパイス・ガールズのジンジャー・スパイスなら知っている方もいらっしゃるでしょう。今はレッドブルF1チームのボス、クリスチャン・ホーナー夫人ということで、レースつながりのキャスティングだったのでしょうか。
 映画では主人公が大事な勝負の前にケニー・Gやエンヤを聴くシーンが出てきます。これは実際にそうらしいです。:ケニー・Gにエンヤって、90年代前半のOLみたいな趣味ですが、私のウォークマンにも(エンヤはコンピレーションの一曲だけど)この二人の曲が入っています。勝負どころでは聴かないけどね。好むと好まざるとに関わらず、私も映画のソルターのような「若手に自分の経験を伝える」側になっていますので、やはり年長の人間の目線で映画を見ておりました。
 この作品、日本語吹き替え版だとエンドテーマをT-SQUAREのCLIMAXという曲が飾っているのですが、上映時間の都合がつかず、私は字幕版でした。でも、グランツーリスモのオープニング曲「Moon Over the Castle」が数小節流れる場面が本編にあることから、エンドロールにはこの楽曲名と作曲者でスクエアの元リーダー安藤正容さんの名前がクレジットされているのを見て、うれしくなりました。CLIMAXは河野啓三さん作曲のある意味日本的なインスト・ロック曲ですが、日本を感じさせる部分も多い映画ですから、きっとマッチしていたのではないかと思います。
 「Moon~」をスクエアが「カバー」しているのが「Knight's Song」で、1997年のアルバムに初めて収録されたのですが、私は2005年「Passion Flower」ボーナストラックの・・・って誰も聞いてないですね。
 そんなわけで実際にサーキットでレースを観たような心地よい疲れとともに映画館を出ました。当然、帰り道のBGMはソニーのウォークマンでT-SQUAREの「CLIMAX」でした。

(本作のパンフレットと右下はトミカのNISMO GT-R GT500のミニカーで、豚児のものを拝借してきました)

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