


女中 の無躾や家政婦の横柄と絶えず 戦いながら、本多はもはや自分の感覚の全てが、 女共の持ち込む今風の容儀や言葉使いに、 耐えられなくなっているのを知った。 どんなに善意で勧めてくれても、 「わりかし」 とか 「意外と」 とか、 何気なく口をついて出る流行言葉、 立ったまま襖を開けたり、口へ手も当てずに 大声で笑ったり、敬語を取り違えたり、 (中略) そういう事全てが感覚の嫌悪を誘って、 その嫌悪を抑える事が出来ずに一寸した小言を 言うと、どの女もその日のうちに暇を取った。 【三島由紀夫著 「天人五衰」~「豊饒の海」 第4巻】 |

今日も真珠色の空で明けました。これで3日連続。
おまけに “寒い~!” と思って目覚めた起床時の居間の気温は13度と少し。
昨日が暖か過ぎたのであって、ちっとも寒くないではありませんか。
人間の・・いいえ私の感覚のいい加減さ。呆れてしまいます。

原作回帰ですね。
武者小路実篤著 「愛と死」
再読了。ついでに 「友情」 も。
映画の中の言葉以上に、
原作中の言葉の美しさに
改めて目を見張る思いです。
先日の映画、「世界に賭ける恋」
では主人公の職業や交通手段等の
違いはあるものの、ほぼ原作に
忠実に描かれていました。
そうそう巴里(パリ)とか
伊太利(イタリー)といったように
都市名が漢字でしたけれど。
でも今となっては、
それさえも新鮮ですね。
ところでこの作品が書かれたのは
昭和14年と言います。
それでも時代の差は、ほとんど感じません。
それどころか、まるで音楽のように文章を読み進めて行ったものです。
尤も、あの時代に家に女中がいて、(敢えてこの言葉を使わせて頂きます)
送別会の出来る洋風の大広間がある・・。
上流階級という事もあるのかも知れませんが・・。
それは「友情」にも言えます。
こちらは時代はもっと遡ります。何と大正8年。
やはり夏休みに海のある別荘に出掛けたり、
ましてやこの時代に、ヨーロッパにもサッと行けるのですから相当な経済力ですね。
「愛と死」 の方は、相思相愛。
先日の映画でも触れましたが、ヨーロッパ外遊に出掛けた恋人の男性(村岡)と
日本で待っている女性(夏子)との頻繁な手紙のやり取りが中心です。
今なら、さしずめメールのやり取りといった処でしょうか。
ですから、ほとんど違和感はありません。
ただ、大きな時間差と敬語で溢れている手紙とは、
雲泥の差ですけれど。
繰り返しになりますが、(敬語もそうですが)言葉の美しさ。
つい今は・・と思ってしまいます。
今日の引用文でもある、三島由紀夫の小説が書かれたのは昭和45年。
(小説中の時代設定も同じ頃です)
「愛と死」 が書かれてからは、30年余り経っているのですね。
その三島由紀夫から現代までは、かれこれ40年余り。
今では、もっと乱れているのですものね。
“世界中で男言葉と女言葉があるのは日本だけ”
~日本の文化であり、それと男女平等とは
何の関係もないと思うのですが、(ジェンダーフリーはもっと厭ですけれど)
そんな名の下(もと)に、乱暴な言葉遣いが多くなったように思います。
CMでさえ、女性が男言葉で喋っている昨今。
敬語さえも消えつつあるようで悲しくなります。
そう言えば、どこかのテレビ局でも廃止・・なんて。
これも時代の流れ? でしょうか・・。
でも、ちっとも美しくありませんけれど。
話が逸れました。
村岡の帰りを一日千秋の思いで待っていた夏子。
帰国の途に就いた所で届いた電報は、夏子の突然の死。
幸せの絶頂から一気に奈落の底へ。運命の残酷さを思います。

【武者小路実篤著 「愛と死」】