工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

バンパイア練習機 日の丸以外の機体をキットで楽しむ

2020年04月26日 | 飛行機・飛行機の模型
 先日まで航空自衛隊のバンパイア練習機の話を続けてまいりましたが、本来はイギリスをはじめとした国々で多く使われていた機体であります。当然エアフィックス1/72のキットもイギリスの機体を中心に再現できるわけで、それらを組んでみました、というお話です。なお、今回ご紹介する作例を組んだのはだいぶ前のことであり、このブログでご紹介することは前提としておりません。あくまで自分が楽しみのために組んだものですので、出来の方もそれなりとなっています(おまけに保存が悪かったのか、いくつかの機体はピトー管も折れています。やれやれ)。なにとぞご了承ください。
 当初発売されていたキットは、イギリス空軍のラウンデル(蛇の目)が入った二種のうちどちらかを組めるようになっていました。

右側は練習機として使用されていたもので、オレンジの帯も鮮やかです。

模型ではMrカラーのサファリオレンジで塗っています。
左側の黄色い帯の機体は、現存する唯一の飛行可能な複座型バンパイアだそうで、保存団体の手で大切に整備され、現在でもエアショーで飛行するなど、元気な姿を見ることができます。保存団体がSNSに動画などを投稿していることもあり、遠く離れた極東の地でもスマホで雄姿を見ることができます。この保存されている機体、テールブームに保存団体のurlが目立たないように記載されています。第二次大戦中に開発された機体とインターネットという組み合わせが面白いですね。

バンパイア練習機は世界各国で使用されましたが、ほとんどの国が銀色の機体で、視認性を高めるためにオレンジ色の帯を巻くなどの処理をしていました。ところが、銀色以外の塗装で使用された例もいくつかあります。スウェーデン空軍では、この国の少し古い機体ではお馴染みの上面オリーブドラブ、下面ライトグレーという塗装でした。

作例では「XTRADECAL 72-173」バンパイアの海外ユーザーの入ったデカールを使用しています。
塗装指示によると上面はFS24079ということでMrカラー309番が近いところですが、Mrカラー12番のオリーブドラブでもいいと思います。
下面色のライトブルーグレイは近似色もなく、RLM78ライトブルー(Mrカラー118番)が強いて言えば、というところです。作例でもこの色をベースに調色した記憶があります。主翼などのオレンジ色はサファリオレンジですが、機首のオレンジ色の帯は、昔懐かしいモデラーズの蛍光オレンジ色のデカールをコンパスカッターで6ミリ幅に切り出してから使いました。
 この機体、完成してから1年どころではなく時間が経過しているのですが、つや消しクリアーのコーティングが悪かったのか、主翼の王冠マークなどのデカールが完成からだいぶ経ってからひび割れを起こしてしまい、改めて手持ちのデカールを貼っています。

 さて、キットだけではなく、バンパイアに因んだちょっと変わったものもご紹介します。
 2009年にロンドンのRAFミュージアムに行ったときのこと、広大な面積を持つ博物館を見た後で売店で購入したたくさんのお土産の一つがパイロット向けのマニュアルとも言える「PILOT'S NOTES」の復刻版でした。

 文章やイラスト、写真等でバンパイア練習機のことが解説されています。




 日本では一機だけの導入に終わったバンパイアですが、もし、戦後の日本がフィンランドやオーストリアのように大国の狭間で軽武装の中立国としてようやく独立を保てていたら、あるいはスウェーデンやスイスのように武装中立国として、自らも武器を各国に売り込み、また他国からも装備を調達していたら、数多く購入する可能性もあったのでは、と想像することがあります。もちろん、日本は先の大戦までは海軍力や航空戦力で列強の一つだった国ですし、地政学的に見ても極東・西太平洋地域での日本の位置というのは周辺国にとって無視できない存在でしょうから、現実には難しいでしょうね。バンパイアだけでなくハンター、ライトニングなど、日の丸で見てみたい機体というのはいくつかあるのですが・・・。

