工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

百里基地 夏の思い出 その2

2020年08月31日 | 飛行機・飛行機の模型
 前回は百里基地に所属する戦闘機などを紹介しました。今回はそのほかの機体を紹介しましょう。

航空救難を行うヘリコプターはこちらのKV107Ⅱバートルでした。バートルは陸海空の三自衛隊で使われた機種で、それぞれ人員輸送、掃海、救難と別々の任務に就いておりました。軍用機らしからぬコロンとした機体と黄色い塗装がお気に入りで、模型でも作りました。フジミ1/72のキットも悪くないのですが、内部が少し違うんだよなあ、プラッツさんあたりで決定版が欲しいなあ(長くなるので以下略)。
 バートルとコンビを組んだのがMU-2Sでした。

こちらは三菱の生んだビジネス機で、空自では他に飛行点検隊で、また陸上自衛隊でも使われました。微妙なラインを持つ機体で、ハセガワ1/72のキットがありましたが、こちらもそろそろ「決定版」が欲しいなあ、そのときにはビジネス機のバージョンも含めて・・・(長くなるので以下略)。
この時代、連絡機と言えばT-33でした。第204飛行隊のマークをまとっています。


外来機は少ないのですが、松島基地からT-2が飛来していました。

小さく写っていて恐縮ですが、尾翼のオレンジ色がまぶしいです。

入間基地の航空総隊司令部飛行隊からはB-65が来ていました。

(デジタル化ができなかったので、プリントを直接撮影しています)
この094号機、航空自衛隊で購入して昭和55年まで海上自衛隊に運用を委託していたという変わり種でした。

夏の終わりの一日を過ごして、帰路に就くこととしました。百里基地へのアクセスですが、行きは常磐線の石岡から臨時のシャトルバスを使い、帰りは基地から鹿島鉄道の常陸小川行きの臨時のバスを使いました。

 鹿島鉄道というより、私なぞは関東鉄道という呼び名の方がなじみがあるのですが、この路線では国鉄の試作ディーゼル機関車DD42由来のDD901や、キハ07の流線型の先頭部を切り落として切妻にしたキハ600が有名でした。キハ600には何度か乗車していますし、DD901も見たことがあるのですが、残念ながら写真を撮っておりません。たぶん、基地の中で写真を撮ることに精一杯で、フィルムを使い切っていたのでしょう。残暑厳しい一日を基地で過ごしてさすがに疲れてまいりました。石岡で常磐線に乗り換えて、CDからカセットテープに落としたザ・スクエアの「うち水にRainbow」を聴いていたのですが、B面の「カピオラニの通り雨」のあたりで瞼が重くなってまいりました。
 
 鹿島鉄道の車輛ですが、トミーテックの「鉄道コレクション」ではキハ431が製品化されています。往時をしのぶよすがといたしましょうか。

 常陸小川駅ではJRとの接続は硬券により乗車券を売っていました(写真は平成7年の乗車券です)。

 当日のプログラム

 この前の年も、その後の年もプログラムそのものはあまりかわり映えしませんでした。おみやげのステッカー(汚れておりますが)とともに。

 百里基地の夏の思い出、さらに2年後に話が続きます。

 


 

