黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

打たれ弱くないか?

2007-12-20 09:58:37 | 仕事
 毎年この時期になると思い出すことがある。哀しい嫌な思い出である。
 それは、20数年前のことになる。脱サラして小さな焼鳥屋を始めていた義兄から電話があり、「一夫は、S君という同級生を覚えているか」と聞いてきたのである。S君のことは、よく覚えていた。めちゃくちゃ親しかったわけではないが、おとなしい勉強家で、大学への進学率が10パーセント以下であった時代に、東京のある私立大学に進学した、田舎では「エリート」の属する、将来を嘱望された男であった。
 義兄からの電話は、そのS君が店にきて3回目なのだが、「この次払うから」と言って、一度も金を払っていない、一夫の同級生と言うからこれまで黙っていたが、今度払わなかったら次回から来店を断るつもりでいるのだが、それでいいか、というものであった。詳しく事情を聞くと、義兄の店にきたのは全くの偶然らしかったが、初めての顔なので、どこの出身かを聞いたところ僕と同級生ということにまで話が及んだ、という。また、義兄(店を手伝っていた姉も)の話によると、S君はどうも失業しているらしく、同業者の話によると界隈の居酒屋や焼鳥屋で「無銭飲食」を繰り返してきたらしい、とのこと。
 それを聞いて、僕は絶句せざるを得なかった。将来を嘱望されていたあのS君が、どうしてそこまで「落ちて」しまったのか。まだ、ホームレスという言葉が一般的でなかった時代、義兄は、S君が着ているスーツもよく見るとよれよれの垢まみれで、近づくと異様な臭いがした、とも言い、「宿無しの浮浪者なのではないか」というような言い方もした。何故、そのようなことになってしまったのか。義兄からの電話があった数年後、別のS君と親しかった同級生に会う機会があり、S君のことを話題にしたとき、S君に何度も無心された経験を持つ彼は、「理由はわからないが、ある日ポッキリ折れてしまって、会社へ行くのを止め、離婚もして浮浪者まがいの生活をするようになった」と話をしてくれた。
 あれから20数年、どうもこの社会はますます「生き辛い世の中」になっているのではないか、と思わざるを得ない。というのも、大学の事務官から「偶然だと思うのですが、黒古先生のところに問題学生=怠学者・精神的に追いつめられた者、等が集まりますよね」と言われるような状態をここ数年経験しているからである。昨今の大学生は、いとも簡単に「折れ」てしまうのである。せっかく苦労して(苦労せず)大学に入ったというのに、ちょっとしたこと(本人にとっては「重大事」なのかもしれないが)で「挫折」してしまい、学校に出てこられなくなったり、自傷行為を繰り返すようになったりする。「世知辛い」現代社会を反映していると言えばそれまでであるが、痛々しいまでに神経を研ぎすましてピリピリしている彼ら彼女らを見ていると、やはりこの社会はどこか狂っているのではないか、どうすれば「再生」することが可能なのか、と思わざるを得ない。
 少子化や子育てを阻むもののことが問題にされるが、専門家に言わせると実戦的にはほとんど意味のない「ミサイル防衛計画」に何千億円ものお金をつぎ込みながら、薬害肝炎患者の救済には(部分的にしか)お金を払わないと言う現政権の在り方こそ、少子化や子育ての困難に関してその元凶になっているのではないか、と思う。こんな僕の論理は飛躍しているように見えるかもしれないが、しかし、そうではなく、現実の方が「大矛盾」を抱えていて、そうであるが故に、若年にしてこの社会から脱落するような人間が増えているのだ、と僕は思う。一挙に、というのは不可能かもしれないが、一歩一歩身辺で起こることに誠意を持って対処していくしか方法はないのかもしれない。
 「折れて」欲しくない、と切に思う。

何のために?

