工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

さよならの、青い空

2023年11月05日 | 飛行機・飛行機の模型
 現存する最古の航空雑誌だった「航空情報」誌が10月発売の12月号を以て休刊となりました。実に72年にわたって続いてきた月刊誌で、2014年に版元が酣燈社からせきれい社に移管された経緯もありましたが、963号で幕を閉じることになりました。正直なところ、ああ、とうとうこの日が来たかという感想であり、雑誌が売れない中、よくぞここまで持ちこたえたという感があります。

 私が飛行機に興味を持った10代の頃は、航空情報、航空ファン、航空ジャーナル、エアワールドといった雑誌が本屋さんに並んでいました。その頃は航空情報が比較的お堅い感じで、航空ファンは写真中心できれいなカラーページを売りにしていたように思います。すべて買うこともできませんから、興味がある記事が出ている雑誌を、お小遣いの範囲で買うという感じでした。90年代以降くらいに航空ファン誌が次第にさまざまなジャンルの記事を載せるようになったのと裏腹に、航空情報は残念ながら情報量も寂しくなっていった感があり、近年は航空ファン誌をときどき買っている状況が続いていました。航空情報はおそらくは官公署や企業などの定期購読によって支えられていたのではないかと思いますが、価格もそこそこしていましたし、部外で、しかも読者とは到底言い難い私が言う筋合いではありませんが、いろいろな要因もあっての休刊だったのでしょう。
 昔から自衛隊の同乗取材の記事も出ていましたが、最終号でも海上自衛隊第61航空隊の同乗取材による硫黄島などへの「定期便」の特集が目を引きました。昔から資料性の高い写真や記述が出ていることがあり、以前何回かに分けて書いたバンパイア練習機の記事や、昭和30年代の自衛隊機の記事などは参考になるものが多く、おそらく今後も本稿でご紹介する機会があるでしょう。これまでこの雑誌に関わった方々への感謝の想いも込めて、最終号を読みました。

 もう一つ、お別れとなった空の話題です。アメリカ・ネバダ州リノで1964年から毎年開催されてきた「リノ・エアレース」が今年で幕を閉じました。このエアレースというのは以前日本で開催されていたスピードとアクロバティックな動きを加味したものとは異なり、飛行場の周囲にいくつか立てたパイロン(塔)を周回する、スピードを追求するレースでした。さまざまなクラス(T-6練習機だけ、とか最近ではヴィンテージのジェット機のクラスもあります)のレースが行われる中、花形は「アンリミテッドクラス」と呼ばれるレシプロ機改造無制限のクラスで、戦後民間に払い下げられたP-51ムスタングやF-8ベアキャット、シーフュリーに時には魔改造と呼べるくらいの大改造を施し、時速700キロ超えは当たり前、みたいなレースをしていました。米国内ではいくつかこうしたレースが行われていますが、リノのそれは特に規模が大きいことで知られ「ナショナル・チャンピオンシップ」と銘打っているほどです。思い出したようにテレビのドキュメンタリーで採り上げられたりもしていますので、ご覧になった方もいらっしゃるでしょう。
 閉幕の理由ですが、会場となっているリノの街が近年拡大し、レースが開催される空港の近くにも住宅街や倉庫、物流センターができるようになって、レースを行う環境ではなくなってきたと航空ファン誌が伝えています。もともとは砂漠と荒野の中にある地方都市で、かつてはゴールドラッシュで、近年ではラスベガスほどではないにしてもカジノなどで知られる街となっていました。第二次大戦機が武装を外されたとは言ってもあるものは昔のままの姿で、あるものはアメリカらしいカラフルな塗装に変えた姿で現役バリバリで飛んでいて、それがものすごいスピードを出して飛ぶ姿は、写真でも十分魅力的でした。特に「航空ジャーナル」誌の編集長だった中村浩美氏がP-51を魔改造したRB-51「レッドバロン」やリノ・エアレースのことなどを書いた本を出版されており、10代の私にとってはいつか見てみたい場所、ことの一つになりました。上記のこともあって「航空ジャーナル」誌はもちろんのこと「航空ファン」誌でも写真と記事が載っており、10代の頃は一か月遅れの10月発売の航空雑誌を楽しみにしておりました。10代の頃だったか、自分でもハセガワ1/72のP-51のキットをちょっと改造して好きな色に塗った架空のレーサー仕様を作ったものです。やがて自分の中の興味がアメリカ的なものから欧州的なものに変化し(英語力は一向に上がらない中で)、9月にリノに行きたい、という思いも少しずつ弱くなっていきました。
最後のリノ・エアレースですが、最終日にT-6のクラスで事故があった関係で、レーススケジュールがキャンセルされ、アンリミテッドクラスの決勝もキャンセルされ、消化不良の残る最後のリノとなったそうです。リノではできなくなりましたが、他の都市が招致の意向を持っており、2025年にはどこかで復活できるのではということなので、楽しみに待ちたいと思います。

