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あれこれ考えるべき、示唆にとむ部分がいくつもあって、参考にさせていただきますね。
私は、協力参加は最低限、のキジ会員でした。こういう会員は多いのではないか、と思います。私は、役員をやることになった時、全員人間というのはおかしいと思いました。小規模な幼稚園の場合、こういうことは可能です。人間でないと、居場所がないんですね。会が会員に求めている最低限の協力が難しい会員がいることは明らかでした。子どもをあずけるところがなくて、熱のある子どもを連れて参加協力する人もいるし、私も学校を休んだ子どもを家に置いて参加協力したこともあります。私は、キジ人間の中にいるサルを大事にしたかった。それが、会をよくしていくことにつながる、と信じていたのです。
しかしながら、人間の中にはキジとイヌがいて、イヌはサルなんかと関わりたくない。というより、ご主人様の言うことが絶対で、待てと言われたからひたすら待つ、そういうイヌにはサルなど目に入りません。理解しないのに参加協力できるというのは、そういうことなんですけど。私の大失敗だったPTA体験は、いっしょに役員をやるはずだったメンバーがイヌ人間だったことが大きな原因だったんだなあと膝を打ちました。役員会議にインフルエンザの2歳児(!!!!)を連れてくる人でしたから・・・。何のために参加協力するのか、そういう発想がなく、参加協力しなければならない。こういう考えの人たちが役員だと、大変です。園にとっては、頼もしい存在だったでしょうが。
参加しさえすれば、イヌだろうが、キジだろうが関係ない。これも、考えなくてはならないでしょうね。私の実感としては、キジサル会員よりイヌ人間会員の方がやりづらいと思いました。特にイヌ人間の会長は、勘弁して欲しい。が、うちの小学校のPTA会長からはイヌの匂いがする・・・。
一連の騒ぎで、私はキジサル会員に成り上がってしまいましたが、かくなる上はクモ会員を目指します。クモ会員の存在は、会にとって有り難いことだと思うのです。「キャー、クモ!」と叩きつぶされたりしないように細心の注意を払いながら、出没したいと思います。
川端さんの記事で紹介される“会員2分論”については、コミュニケーションの成立と活動参加は連動しない場合があるので、
PTA活動に協力的で参加する会員=人間会員
PTA活動に非協力的で不参加の会員=サル会員
というふうに、私は読み取りました。そして、自分のささやかな体験から『大筋でわかりやすい譬喩だし挑発するレトリックとしても納得できる。“あなたはどっち?”と問われて答えるなら“オレの基本姿勢はサル会員!”だよな…“いい大人がやることじゃないだろ?”と言いたくなる活動が少なくなかったし。ただし人間会員にしてもサル会員にしても流動的な気がする』と思いました。
私のPTA歴は、公立小学校で6年、公立中学校で3年、公立高校で1年目、です。小学校の時は、1~4年は単位PTA(=学校ごとのPTA)の役なし会員で、5・6年目にその会長を経験しました。この5・6年目には、市町村レベルの上部団体A(=合計約10の単位PTAが参加する連合体。構成員は各単位PTAの会長と執行部役員)の副会長(5年目)と会長(6年目)を兼ねました。6年目は地区レベルの上部団体B(=約15市町村で合計約300の単位PTAが参加する連合体。総会の構成員は各単位PTAの会長)の副会長と、県レベルの上部団体C(=約70市町村で合計約1000の単位PTAが参加する連合体。総会の構成員は各単位PTAの会長)のオブザーバーを兼ねました。中学校では、単位PTAの役なし会員であると同時に上部団体Bの会計監査を2年、上部団体Cのオブザーバーを1年しました。現在は、高校の単位PTAの役なし会員(総会には出席しました)です。
ところで私は、一般的市民として暮らしていると、PTAに限らず、社会生活のいろいろな場面で「理解と協力参加」を求められます。その際、私の取る行動は「理解した→協力参加する」「理解した→協力参加しない」「理解しなかった→協力参加する」「理解しなかった→協力参加しない」の4つのどれかになります。この4つは、私の読み取ったPTAの【人間会員とサル会員】で2分すると、
人間会員=「理解した→協力参加する」「理解しなかった→協力参加する」
