工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

不死鳥とグランプリと

2019年05月30日 | 自動車、モータースポーツ
F1で三度の年間王者、そして最近ではメルセデスの非常勤CEOとしてF1チームに帯同していたニキ・ラウダ氏が先週亡くなりました。日本でも一般紙の訃報欄で取り上げられていましたので、それだけ著名な人物、ということになるのでしょう。週末に開催された伝統のモナコGPでも追悼行事が行われ、メルセデスのハミルトン選手、フェラーリのベッテル選手のように氏の現役時代のヘルメットのデザインを取り入れたヘルメットを被ってレースに出走したドライバーもいました。
 私は直接本人と話をしたとか、サインをいただいたということは残念ながらなかったのですが、トレードマークの赤い帽子をかぶってレース前のグリッドをせわしなく歩いている姿や、メルセデスのガレージの前でメディアのインタビューを受けている姿を望遠レンズ越しによく見かけておりましたので、サーキットで必ず見かけるという意味では勝手に身近に感じておりました。昨年夏から体調を崩し、昨年の日本GPにも来日できなかったので、心配していた中での訃報ということで、大変残念に思っています。
 私自身、氏の現役時代についてはリアルタイムではほとんど見たことがなく、書物や映像で知る限りですが、もしリアルタイムで見ていたら、頭脳的な走りに魅かれ、きっとファンになっていたと思います。1976年、フェラーリ在籍中の大事故からの復活と最終戦、富士スピードウェイまでもつれこんだタイトル争いについては映画「ラッシュ プライドと友情」にも描かれているので今更説明の必要はないでしょう。このシーズンの出来事は、イタリアのようにF1が人気の国ではそれほどF1に詳しくない人でも知っていましたので、多くの人にずっと語り継がれているのでしょう。ちなみに76年富士の様子は、F1解説でおなじみの今宮純氏が「モータースポーツジャーナリスト青春篇」(三樹書房)の中で、ラウダ本人にインビューした時のことも含めて触れており、こちらもご一読をお勧めします。
 「不死鳥」ラウダの凄いところはこれだけではなく、一度引退して復帰、1984年にタイトルを獲得したということも挙げられます。このときはマクラーレンでチームメイトだった若きエース、アラン・プロストとの一騎打ちとなり、最終戦で0.5点差でのタイトル獲得となりました。特にシーズン後半には7戦で3勝、2位3回を獲得しています。予選で速いだけでなく決勝でポイントを取ってシーズンを通して生き残るレース戦略は、まだ速いだけの若者だったプロストに影響を与えたと言われています。一度引退して復帰、というのは最近でもミハエル・シューマッハの例がありましたが、こちらはタイトル獲得どころか、勝利を挙げることも叶いませんでした。
 ちなみに今回、追悼のセレモニーが行われたモナコですが、ラウダ本人にとっては格別に相性が良かったかと言うとそうでもないようです。フェラーリで好調だった75,76年に連勝していますが、入賞できない年もあり、1983年には不運が重なったとは言え、予選落ちの憂き目にも遭っています。
 
 ラウダ氏はただ他人より速く走るだけでなく、現役時代にドライバーとして著作も発表しており「ニキ・ラウダF1の世界」や「ターボ時代のF1」は翻訳も出版されています。ここでは前者について触れるにとどめますが、「レーシングカー及びレースを正しく知ってほしい」という理由から本を書いた、と述べています。特にマシンの構造、ドライビング、サーキットの特性、マシンのテストといった章にページを割き、自身がコクピットの中で見たまま、感じたままを詳細に記しているという感があります。中には頭の中で判断したことを行動に移してステアリングを切り、アクセルやブレーキを踏み、といったところも細かく分析しており、まさに「走るコンピュータ」の面目躍如というところです。
 レースそのものについてはようやく終わりの方で一章を割いています(ただし、その中に76年の富士での本人の「勇気ある決断」についても触れられています)。機械工学の内容については大学の先生の手を煩わせた、と実名で紹介するなど、完全にラウダ一人で書いた本ではないようです。ただし、それもレーシングカー及びレースを正しく理解してほしい、という本人の意思の表れであり、本書を読むと自分に対して非常に正直な人だったのでは、と思わせます。
 
 後年、他の書物を読んだときに、この「ニキ・ラウダF1の世界」を思い起こすことがありました。作家の塩野七生氏が「皇帝フリードリッヒ二世の生涯」という中世の神聖ローマ帝国皇帝の伝記を書いており、その中の記述になりますが、この皇帝は鷹狩りの趣味が高じて「鷹狩の書」という書物を遺しています。そこでは「あるがままに、見たままに書く」ことをモットーとし、鳥の種類から生態に至るまで細かく分類、分析した上で、ようやく残りの1/3で鷹狩りそのものを記載していたということで、「不死鳥」ラウダは中世の皇帝の書をどこかで意識していたのではないか、と勝手に思ってしまったものです。

 このブログは乗り物全般について触れていますので、ラウダ氏と民間航空業界との関係についても書きましょう。新聞記事でも「引退後は航空事業に参入し・・・」といった記載があるように、ラウダ航空、ニキ航空といった会社を立ち上げています。ニキ航空については銀色のエアバスの胴体の機首にハエの絵を描くというなかなかユニークな塗装をしていた時期がありました。横浜銀蠅ならぬウィーン銀蠅だったわけです。以前ヨーロッパを旅行した際に、ニキ航空の看板などを空港で見かけましたので、健在ぶりを知ることができたものです。

 今回は一人の人物についてたっぷり書きました。一ファンの心情も含めて書かせていただいたところもありましたので、読みづらいところもあったかもしれませんが、ご容赦ください。

 本稿は6月4日に一部加筆いたしました。

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静浜基地航空祭へ

2019年05月20日 | 飛行機・飛行機の模型
 5月18日には晴海埠頭に出かけていた私ですが、翌19日は航空自衛隊静浜基地に出かけておりました。ここで開催された航空祭を見るためです。
 静浜基地というのは静岡県にあり、旧海軍の藤枝基地が前身です。ここにかつて置かれた通称「芙蓉部隊」を記念する施設も基地内にあります。
 ここは初等練習機T-7がパイロット養成のために使われています。

 戦闘機のパイロットも、最初はこういった初等練習機でキャリアをスタートさせています。非常に規模の小さな基地で、滑走路も短いため、航空祭で展示される機材も限られます。昨日、地上展示されていた外来機はヘリコプターだけでした。
 だからと言って地味なイベントかと言うとそんなことは決してないわけで、もともとブルーインパルスの展示飛行の予定こそなかったものの、他の基地から飛んできた機体のデモフライトはなかなか豪華でした。
 百里基地からはRF-4EとF-4EJ改がやってきました(写真はF-4EJ改)。

 RF-4Eの1機は青い塗装の「洋上迷彩」でした。ファントムもいよいよ見納めの時が近づいていると言われていますが、戦闘機、偵察機の両方のファントムのフライトを見ることができたわけで、これは収穫でした。
 岐阜基地からはF-15JとF-2Bがやってきました。いずれも飛行開発実験団のテストパイロットが操縦していますので、機体の性能を発揮したさまざまな機動飛行を上空で展開しました。


 入間基地の航空祭なら基地に帰る際にちょこっと航過しておしまい、ですが、こちらでは時間いっぱい飛んでいました。
 他にも空中給油機の航過や航空祭ではおなじみの航空救難の展示、さらには静岡県警のヘリコプターの展示飛行などもありました。
 地上でもバイクを改造したT-7jrのショーが行われたり、ステージイベントなどもあったようです。

 私が静浜基地の航空祭を訪れたときは地元の農産品の販売ブースにお邪魔して「新茶の詰め放題」を購入しています。これはお茶缶に係の方が文字通り新茶の茶葉をぎゅうぎゅう詰めにして販売しているもので、新茶の季節でもありますのでなかなかお得なお土産です(ただし、帰宅してから慎重に缶を開けないと茶葉があふれ出して大変なことになります)。
 こちらの基地の主役のT-7に話を戻しますが、大編隊の飛行も航空祭の恒例です。小さな飛行機でもこれだけの数ですと壮観です。