2007-12-19 06:23:48 | 近況
 昨日、ニュース番組のトップに取り上げられていたのは、ハワイ沖で自衛隊のイージス艦から発射された迎撃ミサイルが大気圏内を飛ぶ「敵」のミサイルを打ち落とすのに成功した、というニュースであった。
 このニュースを聞いた途端、何だか嫌な気持ちになった。このミサイル発射実験に使われた費用が数百億円で、イージス艦自体の値段が数千億円、発射されたミサイル一機の値段が十数億円、という途轍もない費用がこの「ミサイル・ショウ」(何故「ショウ」か? たぶん実戦的にはまだまだ不十分なこの「ミサイル防衛構想」は、本家のアメリカが計画予算を縮小すると行っている現在、アメリカの軍需産業にとってお得意様の日本に向けてPRするために必要な「成功」であった。)にはかけられているが、本当にこのミサイル実験が(百歩譲って)日本の「防衛」に役立つのか、と思ったからに他ならない。
 また、これは現在問題になっている防衛省汚職問題(守谷前次官をめぐる贈収賄事件)と同じように、「防衛機密」という隠れ蓑の内部で進行する日米軍需産業の「野望=金儲け」の現れなのではないか、と思ったからである。それに加えて、本当にイージス艦からのミサイルで、「仮想敵国」北朝鮮のロドンミサイルを打ち落とすことができるのだろうか、と思ったからである。現在僕らは、日本の防衛はもっぱら「仮想敵国」北朝鮮からの攻撃に対処するものと(政府やマスコミによって)訓育されている。
 しかし、考えてみれば自衛隊が発足した当時から今日まで、冷戦構造下ということもあって、「仮想敵国」は旧ソ連(現ロシア)、中国と、アメリカの極東戦略の「変化」に伴ってコロコロと変わった。そして現在は、北朝鮮。そもそも憲法第9条に違反する自衛隊は、「仮想敵国」なしでは存続し得ない、というような恐怖が政府・自衛隊関係者にはあるのかも知れないが、今は「拉致問題」などでもっぱら北朝鮮対策として防衛が語られるが、かつて「敵国」であったロシアや中国の、北朝鮮のものより性能が数段優れているミサイルに対して何も言わないのはどうしてなのか(たぶん、1兆円を超えると言われる今度のミサイル防衛計画では、性能の優れたロシアや中国のミサイルには対応できないからである)。ずっと昔になるが、80年代の半ば、旧ソ連の極東地域を訪れた際に、ソ連極東軍の副司令官が語った「我が軍の巡航ミサイルSS20は、日本国民をターゲットとしてはいないが、日本にあるアメリカ軍基地は狙っている」ことを、今でも忘れることができない。世界のミサイル事情は、北朝鮮のロドンなどは置き去りにして、精密なレーダーでも補足できない巡航ミサイル時代に入っているというのに、なぜ日本の自衛隊は未だ開発途上の「ミサイル防衛構想」に巨額の税金を注ぐ込むのか? 喜んでいるのは、日米の防衛産業だけではないのか?
 翻って、国内に目を向ければ、怠慢な厚生省仕事が招いた薬害肝炎に対する補償に国はお金を出し渋っている。難航している「消えた年金」問題にだって、今度のミサイル実験にかかった費用の何分の一を使っただけでも、簡単に処理できるのではないかと思うが、国民のためにはお金を出し渋り、軍需産業を潤すためにはいくらでも税金を投入する。国会を延長して「新テロ特措法」を何が何でも通そうとする、余りにアメリカを配慮した与党の姿勢と今度のミサイル実験は通底しているように思える。
 どこかおかしい。歪んでいる。僕らは、冷静に事の本質がどこにあるか見極めることが必要なのではないか。昨日は、つくづくそのように思った。