サル会員=「理解した→協力参加しない」「理解しなかった→協力参加しない」
なのですが、ヤヤコシクして申し訳ありません、私は、ここにイヌとキジを加えて考えたくなりました。
PTA活動を理解しない会員=イヌ会員
PTA活動を理解する会員=キジ会員
この場合の「理解」は、「活動意義の理解」に限らず「活動実態の理解」も含みます。
そうすると、以下の4分類ができます。
① キジ人間会員=「理解した→協力参加する」
② イヌ人間会員=「理解しなかった→協力参加する」
③ キジサル会員=「理解した→協力参加しない」
④ イヌサル会員=「理解しなかった→協力参加しない」
こう考えたうえで、川端さんの記事を読み直すと、TRさんは③ぽくて、KSさんとACさんとUNさんは①ぽい気がします。
②ぽい方の例は↓の新聞記事に登場するPTA関係者です(日本のPTA系団体には【ヤラセの仕出屋】のような一面があり、これは教育行政サイドとの共依存という表現に通じるかもしれません、私は『相互パラサイト』と表現します)。
http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/5a27131f60fad9f2dc857072fdbfb518
ちなみに私は、自分のPTA歴における諸々の出来事を回想し反省しながら、『②は苦手だったなあ』と思いつつ【①④を配慮する③】を尊重する者です。私の判断するところ、単位PTAの会員にも、他校の単位PTA執行部役員にも、他校の単位PTA会長にも、①②③④それぞれが必ずいらっしゃいました。つまり、執行部役員や会長だからといって①(や②)がほとんどだとは限らない、ということです。
話をもっとヤヤコシクすると、私は【①④を配慮する③】をクモ会員と呼びたく思います。映画《スパイダーマン》の金言「大いなる力には大いなる責任が伴う:With great power comes great responsibility」に魅かれているからです(great「大いなる」は不要のような気もしますが)。私はここの皆さんのコメントを拝読して、理解力・洞察力・判断力等々の大いなる力を感じ、コメントを書くことで大いなる責任を果たされていると思いました。
したがって、川端さんの記事の最後にある「TRさんの考えをどう思う?」に対する私の答えは、「クモ会員の考えだと感じるから断固貴重だと思う! 切実だもの!!」、なのです。
非礼や勘違いをお恕しください。乱文乱打で失礼します。 FJN拝
なり手が全然いないのに「活動は活発であればあるほど良い」という価値観で
動いていたのでビビりました。
私にも、ひっかかりを感じるところもありました。幼稚園のPTAの役員を決める、役員経験者に「やってみなければ、そのよさは分からない」「友達ができてよかった」と言われました。カワバタさんの記事に出てく肯定的な人の意見ですよね。私は、これを言われて、大変不愉快でした。まず第一に、やって何がよかったかを明らかにしないのに、よかった、よかったを連呼します。よかったことの内容としてあげられる友達うんぬんもまた問題で、役員はいかに楽しくおしゃべりできたか、仲がよいかといったことを強調します。しかし、私にはそういうことに価値を見いだせない。仕事そっちのけでおしゃべりが盛り上がって楽しかったなどと言う役員には、あほちゃうか、と思ってしまいました。その人たちから「食わず嫌い」などと言われるに及んでは、いい加減にしろ!と思いました。いかにもまずそうなものを鼻先につきつけておいて、食べない相手を非難する。みんなでいっしょに!教の布教活動なのだから、当たり前なのかもしれませんが・・・。
PTA活動を積極的にやった人たちには、みんなでいっしょに!教の狂信的な信奉者がいます。そういう人たちは、私のようなタイプは普段は避けていて、ほとんど話をすることもありませんが、しかし!勧誘の時だけは不気味な笑顔を浮かべて近寄ってくる。的外れだったら、申し訳ないのですが、サトヤマさんももともと交流のなかったムラの信者から、強引に布教されて嫌な思いをしてきた経験があるのではないでしょうか。少なくとも私はそうなので、意見そのものとしてはまっとうであるにもかかわらず、「やってよかった」「食わず嫌い」という意見に感情的な反応をしてしまうのです。もちろん、私の個人的な体験の基づく反応であることは自覚していますが、そもそもカワバタさんがそれをあおるような書き方をしてるし、PTAの不要論に過剰に肩入れしたくなってきました。
