工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

青い客車へのオマージュ こぼれ話

2018年12月31日 | 鉄道・鉄道模型
 「青い客車へのオマージュ」で書きましたが、定期列車としての「オリエント・エキスプレス」という愛称を持つ列車は、パリ・イスタンブール間の運行を止めて以降も欧州内での列車として生き続けました。手元には2006年夏ダイヤのトーマス・クック時刻表がありますが、そのときにはパリ・ウィーン間の夜行列車として走っており、1等、2等の寝台車、クシェット(簡易寝台)、1等、2等の座席車が連結されていました。ただし、食堂車の表記がないことから、バー車、あるいはワゴンサービスだった可能性があります。「ユーロナイト」と呼ばれる国際夜行列車に種別されていたので、それなりの格式はあったのですが・・・。
 のちに運行区間もストラスブール・ウィーン間となり、ついに2009年12月に廃止となりました。廃止の際には偉大な愛称を持つ列車が消えるということでニュースにもなり、彼地のテレビ局もニュースで取り上げていました。学生や商用の乗客が多かったようで、廃止を惜しむ乗客の声が伝えられていました。夜行列車は日本でも商用の乗客に愛されている時代があり、時間とお金の節約に一役買っていたものですが、夜行列車そのものが「絶滅危惧種」ですから、そういった話も遠い昔の出来事になりつつあります。

 欧州内のクルーズトレインとしての「オリエント急行」ですが、現在では主に「ベニス・シンプロン・オリエントエキスプレス」(VSOE)が運行を続けています。こちらは来日したノスタルジー・イスタンブール・オリエントエキスプレスとは別の会社によって運行されており、昔ながらの客車を使用しているものの、車内の調度品を含め、現代の技術が取り入れられているのが特徴です。テレビシリーズ「名探偵ポアロ」の主人公を演じたデビッド・スーシェ氏が案内役となって乗車した様子が以前テレビでも放映されましたし、現在、映像で目にすることが多いのはこちらの列車です。いくつかの区間で運行が行われており、日帰りツアーや都市間の運行などもツアーで参加できるものがあり、日本の旅行会社で取り扱っているものもありました。

 オリエント急行の来日以来、日本でも豪華列車の構想や、実際に贅を尽くした列車も生まれております。豪華さ、快適性というと日本では各部屋にテレビが・・・とかWiFiが無ければ・・・といったリクエストもありましょうが、「乗ること」の楽しさを追求する列車も出てきているようです。新幹線のような高速、正確な列車だけでない、日本の鉄道のもう一つの魅力となる日もそう遠くないかもしれませんね。
 
 さて、今年もあと少しになりました。拙い私のブログにお付き合いいただき、ありがとうございました。皆様もよいお年をお迎えください。また来年、工作のついでにこのブログにお越しいただければ幸いです。


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青い客車へのオマージュ つづき

2018年12月27日 | 鉄道・鉄道模型
 日本国内を走った「オリエント急行」ですが、なかなかお目にかかれない車輛が、日本の地を走るということもあり、趣味誌も特集で取り上げております。
 「とれいん」誌は1988(昭和63)年12月号で、版元のプレス・アイゼンバーン創立20周年記念執筆と銘打ち、社主の松本謙一氏自身が日本国内の本線試運転から、広島→東京間(これがパリ発東京行きの最後の行程となりました)の同乗ルポを執筆されています。もともと外国型も日本型も分け隔てなく掲載してきた模型誌ですので、同乗ルポ以外にも車輛の詳細についての紹介、模型の紹介など、気合の入った特集記事となりました。
 日本国内を走った車輛の多くが1920年代後半、つまり昭和初期の製造にあたり、どれも旧国鉄の重量標記で言えば「カ」に相当する大変頑丈で重い客車たちでしたが、その内部は美しい木象嵌の細工やルネ・ラリックのガラス細工などで飾られており、「とれいん」誌はそのあたりまで詳しく掲載しています。また、各車両の細部写真だけでなく、食堂車で供されたフランス料理のフル・コースも詳しく写真で紹介するなど、列車内をくまなく歩き、そして食べて、最後はサロンカーでピアノの音色とともに食後酒をいただき、という感じで、乗客の気分が味わえる記事でした。
 「鉄道ファン」誌は1989(昭和64)年1月号で、吉村光夫氏が同じく広島→東京間の同乗ルポを執筆されています。軽妙な語り口で旅の印象を書かれており、パリから香港まで通して乗ったという日本人の乗客にもインタビューをしています。「とれいん」誌ではこの編成を所有するイントラフルーク社の技術スタッフへのインタビューが載っていましたが、「鉄道ファン」誌では運用、技術面についてJR東日本側からの寄稿が掲載されています。
 
