工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

追悼 高橋国光さん

2022年03月24日 | 自動車、モータースポーツ
 日本のモータースポーツの第一人者として、昭和30年代から活躍を続けてきた高橋国光さんが先日亡くなられました。温厚な性格で「国さん」の愛称でも親しまれました。謹んでご冥福をお祈りいたします。私のような若輩者が拙ブログで氏の功績をご紹介するなどとてもおこがましいのですが、経歴をご紹介しますと、輪業店に生まれて中学卒業後、オートバイ店への丁稚奉公(!)を通じて、オートバイと出会います。最初は2輪のライダーとしてホンダのマシンに乗り、世界GPでも5勝を飾ります。ドイツでの優勝(250cc)は、今日まで続く日本のライダーが海外で挙げた勝利としては初めてのものでした。ご本人は125ccで優勝した北アイルランドでのレースの方が競り合って手にしたものだったので印象深い、と後に語っています。ちなみに当時のホンダは二輪のグランプリチームの前線基地をオランダに置き、そこから欧州各国を転戦するスタイルをとっていました。

(日本人として初優勝を遂げたマシンRC162)
 後に4輪に転向(2輪から4輪に転向という例は、2輪とF1の両方のチャンピオンとなったジョン・サーティースを筆頭に、昔は決して珍しくありませんでした)し、日産のワークスを皮切りに各カテゴリーで活躍しました。F1にも一度だけスポット参戦しており、1977(昭和52)年の富士で行われた2年目のF1日本GPに中古のティレルで出走、9位完走を果たします。この時の「国さん」は実に37歳でのF1デビューでした。この決勝の順位ですが、前年の高原の9位と同じく、1987年に中嶋悟の7位という記録が生まれるまで、日本人のF1デビュー戦の最高順位でした。このレースでは予選でコスワースDFVエンジン不調に悩まされるも、決勝ではエンジンも復調する中、無理せずステディに走りトップのハントから2周遅れのゴールでした。また、翌78年にはF2のJAFGPでは、既にF1ドライバーだったパトレーゼ、アルヌー、F1進級間近だったジャコメリ、ピローニ、ワーウィックといった当時の欧州の若手、もちろん国内のライバル、星野、中嶋、長谷見、桑島といったドライバー達に勝ち、JAFGPという当時のビッグレースを制しました。鈴鹿サーキットの名コーナー、デグナーでパトレーゼをかわすという本人曰く「ヨーロッパ的な戦法」でライバルの前に出るということもしています。
 特に私の記憶にあるのは、既に50代でありながら全日本F3000で表彰台に上がったり、1995(平成)7年にはル・マン24時間のクラス優勝を遂げたときのことで、後者についてはNSXを駆り、飯田章、土屋圭市といったある意味きわめて日本的なドライバーと成し遂げた快挙と私の目には映りました。ドライバーを引退後も、スーパーGTの監督としてサーキットに立ち続け、近年もF1の元チャンピオン、ジェンソン・バトンと山本尚貴のコンビでタイトルを獲得しています。

(ル・マンクラス優勝車 NSX)