そして、問題の「サル会員」。私は、UNさんの文章で、何が言いたいのか分かりませんでした。何回も読み返したのですが、やっぱり分からない。日本語でコミュニケーションできる人が「人」で、できないと「サル」。そんでもって、一部のサルは、PTAを敵だと思っている。カワバタさんがあえてのっかったという、この議論が感情的で、論理的ではない。叩き台としては、そうとう曲がっていると思います。カワバタさんのねらいから外れてこのテキストが読まれてしまう危険性が高いだろうと思うのですが、その理由のひとつが叩き台である議論がしっかりしていない、ことにあると思います。というより、叩き台として適当なのかどうか・・・。
ちなみに、私は「はぐれ猿」と名乗っているように、人間はすべてサル!だと思っています。私はサルなのに群れの中にいられない、情けない存在です。群れにいないことで、様々な不利益をこうむっていますが、利益のために群れに入っていけるかというと、そうはいきません。私は流れ者で、今住んでいるところも自分が生まれ育ったところから遠く離れています。「日本語」の読み書きはできますが、群れで使っている方言がうまくしゃべれません。方言が使えない人は他にもいるはずだし、「日本語」で話をしようと訴えても聞いてもらえません。そんなわけで、私は時々は他のはぐれ猿とコンタクトをとりつつ、はぐれ猿として生きていますが、群れのことばをスタンダードとする根拠はどこなんだろうと思ってしまいます。「日本語」でコミュニケーションする能力は、あると思っているんだけどな。
私が居た役員会に限っては、少数意見がネグレクトされているのではなくて、少数の人の意見を通しやすくするために会議が話し合いの場として成立しにくいようなシステムが構築されているような印象を受けておりました。
学童の保護者の会とPTAの違い、婦人公論にも書こうと思っています。
でも、その前に、コアな部分をこっちにもエントリを立てますね。
それはそれで、ひとつのストーリーなんです。
遅い夏休み前、ばたばた中です。
《婦人公論》この号の御記事、遅ればせながら拝読しました。
そして『あらゆる譬喩は言いえて妙である(≒痺れる)けれどよく考えると妙(≒変)である、という立場から読後感を書こう』と思いながら、今日の昼間は仕事をしていました。
で、夜8時過ぎに帰宅してTVニュースを見るとAbe(≠Ape)内閣改造の話題を映していて、某党のトップが「安倍PTA内閣です」と評していました。
『へぇ~、“PTA”ってこういう否定的な譬喩にも使われるのかぁ』と興味が湧き、ネットで【安倍PTA内閣】をキーに検索すると何だか面白かったので、御記事に対する私の読後感、もう少し練ったうえで書こうと思います。
乱文ゴメンナサイ。
FJN拝
サル発言については正直いまだにすっきりとはしていないのですが、カワバタさんのご意図は承知しました。
改革のスタンスの違い(過激派・原理主義 対 穏健派・現実主義(?))、十分わきまえているつもりなのですが、ちょっとしたボタンの掛け違いで発火してしまうようです(反省)。
PTA改革のための二つの方向性、同意します。すくなくとも、自意識としては、カワバタさんの前向きなところに批判的ではないつもりなのですが…。
このあたりは、とまてさんのご指摘くださった、どの段階のPTAに関わったのかが影響しているのかもしれません。少し頭を冷やしてぼちぼち考えていければと思っております。
Pさん、はじめまして。
「個の圧殺」に反発する姿勢、深く共感いたします。
考えたいのは、「参加するのが望ましい」と、「参加してほしい」との違いです。
この二つは、区別が曖昧になることが多いように思います。
執行部のメンバーが多くの人に対して「参加してほしい」と呼びかけるのは「あり」だと思います。しかし、「参加するのが望ましい」と言えば、規範の押し付けになってしまうと思うのです。
ついでながら、「参加してください」という表現も「曲者」ですね。日本語では、給食費の支払いも、「以下の金額をお支払いください。(学校長)」という表現になりますから。つまり、「願望の表明」と「義務としての行為要求」の境がはっきりしないわけですね。
