「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「立一塵」

2010-12-04 02:18:55 | 和歌

 かなり日時を経たが、郷里・信州の菩提寺で兄夫妻の法要が営まれて、参列した。

 ごく近親者のみの法要であったが、曹洞宗の格式高い菩提寺には久方振りの参詣であった。
亡き父が檀家総代として改修した鐘楼を仰ぎ見ながら、本堂に向かった。かつての法要は座布団に座して読経・ご焼香・僧侶の法話などと、長時間に亘り痺れを我慢するのに難儀したが、菩提寺では椅子が準備されていた。椅子の生活に馴れたエセ仏教徒にとっては、有難いご配慮であった。





 法要が済んでのち、改めて本堂に掲げられた書額を観賞させて貰った。
筆致から中村不折の書だと判ったが、「立一塵」は稚拙そのものの趣で、布置などは聊かバランスを欠いていたが、禅寺に相応しい書額であった。この書を観ていたら、学生時代の夏休みが思い出された。
この菩提寺と同じ山中に在る尼寺の庵を拝借して、のどかな一夏を過ごしたことがあった。
尼僧たちの極めて真摯な宗教生活に刺激されて、「般若心経」や「碧巌録」のごく一部をカジッタが、その中に「立一塵」の禅語も在った様に思い出された。帰宅して、書棚から碧巌録を取り出して調べたら、第六十一則 「風穴一塵・ふうけついちじん」 に 「立一塵」 の禅語が見つかった。

 風穴垂語云、 若立一塵、 家國興盛、 不立一塵、 家國喪亡. (風穴和尚は垂語して云く、若し一塵を上げ得れば家も国も興盛し、一塵を上げ得ざれば家も国も喪亡す。)

 「ごく僅かな塵を立てる」ことと、小さな存在の一人の人間の行動とを重ねて、かつての禅僧達の公案修行の一端が偲ばれる言葉だ。また禅僧でもない中村不折が碧巌録に眼を通していたと知り、この書額の前にしばし立ち尽くした。


           
            兄夫妻を偲びて集う諸人の

            髪しろたえに老いを告げいて


            いずこ迄旅ゆくものかは亡き兄は

            笑みて瞼に残りしものを


            叱られて蔵にて泣ける幼子の

            ボクを義姉(あね)さま胸に抱きぬ


            立一塵 不折の書額に学生の

            夏甦り来て庵を偲びぬ 


            禅修行の僧にはあらねど若き日に

            目にした一語が甦るとは




 
      お詫び: お恥ずかしいことながら、不折翁の雅号(後に本名)を誤記のまま
            気づかずに掲載していました。訂正し、慎んでお詫びします。




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