 バンパイア練習機を調達してから時はだいぶ流れて平成の時代に入り、航空自衛隊では再びイギリス製の機体を導入しました。飛行点検隊のU-125がそれにあたります。

 この機体のルーツはD.H125、つまりバンパイアと同じくデハビランド社の飛行機です。U-125が飛行点検隊に導入された際、関東地方のニュースで「イギリス製の飛行機を航空自衛隊が導入したのはバンパイアという練習機以来」とアナウンサーが原稿を読んでいたそうですが、いったいどれくらいの視聴者が「ああ、バンパイア以来なのね」と理解したかはわかりません。こちらも用途が特殊故、導入は少数にとどまっています。

 バンバイアについては単座型の機体もキットが各種出ておりますし、既に組んだことがあるものもございます。ご紹介できる時がありましたら、またお目にかけたいと思います。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伝説のマシンが駆け抜けた日々

2020年04月19日 | 自動車、モータースポーツ
 先日、スターリング・モス卿の話を当ブログで掲載しましたが、F1の公式サイト(英語)でもモスの名レースを写真で振り返る特集をしています。前回ご紹介したミッレ・ミリアも含めて掲載されておりました。文献やら映像を見ているうちにあの時代のマシン、モスのレースについてもう少し書きたくなりました。
 前回掲載したメルセデス300SLRですが、せっかくなのでミニチャンプスのミニカーの写真をもう少し載せましょう。
 300SLRは当時のメルセデスのF1マシンW196を元に作られています。W196は「葉巻型」のマシンだけでなく、スポーツカーのような車体のマシンもあり、F1にも出走しています。車輪がむき出しでなくてもこの時代は出走が可能でした。

サイドビューです

独特な形のリアエンド

コクピット。一人乗りのマシンとしても使用でき、その時には助手席にカバーをしました。

 この300SLRですが、ミッレ・ミリアの栄光だけでなく、悲劇にも見舞われています。1955年のル・マン24時間レースにこの車を駆って出場したピエール・ルヴェというドライバーが他車と接触した後に観客席に飛び込むというアクシデントに見舞われ、ルヴェ自身と観客80人以上が死亡するというモータースポーツ史上最悪の惨事となりました。当時の映像を見たことがありますが、これだけの事故が起きながら、レースはそのまま進行していたことが驚きでした。今ならその場でレースそのものが打ち切られるでしょう。この惨事が元でル・マンのあるフランスの隣国、スイスではモータースポーツそのものに規制が加えられ、現在に至っているなど、大きな影響を与える出来事となりました。メルセデスはこの年を最後にモータースポーツから撤退、したがってF1からも撤退しています。この惨事がなく、F1への参戦が続いていたらメルセデスのF1でも活躍していたモスはチャンピオンを獲得して、無冠の帝王を返上していたかもしれません。
 300SLRはプラモデルでもフジミ、ドイツレベルから1/24で発売されています。内容は同じキットです。実車同様鋼管スペースフレームの構造が再現されていて、その上にエンジン、ボディを組むようになっていました。私も組んだことがありましたが、なかなか手ごわいキットで、メルセデスのメカニックのように美しく組み上げることはかなわず、人様にお見せできる代物ではありません。あしからず。
 さて、モスとそのレースについてももう少し触れたいと思います。前回、モスのインタビューの言葉として長距離、長時間のレースを得意していた、というのを紹介しましたが、それだけでなく市街地や一般道を使用したコースで強さを発揮していたように思えます。例えばイタリアのペスカーラのような一周の長さが25kmもあるコース(これはドイツのニュルブルクリンクの旧コースよりも長く、F1史上最長です)で優勝したほか、モロッコ・カサブランカのアイン・ディアブサーキット(こちらも一般道を使用していました)で一度だけ行われたモロッコGP(北アフリカでも戦前にはイタリア領のリビアでレースが行われるなど、モータースポーツの土壌はありました)で優勝しています。ペスカーラのコースは断崖の道が続いたり、とてもF1とは思えないコースであり、イタリアGPとは別に「ペスカーラGP」として開催されましたが、F1での開催は一度きりでした。ポルトガルのポルトやモロッコ、ペスカーラなど、一度きりの開催に終わったクセのあるコースで優勝しているというのは野球に例えると悪球打ちと言いますか、こんなところにモスの真骨頂を見る思いがします。また、モナコGPでも優勝経験がある、と前回書きましたが、1961年の優勝の際には、ドライバーの冷却のためマシンのサイドパネルの一部を外して出走しています。ドライバーが丸見えなわけで、横から衝突されたら大変なことになりますが、今よりも長い100周を走り切っています。現代のF1でも市街地コースは復活傾向にあり、アゼルバイジャンのバクーやシンガポールなど、特徴的なコースもありますが、安全面では昔に比べてはるかに配慮が行き届いたものとなっています。
 モスとフェラーリの関係については前回も少し触れましたが、キャリアの後半でフェラーリをドライブする機会が訪れようとした矢先に引退の原因となったクラッシュに遭い、結局叶いませんでした。シャークノーズと言われたフェラーリ156が用意されていたと聞きます。

