工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

噺家とテレビとプラモデルと

2022年08月30日 | 工作雑記帳
 落語家として長年活躍され、テレビでもおなじみだった三遊亭金翁師匠が亡くなりました。私などは三遊亭金馬という名前の方がなじみがありますし、私よりもっともっと上の世代ですと、小金馬の時代から知っているよ、となりましょう。その三遊亭小金馬時代には、テレビ草創期の人気番組「お笑い三人組」で知られ・・・というのは新聞等でも書かれているところですが、もう一つモデラーにとっては伝説的な番組に出演されていました。
 その番組は「陸と海と空」といい、フジテレビで日曜の朝10:00~10:30に放送され、スポンサーはプラモデルメーカーのマルサンでした。昭和34年6月から2年間も放送され、その司会が三遊亭小金馬でした。もともと模型が好きだったということで白羽の矢が立ったようですが、当時の人気落語家でありタレントを起用していたというのも番組スポンサーのマルサンの力の入れようが分かります。番組の内容はそれぞれの放送日にゆかりのあるゲストをスタジオに迎え、番組のタイトル通り自動車や船舶、航空機の話題などを放送していたようです。この番組の効果もあって、マルサンのプラモデルは放送開始後から数か月経った秋頃から爆発的に売れたと伝えられています。
 日本初の国産プラモデルは何か、というのは諸説あるようですが、マルサンのノーチラス号がその一つであり、現在も童友社から再販されていることは多くの方がご存じでしょう。しかし、プラモデルについては当初、問屋筋の評判も芳しくなかったといいます。それでも当時のマルサンの社長は「これはきっと売れる」と信じて希望小売価格の設定など、当時としては強気の商売をしておりました。それでもなかなか売り上げが伸びない中で、テレビと言う当時の新しいメディアでプラモデルを知ってもらう、というある意味「賭け」に出たわけです。フジテレビもまだ開局して日が浅く(開局は昭和34年3月)、新しいメディアに子供たちの新しい娯楽がマッチしたのかもしれません。こうして、マルサンとプラモデルの名前は全国に知れ渡っていくことになりました。
 番組は2年で終了し、マルサンというメーカーも消滅しましたが、司会の小金馬は金馬を襲名して以降も模型好きの著名人として知られ、タミヤニュースの「模型ファンを訪ねて」にも登場しています。
 私にとってはマルサンという名前は生まれる前の話でしかなく、マルサンのプラモデルについても中古屋さんのガラスケースに収まっているのを見る程度ではありますが、マルサンから他メーカーに金型が渡った製品はあちこちで見かけましたし、私自身が組んだものもあります。それが1/50のF-86Dでした。これは幾度か再販され、私が手にしたのは1980年代前半、中学生の頃「アルカンシエル」のブランドで発売されたものでした。今でいう「情報量の多いキット」といったところで、オール可動でノーズコーンを外せば当然レーダーが顔をのぞかせ、前後に分かれる胴体にはエンジンも入っていて、パイロットに整備士のフィギュアもあります。固定武装のロケット弾とランチャーももちろん入っています。中学生の工作能力ですから、大したことはできませんし、可動部分の多いキットの悪いところであちこちガタガタになってしまうおそれもあり、そこは適宜妥協しながら作った記憶があります。
 昭和から令和まで活躍された人気落語家の話から、飛行機のプラモデルの話で着地、いや着陸いたしました。なお、本稿の執筆にあたっては、モデルアート社刊「モデルス プラスチック'60」(平野克己 編著)、「タミヤニュースの世界」(田宮模型編 文春ネスコ発行)を参考にしました。特に前者の「マルサン物語 昔マルサンと云うメーカーがあった」では、平野克己氏がマルサンの石田實・元社長をはじめ関係者への取材を通して、プラモデル誕生から「陸と海と空」、そしてマルサンの最後に至るまでを詳しく書いています。






 