(模型誌・モデルアートでも1979年5月号増刊で1978年大会の取材とキットの製作・改造記事が載っていました。人気の機体のデカールも入った豪華版です)



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レーションとカルボナーラ

2023年11月04日 | 日記
 以前も出てきたウィリスジープとGI氏。今日はカメラマンも一緒です。

 「俺のこと、撮ってくれるの?」
 いえいえ、その積み荷が今日の主役でございます。

 イタリアのパスタのメニューに「カルボナーラ」があります。日本でもクリーム系のパスタ料理として知られております。日本では生クリーム、ベーコン、卵、チーズ、玉ねぎ、しめじあたりが入っていると思います(店によっては生クリームを使わないところもあります)。仕上げに黒コショウがかかっているのが特徴です。
 このカルボナーラのルーツには諸説あって、私は19世紀だったかのイタリアの秘密結社「炭焼党」にゆかりがあると聞いておりました。ところが最近ではカルボナーラのルーツは米軍が第二次大戦でイタリアに進駐した際に、米軍の糧食だったKレーションから作った、という説が有力となっているそうです。
 Kレーションと言うのは1942年に採用された米軍の戦闘糧食で、当初は空挺部隊向けだったものが他の部隊にも広く使われるようになりました。時期によって内容物は違うそうですが、ベーコンやプロセスチーズ、乾燥卵があり、それを使ってイタリア人のシェフが米兵のために作った料理が発祥とされ、ローマが起源だ、いやエミリア・ロマーニャだ、と場所についても所説あるようです。卵やチーズなど、イタリア国内にもある材料ですから、地元の料理として既にあったようにも思いますが、どうだったのでしょう。
 戦後きちんとしたメニューになっていくにつれ、肉はグアンチャーレと呼ばれる塩漬けの豚肉に、チーズはペコリーノ・ロマーノと呼ばれる羊の乳から作るチーズと、ローマで入手できるものに進化し、今日に至っているようです。羊の乳のチーズと言うのが双子の羊飼いロムルスとレムスの建国伝説で知られるローマらしい、という感じがします。
 こうしてローマの名物料理となったカルボナーラですが、お店でも家庭でもバリエーションは数多あるようです。生クリームや野菜は使わない、という人もいれば、唐辛子(!)を少量入れるというレシピもあるようです。私もイタリアに旅行した際に何度か食べましたが、街によって、店によって多少の違いはありまして、ほとんどのお店で生クリームは使っていませんでしたが、卵が火を入れ過ぎたのか黄身の部分が硬くなっていて、カルボナーラにしては随分黄色いなあと感じる店もありました。
 現地の方のレシピを元に私もカルボナーラを作ってみました。ペコリーノロマーノチーズは輸入食材を扱っている店で入手できますが、高価ですし一度では使いきれる量ではありません。幸い少々保存も効きますので何回かに分けて使うことになりました。グアンチャーレはさすがに入手できないので、パンチェッタかそれもなければ厚切りのベーコンを使うとよいでしょう。卵は好みもありますが、私は全卵を使いました。ペコリーノロマーノチーズは野菜の皮むき(ピーラー)を使うと簡単に薄くそぐことができます。チーズは火を通すとクリーミーになりますので生クリームを使わなくても「クリームソースのパスタ」になってくれます。
二人分だとこんな感じです
①パンチェッタと薄切りの玉ねぎ100gをオリーブ油で炒めます。
②チーズ(50g)をあらかじめピーラーで薄くそいでおきます。
③ボウルに全卵3個を入れてよく溶いておきます。
④湯をわかし、パスタ200gを茹でます。
⑤②で薄くしたチーズを①に混ぜ、弱火でチーズを溶かします。全体にクリーミーになったら火を止めます。
⑥ゆであがったパスタの湯を切って、③のボウルにまぜます。
⑦⑥のボウルの中身を⑤のフライパンに入れ、弱火で混ぜ合わせます。卵が固まらないうちに火を止め、黒コショウ、パルメザンチーズ(少量)をかけて完成。