(モデルはQuartzo1/43製)
 ちなみにセナもフェラーリをドライブしたいという意向は持っていたものの、それ以前にセナとホンダの相思相愛の関係があったこと、フェラーリが1990年代前半に低迷したこともあって、結局叶いませんでした。フェラーリの創業者エンツォ・フェラーリは勇敢で恐れ知らず、劣勢でもあきらめないドライバーを愛していましたので、モスには強い興味を示していたと思いますが・・・。
 今回の執筆に際しては、前回までの書籍に加え「激走!F1」(文春文庫ビジュアル版)も参考にしています。これは1950年から90年までのF1レースのうち、歴史に残る30のレースをセレクトし、解説したものです。編者の好みなのか、モスが優勝したレースが4つ選ばれています。
 それから、1955年をもってモータースポーツから撤退したメルセデスですが、本格的に「復帰」したのは1980年代の終わり頃でした。当初はグループCカーと言われるシリーズなどに参加しましたが、若手の育成のために何人かの有望選手が所属していました。それがミハエル・シューマッハ、カール・ヴェンドリンガー、ハインツ・ハラルド・フレンツェンらで、彼らは後にF1で活躍することになります。F1についても当初はザウバーチームに「CONCEPT BY MERCEDES-BENZ」と漆黒の車体に標記して関与することとなり、やがてエンジンサプライヤーとして、そして今日ではコンストラクターとして参戦し、最強の地位を築いております。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スターリング・モス卿を偲んで

2020年04月15日 | 自動車、モータースポーツ
 私もご多聞に漏れずと言いますか、毎日ではないものの在宅勤務をしています。何かとまだ慣れません。テレビ会議等がないこともあり、ジャージ姿でもいいわけですが、だらけてしまいかねません。マキアベッリはフィレンツェ政府の職を追われた後に君主論を執筆する際、服装を整えて書斎に入ったそうです。もちろん、ルネサンスを代表する偉大な人物と比べることなどできませんが、襟を正して仕事に向かわなくてはと思った次第です。
 