(スーパーGT2018年タイトル獲得車)
 「国さん」のエピソードで印象に残っていることにこんな話があります。2輪時代の若き日、イギリスのマン島のレースに出場していたときのことです。マン島のレースは公道を利用して島を一周するような長いコースのため、選手たちは島に長く滞在し、走り込みをしていました。1960年代のことですから、日本人選手は珍しさもあって人気があったそうです。そんな中で現地の女性と恋に落ち、「クニ」と呼ばれ一緒に時間を過ごすこともあったようです。ところが1962(昭和37)年、レースで転倒して重傷を負うというアクシデントに見舞われました。そんな中でも恋人が毎日見舞いに訪れたほどだったそうで、本人も「精神的な支えになった」と語っています。残念なことに翌年はマン島での出走もかなわず、その後は日本国内が主戦場となったため、二人の仲はそこでフェードアウトしたのですが、それから30年余りが経った1995年にNHKの番組の企画で現地を再訪した際に、負傷して入院した際の主治医と再会しただけでなく、当時の恋人とも再会を果たしています(私もこの番組を観た覚えがあります)。その時に当時の恋人から一冊のスクラップブックを受け取っています。そこには、欧州で活躍する若き日の国さんの活躍ぶりが掲載された現地の新聞記事が残されていたそうです。ずっと取っておいてくれて、感動したと語っています。
 マン島での負傷のこともあって、事故が起きた時の対応でも称賛されることがありました。F2000で周回遅れにしようとした選手がクラッシュしてマシンから出られなくなった際も、トップを走行していたにも関わらず自らマシンを止めて救出する、といったこともありました(このレースはここで終了し、結果的に優勝となりました)。残念なことに1986(昭和61)年のル・マンではチームメイトのヨー・ガルトナーを亡くすということもありました。本人も「クラッシュでドライバーが死んでしまうと、原因はドライバーと一緒に消えてしまう。その意味でも死んではいけない」と語っており、安全性は向上しているものの、他のスポーツと比べて命の危険に関わる確率が高い世界に長年身を置く人ならではの言葉と思いました。
 レース以外の話も書きましたが、1960年代初頭に海外で活躍するスポーツ選手は皆無に等しく、野球でいえば"マッシー"村上雅則投手が大リーグデビューを果たしたのが1964年で、これも例外的なもので、まだまだ海外と日本の交流も少ない時代でしたから、「国さん」の先駆者としての功績は大きいと思います。鈴鹿サーキット建設の折にも設計アドバイザーとなったジョン・フーゲンホルツ氏の来日に合わせて予定地の現地視察に同行しているほか、鈴鹿、富士とも初期の頃から優勝者のリストに名を連ねており、現役を退いた後も監督として第一線に立ち続けました。つまり、戦後日本のモータースポーツの発展と共にサーキットにその姿があったわけですから、その訃報が一般紙のスポーツ欄のベタ記事で収まるような方では無かったと思っています。若き日にヨーロッパで活躍した功績や、国内のサーキットで時には海外勢を迎え撃ったスピリッツがあったからこそ、今日の日本のモータースポーツがあるのだと思います。
 なお、青山のホンダウェルカムプラザでは、4月3日まで生前ゆかりのマシンなどが展示されています(記事の写真)。



こちらはミニカーですが、1977年日本GP出走車のティレル007(スパーク1/43)。前年に星野一義がドライブしたマシンと伝えられています。

(参考文献 日本の名レース100選008 '78 JAF鈴鹿GP、日本の名レース100選068 '77日本GP、F1倶楽部№20 特集「レーサーの恋」、「鈴鹿サーキット開場50周年記念アニバーサリーデー・オフィシャルブック&全レース優勝者総覧」、Number 700号)
 
 




 

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第7回池袋・鉄道模型芸術祭に行ってきました

2022年03月22日 | 鉄道・鉄道模型
 池袋の東京芸術劇場で開催中の鉄道模型芸術祭に行ってきました。こちらは第7回を数えるイベントとなり、毎回楽しみにしております。私がお邪魔したのは初日、3月20日でしたが、気になった展示を中心にいくつか写真をご紹介します。
ナローゲージジャンクションの展示から。

(子供の頃お世話になった西武山口線の客車)

(愉快なナローの機関車。こういう世界観、普段の自分の模型には無いので好きです)

(スチームトラムでしょうか。普段出会えない模型に出会えるのもこのイベントの楽しいところです)
「小さな架空鉄道風景」にあった地方私鉄の風景。「現在の」架空の地方私鉄を切り取って見せる車輌工作とシーナリーには脱帽です。

(融雪パイプで雪が溶かされ、茶色く汚れた道路を再現しているということで、雪国を旅した方ならお判りいただけるのではないでしょうか)
「麦レール」の展示から。「まつしろ交通」の大きなターミナル駅。こちらも架空の地方私鉄ですが、商業施設と併設のターミナルとか、確かにありますね。

「武蔵府中の鉄道立体」から。


こちらは実在の風景をレイアウトの中に取り込んでいるのが特徴です。車輌を走らせるためのシーナリーではなくて、シーナリーがあって、そこに合わせるように車輌が走っているという感じです。
「これがレイアウト」から。こちらも毎年おなじみのアメリカ型の漁港の風景です。


いつも見るたびに発見があります。
また、写真はありませんが同じくアメリカ型の「NGP Lake Side Electric Rail Road」もストラクチャーの配置等、空気感が秀逸でした。
「J-TRAK Society」より

こちらもおなじみ、ハイレベルなNゲージのセクションレイアウトですが、体育館でプロレスの熱戦が繰り広げられています。
スケールを重視した展示も、建物、車輌の縮尺など、スケールにこだわらず実物を上手にデフォルメをした展示もありましたが、そもそも線路配置等、スケール通りには小さくはできませんので、車輌なのか、建物なのか、何を優先させるのかというのが出てくるかと思います。スケール派もデフォルメ派も、そのあたりの折り合いの付け方や自分がそこで見せたいもの、表現したいものが何かをはっきりさせることが、大切なのではないかと思います。