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最強・最速マシンの光と影 フェラーリF2002

2022年08月24日 | 自動車、モータースポーツ
 三栄のGPCarStoryはこのブログで何度もご紹介していますが、最新号は2002年を文字通り席巻したフェラーリF2002を特集しています。このマシン、2002年シーズン第3戦からデビューし、最終第17戦日本GPまでに15戦14勝、1-2フィニッシュ9回、翌2003年序盤も1勝を挙げて2003年型マシンに引き継いでいます。フェラーリは1990年代後半のシューマッハ加入以降「復活」を遂げ、1999年はコンストラクターズタイトルを獲得したほか、2000年以降シューマッハが2004年まで5連覇という快挙を成し遂げています。特に2002年の強さはこの中でも群を抜いており、チームメイトのバリチェロを従えて表彰台に上がり、ドイツ国歌とイタリア国歌が流れるシーンを何度も眺めることになりました。シューマッハが7月にはタイトルを決めたというのも異例の早さで、シーズン後半の多くのレースが「消化試合」となったわけです。

 なぜこれだけの速さを獲得できたのか、ということについては本書でも詳しく触れられておりますが、マシン後部の空力追求のためにギアボックスを徹底的に小型、軽量化したこと、レース中の途中給油2回を前提とした小型の燃料タンク(当時はレース中の燃料給油が認められていました)、そしてフェラーリ専用ともいうべきブリヂストンタイヤの開発といったところがカギになっており、関係者の証言も含めて読み解くことができます。
 今号ではこのシリーズでおなじみのデザイナー、ロリー・バーンのみならず、ロス・ブラウン、ジャン・トッドといったチームの首脳陣へのインタビューも掲載されています。みな「シューマッハの加入と共に」フェラーリにやってきて、苦楽を共にした人たちです。
 こうした最速マシンの「光」の部分もよく分かったのですが、今号では2002年シーズンの前半・オーストリアGPで起きた「チームオーダー事件」についても触れています。これは決勝レース中に首位を走るバリチェロに対して僚友シューマッハを先に行かせるよう指示があったもので、バリチェロが抵抗しつつもシューマッハを先行させたのでした。2000年、2001年に連覇し、このシーズンも前半ながら既にタイトル獲得に向けて視界良好だったシューマッハをそこまでして優先させるのか、という非難が当時少なからずありました。シーズン終盤で1ポイントが大切な意味を持ってくる時ならともかく、今それをやるのか、というわけです。後にアメリカGPでシューマッハがバリチェロに勝利を「譲った」ことも話題となりました。
 これについてはチームのトップ、ジャン・トッドは当然のことだと答えていますし、ロス・ブラウンもシューマッハ加入後の数年(特に1997、1998年)などは最後の最後でタイトルをライバルに獲られており、その敗北の記憶から、徹底してシューマッハを優先させ、タイトルに近づけさせたかったようです。ちょうどこの時代が、巨大自動車メーカーが相次いでF1にコミットし始めた頃で、マクラーレンとメルセデスの関係は90年代後半以降ますます深化していましたし、BMWが復帰してウィリアムズと組み、もともとベネトンと組んでいたルノーも、ベネトンを飲み込む形で参戦、ホンダが復帰してBARやジョーダンと組み、さらには巨人トヨタがいよいよ参戦ということで、ちょっとのきっかけでシーズンの流れが変わる怖さを感じ取っていたのでしょう。ましてや当時はシーズン中のテストも青天井状態でしたから、いつ出し抜かれるかという怖さもあったことでしょう。実際、他のチーム以上にフェラーリもテストを沢山行うことで問題点をつぶし、マシンを仕上げていたようです。
 また、タイヤについてもブリヂストンだけでなくミシュランが参入、リーダーの浜島裕英氏のインタビューによれば、F2参戦時にミシュランに敗北した苦い記憶などがあり、圧勝した記憶よりプレッシャーも相当なものだったようです。もっとも、ミシュラン側がメディアに「ないことないこと言っていた」というのも頭痛の種で、そのあたりのF1特有の政治的な駆け引きというもうひとつの戦いだったようです。
 残念ながらドライバーの主役、シューマッハが長年のけがの療養で声を聴くことができないわけですが、ライバルチーム・マクラーレンに在籍していたデビッド・クルサードがシューマッハの強さについて解析しています。まだF1デビュー前にメルセデスの「特待生」としてスポーツカーのレースに出ていたことでスタミナがあり、レース全体を俯瞰して、勝負する場面を見極めるなどの能力を身につけたのではないかという指摘は、シューマッハのレースぶりを見ていると確かにその通りだなと思いました。若いころからただ速い、というのではなく勝負どころがわかっていたり、ピット戦略を巧みに使えるドライバーでしたので、良いマシンが手に入れば無敵なわけです。また、シューマッハのチームメイト、バリチェロもF2002を「最高のマシンの一つ」と言っています。バリチェロはシューマッハとは厳然とした差があり、それが容易に縮められるものではなかったわけですが、そうは言っても素晴らしい日々だったと回想しています。
 ジャン・トッドのインタビューで印象的だったのは、フェラーリ加入時に同じフランス人のアラン・プロストから「どうせうまくいかないからやめた方がいい」と忠告を受けたそうで、プロストもドライバーとしてフェラーリに在籍するものの、喧嘩別れをしたから出てきた言葉なのだと思いました。フェラーリというのは時折チーム内でゴタゴタが発生する悪い癖があり、ジャン・トッドもずっと順調だったわけでないようです。トッドはフランス、ロス・ブラウンはイギリス、シューマッハはドイツということで、首脳陣もドライバーもイタリア人ではない中で達成した偉大な記録なわけで、イタリア人はどんな思いで見つめていたのかなと、ちょっぴり思ったりもします。
 この記事を書くために当時のことを振り返ったりしていましたが、既に20年前の話であることに自分ながら驚いています。このシーズンの話はだいぶ前に佐藤琢磨とジョーダン・ホンダのマシンの記事でも触れていますが、だいぶ昔の出来事になったのだなあ、というのとシューマッハ(とフェラーリ)の全盛時代をテレビでもサーキットでも観ることができたというのは、一人のレースファンとして(特に自分がフェラーリファンというのも大きいわけですが)幸せなことであり、財産になったと思っています。余談にはなりますがあの頃の鈴鹿ではフェラーリやシューマッハのキャップを被っているファンも多かったように思います。