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百里基地 夏の思い出 その1

2020年08月29日 | 飛行機・飛行機の模型
 今日からしばらくは飛行機の話がつづきます。
 F4ファントムの引退、偵察航空隊の任務完了など、このところ百里基地に関するニュースが航空誌の誌面をにぎわせていますが、平成の初めごろの百里基地の写真をデジタル化しましたので、お目にかけようと思います。
 百里基地を初めて訪れたのは昭和60(1985)年で、このときは高校生向けの見学会に参加させていただきました。一日基地の中で隊員の方と同じご飯を食べ、配備が進むF15Jを間近に見学できたので、なかなか得難い機会でした。パイロット以外のさまざまな職種の方がいて、基地の業務が成り立っているというのを知る良い機会でもありました。
 そのあと百里基地を訪れたのは平成に入ってからで、このころ、百里基地では夏に「チビッ子・ヤング大会」というイベントを実施していました。ファンの間では「チビヤン」と略されていました(「チビッ子」とか「ヤング」とか、この時代でも既にあまり使われなくなった言葉でしたが)。これは夏の平日の一日、基地を一般開放するというイベントで、子供達には夏休みの思い出を、若者たちには就職先の一つとして自衛隊を考えてもらおう、という意図があったのではないかと思います。平日の基地の様子を見せるだけですので、エプロン地区に地上展示の航空機を展示する以外は訓練飛行のため離着陸する飛行機が見えるくらいで、ブルーインパルスも来ませんので、通常の航空祭よりものんびりしたイベントでした。しかし、平日で人が少ない分、飛行機をじっくり見て、写真も撮れるわけで、飛行機好きにとってはなかなかおいしいイベントだったのです。特に、この時代の百里基地では第305飛行隊のF4EJ、第204飛行隊のF15J、第501飛行隊のRF4Eとさまざまな機種がいましたので、まさに「一粒で三度おいしい」という基地でした。
 チビッ子・ヤング大会には平成元年に初めて行きました。今日ご紹介するのは平成2(1990)年の写真です。

第204飛行隊、F15Jが並んでいます。

離陸滑走に向かうF15Jです。当時使っていたのはキヤノンT70というカメラと、35-105mmのレンズでした。105mmでなんとかここまで撮れるという感じでしたので、フライトの写真は小さなものばかりです。

編隊で離陸する様子ですが、トリミングしています。

フライトの写真に期待できない分、地上にいる飛行機と人物を組み合わせようとも模索していたのもこの頃でした。



もちろん、イーグルだけでなくファントムも、というわけで、F4EJです。

ファントムというと私はこの時代の上面ガルグレー、下面白という塗装が好きでした。模型でもこのノーマルの塗装で作ることが多いです。
RF4Eです。


フライトに向かうF4EJ


着陸後、滑走路でドラッグシュートを展開するF4EJです。


地上展示では飛行機だけでなく、支援機材も展示されていました。


もう少し写真がありますので、次回に続きます。

 

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佐藤琢磨選手、このたびはおめでとうございます!