(通俗的な)ニヒリズムに抗して

2007-12-18 09:26:14 | 文学
 先日、在る大学院生から長い長い手紙を貰った。内容は、その人の「研究」(文学ではない人文社会系の研究)に対して異議を申し立てたことに関連した質問に対して、寄り分かりやすい形の説明を求めたものが中心であったが、実は僕がその人の研究を「認めがたい」と言ったことに対する抗議であった。要するに、これまで多くの教員が自分の研究について認めてくれたのに、何故黒古は認めないのだ、というのが手紙の本音であった。
 その手紙を受け取って、僕は正直「途方に暮れ」ざるを得なかった。理由は、専門が違うと、こうも相互理解ができないのか、という思いを強く持ったからである。それに加えて、かつて一般教養と呼ばれたものを今の学生は学ばないが、そのような「知」の基礎を身につけない学生が「研究者」となったとき、この国の学問はどうなるのか、と僭越にも思ったからに他ならない。同じ文系(人文社会系)でも基本的な研究方法に関して言葉が通じない社会というのは、一体全体どういう社会なのか?
 件の学生は、僕が見てもよく勉強している学生と言ってよく、その意味では将来期待できるのではないかと思われるが、その学生を「褒め続けた」教師たち、どういう理由で褒めたのか、小学生ならいざ知らず、研究者を目指す人間に対して「褒める」だけでは決して成長しないことを、彼らは知らなかったのか。現にかの学生が「現象」についてはよく知っていても、「原理的・理論的」な部分に関しては全くのアパシー(無関心)状態にあること、このことに対して彼らはどのように考えていたのか。僕には、不思議でならない。
 このようなことから考えられるのは、現代社会に蔓延している「ニヒリズム」に通底する「無責任」ということである。この国には「豚もおだてりゃ、木に登る」という諺があるが、元々木に登る能力がないのに「登れるよ、登れるよ」とおだてる(褒める)のは、僕は「無責任」の極みだと思っている。別な言い方をすれば、昨今の「ニヒリズム」が「ジコチュウ」と背中合わせになっていることを考えると、「無責任」というのは「ジコチュウ」の別名と考えていいのではないか、と思われる。
 もっとも、本来の「ニヒリズム」は、この時代や社会に対する徹底した「違和感」を震源とする「絶望感」「喪失感」から発生するものであるが、昨今の「ジコチュウ」と背中合わせになっている「ニヒリズム」は底が知れているように、僕には思え、それだけ「軟弱」のようである。何故なら、件の大学院生の研究を「褒めた」教師たちも、自分とその院生とが関係なくなると(つまり、学生が卒業したり、自分が退職したりすると)、その学生の研究が現在どのような状況にあるかを見極めることなく、関係を断ってしまっている。僕が「無責任」という所以である。件の院生は、僕の「異議申し立て」を「言いがかり」と思いこんだ節があるのだが、そのように思いこんだのもその院生は「褒められる」ことはあっても、「否定」される経験を持っていなかったから、と思われる。だから、「軟弱」になってしまったのかも知れない。
 しかし考えてみると、世の中このような「ニヒリズム」「ジコチュウ」が余りにも横行していないか。詳細は全く不明だが、人を殺して自分も死ぬ、という佐世保の猟銃乱射事件も、現今の風潮を象徴しているのではないか、と思われて仕方がない。かの自殺した犯人も、猟銃という「武器」を持たずにはいられなかった「軟弱」な人間だったのではないか、と思う。その意味では、僕らは真の意味で、「共生の思想」に支えられた「優しさ」を基底とする人間関係を構築していかなければならないのではないか、と改めて思う。