ミニカーはホットホイール1/43

ギアボックスを小さくし、絞り込まれたリアエンドが確認できますでしょうか。

ミニカーのケースにはしっかり「ミハエル・シューマッハコレクション」のシールが貼られています。


 

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(私だけ!?)東急8000を語りたい

2022年08月23日 | 鉄道・鉄道模型
 先月発売の鉄道ピクトリアル(9月号)では「惜別 東急電鉄8000系」と題して、引退の近い東急8500系に合わせた特集を組んでいました。このブログを始めたごく最初の頃に、東急8000系が好き、という話を書いているくらいですから、この号も買いました。

(鉄道ピクトリアルでは2017年にも東急8000系特集を組みました(写真左))
 ご存知の方も多いとは思いますが、東急8000系と言いますと大きく三つのグループに分けることができます。長男というべき8000系が登場したのは1969(昭和44)年のことでした。新玉川線用の「次男」8500系は1975(昭和50)年に、三男の8090系は1980(昭和55)年に登場しています。8000系「ファミリー」ではありますが、共通しているのは20m4扉、一段下降タイプの側窓くらいで、特に8090系はコルゲートの少ない軽量車体を採用していますので車体断面も違い、あまり似ていない「三男」と言えるでしょう。8090系については後に前面貫通扉がついた8590というグループも出てきます。

(写真右から8000系、8500系、8090系)

(8090系(左)と比べると8000、8500とは別形式に見えます)
 ただし、8000系も8500系も製造時期によって細部が微妙に異なるところがあり、そこがファンの探求心をくすぐるものでもありました。もともとは18m3扉車の7200系という車輌がいて、一段下降窓などはこのデザインを受け継いでいます。東急のステンレスカーについてはデザイン的に連続性が見られた時代があり、側扉の窓の形、デザインなどは7000系のデザインを基本にしているように見えます。また、8090系の製造に先立って、軽量車体のデハ8400形を試作し、8000系の編成に組み込んでいますので、8090系が8000系の「ファミリー」というのはこのあたりにも表れています。先ほども述べた「デザインの連続性」については鉄道会社のポリシーみたいなものとして感じられ、そこも東急の車輌が好きな理由の一つです。飛行機ではイギリスの戦闘機スピットファイアのように、エンジンを換装したこともあって大戦初期と後半に登場したグループでは全く異なる機体に見えますが、名称を変えずにファミリーとなっていた事例もありますね。

(左が7200系、右が8000系)