 さて、模型の話になりますが、Nゲージではカトーからそのものずばりの日本国内を走った編成とパリ~香港間の編成が発売されていますので、お持ちの方も多いのではと思います。あの時を思い出して当時の機関車を先頭に立たせるのも良いのですが、模型なのですから少々のifは許されるでしょう、というわけで、時代に関係なく個人的にお勧めの機関車を挙げてみました。
 電気機関車ですが、EF58-4号機をまずは挙げてみたいと思います。緑の濃淡の試験塗装機です。もともとこの塗装がフランス・PLM鉄道の機関車の塗装にインスパイアされたとも言われていますので、流線型の車体に欧州風の塗装ということで、我が家ではよく先頭に立っています。それ以外の試験塗装機もなかなかお似合いですので、カトーの試験塗装機のセットをお持ちの方は、試してみてはどうでしょうか。 また、EF50、EF55などの戦前派の茶色い電気機関車もマッチします。
 ディーゼル機関車ですが、箱型車体のDF50、DD54などを試してみたいところです。小さなDD54は重連にした方が様になりそうです。
 蒸気機関車はD51-498が実際には先頭に立ちましたが、やはりここは旅客機、せっかくですから優美なスポーク動輪といきたいところです。日本機離れしたC-53はどうでしょうか。実物は東海道のエースとして戦前に活躍しましたが、こういった客車も似合うと思っています。我が家のマイクロエースのC53にも、晴れの舞台が用意できました。同じくスポーク動輪のC51、C55もお勧めです。

 30年前のあの頃、日本はバブルの真っただ中でした。オリエント急行が走ったのは、そんな時代の一瞬の夢だったのではないかと今でも思います。日本を走った車輛のうち、青とクリームに塗り分けられたプルマン車は、今では箱根のラリック美術館に展示されています。夢の続きを見に、いずれ箱根を訪れてみたいと思っています。
 

 

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青い客車へのオマージュ

2018年12月26日 | 鉄道・鉄道模型
 来年の改元を控え、今年は「平成最後の」といった言葉が巷をにぎわせております。今日は、そこから30年時を戻して、昭和の最後の日々となった頃の話をしましょう。
 昭和63年の秋、ある列車が日本の鉄道の話題をさらっていました。
 フジテレビが開局30年事業として「オリエント急行」をパリから香港まで、さらにJRの本線上で走らせるという壮大な企画を実現させたのです。クラシカルな編成が昭和63年9月にパリを出発、ヨーロッパ各国、ソビエト(当時)などを経て、英国領だった香港に到着。そこから海路で山口県に運び、日本の台車に改軌の上、日本の本線上を走り、日本一周ツアーや各都市へのツアーを行い、12月25日まで運行しました。
 オリエント急行ですが、かつてはパリからイスタンブールなど、欧州とアジア、中東連絡の役割を持つ豪華寝台列車として君臨していたものの、第二次大戦後以降凋落が進み、パリ・イスタンブール間のオリエント急行は70年代に運行を止め、欧州内の列車名としてしばらく残ることになります。ちょうどその頃から、クルーズトレインのような形で戦前の客車を主に使用した「オリエント急行」が、欧州内で複数の会社によって運行されるようになります。日本にやってきたのは「ノスタルジー・イスタンブール・オリエントエキスプレス」(NIOE)と呼ばれているものでした。こちらは車輛を保有するイントラフルーク社の考えで、極力現役時代の塗装、内装、設備にこだわるというのが特徴でした。
 私も品川駅で展示されると聞いて出かけたのを覚えています。この時は動いていない車輛を見ただけですので、模型屋さんのショーウィンドウに自分が人形のサイズになって迷い込んだような錯覚を覚えました。「本当に日本に来たんだなあ」という思いと、青い車体の色が日本のどの客車にもない色で、本当に美しいと感じました。
 私の周囲にも、それまで外国型など見向きもしなかった人間が、美しい客車の虜となり「追っかけ」をしていましたので、やはり多くの人にとって特別な列車だったのでしょう。
 そんな昭和63年秋のある日、いつも通学で使っていたJRの路線で、偶然EF65PFが牽引するオリエント急行とすれ違いました。日常の風景の中に、夢のような光景が出現した感じで(牽引機があまりにも「普通の」電気機関車ということもあって)、とても感動したのを覚えています。ブルマン車の赤いランプシェードが薄暮の中で淡く光るのがとても印象的でした。
 その後も旅先で偶然停車しているところに出会いました。客車の屋根から石炭を燃やす臭いが立ち上ってきました。NIOEの車輛は暖房や食堂の厨房の熱源などに石炭を使用しており、各寝台車の車端部には暖房と温水用の小さなボイラーがありました。ベテランの駅員氏が蒸気時代を思い出したのか「懐かしい匂いだなあ」とつぶやいていました。
 個人的な思い出をつづっているだけでだいぶ長くなってしまいました。次回はオリエント急行を紹介した当時の鉄道雑誌の話と、模型の事も少し書きましょう。