写真では黒コショウをかけてから混ぜ合わせています。

 物価高騰&円安の折ですので、輸入チーズは無理、という場合は生クリームでも十分美味しく作れます。私は乳脂肪分の低いものを選んで使っています。余ったら食後のコーヒーに入れることもできますからね。
 米軍由来のパスタメニューといえば、ケチャップをかけて炒めた日本のナポリタンについてもそんなルーツがある(これも諸説あるらしいですが)と聞いています。私のイタリア語の先生などは「パスタにケチャップとか、絶対ありえない」と全否定され、出演されていた某テレビ番組でも力説されていました。美味しいんだからいいじゃん、と思うのですが、絶対イタリア料理とは呼びたくないと言わんばかりだったのを思い出しました。いや。、ナポリタンだってうまいんだからな(小声で)。

 冒頭の模型に戻りますが、Kレーションのカートンの1/35モデル、コバアニ模型工房から出ています。木箱は本物の木を使っていますので、実感十分です。最近は前線の正面装備だけでなく、後方の様子を再現できるアイテムも多数出ていますので「カルボナーラ誕生の瞬間」というようなジオラマも作れそうです。


(参考文献・フリーマガジン「イタリア好き Vol52」、「世界のミリメシを実食する」(菊月俊之著・ワールドフォトプレス))

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子供の頃読んだ「食堂車文学」

2023年11月02日 | 日記
 このブログでも何度か食堂車の話を書いてきましたが、少年時代に読んだ文章にこんなものがあって・・・というのが今日のテーマです。
 あれはもしかしたら小学生の時のことだったか、市販の国語のドリルか塾のテキストだったかも覚えていないのですが、そういった教材にはいろいろな小説や文学作品の一節がよく使われていました。その中にこんな一節がありました。ある男が食堂車で食事を食べていると、途中から相席になったのは老夫婦でしたが、夫人の方が大きな人形を抱えており、その人形は背広を着ています。男はこの人形がこの女性にとって亡き息子の代わりなのだろう、と気づきます。その人形に夫人はスープを口に運び、そのあと自分の口に入れ、ということを繰り返しているから、食事は遅々として進まず、そこに若い女性も相席となり、彼女もその光景に気づきながらも何事もなかったかのようにそこに座り続けていた、といったような内容でした。出典が書いてありませんでしたので、誰の作品かも知らずじまいでした。
 果たしてここからどのような問題が出題されていたのかは忘れてしまいましたが、子供を模した人形を連れて歩いている老夫婦、という内容に何とも強い衝撃があり、忘れることはありませんでしたが、子供の頃にそんな文章を読んだなあ、という感じで記憶の中にしまい込まれました。
 大人になってからインターネットで調べて見つけたのか、それとも買った本の中に入っていた話かは定かでないのですが、この文章を数十年ぶりに目にすることになりました。ご存じの方もいらっしゃるのではないかと思いますが、これは文芸批評家・小林秀雄の「人形」という随筆で、もともと昭和37年の朝日新聞に掲載されたものだそうで、今は「考えるヒント」の中に収載されています。
 あらためて全文を読んでみましたが、文庫本でも2ページ半くらいのものですので、あっと言う間です。でもそこに「夫は妻の乱心を鎮めるために、彼女に人形を当てがったが、以来、二度と正気には還らぬのを、こうして連れて歩いている」とか「もしかしたら、彼女は全く正気なのかも知れない。身についてしまった習慣的行為かも知れない。とすれば、これまでになるのには、周囲の浅はかな好奇心とずい分戦わねばならなかったろう。それほど彼女の悲しみは深いのか」といった小林秀雄らしい文章が並びます。
 そして今さらながら驚いたのが、当初は小説か何かと思っていたのが随筆であり、それを書いたのが小林秀雄という大変大きな、かつ子供には(大人にも)難しい存在であるということでした。どんな理由で義務教育の生徒のための教材にこの「知の巨人」の文章を使ったのかは分かりません。
 さらに一つ疑問があります。著者はこの随筆の中で、東京から大阪行の急行列車がで遅めの夕食を食べていたとあります。具体的にどの列車なのか、調べたくなりました。
 今日はあまりに個人的で感傷的な内容になってしましました。連休中にもう少しゆるい話を書きたいと思います。
 
 


 

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