2020年08月24日 | 自動車、モータースポーツ
 日本時間の未明にアメリカで行われたインディ500マイルレースで、佐藤琢磨選手が3年ぶり二度目の優勝を飾りました。本当におめでとうございます。
 アメリカではヨーロッパ、英国とは違った形でモータースポーツが発展してきました。インディ500を含むインディカーのレースというのはF1のような車輪がむき出しとなったオープンホイールのレースカーを使って行われますが、マシンはF1と似て非なるものです。
 インディ500というのはこの中でも100年以上の歴史を持ち、アメリカを代表するレースの一つです。インディアナポリスのオーバル(楕円形)コースで文字通り500マイル(800km余)を走るレースです。F1ならば300km程度が一つのレースの距離になりますので、F1の三倍近い距離を走らなければなりませんし、ちょっとでもミスをすればコンクリートウォールにヒットしてレースを失ってしまいます。オーバルなんて高速でぐるぐる回ってるだけだから単純じゃない?と思われがちですが、レース戦略、前車との距離の取り方など、F1とは違った難しさがあります。超高速で耐久レースのような距離を走り、バトルもするわけですから、大変な仕事ではないかと思います。
 たくさんのスタッフによってドライバーが支えられているという点では他のレースと同じですが、スタンドに陣取って他のマシンの位置をドライバーに無線で伝える「スポッター」と言われるスタッフ、XXLサイズという感じの大柄アメリカンなメカニックというのはF1との違いですし、何よりヨーロッパではあまり見かけない極彩色のマシンというのもF1との違いでしょう。F1では雨もまた勝負を決める要素になったりしますが、オーバルコースでは雨はあまりにも危険過ぎるため、インディ500でも過去には突然の雨に短縮終了となったり、順延されたこともあります。このように、全く別の道を歩みながら発展してきたモータースポーツであると言えるでしょう。
 さて、インディ500はいつもの年なら5月下旬の戦没者追悼記念日の前日の日曜日に開催されるイベントですが、今年はコロナ禍で8月開催となり、他のスポーツイベント同様無観客で行われました。毎年20万人以上が詰めかけるスタンドが無人というのは、やはりいつもと違う光景であることを際立たせています。佐藤琢磨選手は今年は予選の順位も3番手とこれまでにない好位置からのスタートで、レース後半にトップを奪います。レース終盤、ライバルのディクソン選手の猛追も受けましたが、ここで他車のクラッシュが原因で、救助とマシンの撤去のためにコースが全面追い抜き禁止となり(これもインディカーならではですが)、最後はペースカーに先導されながらのゴール、となりました。
 三年前の初優勝の際はまさに快挙、という感がありましたが、一度でも勝つのが難しいレースに複数回勝つのはさらに難しく、複数回優勝した選手は107回の歴史で20人だそうです(最多優勝回数は4回が3人)から、佐藤琢磨選手も名実ともにインディカーレースの歴史に名を残す存在となりました。個人的なことになりますが、佐藤琢磨選手については鈴鹿のレーシングスクールにいた際にNHKが取材し、ドキュメンタリーで放送していた頃から知っていましたので、日本のレースではなくイギリスF3を経てF1デビューという報を聞いたときは、ついにあの若者がここまで来たのか、という感じでした。F1ではいいことも残念なことも経験したと思いますが、2004(平成16)年のシーズンには表彰台に上がるなど(このときの場所もまた、インディアナポリスでしたが、F1用にオーバルの一部を借り、インフィールドのセクションを作ったものでした)、もしかしたら次のレースでは「勝つんじゃないか」と思わせることもありました。あの年の鈴鹿で4位入賞したときは、4位で残念、と思ったものです。
 F1ではもう少しできたのではないかと思うのですが、シートを失うことになり、そこからインディカーの世界で既に10年以上戦っていますので、随分時間が経過したんだなと思いました。私のレース観戦仲間にアメリカ人の退役軍人さんがいるのですが、氏が言うには「タクマの英語はほとんどネイティブで素晴らしい」とのことで、英語がいつまでも不得意科目の私などはそれを聞くと下を向くしかなくなってしまいます。
 
 ル・マン24時間、デイトナ24時間、インディ500、さらにラリーではパリ・ダカールなど、大きなレースで日本人のウィナーも誕生しています。米、欧州双方のレースで日本人が出走して、さらに優勝を挙げることができているというのは、どちらかに偏重しているわけではない、日本のモータースポーツの立ち位置のようなものが見えてくる気がします。もちろん、地理的なものもあるでしょうし、この小さな国土にたくさんの自動車メーカーがあるというのも大きいでしょう。あとはF1で表彰台の真ん中に立てるドライバーがいつ現れるか、ですね。
 さきほどまで録画放送を観て、興奮未だ冷めやらぬというところですが、今日はここまでとして、乾杯しましょう。
 悔しいこともあるけど、こういう嬉しいこともあるからレースを観るのはやめられないし、楽しいのです!




 

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KATOの90年代日産車でまだ遊んでいます

2020年08月22日 | 自動車、モータースポーツ
 ちょっと前のブログでKATOのNゲージ用Nアクセサリーの90年代日産車をご紹介しましたが、あのブログの最後の方でカラフルなパルサーのレースカーもご紹介していたかと思います。あの車たちのジオラマを作りましたので、ご紹介する次第です。あるモータースポーツジャーナリストの懐旧談風に書いてみました。
「僕がサーキットに出入りするようになったのは1980年代のことだった。大学時代の友人がアマチュアでレースに出ていて、お手伝いと称して遊びに行っていたからだった。友人が出場していたのは入門向けのワンメイクのレースだったが、自動車メーカーも準エース格の選手を出場させており、なかなかレベルが高かった。僕もやがて他の選手たちやサーキットの関係者と知己を得るようになり、このクラスのレースのレポートを書いたところ、メーカーの広報誌やモータースポーツ誌に載るようになったり、レースプログラムにプレビューを書かせてもらうようになった。モータースポーツジャーナリスト稼業の始まりというわけである。
 ある日曜日、この日も友人が出場するレースを観にサーキットにいた。