「死」の季節

2007-12-17 23:25:31 | 近況
 この10日間で3件の葬儀に参列した。義兄の奥さんと知り合いの母親、それに叔父が亡くなっての葬儀。それに加えて、僕らがそういう世代なのかも知れないが、今年僕の家に配達された「喪中通知」の葉書は、優に30枚を超える。毎年300枚ぐらい年賀状を書いているので、その1割の人が「喪中」にある、ということになる。これからは、増えることはあっても減ることはないのではないかと思うと、何だか淋しい気がする。
 それにしても10日で3回の葬儀、急激に寒くなると年寄りは持ちこたえられなくなるからこの時期には重なるのかも知れないが、こう立て続けに葬儀が続くと、否が応でも「死」について考えざるを得ない。特に、長崎県の佐世保で起こった猟銃乱射事件で「理不尽な死」を遂げた若い女性と犯人の友人とされた人のことを思うと、いかにも「死」が軽く扱われているのではないか、と思わざるを得ない。
 今年の7月に亡くなった作家の小田実は、1945年8月13日(敗戦の2日前)の大阪大空襲で犠牲となった人の死について「難死」(理不尽な死・無意味なし、というような意味)という言い方をして、「戦争反対」の立場からその人たちの死を強いた軍部や政府に対して「異議申し立て」を行ったが、僕らは現在「難死」ならざる「軽死」の時代を生きている、と言えるのかも知れない。いかにも人の「生命」が鴻毛より軽いように思える時代を僕らは生きているとしか思えない、この「軽い時代」。
 1987年に海燕新人賞を受賞した吉本ばなな(現:よしもとばなな)の「キッチン」の冒頭は、唯一の身内であった祖母が死んだとき、主人公の桜井みかげが「びっくりした」と言う言い方をしたことが記されていたが、唯一のに寄進が死んで自分が天涯孤独の身になりながら、祖母の死を「びっくりした」という言い方でしか受け入れられない世代の出現、それが「現代」を表徴するものであるとしたら、僕らは何とも悲しい時代を生きている、と言わなければならない。
 こんな時代だからこそ、年寄りには値千金の「年金」に対して、金持ちである政治家たちは、平気で「消えた年金」に対する公約を破り、最高責任者まで「我関せず」といった姿を平気でさらけ出すのである。みんなが醜態を去れけ出して平然としている時代、どこかおかしいのではないか、と思う。

文学の徒、健在なり

2007-12-15 11:48:50 | 文学
 帰宅したら、厚い書籍小包が届いていた。差出人の名前をみて懐かしく、ひもといたら2冊の単行本が出てきた。1冊は、『有島武郎論ー20世紀の途絶した夢とその群像の物語』で、もう1冊は『金子喜一とその時代』、共に札幌にある柏櫓社の刊行で、著者は北村巌。北村氏は札幌在住の批評家で、もう20年ほど前になるだろうか、同世代です、こんなものを書いています、と言って同人雑誌を送ってきて以来の知り合いで、東京で、北海道で何回か会い、僕の企画した全集の解説執筆などに協力して貰ってきた仲である(『<在日>文学全集』では、第12巻に書いて貰っている)。北村氏が北海道文学館に勤務していたときには、依頼されて講演も引き受けたこともある。
 そんな北村氏が、ほぼ同時に書き下ろしとそれまで書いたものを集めた本を2冊出すという快挙を成し遂げた。2冊の本を見たとき、ようやく苦労(努力)が報われ始めたのかなと思い、共に喜びたいと素直に思った。対象となった文学者は、周知の有島武郎であり、その有島と深い因縁で結ばれていた金子喜一、2冊の本はまだ読んでいないので内容についてコメントできないが、僕らが共に過ごした1970年前後の「政治の季節」体験を重要視している(あるいは、発語の根拠地=原点にしていると言っても過言ではない)北村氏が書いたもの、僕は原則的に彼の立場・考え方を支持したい、と考えている。
 学生運動の敗北感から街を彷徨しつつ「文学の世界」でもう一度「夢」を叶えようと、北海道の学校職員になり、その後北海道文学館(札幌)から函館文学館の職員となり、そしてついに「文学」をやりたいために定年前に職を辞し、その結果として今回の快挙を成し遂げた北村氏、彼は10年以上前に『島木健作論』という本も著しているが、これからも頑張って欲しいと切に思う。(来年は、必ず札幌に行って、北村氏を始め、小檜山博氏や神谷忠孝氏などと会い、歓談したいと考えているが、果たして実現するかどうか?)
 北村氏のような存在について思いを巡らすと、思わず「文学の徒、健在なり」と快哉を叫びたくなる。最近は国境(民族や人種)を越えてそのような「文学の徒」に会う機会が多くなったので、その意味では僕の人生も充実しているな、と思っている。現在僕の研究室にいる中国からの留学生を筆頭に、来年4月からは「原爆文学」の研究で、トルコからやってくる若い女性、および試験に受かればやはり4月から僕の研究室に所属することになる予定のマレーシア人女性(中国系)、彼女らと話をしていると、目的意識がしっかりしているせいか、文学が国境を越えるということを実感する。来年4月からは、トルコ、中国、マレーシアの人が「日本近代文学」を巡って議論するのである。ワクワクすると同時に、何だか大変なことを引き受けてしまったな、とも思っている。今さら逃げ出すわけにはいかないから、楽しむしかないのかも知れない。退職した後の、トルコ旅行やマレーシア旅行が楽しみだ、ぐらいに思っていないと疲れてしまうかも知れない。
 梁山泊万歳!