とまてさん、ご無沙汰しております。(「とまて日記」も楽しみに読ませていただいています。)
関わったPTAによる意識の違いのお話し、とっても参考になりました。ありがとうございます。
それから、『何で保育園や学童保育の保護者会が上手く行くのか』、私も伺ってみたいです。
(そういえば、カワバタさんも連載の中で、この問題に少し触れられていますね。)
「PTAで自己実現しようとする人たち(主に専業主婦の人たち?)が、
そういうつもりのない人たちを巻き込もうとする」という構図があるような
気がします。
(有志だけでやってくださるなら何の文句もないのですが…)
仮に、その単位PTA役員の皆様にサル会員と呼ばれたとしても、いささかの痛痒も感じません…。けれども、カワバタさんの文章を拝読した際には、何かに一途に猪突猛進っていうのは個人的なことに関してだったらOKなんだけど、誰か(他の保護者とか、自分の子供とか家族とか)を巻き込む様なことだったら相手の話もキチンと聞こうよ、あなたにはそれが出来てますか?…っていうことなんじゃないかと勝手に理解してました。『日本語が通じる人と話がしたい』って痛切に思い続けていた一年間というのが下地に有りましたので。
ちょっと話はずれてしまうのですが、最近、「PTAの通年参加なんてとんでもない」と仰るフルタイムワーカーの女性とゆっくりお話しする機会が有りまして、保育園や学童保育の当番って殆ど負担感が無くて、立候補者まで出るくらいだとか…。カワバタさんはそちらの方の体験の支えが有ってPTAに対してポジティブでいらっしゃるのかしら?とも感じました。
反対に、中学校PTAっていうのが…まるおさんも『食育とPTAルネサンス?』で書いていらっしゃいましたが、無くても何とかなっちゃいそうなことがメインなんです(何で、中学校で親子清掃…子供の方が体格も体力も上なのに…涙)。
なので、もしも機会が有りましたら、『何で保育園や学童保育の保護者会が上手く行くのか』なんていうお話も伺えたら嬉しいです。
「全員加入していたらキモチ悪い」、なるほど。そうですね。
でもボクは「全員参加が望ましい」みたいなことを今後、保護者会でも言ったり書いたりするかもしれません。
そのココロは、いくらがんばったって全員加入なんて状態にはなるはずがないから…。
それと、できるだけ多くの人に参加してもらうための活動…文書やら、立ち話やら…を行えば、そこから例の「同調圧力」を100%排除することは現実的に難しいので、そのあたりも悩ましく感じてます。
個人的な話題で、再びゴメンナサイ、です。
ボクは現在、保育園の保護者会の設立にかかわっています。
その中の議論では、強制参加には反対し、任意参加方式を推してきました。
しかし保護者会を立ち上げ、運営して行こうという立場としては、任意参加として個人の意思を尊重した上で、やはりできるだけ多くの人に参加してもらいたい、できることなら全員に参加して欲しいと考えています。
そして当然、そのように皆さんに呼びかけるでしょう。「できるだけ多くの方に参加して欲しい」と。
つまり、「保護者会への参加は望ましいことなのだ」という前提に立つわけです。
PTAの運営に携わるカワバタさんが、同じように考えることはまったく自然なことではないでしょうか。
これは絶対的な価値ではなく、立ち居地に拠る個人的な価値観ですので、まるおさんの「前提に立ってよいのかどうか」という問いに答えは無いように思えるのですが、いかがでしょうか。
だとしたら、書き方としては、大失敗です。
ぼくが、いちばんやめたいのが全員参加ですから。全員参加って、不健全じゃないですか。かりに任意加入にしても、全員加入しているところって多いけれど、それもキモチがわるいです。
おそらく、ぼくはまるおさんみたいな方を説得する必要はないんです。だから、まるおさんみたいな読者を想定して書いていません。
また、まるおさんは、任意加入をめぐる「活動歴」をお持ち名わけですけれど、同じアプローチでことに対処するつもりもないわけです。
だから、まるおさんなどからみたら、ぬるい言い方をしりたします。
それから、PTAへの参加は望ましいかどうかですが、参加するかどうかは(運営側が参加が望ましいといくら思ったとしても)個々人が決めることです。ぼくはそう信じています。これも、そうではないと読めましたか?