 年間7戦で行われるこのレースには20台程度が参加していたが、上位8台には秋に行われるグランプリのサポートレース出場が約束されていた。国内各地の上位選手が集まるレースを目指して、僕の友人のようなプライベーターも真剣勝負をしていた。
 土曜日の予選でトップに立ったのは青い1号車だった。こちらはメーカーの準エース格が乗っている。F2やF3000の出走経験もあって、今年はGTカーや耐久レースが主戦場なのだが、メーカーの威信をかけて出場していて、当然スポンサーも有名どころがついている。ドライバーはピットウォールにもたれて監督とレース前の打ち合わせである。

 二番手のマシンにはサーキット内が驚きに包まれた。

 36号車をドライブするのは20歳の新人だった。地方のディーラーが発掘して連れてきたらしい。同じマシンと言いつつもパーツから何から違うワークス勢に割って入ることなど、通常では考えられず、いったい何者なんだろう、と誰もが驚いている。ゼッケンは若い数字はワークス勢が、プライベーターは大きな数字をつけているので、36という数字とスポンサーもついていない白いマシンと白いレーシングスーツが余計に目立っている。僕が昨日の予選の後で監督とドライバーに聞いたところではだいぶこのコースを走りこんで練習を積んできたとの由。新人対象のレースでは既に頭角を現していたが、メジャーデビュー戦である。監督は「最初の5周はラップタイムを2分3秒台でキープすることだけ考えればいい。無理に競争してぶつけたらもったいないぞ。でも後半になったら勝負をかけていい。少なくともお前の力なら2位でゴールできる」とアドバイスをしている。
 三番手はまたワークス勢である。
 
 説明の必要はない有名なタバコのブランドがスポンサーについている。これに乗るのは若手の有望株だが、やはり同じ若いプライベーターに予選で敗れて心中穏やかではない。レース前もスタッフとグリッド上で話し込んでいる。何が自分には足りないのだろう・・・。
 四番手にはワークスのベテラン選手が入った。若手の教育係も兼ねての出走である。

 その昔はル・マン24時間にも出場しており、なかなか手ごわいドライバーだった。年をとったけど、巧みなステアリングさばきには定評がある。グリッドには孫だろうか、小さな子供も応援に来ている。レーシングスーツに貼られたたくさんのスポンサーのワッペンが、キャリアと人気を物語っている。
 五番手にはプライベーターが入った。

 四番手とはタイム差がだいぶある18号車を駆るのは僕の友人である。プライベーターとは言ってもスポンサーもついたし、今年は年間の順位も上位8位に入れるかな、なんて言っている。ピットウォールにはガールフレンドが腰かけ、エプロン姿のメカニックと三人でレース戦略を練っている。「ワークス勢の7号車がタイムが出なくて後ろからのスタートだから、どこまでブロックできるかなあ・・・」。
 ピットウォールの内側の様子はどうだろう。マーシャルカーやドクターカーが待機している。