 


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明治の遺産はここにも

2022年03月13日 | 鉄道・鉄道模型
 ときどき乗り換えで使うJRの飯田橋駅ですが、近年ホームの位置を新宿寄りにずらし、旧ホーム側は通路として引き続き使われていますが、柱にこんな看板がついていました。

「このホームの上家は、レールを建材として造られています。この柱に使用しているレールには「CARNEGIE ET1906 IIIIII」と刻印されています。」と説明があり、アメリカ・カーネギー1906年6月製であることの紹介がされています。「都内には上家にレールが使用された駅がほかにもあり、古いレールを探して、鉄道の歴史を再認識していただければ幸いです。」と結ばれています。
 飯田橋駅のレールについては、この駅の特徴的なものではあるのですが、上下左右にリベットが大量に打たれているため、刻印を確認するのはかなり難しくなっています。
 では、カーネギーのレールを他で見つけられるところは?ということで、総武線に乗って代々木まで出てみました。1番線・山手線の新宿、池袋方面ホームにこんなレールがありました。

「CARNEGIE 1905 ET」

ETのところは前の写真から続きますが「ET N T K -」とあります。
写真はいずれも180度反転しています。
刻印は「CARNEGIE 1905 ET N T K -」(注・最後の横棒はローマ数字のIを横に倒したような形) ということで、カーネギースチール・エドガートムソン工場1905(明治38)年製、発注者は日本鉄道を意味するものと思われます。製造月は確認できませんでした。
 以前は「東京都区内区間」のあちこちの駅で、こうした古レールの柱を見ることができたのですが、改築や近代化、バリアフリー化に伴って撤去されたり、化粧板で覆われたりということで、見ることが難しくなっています。例えば水道橋駅などは古レールの宝庫で、平成元年頃撮った写真にこういったものがありました。

180度反転しています。「UNION D 1885 I.R.J」とあり、ドイツのドルトムント鉱山製鉄連合という会社が1885(明治18)年に鉄道局(国有鉄道)向けに製造したものです。ドルトムントは比較的多く日本に入っており、本州を中心にあちこちの駅でみかけました。5年ほど前に東北を旅行した折に、五能線の東能代駅の柱として健在でした。
 ドルトムントについては、こんなことがありました。今から6年ほど前になりますが、あるドイツの企業の方(もちろんドイツ人)がビッグサイトで開催された展示会に合わせて来日しており、私の勤め先からその方に仕事上のお願いをする必要があり、ドイツ駐在経験があり、英語が堪能な上司とビッグサイトに訪問することになっていました。ところが当日になって急用ができた上司は行くことができなくなり、私が単独で行くことになりました。件のドイツ企業のブースで、お目当ての方と会うことができたのですが、私の拙い英語に合わせて、分かりやすく話していただいたように思います。その方が「私はドルトムントの出身です。日本ではブンデスリーガと香川真司選手で有名みたいですね」と言われたので、私は「私は昔からドルトムントの名前は存じ上げています。日本とドルトムントの関係は100年以上前に遡ります。ドルトムントで作られたレールを日本では大量に輸入していて、いまだに駅の柱で使われたりしているんですよ」と話すと「そんな歴史があったんですね」ということで、その後の交渉も友好的だったことを覚えています。私の手柄、と言いたいところですが、翌日に上司が英文でフォローのメールを送っていたので、これが決め手になったのだと思います。

 個人的な話はともかく、丹念に探すことで、まだこれらの貴重な明治、大正、昭和の遺産が見つかるかと思います。まずは皆様の家の近くの駅で試してみてください。いつも見慣れている光景が、違って見えるかもしれませんね。