そばパーティー

2007-12-14 12:08:06 | 近況
 昨日2年ぶりに大学で「そばパーティー」を行った。毎年、新しいゼミ生(3年生)が決定した後に、現役のゼミ生との顔合わせをかねて、指導教官の「手打ちそば」を食し、その後季節柄の「鍋パーティー」を行うというのが、黒古ゼミの恒例行事になっていたのである。昨年この恒例行事ができなかったのは、ゼミ生に問題を抱えていた学生がいたということと、僕自身が超多忙だったためである。
 今年は、秋に「紅葉狩り」に行ったついでに、福島(南会津・舘岩村)で「新そば粉」を買うこともでき、僕自身の気持ちも「そば打ち」に向けて紅葉させることができたので、満を持してパーティーを行ったのである。使用したそば粉、2.5キロ、少し多めの盛りそばにして17人分(プラス3人分、一人で3人前、二人前食べたのがいた)、設備が十分でない厨房で、しかも一挙に17人の学生が食べるそばを打つというのは、大変な作業であった。捏ねるところからゆでてざるに盛るまでを一人でこなす作業がどれほどのものであるか、1年間のブランクがあったので、いささか疲労した。
 幸い、たぶんお世辞も入っていたのだろうが、全員がおいしかったと言ってくれたので救われたが、そばを食べ慣れない学生たちのほめ言葉であることを考えると、額面から2,3割引いて考えた方がいいかもしれないと思った。僕も試食してみたが、つゆは完璧に(僕が考える理想に近く)できていたが、麺は最後の冷水につける手順を省略せざるを得なかったので、腰が少し弱いように感じた。
 まあ、全体としてはいいかな、というのが終わってからの正直な感想であったが、今朝起きて体の節々が痛くなっているのに気がつき、もし来年も同じようなそばパーティーをするのであれば、少し体を鍛えておかないと、だんだんしんどくなるのではないかと実感した。果たして、来年はあるのか?
 そばパーティの後も鍋でのコンパが9時過ぎまで続いたのだが、ゼミのコンパさえ開催するのが困難になってきているように思える(サークルのコンパはその限りではない)昨今の大学事情、いつまでも昨夜のような和気藹々としたコンパができるか、聞くところによれば、大学の4年間で教員と一度もコンパをせずに卒業する学生が増えているとか、そんな人間関係になっているところで、果たして「文学」は可能なのか(そういえば、本学趣旨院で僕の授業も受講していたことのある芥川賞作家青山七恵さんの「ひとり日和」も、人間関係が希薄になった若者たちの生態を描いていたっけな、と思った)。