 先日、1950年代から60年代初頭にかけてF1で16勝を挙げた往年の名ドライバー、スターリング・モス卿(英国)が亡くなりました。モータースポーツを題材の一つにしている当ブログからもご冥福をお祈りいたします。この名前を知っている方はレースの歴史にある程度詳しいのではないかと思いますが、私も当然、現役時代は知りませんし、書物や映像を通して往年の活躍を知っているというところです。1950年にF1の最初のレースが行われたイギリスGPでは前座レースに参戦して注目を集めました。F1デビューは翌1951年でした。以前このブログでご紹介しましたが、上皇さまが皇太子時代にご覧になった1953年ドイツGPでは6位に入っています(この時代は5位までが得点対象のため、入賞=ポイント獲得はしていません)。
 F1の初優勝は1955年、メルセデスに在籍していたときのことでした。以降16勝を挙げたものの、ランキング2位が最高で、チャンピオンを獲得することはありませんでした。通算66戦16勝ということで、勝率も同時代の選手たちと比べても好成績でしたが、メルセデスではエースのファンジオ(アルゼンチン出身で5度の世界チャンピオン)のナンバー2でしたし、シーズンによってはリタイアも多く、タイトル獲得に何かが足りなかったのかもしれません。だからと言ってモスを「無冠の帝王」と呼んでしまうのもどうなのかと思います。モナコ、ポルト(市電の線路をもまたぐ究極の市街地コース)からイタリア・モンツァのような超高速コース、さらにはドイツ・ニュルブルクリンクのような「山坂道」と、さまざまなサーキットで優勝しています。
 F1以外のレースでモスの名前を不朽のものとしているのは、1955年のミッレ・ミリアでの優勝です。ミッレ・ミリア(1000マイル)とはイタリア半島の北半分を一周する文字どおり1000マイルの公道ラリーのことで、当時の人気イベントでした。このレースにモスはレース経験のあるジャーナリスト、デニス・ジェンキンソンをナビゲーターにメルセデス300SLRで参戦しました。レース本番までに数度コース全体を実走しただけでなく、ジェンキンソンは特製のルートマップ(広げると5.5mの長さがあったそうです)を巻紙状にして軽金属製のケースに入れ、本番のレースではドライブするモスにこの地図を見ながら指示を出し、注意を促しながら走りました。
 北イタリア、ブレッシアの街を出発し、イタリア半島東岸を南下、ペスカーラから西に転じて山地を抜けてローマへ、ローマからは北上してフィレンツェ、ボローニャなどの街を抜け、峠をいくつか越え、モデナ、パルマ、クレモナといった宝石のような小さな都市も後にし、ゴールのブレッシアを目指しました。特製のルートマップがあったとはいえ、時には大きくマシンがスライドしたり、側溝にタイヤを落としながらもどうにか復帰したりとひやっとする場面もいくつかあったそうですが、1000マイルを10時間7分余りで走破、堂々の優勝でした。平均時速が157キロですから「飛行機も追い抜いていた」というジェンキンソンの言葉も誇張ではないでしょう。この記録は1957年に最後のミッレ・ミリアが開催されたときも誰も破ることができず、今に至っています。
 この時の様子をジェンキンソンは「モスと出場したミッレ・ミリア」と題して当時のモータースポーツ誌に寄稿しており、現代の車載カメラ以上の臨場感で伝えています。当代随一のドライバーのステアリングさばきを隣で目にすることができるわけですから、ナビゲーターという大切な仕事があったとはいえ、特等席としか言いようがないでしょう。
 ちなみにスタート、ゴールのブレッシアは北イタリアの小都市ではありますが、今でも「ミッレ・ミリアの街」として名が通っております。私のイタリア語の先生の一人がブレッシア近郊の出身だったのですが「ミッレ・ミリアの街」に誇りを持っていると言ってました。こうした北イタリアの街が昨今のコロナ禍で大変なことになっており、本当に心が痛みます。
 さて、スターリング・モスの話に戻しますが、本人へのインタビューなどを読むと、サーキットのレースではファンジオの方が勝つ確率が高く、スポーツカーでの長距離・長時間レースでは自分の方が勝つ確率が高かった、という発言をしています。このあたりに、本人の得手、不得手があったのではないかとも考えられます。それでも、サーキットでの勝利数も大変なものであり、F1のチャンピオンでなくとも偉大なドライバーと言えましょう。もし、当時最速だったフェラーリに乗っていたらタイトルを獲得できたのでは、などと言われていますが、フェラーリとは双方の考えに隔たりもあって契約には至らなかったと聞きます。どのチームと契約するかでタイトル争いが左右されるのは今も昔も変わらないところではあります。
 引退は意外に早く、1962年に起こしたクラッシュの影響で、32歳にして引退を決断しています。その後はさまざまなイベントに参加して往年のマシンを走らせる姿を見かけることになります。私も映像や写真などでそういった様子を目にし「おじいちゃん元気だねえ」と思ったものです。現役では最強のルイス・ハミルトンとも昔のメルセデスのマシンを一緒にドライブする写真があり、おじいちゃんと孫がドライブを楽しんでいるような微笑ましいものでした(ハミルトンは風貌から「今どきの若者」をイメージするところがありますが、大先輩への接し方には彼の敬意を感じます)。
 メルセデスは公式サイトで外出できない子供たちのために、自社の自動車の塗り絵を公開していますが、その中にミッレ・ミリアの300SLRも含まれているそうです。「わーい、モスの300SLRだー」という小さなお友達がいたら相当な「通」ですが、これはさすがに大きなお友達に向けてのものかもしれませんね。息抜きに銀色の色鉛筆を持ってきて塗ってみますか。