 
 

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ボヘミアンラプソディ

2018年12月22日 | ときどき音楽
 イギリスのバンド、クイーンとボーカルのフレディ・マーキュリーを主人公にした映画「ボヘミアンラプソディ」が大ヒットしていますね。クイーンは私より少しお兄さん、お姉さんたちがリアルタイムで聴いていたという印象で、私はベスト盤を持っておりますが、ちゃんと聴くようになったのもフレディの没後なのでとても熱心なファンなどとは言えないのですが、彼らの唯一無二の音楽性には魅力を感じております。もちろん、映画館にも足を運びましたし、私のウォークマンでこのところはクイーンの再生回数が増えております。映画のハイライトシーンでもあるアフリカ救済コンサートの「ライブエイド」とか(主催者の)ボブ・ゲルドフという名前も久々に見聞きして、少しばかり懐かしさも感じています。
 さて、この映画で描かれているのはバンドの結成の1970年代初頭からライブエイドの行われた1980年代半ばのあたりなのですが、この時期のイギリスというと、まさに「英国病」の時代で、経済状態は厳しく、国内には北アイルランド問題を抱え、衝突や時にはテロなども起きていた頃です。このブログは乗り物をネタにしていますので、そのあたりのことも触れてみましょう。鉄道では、イギリス国鉄がインターシティ125を登場させ、高速化と近代化を図っていました。ただし、イギリスの場合はTEEで結ばれたヨーロッパ大陸とは別の歩みをしており、子供心にはドイツやフランス、イタリアの車輛の方がカッコよく見えました。
 自動車に関しては「ブリティッシュ・レイランド」という国営メーカーに集約されていた時代でした。経営状態の悪化した国内メーカーを統合し、海外勢に対抗しようとしたものの結果的には競争力と技術力の低下を招き、工場のストも頻発ということで、産業国有化の悪しき象徴のように言われております。もっとも、モータースポーツ、特にF1では1970年代はイギリス系のチームはなかなか元気で、ロータス、ブラバム、ティレル、マーチ、マクラーレン、ウィリアムズといったところが主にフォードのDFVエンジンを載せ、フェラーリなどと競っていました。エンジンが同じですから後は車体の空力性能をどう上げていくかがカギとなり、ユニークなマシン(時にはティレルの6輪車のような)が走っていました(6輪車については最近書籍も出ていますのでいずれ取り上げましょう)。この時代の話は近年公開された映画「RUSH」でもおなじみですね。1970年代末からターボエンジンが広まるようになり、F1も転機を迎えることになります。
 飛行機、まずは軍用機ですが、イギリスではライトニングやブリティッシュファントムの時代であり、ハリアー、シーハリアーも登場しました。空軍のアクロバット飛行チーム「レッドアローズ」はナット練習機からホーク練習機にバトンタッチした頃です。また、国産機から国際共同開発にシフトし、ジャギュアやトーネードが登場した頃でもあります。1982年にフォークランド紛争があり、バルカン爆撃機の大渡洋爆撃が話題になりましたし、シーハリアーも実戦に投入されました。我が家にも組んでいないライトニングとブリティッシュファントムがあります。クイーンを聴きながら、まずはそこから手をつけましょうか。
 旅客機に関しては英仏共同開発のコンコルドの登場がありましたが、騒音公害を指摘され、オイルショックという逆風もあり、厳しい船出となりました。
 そうそう、1960年代終わりころのヒースロー空港では、一人の青年が働いていました。彼の名はファルーク・バルサラと言い、やがて音楽の世界に身を投じ、仲間と出会い、唯一無二の存在となっていきます。彼は後にフレディ・マーキュリーと名乗ることになります。
 