何のために?「軽い言葉」とともに

2007-12-13 14:34:55 | 近況
 昨日の橋下弁護士(タレント)の大阪府知事選への出馬表明には、笑ってしまった。なぜなら、トレードマークの薄い色のサングラスはかけていない、そのラフなファッションが売りだったのに、スーツにネクタイをつけ、「子供が笑える大阪」「職員が汗を流す大阪」をアピールしていたからである。本人は大真面目になんと4時間も記者会見に応じていたというが、テレビ報道の部分からは全く見えてこなかったのが、橋下氏が「何のために」大阪府知事選に出ようとするのか、ということであった。
 法律の専門家としてテレビ出演を重ねているうちに、いつの間にか「人気者」になってしまったことから、それが自分の「力」と錯覚しての所業なのであろうが、人口が900万に達しようとしている大都市の「再建」が、果たして「子供が笑える大阪」などというスローガンを掲げたタレントによって成し遂げられるものなのか。橋下氏は、現職知事が「金」がらみのスキャンダルで次回選挙に出ないということが分かって時点の早い時期から自民・公明の与党から出馬の打診があったというが、選挙に勝つためにはなりふり構わないという政治風土、まだまだ「民主主義」社会・思想からこの国は程遠いところに存在するのだ、と思わざる得ない。
 同じようなことで、年金問題に関して、舛添厚労省大臣、福田首相、および町村官房長官たちによる「来年3月までに年金問題に決着をつけるといった覚えはない」といった弁明のオンパレードにも言える。小学生でも「3月までに年金問題に決着を付ける」と自民党が「公約」に掲げ、参議院選挙を戦ったことは知っている。「私の内閣においてすべて解決する」と安倍前首相が街頭演説で絶叫していたのは、たった5ヶ月前の7月である。「舌の根の乾かぬうちに」という言い方があるが、舛添大臣を筆頭に、自民党のお歴々が「そんな約束したことはない」というのは、彼らの言葉に対するセンスがお粗末というだけでなく、この日本社会において「信」なるものが何もないことをあからさまにすることであり、この社会の倫理や道徳が混迷・迷走している証拠を見せてしまっている、ということになるのではないか。お粗末である。
 言葉が「軽く」なっていると実感されるようになったのは、小泉政治が始まってからであるが、最近はますますその傾向を強めているのではないか、と思える。「国際貢献」「国際貢献」という言葉だけが先行して、自衛隊がインド洋(ペルシャ湾)で何をしているのか、それにはどんな意味があるのかが十分に論議されないまま、どうも「新テロ特措法」は成立しそうである。何度でも言うが、そんなにブッシュ政権に寄り添っていていいのか、もしヒラリー・クリントン民主党候補が大統領になったら、イラクやアフガンから米軍が撤退したら、自衛隊の艦船はどうするのか。もういい加減に「戦争」のための「国際貢献」ではなく、別な方法を考えた方がいいのではないか、と思うが。「何のために」福田政権がアメリカ追随外交にこだわっているのか、どうも理解できない。まさか、「軍事大国」としての日本を世界にアピールするよい機械だと思っているわけではないと思うが、逮捕された守屋前防衛省次官(及び軍需産業・会社)などの存在を考えると、あながち穿った考えではないようにも思えるのだが、どうだろうか。

「徴兵制」?

2007-12-12 12:10:35 | 仕事
 東国原宮崎県知事が口走ったからだと思うが、最近の若者たちの言動について苦々しく思っている(と思われる)壮年たち=普通の人(庶民)による「徴兵制が必要」という発言に接することが、最近相次いだ。もちろん、彼らは決して好戦者というわけではない。ほぼ僕と同じ年頃だから、父親が戦争を体験している世代で、その意味では決して現在の「平和」に不満を持っているわけではない。
 にもかかわらず、「徴兵制が必要」と言うのは、なぜか。主要には、東国原宮崎県知事がその発言の「真意」を聞かれて苦し紛れに弁明したように、最近の若者たちが余りに「だらしない」から、ということなのだろが、しかし、そのような言い方に説得力が果たしてあるか? よく言われることであるが、いつの時代でも年配者からみると若者は「足らない部分」を多く持っていると感じられるものである。それは、親が子に対して持つ「不満」や「不安」と同質なものと言っていいだろう。その意味では、「私たちの時代は、こうであったのに、今の若者たちは……」という言い方は、全く説得力を持たない。
 だから、「徴兵制云々」という発言が問題なのは、そのような若者がどうのこうのということではなく、あの日本の近代が必然化した戦争が終わって62年、軍隊が決して若者の体と精神を「健全」に育てる場所などではなく、あくまでも「敵」、あるいは敵国人(非戦闘員)を殺傷する組織であることを、多くの人が忘れ去ってしまっている点にある。そのために、軍隊というところは「訓練」を強いる閉鎖組織であり、そのために「敵」だけでなく「味方」も傷つける場所であることを、私たちは明記すべきである。このことは、野間宏の「真空地帯」や大西巨人の「神聖喜劇」が明確に語っている。
 折しも、今年(12月)は、「南京事件70周年」という記念すべき年である。僕もそのことについて、中国の「世界文学」という魯迅が最初に発行した雑誌(中国社会科学院外国文学研究所発行)に寄稿したが、「加害」の側である日本でどれほどの人が「70周年」を意識しているか。「加害」の現実を見つめることによってしか、それは「思想化」されないにも関わらず、である。小林よしのりなどという漫画家が跋扈し、また石原慎太郎東京都知事などが躍起となって「南京大虐殺はなかった」とデマゴギーを振りまいて、一定程度の人気を博しているのも、僕らが「南京事件」をはじめとするアジア・太平洋戦争における日本の「加害」責任を相対化=思想化してこなかったからではないのか。
「徴兵制が必要」という発言も、みなそのような「あったことをなかったようにする」日本人の態度が引き起こしたことなのではないか、と思わざるを得ない。若者云々は、現象面しかみない本質からはずれた「言い訳」に過ぎない。そのことを僕らは十分に知った上で、改めて「新テロ特措法」の制定に躍起になっている現在の政権が、いかに危うい橋を渡ろうとしているかについて考えなければいけないのではないか、と思う。
 そんなことを考えていると、今読み直している「村上龍」の苛立ちが、本当によくわかるような気がする。彼は、おろそかにできない現代作家の一人である。確かに、そのように実感される。