モスは1950年代の名車、マセラーティ250Fで頭角を現しました(写真はファンジオ車・BRUMM1/43のモデル)。

手前はミッレミリア優勝のメルセデス300SLR。722というゼッケンは7時22分発という意味。ミッレミリアでは前日の夜から遅い車の順にスタートし、速いマシンは朝のスタートでした。ミニチャンプス1/43のモデル。奥のポストカードは1959年、クーパーのマシンを駆るモスです。

メルセデスのF1マシンを駆るモス(左)と1961年モナコGPのポスターをあしらったポストカード。1960年、61年とモスはモナコを連覇しています。
本稿の記載に際しては「世界の有名な50レース」(アラン・ヘンリー著・高齊 正訳 グランプリ出版)、「F1倶楽部」第18号(双葉社)、「私のグランプリ・アルバム」(中村良夫著 二玄社)を参考にしました。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

模型で楽しむ。日の丸バンパイア

2020年04月10日 | 飛行機・飛行機の模型
 緊急事態が宣言され、読者の皆様も(私も含めて)いつも以上に厳しい生活を送られていらっしゃるかと思います。家にいる時間が増えた方も多いでしょうから、模型製作で手を動かしたり、本を読んだり、家族のために時間を使ったりして過ごしたいものです。下を向くのは床に落としたパーツを拾う時だけにして、前を向いて歩んでいきましょう。

 さて、続けてまいりましたバンパイアの話ですが、日本で使用された機体を模型で再現してみましょう、というのが今回の記事です。複座型のバンパイアですが、現在入手がしやすいエアフィックス1/72以前にもキットは出ていました。インジェクションキットでは、1/48でホビークラフトカナダというメーカーから90年代初頭にキットが発売されていました。日の丸はついていませんでしたが、私も発売の知らせを聞き、当時行きつけにしていた西荻窪のナカマ模型センターに買いに行きました。店主から「お客さん買うと思ったよ~。もちろん日の丸にするんでしょ(笑)」と言われたことを覚えています。このキット、コクピット周りがあまり似ていないのですが、それでも複座のバンパイアのプラモデルが出たことの方が嬉しく、もちろん日の丸をつけた自衛隊の仕様にしました。
 その後1/48ではクラシックエアフレームからもキット(一部パーツはレジン)が発売され、こちらは日の丸や機番も入っておりました。こちらは我が家ではまだ手をつけておりません。もともと私が1/72を組むことが多いのと、エアフィックスのキットが出たことが大きいのですが・・・。


 で、エアフィックス1/72のキットです。最近の同社のキットらしく、やや彫りが深いのですがよくできています。主翼の一部にヒケがあるので、気になる向きは修正してください。
 コクピットは射出座席頭部の「Firing Handle」を真鍮線で再現し、シートベルトを追加するくらいでよいでしょう。なお、人形を乗せてしまうと、先ほどの「Firing Handle」をつけるスペースがなくなってしまいます。