ただ、今、PTAを運営している身として、もしも、このPTAが充分に魅力的なら一人でも多くの人が参加して欲しいと願うのはまた当然でしょう? でも、実際には、そんなに魅力的とは思えないし、かりに魅力的でも参加したくない人は参加しなくていいんです。望ましいというのは、運営側に身を置く者の言い草にすぎません。
で、ぼくが「望ましい」と言いったとしても、一番うれしいさじ加減は5パーセントでも10パーセントでも、あるいはもっとでも、参加していない人がいるPTAなんですけどね。別に組織率5パーセントだって、まったくかまわないんです。だって、入りたくない人が入るのは、まったく望ましくないし、入りたくないひとは常に一定数いるはずなので。
そうか、以前、世田谷区のパンフレットで「入退会は自由だが、全員参加が望ましい」と書いてあるのに、ぼくは合意する、みたいなことを書いたことがありましたね。それは、やはり、あれを書いた時点で、ぼくはPTA役員であり、自分のやっている会が充分に魅力的なものにして、理解してもらい、多くの人に参加してもらうことを目指すのは当然だから、という部分があります。
でも、あれは、あの時はそれ以上、深く考えていなかったのですが、ぐるりーと想いをめぐさせて、さいごのところでは考え直すかもしれません。
さらに、ミニマムの件、すごく誤解されていると思います。
ミニマムというのは必要最小限という意味ですよね。本当の必要最上限というのは、全員に参加を呼びかけうるものというようなものだと思います。ぼくにとって、ミニマムというはそういうものです。
だとしたら、PTAにだれもが合意するようなミニマムなんてあるわけないじゃないですか。
だから、最初にミニマムという言葉が出てきた時に、びっくりして、まるおさんたちがどのような意味でミニマムという言葉を使っているのか知りたくて聞いていたわけです。
結果、まるおさんの結論は、ぼくの考えとだいたい同じです。
たぶん、一番大きな違いは、ぼくはまだPTAができることに希望を捨てていない、という点だと思います。すくなくとも自分のところの単位PTAについては、もっとよくなれると思うし、よくするための努力を払いたいと思っています。
この場合「よくする」には、ぼくの場合、二点大事な方向性があって、まずは、自由な入退会を保証して入らない活動が淘汰されるような環境をつくることです。そして、もうひとつは、その環境でいかに人と人とが結びつきができていくか、相互の価値観への敬意をベースにしたコミュニティを創っていけるかということにも、もうひとつの力点がいきます。
そういう肯定的な面が、ひょっとすると、まるおさんには、よくない印象を与えている可能性もありますね。きっと、ぼくはうまく言えいないのかもしれません。また、言えていたとしても、そこは意見の相違なのかもしれませんね。
いずれにしましても、多くの共通項を持ちつつも、違った道筋からPTAを考えようとしているわけで、ちょっと長い目でみてやってくださると幸いです。
あと、ささがにさん、心温まる(?)コメントありがとうございます。
ぼくも、学年委員さんからPTAさんなんて呼ばれることがあって、トホホな気分になります。
そして!
クトゥルーの話、掲載されるのですね。
おめでとう!
つけたしみたいでごめんなさい。みなさん、ささがにさんのブログたどってみてください。
これはもっともな主張のようにも取れますが、一方で疑問も感じます。
というのは、カワバタさんのスタンスは、物腰は柔らかいものの、「全員参加を志向している」という意味で、やはり「みんなで一緒に!教」(有無を言わせず加入させている現状の多くのPTAがタカ派なら、ハト派?) ではないのか?、とも感ずるからです。
今回の記事には、PTAに対する無批判な肯定も、無関心・否定も「よいことではない」という価値観が感じられます。
そこに、PTAに意義を感じないサトヤマさんは反発されているのではないでしょうか。
有無を言わせぬ全員参加が論外なのは言うまでもないことですが、問題は、「PTAへの参加は望ましいことなのだ。」という前提に立ってよいのかどうかだと思います。
(これは以前話題になった「保護者としてのミニマムとは何か?」の問題でもありますね。)
中学・高校で生徒会役員をやっていて、話したこともない生徒に「おい生徒会、ちゃんとやれよ」といった罵声だか叱咤だか激励だかよく分からない声をかけられることがしばしばあり、お前らも生徒会だろ、生徒手帳しっかり読めとその度に思っていたことを思い出しました。
はじめはやりたくてやっていたわけじゃないんですが、だんだん楽しくなってくるんですよね。そんな経験のおかげで、今では、自分が好きなことじゃなくても楽しいことってあるじゃん、と自然に考えるようになりました。いざ一歩踏み出すとなるとかなり躊躇しますが(笑)。