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Bottle of Britain

2018年12月16日 | 飛行機・飛行機の模型
あらあら、つづりを間違えてますよ。それはBattle of Britainでしょ、と言われそうですが、そういうキャッチフレーズを持ったビールの話です。
 イギリスのシェパード・ニーム醸造所というところで作られているビールに「スピットファイア」という銘柄があります。この醸造所、17世紀の終わりごろ(日本で言うと元禄年間ですね)に創業し、イングランドでは現存する最古の醸造所だそうです。
 いろいろな媒体で紹介されていますし、大きなスーパーや輸入もののお酒に強いお店で手に入るため、お飲みになった方もいるかと思います。また、私の周囲でも当地のパブで飲んだ、という声を聞いたことがあります。
 そう、スピットファイアというのはまさしく戦闘機のスピットファイアのことで、バトル・オブ・ブリテンと呼ばれたイギリス本土防空戦で活躍し、イギリスを救った戦闘機であります。
 このブログの読者なら今さら説明の必要もないのですが、バトル・オブ・ブリテンとは、第二次大戦中にナチス・ドイツがイギリス侵攻を企図し、多数の航空機によりイギリスを屈服させようとした戦いで、1940年夏から秋にかけて、ロンドンなどの大都市を含め、イギリス各地に連日連夜の空襲が行われました。
 イギリスはここで、持ち前の忍耐と敢闘精神を発揮して(もちろん、技術的な優位やドイツ側の限界もありました)ナチス・ドイツの野望を退けたわけですが、空の主役だったスピットファイアは流線型のスマートな機体も相まって、今でも大変な人気を誇っています。
 そんな「英雄」ですので、当然ビールの銘柄になってもおかしくないわけですが、もともとはこのビール、バトル・オブ・ブリテン50年を機に作られた銘柄だそうです。
 そして、このシェパード・ニーム醸造所ですが、イギリス南東部ケント州にあります。ケント州はドーバー海峡、さらにはその対岸のヨーロッパ大陸にも近い場所ですので、連日スピットファイアが本土防空のために飛び交っていたことでしょう。それを思うと醸造所の場所にちなんだビールとしてこの名前をつけたのもうなずけます。
 写真で見るようにアンバー(琥珀)色のエールビールで、たっぷり500cc入っています。イギリスで言うところの1パイントには少し足りないでしょうか。ボトルのラベルにはスピットファイアのシルエットが描かれ、首のところには「Bottle of Britain」と入っています。
 手前の飛行機、右はエアフィックス1/72のスピットファイアMk.1、左がハセガワ1/72のホーカー・ハリケーンです。スピットファイアのキットは近年公開された映画「ダンケルク」の影響もあってか、模型屋さんでもよく見かけました。
 このタイプですとまさにバトル・オブ・ブリテンの頃の機体となります。スピットファイアについては近年のエアフィックスらしい組みやすいキットで、若干彫りが深い分、パネルラインの墨入れなどの練習にも好適です。マーキングはタミヤのキットから一部流用しています。
 ハリケーンもスピットファイアと同様、本土防空のために奮闘しました。無骨なハリケーンも私の好みであり、また、スピットファイアが主に対戦闘機との戦闘で、ハリケーンが対爆撃機との戦闘で戦果を挙げており、そういう意味ではバトル・オブ・ブリテンの立役者でもあるので、一緒に登場させた次第です。
 さあ、ビールがぬるくならないうちに乾杯しましょう。英独のパイロット、そしてあの時代を生きた人々に思いをはせながら。


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