真っ赤なワーゲンバスに乗るのはサーキットドクターである。

長年レースを見てきたドクターに、36号車の新人の印象を聞いたところ「あの速さは本物だねえ、10年後にはグランプリドライバーとしてここにいるかもしれないよ。マシンの特性をすべて引き出しているように見えるね」とベタ褒めである。この人の予想はよく当たるが、それが本当になるとは、その時点では誰も気が付かなった・・・。
 レースは1周目の1コーナーで2号車が36号車のインを突いて2位に浮上し、そのまま数周が過ぎたが、6周目に36号車がアウトから2号車をぶち抜いて2番手を取り返し、そのままの順位でゴールした。
 このシーズンが過ぎた後で36号車の彼はライバルメーカーに引き抜かれた。彼自身がもともとフォーミュラカーに興味があり、ライバルメーカーの方がフォーミュラカーのレースに力を入れているというのも理由の一つだった。僕もこのシーズンの後で、ある通信社からスポーツ取材の仕事をいただくようになり、サーキットだけでなく、サッカー場、アイスホッケーのアリーナ、スキー場とあちこちの競技会場に出向くようになったが、モータースポーツの取材を中心に据えていた。彼がF3、F3000にステップアップしていくのと共に、僕もジャーナリストとしてこれらのカテゴリーを追いかけるようになった。デビュー戦で最初に取材に来たのがあなただったから、という理由で彼は僕の取材をいつでも快く受けてくれた。国内ではこの日の2号車のドライバーともライバルとして切磋琢磨していった。そして、このレースから10年も経たないうちに、僕も36号車の彼も、ジャーナリストとドライバーという関係で、F1の舞台に立っていた。彼はF1ドライバーとして活躍した後は、国内レースの監督としてサーキットで姿を見かけるが、彼のチームのマシンには36という数字が今も使われている。彼が私の取材を快く受けてくれるのも、あの時と変わらないのである・・・」
 物語がだいぶ長くなってしまいましたが、模型の説明もしましょう。レースカーに使ったのはカトーのパルサーです。パルサーは実際にレースにも出場していたようですが、改造を受けておりスタイルも細かいところが違うようです。ただし、このクラスの自動車についてはホンダがシビックのワンメイクレースを行うなど、レースでも人気がありました。特にどこのサーキットのどのシリーズということでもありませんので、小型車のワンメークレースをイメージしたジオラマということでご勘弁ください。車体をばらして色を塗り、レーシングカーのキットで余ったデカールや別売りデカールから使えそうなものを切り出して貼ったというところです。一部の車には車体後部に空力付加物もありますが、実際に役に立っていたかどうかは不明です(汗)。
 ドクターカーのワーゲンバスは昔懐かしいWIKING製、マーシャルカーはカーコレクションのトヨタセリカの屋根に透明のプラ材で灯火を追加したものです。実際にセリカは80年代にアメリカで開催されたF1ロングビーチGPのオフィシャルカーとして使用されたこともあり、タミヤがモデル化していました。
 ジオラマのサイズは持ち運びを考慮して100均で売っているケースに収まるものとし、そこに車や人を配置していきました。ベースは3ミリのスチレンボードで、その上に0.5ミリのプラ板を貼りました。路面の色はGMカラーの35番ダークグレーですが、タミヤのウェザリングマスターBのスス、同Dのオイルなどで軽く汚しています。白いラインはデカールで、スタートラインのチェッカー柄も「STUDIO27」というメーカーのデカールを使用しています。チェッカーの駒を切り離してマシンのゼッケンにも使用しています。ピットウォールやコントロールタワーはプラ板、プラ材で作りました。ピットウォールの内側は足を乗せられるように段がついていたりしますのでプラ材で再現し、ウォールの支えも兼ねています。
 人形たちは多士済々、さまざまなメーカーのものを使っています。ドライバー、メカニックの多くはトミーテックの「工場の人々」、「現場の人々」、「消防署の人々」などを塗り替えています。また、コースマーシャルはカトーの鉄道作業員の胴のところに色を差し、ビブをつけているように見せています。F1ならばスタート前のグリッドはメカニックたちで大賑わいでしょうが、このクラスのレースではグリッド上での作業も少なく、メカニックの人数も多くありません。ワークス勢は工具箱なのか、チームのカラーに塗られた箱状のものを持ち込んでいます。
 こうしてこのジオラマが出来上がりました。今回は鉄道模型のアクセサリーを使いながら鉄道模型とは全く違う世界になりました。