 スピードが遅い飛行機ということもあり、離着陸の機体の動きも一機一機少しずつ違っているのが分かり、パイロットのクセなどもあるのかなあと思いました。

 基地を見まわしていた中で、遠くにこんな機体が展示されているのを見つけました。

 これは航空自衛隊のかつての主力だったF-86F戦闘機ですが、機番を見ると417という数字が見えます。これは自衛隊草創期にアメリカから供与された機体の1機で、後に供与、国内で生産されたグループと主翼の形状が異なるグループでした(明治期に大量に輸入、生産された蒸気機関車「B6」も初期の2100型と2120型で煙室の長さが違いますが、それを思わせます)。これらの機体のほとんどは偵察機に改造され、その時に主翼の形状も「多数派」に合わせたのですが、この機体は改造されることなく、原型をとどめて展示機として余生を過ごしているわけです。現役当時とは違うマーキングが入っていますが、珍しい機体でもありますので、供与当時の姿に復元されることを願っています。静浜基地にはT-6、T-34、T-3などが美しく整備、保存されていますので、この機体もそうなればいいな、と思うのです。
 
 こうして初夏の一日を楽しみ、基地を後にしました。基地から最寄り駅(藤枝か焼津となります)までのバスでのアクセスも悪くなく、そのあたりも私がここの航空祭が好きな理由の一つです。静岡県内の基地と言うと、浜松基地の方が大きく、航空祭もにぎやかですが、静浜基地も楽しめます。基地、隊員の皆様、ありがとうございました。

 週末を乗り物三昧で過ごしたわけで、インプットができました。さあ、仕掛中のキットに戻るとしましょう。
 




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第71回東京みなと祭

2019年05月18日 | 船だって好き
 晴海埠頭とその周辺で開催されている「東京みなと祭」に行ってきました。
 このイベント、文字通り東京港をPRするイベントとして毎年この時期に行われています。晴海埠頭では「めずらしい船の展示」として、東京都所有の浚渫船、海上保安庁の測量船、東京海洋大学の練習船とともに、海上自衛隊の護衛艦「てるづき」が展示・公開されるということで行ってきました。
 毎年護衛艦の展示が行われていますが、昨年は昭和に就役した「はたかぜ」でしたので、今回は艦齢10年に満たない新しい艦艇が展示されたことになります。1年ぶりに足を運んだ晴海埠頭ですが、周辺は建設ラッシュとなっていて驚きました。来年の五輪に合わせて選手村として整備される地域でしたね。個人的なことになりますが、以前に東京港とは仕事でも関わりがありましたので、埠頭の潮の香りに懐かしさを感じながら見学をしました。
 てるづきの属する「あきづき型」護衛艦の見学は初めてでした。今回は甲板のみ公開でしたが、隊員の方の説明も詳しく、またこちらの不躾な質問にも丁寧に答えていただきました。ありがとうございます。「むらさめ型」や「たかなみ型」などの護衛艦と比較しても幅が若干広がっており、艦橋の形も独特かつ複雑でイージス艦を思わせます。こうした艦形から「小さなイージス艦」としての役割が期待されていることが理解できます。昨年展示の「はたかぜ」と比べると艦艇の進歩は大変なものですね。なお、自衛隊からは陸上自衛隊の車輛も埠頭で展示されており、こちらもにぎわっておりました。
 「めずらしい船」の他の3隻については残念ながら今日だけの公開で、明日は見ることができませんが「てるづき」は明日・19日も公開されますので関心のある方はぜひお出かけください。客船ターミナルの建物の中でもイベントや関係機関の展示などが開催されており、商船を中心とした精密な模型を自作されている方々の作品も一見の価値ありです。
 なお、甲板だけとはいえ、狭い箇所等もありますので、動きやすい服装、動きやすい靴でお出かけになった方がよいでしょう。

 