なお、キャノピーは上方に90°開きますので、作例では少し角度が浅いです。
コクピットはキットの塗装指示で黒となっていますが、実機も黒一色で実に味気ないものです。模型ではシートや操縦席内の機器類を材質の違いに合わせてダークグレーに塗っています。
 組み立てにはさほど苦労を伴うということはありませんが、主翼と胴体の接合には段差が出ないように気を付けてください。また、主翼付け根のふくらみについてはポリパテを盛ってボリュームを出しています。キットではテールブームに主脚を取り付けてから主翼に接着するようになっていますが、その後の組み立て、塗装の際に主脚が邪魔になりますので、テールブームと主翼を取り付け、主脚は機体の塗装が済んでから取り付けています。
 機番等ですが、かつては笹塚の「えんどう」というお店からデカールが発売されていたそうですが、現在は入手できません。この機体、機番の書体が少々変わっておりまして、現在でも航空自衛隊で使用されている45°カットの数字でもなく、直線で構成されています。このため、機首のラジオコールナンバーは黒のストライプデカールを切り貼りすれば再現できます。また、垂直尾翼の番号については1/144のキット用のデカールから持ってきました。少しフォントが違いますが、かなり小さいのであまり気になりません。
 実機の写真もご用意しました。

キャノピーと機番の位置関係の参考にしてください。射出座席の赤い三角マークは現役時代と違うようにみえます。
機首の反対側

垂直尾翼

ゴブリンエンジン

なお、本機は実験航空隊(当時)で使用されていましたが、隊のマークをつけることなく退役しています。尾翼に描くにしてもかなり小さな尾翼ですので、もし、マークをつけるとしたらどこにつけるかあれこれ想像できます。キットのストックはまだありますので、次にこのキットを作るときはifを楽しんでみようかな、とも思います。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本土決戦のために封印された航空機を発見か?

2020年04月01日 | 工作雑記帳
 東京都練馬区内の古墳時代の遺跡と思われていた地中から、太平洋戦争中の航空機と思われる機体と軍用車両などがほぼ原形をとどめた形で出土し、関係者を驚かせている。発掘の過程で石の構造物と思われていたところは掩体壕で、その中には軍用機数機と軍用車両が75年間にわたり、文字通り「封印」されていた。出土したのは国産初のジェット機「橘花」とロケットエンジン機「秋水」と思われていたが、ロケットエンジン機についてはドイツ製のメッサーシュミットMe163「コメート」だったことが判明した。

(掩体壕で発見された直後の橘花 脚はなかったが、ほぼ形をとどめていた。近くにドイツ製の軍用車両の姿が確認できる)

(一機がひっくりかえった状態で発見されたコメート いずれも関係者撮影)
 専門家は「本土決戦に向けて隠されたか、テスト飛行の後、何らかの事情で隠したのではないかと思われるが、このような形で発見されることは大変驚きで、大発見である」と興奮気味に語っている。また、コメート機が日本に運ばれたという記録はなく、どのようにして日本に持ち込まれたのかなど、今後の調査が待たれている・・・

わけはなくてこれはエープリルフールでございます。
 食玩で発売されていたMe163ですが、この機体をもとに日本で開発した「秋水」のテスト飛行時のように一機はオレンジ色に、もう一機は濃緑色に塗りなおしたものです。軍用車両(キューベルワーゲンとケッテンクラート)も陸軍カーキや濃紺色に塗って、日本の陸海軍風にしてみました。
 明るいところで撮った写真がこちらです。


 「遺跡」の橘花は「間に合わなかった傑作機」というカプセルトイです。「間に合わなかった傑作機」というのはだいぶ前に発売されていた日本の試作機のシリーズでした。なぜか五反田のTOCビルにガチャガチャのマシーンがあって買った気がする・・・。明るいところで撮った橘花は「初期ジェット機コレクション」のものです。
 コメートですが、ウイングキットコレクションのvs6のもので、もちろんドイツ軍の仕様として数種類が発売されていました。写真の赤いコメートは製品のままですと色が透ける感じがしましたので塗り直しています。文字通り「赤い彗星」ですね。

 遺跡の写真は市販の情景シートを机の上に置いただけのものです。暗闇のシーンですが、部屋を暗くして懐中電灯をあてて撮りました。

 
 橘花、秋水といった機体はドイツに潜水艦を派遣して持ち帰った資料、図面から開発されたものでした。文字通り決死の覚悟で持ち帰ったものだったわけですが、私の祖父がこれらの作戦で持ち帰った図面に関わる仕事をしていました。機会がありましたら、模型と共にその話をしたいと思います。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする