草の葉

高山村にある、緑に包まれたギャラリー

十年

2016-12-31 17:38:35 | 山の暮らし
余生を穏やかにと、ココに移り住んだ。

山の暮らしも、そろそろ10年になるのか。
歳をとったなぁ~






ワンルームの小さな我が家だから、
冬の間、薪ストーブを焚いていると、家じゅうがほぼ一定温度で暖かなのだが、
それでも、数年前から血圧が高めのこともあり、
お風呂場で・・・・ということもよく聞くので、
浴室に暖房を取り付けてもらうことにした。
ちょうど、給湯器の寿命も10年くらいだというし・・・・
これが、大正解!?
入る15分くらい前に点けておくと、ああ暑いくらい。

そして、
ガス工事のついでということで、思い切ってコンロやオーブン、換気扇も一新。
10年という時間は、いろんなもの、いろんなことを改良するのに充分すぎるようだ。
勝手に魚は焼くし、それも魚の種類、焼き方も選べ、数も把握しながら。
ご飯も好みの堅さ、種類も選べて、これも勝手に炊く。
その上、料理の手順によって火加減も勝手にやるという。
一定温度で煮炊きできるし、タイマー設定も。
オーブンは、保温や発酵までも。
そして、今までのコンロ、換気扇掃除が嘘のように簡単になるそうだ。
なんと、換気扇は、掃除する時期まで知らせてくれるそうな。

便利なものに囲まれるのが、
手間が減ることが、果たして良いのかどうかわからないが・・・・

まあ、いいか。
最近、とみに、考えることが面倒になった。。




                           ::::




この10年余り毎年、
来年は、来年こそはと願いながら、その年を終うのだが・・・・


またしても、穏やかとはいかない日々を背負った今年が、終わろうとしている。
そうしてワタシは、
この年の内にまた、来年はと、
かすかな光、いや、奇跡を待ち望むのだろうか。

いやいや、もうそろそろ間違いに気づかなくてはならないのかもしれない。
長田弘はいう。

     いつかはきっと
     いつかはきっとと思いつづける
     それがきみの冒した間違いだった
     いつかはない
     いつかはこない
     人生は間違いである
     ある晴れた夕まぐれ
     不意にその思いに襲われて
     薄闇のなかに立ちつくすまでの
     途方もない時間が一人の人生である



残された年月は幾ばかりか。
そういう歳になってしまったのだ。

それぞれの存在を問いながら、
またも時を流してゆく。。




折りしも、娘から届いたクリスマスプレゼント、
星野道夫の写真集『風の物語』の中のいくつもの言葉が、
ワタシを冷ややかに突き切り、
そして、静かに抱き寄せる。

      
     一つ粒の雨が、
     川の流れとなりやがて大海に注いでゆくように、
     私たちもまた、
     無窮の時の流れの中では、
     ひと粒の雨のような
     一生を生きているに過ぎない。

     
     たった一度のかけがえのない一生に、
     私たちが選ぶ
     それぞれの生き甲斐とは、
     何と他愛もないものなのだろう。
     そして、
     何と多様性にみちたものなのか。


     めぐりくる季節で、ただ無窮の彼方へ流れゆく時に
     私たちはふと立ち止まることができる。
     その季節の色に、私たちはたった一回の生命を生きていることを教えられるのだ。
    






                              シズカニ
                              セツナク
                              クレユク・・・・
             
        
 

惜別

2016-12-09 16:25:05 | 山の暮らし
あの眠れぬ夜の後、
わずかな望みを持ちながら、この一週間を過ごした。


我が家の脇の道下の川まで行ってもみた。
空き家になったOさん、Gさんちの物置、Yさんちのビニールハウスも覗いてみた。
役場に問い合わせてもみたし、姿を見たら知らせるようメグにも言い聞かせた。
夜間に動き回ることが多いというので、夜遅くや朝4時ころから、懐中電灯を持って、
一時間ほど周辺を探し回ったりもした。
慣れ親しんだトイレを、戸口に置いてもみた。
ウォーキングの時は名前を呼びながら、目を凝らし、耳を澄ませて歩いた。
薪小屋の周囲、ベランダの下、道を隔てた藪の中のいくつもの大きな石の間はもちろん、
近所にも聞きまわった。

ネットや話した知り合いによると、1週間くらいで戻ってくることもあるというので、
わずかな望みを持ちながら、この一週間を過ごしたのだが・・・・

最近、戸を開けた隙に飛び出すことがあったが、たいていはすぐに戻ってきた。
一度、朝飛び出して7時間ほど、ワタシが家を空けたことがあったが、
帰宅後、名前を呼ぶとすぐに帰ってきたので、おそらく、家の近くにいたのだろうが、
今回は・・・・

あの日の夕方、メグの散歩の時みた、
上の幹線道の血の溜まりが、気になってしようがない。

そうでないにしろ、
連日霜が降り、氷点下の続くこのあたりで、食べ物もなく・・・・

やはり、諦めるしかないのか。。


朝4時頃になると、申し訳なさそうな小さな小さな声で「にゃん、にゅん」と。
「ふくちゃん、おはよう」と声かけると、呼応するようにしだいに大きな声になってくる。
トイレの便座に座って覗き込み、水音がするのが不思議なのか、何度も何度も繰り返す。
ワタシが食事の支度をはじめると、キッチンの向かえの椅子に登り、背伸びをして「にゃん、にゃーん」。
食事時は必ず膝に乗り、自分も欲しがった。
ワタシの洗面時には背中におんぶされ、ワタシが横になるとお腹に座った。
メグの散歩のときは、ガラス窓に擦り寄りメグの様子を目で追った。
ウンチの時は、トイレの縁に前足をかけて上手に。おりこうさん。
お気に入りの猫じゃらしや、クマのぬいぐるみで遊ぶ時のエネルギッシュな様子には、
いつも声を上げて笑った。
夜は、テレビの上のあの狭い場所でだら~んと足を下げてうつらうつら。

その時々のしぐさや表情を思い出すと、切なくなって涙がこぼれる。

探し回るワタシに、近所の人が「ウチの猫をあげようか」と。
いやいや、
ワタシは、猫が飼いたかったわけではない。
縁あって我が家に来たふくちゃんと、まだまだ、一緒に暮らせると思っていたのだ。
それに、たった3カ月だったが、
あることで気の重い日々を送っているワタシにとって、
ささやかでも、慰藉になっていたのだ。



よく、薪ストーブの前のこの籐の椅子の湯たんぽの上で、
まあるくなったり、時にはお腹を出して寝ていたふくちゃん。







             先日の朝方、金縛りにあった。
             ワタシの寝ている布団の中で何かもぞもぞしている。
             それは、はっきりと、確かに。
             「ふくちゃんでしょ。ふくちゃんでしょ」
             声を出そうとするが出ない。
             布団を跳ねよけようとするができない。
             手元の電気をつけようとするがスイッチが押せない。
             どうにか起き上がろうとするが体が動かない。
           
             やっとのことで目が開き、身体のこわ張りは解けたが、
             ふくちゃんはいなかった。


             パソコンの待ち受け画像を削除した。
             家にいると、つい脇の道を見る癖がついてしまった。
             それはまだ、消えないが、
             残された猫小屋やおもちゃを見るのは余計に辛い。
             もう片付けようかと思う。



             そうしてまた、
             言葉のない、笑いのない日常になる。。