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サーキットを疾走したタータンチェック

2022年03月11日 | 自動車、モータースポーツ
 三栄のGPCarStoryの昨冬発売号はスチュワートSF3という1999年シーズンを走ったマシンを特集していました。以前ジョーダン・無限ホンダの回でも書きましたが、フェラーリとマクラーレン・メルセデスの一騎打ちと思いきやジョーダンが割って入り、さらには本書で紹介されたスチュワートチームも勝利を挙げるなど混戦模様となります。今回は本書を含めて1997年から1999年までの3シーズンながら、サーキットで輝いたタータンチェック柄のマシンとそのチームの話です。
 このスチュワートチーム、1965年から1973年にかけて活躍し、三度の世界王者に輝いたジャッキー・スチュワートが興したチームでした。もともと息子のポール・スチュワートがF3000のチームを運営していて成功を収め、次のステップにとなったところで、もともと長いつきあいがあって、ちょうどF1により深くコミットしたいと考えていたフォードと話が合い、スチュワート・グランプリチームとしてF1に進出します。1997年のことです。進出当時のインタビューが今はなくなってしまった雑誌「F1倶楽部」第16号にありました。この中でジャッキー・スチュワートはアメリカのインディカー参戦も考慮に入れていたようです。ところが、当時のインディカーはIRLとCARTという二つの団体に分裂して開催するなど、なかなか大変な時期で、外の世界から参入するのが容易ではなくなっていました。結局フォードとの話もまとまりF1にたどり着くことになります。ジャッキー・スチュワート自身は何が何でもF1チームのオーナーになりたかったわけではない、というような感じだったのですが、参戦する以上は体制を整えるべく、スポンサーを見つけ、マシンを作り、ということになったようです。
 デビューイヤーはルーベンス・バリチェロとヤン・マグヌッセン(最近F1復帰が決まったケビン・マグヌッセンのお父さんです)の二人が組みました。特にバリチェロについてはデビュー5年目ながら十分な経験を備えていて、それがチームのために必要だった、とジャッキー・スチュワートは語っています。同じくらいのキャリアでもフェルスタッペン(もちろんお父さんの方)ではなくバリチェロを選んだとも言っています。また、チームへのフィードバックの上手さなども評価していたようです。このあたりはホンダの第一期参戦の際に、開発能力のあるベテランのギンサーと若いバックナムを組ませた話を思い起こさせます。
 タイヤはこの年から参入したブリヂストンを選びました。ブリヂストンの技術力を評価していたのと、お互いに参戦初年度だから、という意味合いもあったようです。
 マシンのカラーリングは白にタータンチェックのラインが入るという、派手なカラーのマシンが多い中ではシックなものとなっていました。タータンチェックはジャッキー・スチュワートのシンボルみたいなもので、もともとスコットランド出身ということもあり、現役時代はヘルメットにタータンチェックの帯を入れていましたし、引退後もタータンチェックの服を身につけていました。HSBC(香港上海銀行)といったいかにもイギリス的なスポンサーもつき、開幕を迎えました。
 当時は5年計画でタイトルを獲りたい、と言っていましたが、参戦初年度のモナコでバリチェロが2位表彰台に上るなど、幸先のよいものとなりました。F3000から参入したチームがF1で成功するのはなかなか難しいとされていた中で、入賞はこの一回とは言え表彰台に上がり、チームの収支も黒字だったわけですから初年度の成績としては申し分ないものでした。F3000なら出来合いの車体とエンジンの組み合わせで済みますが、F1では車体も含めた生産設備を用意し、ヨーロッパ内だけでなく世界各地で開催されるレースにも対応しなくてはならないので、コストも相当なものとなり、何も持たないチームが参入するのは難しいのです。
 翌年はカーボン製ギアボックスのトライが失敗するなど、厳しい戦いとなりました。ドライバーはマグヌッセンからシーズン途中にフェルスタッペンにスイッチしています。チームとしてのべ3回の入賞で5ポイントを獲るのがやっとでした。
 そして1999年にドライバーはバリチェロとハーバートというコンビになりました。この年は当時最速、かつ完成されたシャーシを持っていたマクラーレンの影響を受けたかのようなデザインで、シンプルな作りが特徴でした。フォード・コスワースエンジンも軽量、コンパクトなものでした。前年に比べて予選、決勝の順位も上向くようになり、フランスGPでバリチェロがチームに初ポールポジションをもたらしたほか、ニュルブルクリンクのヨーロッパGPではハーバートがチーム初勝利を挙げました。ハーバートはベネトン・ルノー時代に2勝を挙げていますが、あの時のベネトンは非常に完成されていて、チームメイトのシューマッハは二年連続のタイトルを獲っています。ハーバートの2勝はある意味マシンで勝てた、というところも感じましたので、中堅チームでのニュルブルクリンクでの優勝は、ドライバーの力で勝ったという印象を受けました。ハーバートは日本のレースでも活躍したほか、マツダのル・マン初制覇メンバーでしたし、陽気な性格もあって日本のファンも多く、私もこの優勝は嬉しかったことを覚えています。このレースではバリチェロも3位に入っています。この年はチームのランキングも前年の8位から一気に4位に上がっています。思えば二人のドライバーもあちこちで苦労を重ねていて、それが報われたようなシーズンでした。
 しかし、チームの栄光の日々もここまででした。ジョイントしていたフォードの方針で、フォードがスチュワートを買収、ジャガーの名前で翌年から参戦することになりました。当初はスチュワート親子もチームのメンバーに入っていましたが、ポール・スチュワートの病気治療もあって、チームからスチュワート家が離れることになります。
 この後、ジャガーは満足な成績を挙げられず、チームはレッドブルに買収されることになりました。スポンサー参戦だけでは飽き足らず、レッドブルがコンストラクターとして参入したわけです。ルノーエンジン、若きドイツ人セバスチャン・ベッテルと組んだ2010年代前半の黄金時代、そして近年ではホンダと組み、マックス・フェルスタッペンがタイトルを獲得したことは今さら説明の要はないでしょう。
 ジャッキー・スチュワートはこの参戦の日々には大いに満足しているようですが、参戦当初はそれがジョークじゃないか、どうせ参戦費用もすぐに底をつくだろうといった捉え方をして、実際に意地悪なことをしたFIA(国際自動車連盟)のモズレー元会長や、F1界の「ボス」バーニー・エクレストンらに対しては今もなおかなり厳しい言葉を浴びせています(気持ちは分かりますが)。確かに、私が知っている(1990年代初頭の)スチュワートというと、ダイアナ妃(当時)と幼い王子達がイギリスGPにお出ましになった際の「御進講役」であったり、セナに対して意地悪な質問を浴びせたり、といったシーンを思い出し、現場から離れた「過去の人」のイメージがありました。バーニー・エクレストンにキツイことを言えるのもまた、「サー」ジャッキーだけでしょうが。
 最近では飲酒運転の撲滅を洒落た演出で見せるハイネケンのCMに出演したり、グランプリの現場にも引き続き姿を見せています。このご時世ですのでマスク姿ではありますが、そのマスクもまた、タータンチェック柄にしています。

スチュワートSF03 ハーバート車(ホットホイール1/43) 立派な化粧箱に入っていました。

「責任編集」の赤井邦彦氏がインタビューした「F1倶楽部」第16号。ズボン、ハンチングがマシンの色に合わせたタータンチェックとなっています。マシンのお披露目では伝統のキルト姿でした。ちなみにタータンチェックは日本の家紋のようなもので、昔はそれぞれの家が独自の模様を定めていたそうです。

マシンのメカニズム的な話やチーム運営など、今号も読み応えいっぱいでした。小さなチームでありながら勝利を挙げられたのは快挙と言えるでしょう。


 

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VSEはこんなところにも

2022年03月08日 | 鉄道・鉄道模型
 先日、小田急の5000形(VSE)に乗車した話を書きましたが、今日は我が家にいるVSEのご紹介です。

こちらはVSEのタイクリップです。鉄道好きの方ならこういう車輌をモチーフにしたタイクリップが一つ、二つあるのではないでしょうか。こちらはVSEを製造した日本車輌が以前「日車夢工房」として多くのグッズを販売していた中のひとつでした。鉄道もののタイクリップというと天賞堂で内外問わず様々な形式のものが発売されたり、年末セールの特典になっており、VSEのタイクリップも同じところで作っているのではないかと思われます。

(VSE車内にある日本車輌の銘板) 
 鉄道ものをはじめ、乗り物のタイクリップは私もたくさん所有しており、それこそこのブログの「モノものがたり」で採り上げることができそうです。VSEについては白が基調で、意外に白を基調にしたタイクリップが少ないので、ネクタイやシャツと合わせるときにどの色が似合うかな?と考えてしまいます。どうでもいい話ですが、自分の場合シャツの色からネクタイを合わせ、さらにそれに合うタイクリップを用意して、となることが多いのでシャツとネクタイはやや暗めにして、そこに白いタイクリップにしようかとか、鮮やかな青に合わせようかとか、たいしてお洒落でもないのに考えています。
 さて、お次はこちら。先日の小田原行きのお土産で、おなじみミニゴーフルです。VSEと最新鋭の70000系があしらわれています。缶のサイドにはそれぞれの車輌が描かれていて、各車輌の差異も描き分けられてかなりリアルです。


早速おやつでいただきました。バニラ、ココア、イチゴの三種類が一袋に入り、一つの缶に二袋入りです。缶入りのミニゴーフルも護衛艦「かが」のものが発売されたり、デザイン缶は数多く出ているようです。



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