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古いキットの楽しみ方 1/144百式司偵の場合

2019年05月14日 | 飛行機・飛行機の模型
 以前のブログにも書いておりますが、私は1/144スケールの飛行機のキットを買ってくることがときどきあります。食玩も含めますと、近年のこのスケールの充実ぶりと細密化には本当に驚かされます。
 昔は1/144のキットというと駄菓子屋さんで売られているような子供向けの製品が多く、安価ですが中身はそれなりで、コックピットか再現されているということはまず無く、もっさりした造りと分厚い翼、バリかと思ったらパーツだった・・・ということもありました。
 以前は安価なキットしか無かった機種が、精密な模型や食玩で入手できるようになると、今までの製品に価値が無くなってしまうのかと言うと、決してそんなことはありません。古いキットなりの楽しみ方もあるからです。
 その昔、旧今井科学の製品で、日本軍の双発機が何種類かキット化されていました。珍しい機種もあってその後もハセガワで再販され、今ではアオシマから「双発小隊」というシリーズで発売されています。
 1980年代に私もこれらのキットを買いました。ハセガワから発売されていたときのものでした。当時は一機分のキットに、掩体壕やトラックなどの部品がおまけでついており、Nゲージサイズのトラックの製品が少なかった頃でしたので、トラック欲しさに買ったものもありました。そんな不純な動機で購入したキットですから、飛行機の方はいつまで組み立てられず長い年月が過ぎ、気が付けばより精密な後発製品が出ていたりするわけです。
 今回ご紹介するのはそんなキットの一つ、旧陸軍の百式司令部偵察機Ⅲ型です。この機体、美しい流線型で知られ、ウイングキットコレクションでも近年製品化されています。古い方のキットはどうでしょう。コクピットは省略されていますし、アンテナやピトー管も太いです。操縦席を含め、徹底的に追加工作をする、というのもありでしょうが、私はキャノピーをスモークグレーで塗装してしまいます。これでコクピットは見えなくなります。翼の後縁はできる範囲で薄く削ります。また、主脚が少々長く感じられたので、2ミリほど短くしました。
 塗装ですが、模型ならではのIfも良いのでは、ということで民間機、それも新聞社の塗装を思わせるものとしました。このため、民間機の登録記号もつけています。ミスターカラー128番の灰緑色、ミスターカラーGXのスージーブルーで塗り分けました。

「昭和25年、名誉ある撤退と言われた停戦の日からしばらく時間が経過し、軍縮と近代化の中で航空戦力も空軍として再編、それに伴い偵察機はタービン・ロケット(ジェット)エンジンを装備した景雲改の配備が進み、かつては快速を誇った百式司偵も民間に払い下げられ・・・」というストーリーを考えていたらこうなりました、というわけです。


 古いキットではありますが、素性の良いキットなら楽しみ方は色々です。細密に作りこむか、さらっと作ってしまうか、Ifを駆使して架空の機体とするか、お好みでということになりましょう。古いキットの楽しみ方、今後も折に触れて書いていくことにしましょう。
 
 
 


 
 

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令和最初の日に

2019年05月01日 | 鉄道・鉄道模型
 新しい時代に入りました。引き続きこのブログをよろしくお願いします。
 昨日のブログで、鉄道模型好きらしい新しい時代の迎え方を、と書きましたが、昨日の23:30頃からNゲージの運転を始め、今日の0:00過ぎまで車輛を走らせるということをしていました。
 大晦日の晩から新年にかけての「年越し運転」というのは、多くのモデラーがされていると思いますが、私は以前このブログでも書いておりますとおり、年末はカウントダウンライブに出かけるため、年越し運転の機会はありません。
 今回は家におりますので「時代越し運転」とでも言いましょうか、元号が変わる瞬間に鉄道模型を走らせてみたわけです。
 23:30からは157系お召し電車編成、新1号編成など、昭和(特に戦後)と平成を彩ったお召し列車を走らせました。新1号編成の先頭にはEF58-61だけでなく、EF81-81、DD51-842も牽引機の任にあたりました。EF81-81ですが、昨日のブログで紹介したKATOの平成初期の製品にICテープで飾り帯を再現し、ペイントマーカーやエナメル性の塗料などで磨き出しの銀色部分を塗装したり、碍子や高圧線にも塗装したもので、我が家の鉄道ではベテラン選手ですが、いまだ快調に走っています。
 23:55頃から今の時代を走るお召し列車であるE655系がお座敷のエンドレスの上を走り、令和元年の始まりを迎えました。無事に運転も完了し、我が家の鉄道も新しい時代を迎えることができました。
 私のような考えの方もたくさんいらっしゃるでしょうから、おそらく昨夜は日本中のあちこちでE655系が走ったことでしょうね。実物のE655系も、新しい時代にあちこちを訪れることになるのでしょう。
 
 この数年、模型は買うばかりで走らせることを怠っておりましたが、エンドレスを走る模型を眺めながら、令和の時代には、もう少し車輛たちのことを大事にしてあげないと、と思いを新たにした次第です。


 
 
 

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