 

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猛暑の夏に飛行艇の話

2020年08月17日 | 飛行機・飛行機の模型
 今年は梅雨が長かった反動なのか、猛暑が続いておりますが皆様はいかがお過ごしでしょうか。毎日猛暑日、さらにマスク着用と本当に厳しい毎日ではありますが、海に因んだ飛行機をご紹介して涼んでいただければと思います。
 日本は海に囲まれた国ということもあって、古くから飛行艇の開発が行われてきました。今でもUS-2という飛行艇を海上自衛隊が保有しています。
 戦前においては、飛行艇は雷撃、爆撃、偵察などを目的として開発されたのですが、海軍のために開発された飛行艇を民間でも使用していました。川西航空機が開発した97式飛行艇がそれにあたり、海軍での運用のほかに、国策航空会社の大日本航空(「大日航」と略)でも川西四発型飛行艇として使用され、大日航では横浜を出発して日本の委任統治領だったサイパン、パラオなどの南洋の島々へ向かう便を運航していました。97式飛行艇は細長い胴体の上に支柱を介して主翼が乗る、パラソル翼といわれる構造が特徴的です。旅客機として使用される際には、椅子だけではなく折りたたみ式のベッドも設置されており、資料により数字はまちまちですが18名程度の定員だったと言われています。機内食も提供され、関内の料亭が用意した弁当などが積まれていたそうです。
 97式飛行艇については、1/144でモノクロームというメーカーから以前キットが発売されていました。海軍、大日航の両方がラインナップされ、しばらく棚の肥やしだったのですが、数年前に大日航のバージョンを組んでみました。
 このキット、水上(空中)の姿勢で組むことができましたが、地上で胴体に取り付ける車輪などはパーツにないため、ジオラマにするなどの工夫が必要でした。また、他の方も指摘されていましたが、胴体上面に取り付ける支柱が原因で主翼が胴体と直角になってくれません。何とか修正して完成させましたが、パネルラインなどが繊細で美しかっただけに、残念な結果となってしまいました。そんなこともあってか別の方法でこの機体を再現してみようと思いました。

(モノクローム製のキット。今回の参考文献の一つとともに)

(胴体、というか艇体下面は赤く塗られていました。モデルでは少し赤い色の幅が広いかもしれません)
 アルジャーノンプロダクトから「ビッグバード」というシリーズが発売されています。これは第二次大戦中の大型機を1/144で再現している半完成キットで、この中に97式飛行艇もありました。こちらは地上で使用する際の車輪も付属しています。いつも思うのですがA5版程度の箱に1/144とは言え大きな機体をバラバラにして収める技術には脱帽です。キットはあくまでも軍用飛行艇として姿ですので、色を塗り直した上で「アシタのデカール」の川西式四発飛行艇「南洋航路」からマーキングを持ってきて仕上げました。


 あくまでも雰囲気重視ですので、細部はかなり異なると思いますがご容赦ください。
 
 そして今回は完全にifの機体ですが、97式飛行艇の後継機として登場した二式飛行艇を民間機として仕上げてみました。

 キットはアリイ1/144のものです。ご存知の方も多いと思いますが旧LSのキットです。LSのこのスケールのキットは高い評価を受けているものが多く、本製品もその一つです。
 二式飛行艇も川西航空機で開発され、その大きな機体は長らく船の科学館で展示されていましたので、関東のファンにはなじみが深かったかと思います。私もゆりかもめの車窓から眺めたり、船の科学館を訪れた際に近くから観察したものです。重武装の機体で知られ、米軍の爆撃機を撃墜したとか、戦闘機に弾を撃ち込まれながらも帰還したといった逸話も残っています。戦後、この機体を接収した米軍もテストしたところその高性能ぶりに驚いたという話が伝わっています。
 哨戒、爆撃、雷撃などの任務を行う機体の他に、人員・物資の輸送を目的として製造されたものもあり、こちらは「晴空」という名称が与えられていました。こちらは銃座を持たないスタイルが特徴でした。
 もし、戦争が起きないまま時間が経過し、大日航が二式飛行艇を旅客機として運用していたら・・・というのがこの作例です。作例は厳密には晴空飛行艇とも異なりますので、細かいところには目をつぶり、二式飛行艇を民間で使っていたらこんな感じになるのでは、というくらいにご覧いただければと思います。
 キットでは機体側面、機体上面に銃座用の窓を取り付けるため穴があいていますが、こちらをプラ板とエポキシパテでふさぎ、機首、尾部の風防に空いた機銃用の穴を、熱で伸ばした透明ランナーでふさいでいます(そもそも機銃を積まないのに機首をガラス張りにする必要があるのか、という話は置いておいて)。
 塗装も当時の標準的な銀一色であり、胴体下面に赤い帯を入れています。二式飛行艇の場合は機首下面に「かつおぶし」と呼ばれた波押さえ板があり、これに干渉しないように赤い帯を入れたので細くなっています。
 側面下側に赤い色が見えるのがお分かりいただけますでしょうか。

 また、輸送用ということであちこちに小さな客用窓がついています。こちらは「アシタのデカール」の「川西十三試大艇&晴空三二型 鎮守府飛行機隊」を使用しました。
 機体の登録記号ですが、こちらも架空のものです。アルファベットは前述の97式飛行艇用のデカールのものを使用しましたが、アルファベットのRの文字だけ無かったので、一部手描きしています。
 大日航の機体はどれもシップネーム(機体の愛称)をつけていました。97式飛行艇では「巻雲」「綾波」といった気象、海象に因んだ名称がついていました。二式飛行艇ではどうでしょうか。大きな機体ですので「島」がつく機体はどうかと思い(実際に海軍では敷島、八島といった愛称をつけた二式飛行艇があったようです)、「敷島」としてみました。自作のデカールですが大日航のシップネームの書体は独特ですので、単なる丸ゴシックではあまり似ていません。ちなみにこの時代であっても右からではなく左書き出しです。

 コクピットには乗務員も収まっています。Nゲージの人形を座らせています。
 二式飛行艇については二年越しか三年越しくらいで完成させることができました。それにしても大きいです。同時代の水上機との比較で大きさが分かるでしょう。

 また、同じ時代の傑作機、DC-3と並べてみても大きさが分かると思います。

(DC-3はミニクラフト製)
 
 大きな機体ですので、晴空飛行艇では最大60人程度運ぶことができたと言われています。旅客機として使用していたら空飛ぶ客船として大きな機体を活かした豪華な内装が人気を呼んでいたことでしょう。同じ時代にはイギリス、アメリカでも大型飛行艇がやはり「空飛ぶ客船」として運用されていました。それぞれ本国と植民地や自国の権益の及ぶ地域を結ぶために作られたものだったのですが、現代のようにスピードを追い求めるのではなく、島伝い、陸伝いに飛び、夜は海面に下りたり、あるいは島などの陸地で停泊するのんびりした旅だったと伝えられています。
 今回、やはりストックしていたエアフィックス1/144ボーイング314も製作していたのですが、塗装まで進んだところで思わぬトラブルがあって、完成に至りませんでした。大日航とパン・アメリカンの飛行艇の南の島での邂逅を再現するのはお預けとなってしまいました。


 さて、飛行艇が出来上がったことですし、グラスを傾けながら南の島への旅に思いをはせることとしましょう。今日のBGMはイーディー・ゴーメのワンノート・サンバにしましょう。

参考文献 二式飛行艇と日本海軍飛行艇(モデルアート社)、のりもの選書19「世界の海を渡った豪華絢爛の翼 飛行艇の時代」帆足孝治著(イカロス出版)、船の科学館資料ガイド2「二式大型飛行艇」


 
 


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