僕のことを「おい生徒会」と呼んだ生徒会会員たちと、あのときしっかり言葉を交わしたらどうなってただろうか、という考えがふと頭をよぎります。
説明魔の話も興味深く読ませてもらいました。
僕ももう少し抽象化思考がうまくできたらば、実り豊かな少年期を送れただろうなあ、なんて。屁理屈しか言ってなかったもんで。
どっちも直接的な感想ではないのですが……。
食わず嫌いはいかんなどと書いているつもりはまったくありません。だって、そういった歓びがかりにあったとしても、そんなのいらんと言われればそれだけです。
ただあのセクションでは、対立しているように見える二つの立場がどうやって発生するのか、一つの分析を示しただけです。
その中で、自分の体験を補強材料として使っています。
そこに、強い価値判断を読み込まれると、なにも言えなくなります。
つまり、ある限定的な局面において、考えられる原因の分析をして、それに自分の体験を補強材料して使っただけです。もちろん、ネガティヴな体験もたくさんあるわけですが、それはここでは書いていません。
翻って考えてみて下さい。サトヤマさんの言葉のなかに、強い断定的な価値判断を含む部分を見つけるのは容易です。
けれど、それは、サトヤマさんの個人的な信条であると理解してきました。たとえそれが、普遍的な真理のように断定的に書かれていた場合でも。
もしも、それをその価値判断以外の否定だととらえれば、ぼくはこれまでに何度も何度も排除された気分にならなければならなかったでしょう。
いずれにしても、ぼくはサトヤマさんじゃないのです。PTAについては疑問だらけだからこそこんな連載をやっており、しかし、今、自分と一緒に活動をしているローカルな仲間たちには愛着を抱いています。みんな不満をぶーぶーいいながらやっていますが、仲間たちの間では連帯感や信頼感がめばえてきます。子どもを介して知り合った仲間たちであり、ぼくはそれが好きです。
だから、やってみれば、いいこともある、と言います。
にもかかわらず、食わず嫌いは追いかけない、というのは以前から申し上げている強い信念でもあります。
そういう想いをこめて、PTA活動をし、文章を書いています。
もしも、理解しがたいと感じられるなら、少し間をおいて、一年後に本になった時に読んでくださった方がいいかもしれません。
きっと、そのほうが、ご批判もフォーカスが定まったものになると思います。
なにしろ、連載の一回一回はどうしてもある特定の方向のみについて書くこともありえますので。
ご検討下さい。
「コインは表からみるべきである。」という価値判断があるように思うのですが…。
でも、凹みつつも、世界が広がるようなインパクトを受けますね。
またどこかで、この文章を収録することになったら、キレを犠牲にしても、もう少し分かりやすくするでしょう。あと5パーセントでも多く紙幅があればむずかしくないです。
ちなみに、この文章を読んで、ぼくがもらった抗議は今のところ、「サルに対して失礼!」(友人より)が2件で、「人を見下しているようで失礼!」が、1件です(サトヤマさんです、つまり)。
たぶん、両方を考慮するでしょう。
それにしても、そんなに通じないかなあ。
あるいは、ぼくが誰かを見下しているという印象ばかり残る文章になってます?
ほかにも、読んだ方、ご意見いただけるとさいわいです。メールごぞんじの方は私信でもかまいませんので……。
自分とは違う見方をする人間に対し、見下すような表現(ここではサル)を用いるのは失礼なことだと思いますよ。。
(話が通じないのはお互い様です。)
だとしたら、それはいかんともしがたいです。
立場や状況によって見え方や感じ方が違ってくるのではないでしょうか…?
居心地のいい人にとっては「絆」になりますが、居心地の悪い人や息苦しく感じている人にとっては「しがらみ」になるような気がします。
多少トリッキーな書き方をしましたが、それ、わざわざ解説するようなことでもなし……。
いずれにしても、単純なはみ出し者叩きの原稿として読まれたのなら、力及ばず、です。
はみ出し者を叩くところがなんか「ムラの人」ですね。
バランスというのはそういうことなんでしょうか…?
今回の文章で、唯一、心残りなのは、サルにゴメンって言えてないところなんです。紙幅の関係でおとさざるをえなかったのですよ。
とまてさん、楽しんでいただいたようで、なにより。でもね、この回に込めた真意って、どっちかのサイドにどっぷりな人にはまったく伝わらないかも、という懸念を抱いてます。
単行本化希望です。いえ、多くの方に読んで欲しいので新書か文庫の方がむしろ良いのですけれども。