「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「観音崎の野薊」

2010-11-03 21:40:38 | 和歌

 パソコンに向かって夥しい数のメールへの対応や、講演に備えてパワーポイントの編集など気が付けば、机を離れる暇もないこの頃だ。これを見かねた虚庵夫人が、観音崎への散歩に誘って呉れた。

 「うつろ庵」から観音崎の公園までは、車で10分足らずだが、歩いての往復はかなりの難儀だ。
かってチャレンジしたが、帰りはバスのお世話になるというダラシナイ遠足だったことを反省して、公園の入り口までマイカーで行き、そこから磯沿いの散歩道をゆったりと散歩した。子供を連れた家族のバーベキューや、若いカップル、磯釣りに来た青年の一団などなどかなりの人々が観音崎の磯を楽しんでいた。また観音崎灯台までの山道も、灯台見物を兼ねて人気のスポットのようだ。

 そんな皆さんに混じって、房総半島を対岸にみながら石畳の散歩道を歩いていたら、足元の草叢に「野薊・のあざみ」が咲いていた。この花はかなりの期間に亘って咲き続けるが、秋も深まってめっきり気温が下がった観音崎では、今年最後の花となるのかもしれない。





 すすきの枯れ葉が降りかかる草叢に逞しく根を下し、名の知らぬ野草に混じって咲く野薊をみていたら、人間世界の縮図を見ているかのようにも思われた。種々雑多な人々が織りなす現代社会は将に混乱を極め、ビジネスの世界も生き残りを掛けた熾烈な競争はとどまるところをしらないが、野薊の草叢の雑然とした情景は、そんな現代社会を象徴しているのかもしれない。その様な中で、野薊が精一杯に花を咲かせている姿は、健気で爽やかであった。

 そんな野薊にピントを合わせていたら、「丸小花蜂・コマルハナバチ」が何処からか飛んできて、花蜜を吸い始めた。野薊は蜂が蜜を吸うに任せ、泰然自若としていた。人間社会では殆ど見かけない情景であるが、草叢の野薊ならではの在りのままの姿に、大切なものを訓えられた散歩であった。





              パソコンの世界を出でてわが妻と

              海辺の散歩に息をつくかな


              磯べでは数多の人々それぞれに

              今日を楽しむ声をきくかな


              草叢に咲く野薊は何問ふや

              もの見るまなこに曇りは無きかと


              野薊は丸小花蜂 花蜜を

              吸うに任せて自若たるかな








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