(同じく7200系と8000系のサイドビュー。車体長、ドア数の違いはありますが、それ以外で共通点が見られます)
 20m車ということもあって、18mの7000系と異なり、地方での払下げもそれほど多くないのですが、8500系についてはインドネシア・ジャカルタで第二の人生を送っているものもいます。私もジャカルタに数年前出張したことがあるのですが、その時は旧東京メトロ車を見かけただけでした。
 さて、私は高校時代に毎日のように東急のステンレスカーにお世話になりましたが、その頃は東横線の各停が8000系、急行に8090系、一部の急行と各停に8500系が入っており、田園都市線は8500系が占めていました。模型でもこの時代を再現しています。東急のステンレスカーの「銀色」は毎日実物を見ていたのでこだわりたいところです。
 8000系についてはグリーンマックスの板状キットを組んでいますので、8500系と車体が共通のため、正確には乗務員扉の位置が少し違うのですが、車体色についてはMr.カラー8番の銀色をよくかき混ぜた上で上半分を別の瓶に入れ、そこに少量のクリアーブルーを入れ、エアブラシで吹きました。また、インレタ等の保護を兼ねてクリアーに少量のクリアーブルーを混ぜたものを薄く吹き付けています。間近で見るとステンレス車体はクリアー系の塗料で保護をかけたようなつやがあるので、模型でもそれを再現しました。屋根は東横線の仕様では少し青みがかった明るい灰色なので、Mr.カラー308番などを中心に調色しました。
 8500系はクロスポイントの未塗装車体一体成型のキットです。車体色はMr.カラーのスーパーファインシルバーとし、こちらもインレタ等の保護を兼ねてクリアーを薄く吹いています。これでスーパーファインシルバーのややぎらついた銀色の輝きが抑えられる感じです。屋根は地下鉄乗り入れ車と言うことで汚しをかけており、屋根の色そのものもジャーマングレーなどを調色して吹き付け、さらに茶系の色をオーバースプレーしています。
 8090系ですが、こちらも板状キットです。JRの205系と同様に窓回り、ドアなどの銀色はつやが無いのが特徴ですが、自分の腕が伴わず、上手に再現できていません。いずれリベンジしたいのですが、なにせマスキングが大変なので気力がもつかどうか・・・。
 長男8000系は前面に赤帯を入れた時期もありましたが、あとはあまり塗装等の変化はありませんでした。それに比べると8500系は青い帯を入れたりして、こちらも似合っておりました。

(青帯、シャボン玉塗装はGMの完成品です)
私の拙い作例のご紹介も兼ねつつ、東急8000系列について説明いたしました。8000系、8090系が一足先に姿を消している中、8500系はまだ若い車輛のように思っていましたが、本線上から引退というのは、やはり時代の流れを感じます。本線上を走っているのが当たり前すぎて「わざわざ乗りに行く」車輌ではないのですが、学生時代だけでなく、大人になってからも随分とお世話になったと、この稿を書きながら思い返しておりました。
 

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令和4年8月 近況報告

2022年08月20日 | 日記
 残暑厳しき折ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。わたくし、先日コロナに感染しました。ワクチン3回目から半年経っており、昨今の感染状況を横目で見ながら「何とか逃げ切れるかなあ」と思っていたのですが、ウイルスの方が私を捉えてしまったようです。幸い熱も下がり、自宅療養も解除というところまで来ました。本来でしたらこの週末にビッグサイトで開催の国際鉄道模型コンベンションで、あるショップ様のご協力のもと「リアル工作台の休日」を開催する予定でしたが、これも叶わず、関係者にはご迷惑をおかけしましたことを深くお詫びします。何より私が残念なのですが・・・。模型と関係の無い記事ばかり書き連ねたものだから、模型の神様からもう一度模型ときちんと向き合いなさい、と言われたと思い、この記事を書いております。
 そんなわけで床に臥せている間、各社の新製品の予告などを眺めておりました。トミーテックさん、ナロー(1/80,9mm)で西武山口線の「おとぎ電車」(蓄電池式の機関車と客車)を出すようですね。私も家族で遊びに行った時や、遠足などでよくお世話になった車輌ですので、ナローは基本的に手を出さない私も、これはお店に予約となりそうです。蓄電池式の機関車だけでなく、SLも欲しいなあと個人的には思うのですが・・・。
 ハセガワからは1/24で先代のミニ・クーパーがリリースされるとか。おいおい、この間中古屋さんでタミヤのキット買っちゃったよ・・・とぼやいてしまいました。ハセガワさん、かつてのような「飛行機のハセガワ」ではなくなり、このところホンダ・シビック(初代)、サニートラック、いすゞ117、トヨタMR2をはじめ、外国車も含めて私が子供~10代後半くらいによく見かけた名車をつぎつぎリリースしています。最近では「ケンメリ」のGTRを出してましたね。私好み(というか皆様もお好きでしょう?)の車種選定ばかりで「この店、なんで俺の好み知っているんだ?」と井之頭五郎ならずとも言いたくなるわけで・・・。ミニのキットは1997年以降の「クラシックミニ」の最終タイプらしいですね。
 さすがに手を動かす気力こそありませんでしたが、ようやく仕掛中のものに向かう気持ちが芽生えてきました。ストレスがかからない程度に、まずは手を動かしてみようと思います。



 
 
 

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夏に連れていきたい音源 第8回 海へ、旅へ・・・

2022年08月10日 | ときどき音楽
 この連載も今回でおしまいです。インストゥルメンタルを中心に、ベテランから比較的若いミュージシャンも交えて紹介します。
1 AQUAPLANET 高中正義 1993年
 
 「ラジカセをビーチに連れ出した男」なんていう異名もありますが、このアルバムはタイトル通り、海や魚をイメージした曲がほとんどです。高中流「哀愁のヨーロッパ」も聴けます。いくつかの曲で当時カシオペアの向谷実さんが参加しています。

 名曲「BLUE RAGOON」などはこちらのベスト盤でも聴けます。「THE BEST 30th」「THE BEST 2001」

 1970年代から第一線で活躍し続け、今も喝采を浴びている高中さん、本当にすごいなあ。

2 High Pressure MALTA 1987年

 フュージョン全体が元気だったころの名盤。アルバムタイトル曲はタバコのCABINのCMでもおなじみ。松本恵二や星野一義がドライブするF2やF3000のマシンを思い出す方も多いのでは。私もこの曲を聴くと夏の熱い風を思い出します。

3  SEA IS A LADY 角松敏生 1987年

 各曲のサブタイトルに女性の名前がついているのが特徴のアルバム。「SEA LINE ~RIE~」はマイルドセブンFKのCM曲でした。私はこの曲と「MIDSUMMER DRIVING ~REIKO~」がお気に入り。それにしても1987年は上記のMALTAさんのアルバムにこちら、さらにスクエアの「TRUTH」とフュージョンの大当たりですね。

4 CLASSICS KEY OF KENNY・G  ケニー・G 1999年

 ケニー・Gです。甘いソプラノサックスです。でもさまざまな名曲のカバー集というのが特徴で「WHAT A WONDERFUL WORLD」ではルイ・アームストロングの歌声と「共演」しています。セルメンでも紹介した「恋のおもかげ」や「ROUND MIDNIGHT」、「イパネマの娘」もあります。「STRANGER ON THE SHORE」という曲を知ったのもこのアルバムです。この曲、NHK-BS1で海外の放送局のニュースを日本語通訳つきで放送している時間帯で、時間が余ると海岸の風景と共に流していた曲の一つでした。長距離のフライトで聴いていたら退屈しなさそうです。

5 SOLAR 小林香織 2005年

 「サックス界のアイドル」のデビュー作。最近はライブの方もご無沙汰ですが、以前はよく行ってました。明るくて夏向きのアルバムが多い方ですが、私はこのデビュー作が特に夏向きとしてお気に入り。カバー曲も適度に入っているので聴きやすいかも。これだけジャケットの表紙が入っていませんが、2005年の8月のライブで私の名前の入ったサインをいただいたからです。あしからず。

6 VIAJUNDO 渡辺貞夫 1998年

 トリはやっぱり大御所ナベサダで、というわけでもないのですが「旅」を意味するタイトルのアルバムを用意しました。私がどうこう言えるような分際ではありませんが、円熟の会心作というか、当然ながらすべての曲とアルバム全体がとても完成度が高いアルバムです。「みんなのうた」のためのボーカル曲も違和感なくアルバムに入っています。ナベサダというと私にとってはオレンジエキスプレスも外すことができないのですが、持っているのが昔ソニーが「CD選書」と題して販売していた廉価版なので、やはり正規のアルバムを紹介するのが筋という思いもあって採り上げました。


ニュースでは既にお盆休みの帰省も始まっているとか。災害やコロナ禍で大変な思いをされている方もいらっしゃるので、ただただお見舞い申し上げるほかはないのですが、いろいろな方に、これらの音楽が勇気や希望となることを祈って。

 









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