弁明

2007-12-11 07:01:48 | 文学
 ちょっとしたアクシデントがあって、時間がなくなった。
 ただ、12月2日の「違和感の理由は?」に対して新しいコメントが入っていたので、そのことについては、短いものであるが、僕の考えを明らかにしておいた。
 それと、拙著『村上春樹』についての書評が載り始めたので、関心のある人は、12月2日の北海道新聞・読書欄と先週発売の週刊読書人を呼んで欲しい。いずれもネットで読めるはずです。
 今日は、以上です。

いい加減にして欲しい

2007-12-09 09:46:57 | 近況
 再三言明しているように、僕は「ナショナリスト」ではない。しかし、今の国会で論議の中心になっている「新テロ特措法」やそれと深い関係のある防衛省贈収賄問題、米軍(移転)再編問題、「思いやり予算」など「国家」的な諸問題について考えるとき、何故こうまでしてアメリカに追随(おべっかを使う)しなければならないのか、不思議な気持ちを抑えることができないのである。
 9・11の同時多発テロの報復として考えられた「アフガニスタン侵攻作戦」のお先棒を「テロ防止」という美名の元で担いだ日本は、あれから6年余の間、ずっとアメリカが要求するままにインド洋(ペルシャ湾)に自衛隊を派遣して給油活動をしてきたが、それで果たして「テロ防止」の役に立ったのか、中等における「戦争」を泥沼化するのに手を貸しただけではないのか、こんな形でしか日本の「国際貢献」は不可能なのか、これは「テロ防止」という大義名分を掲げることによって自衛隊の海外派遣(派兵)をスムーズに実現させる(日米の)意図によって遂行された「壮大な逸脱」(いつか来た戦争への道)なのではないか、疑問の種は尽きない。
 何よりも、アフガン戦争、イラク戦争で失敗したブッシュ(アメリカ)が「死に体」(レームダック)になっているというのに、1時間弱の「儀礼訪問」を行うために大金(税金)を使って訪米した福田首相(日本)の在り方こそ、不思議でならない。マスコミは余り騒がなかったけれど、この福田訪米こそ現在の日米関係を象徴するものはなく、かつてキャッチボールなどして日米が「対等・平等」な同盟関係にあることを演出した首相(小泉純一郎)もいたが、本質は「従属」関係にあり、腹立たしいことであるが、「51番目の州」などと揶揄されるのも、無理からぬところがある。
 おそらく、占領期を経て(というより、本質的には幕末に「日米和親条約・通商条約」を結んだときから)最大の強国アメリカのおこぼれを拾って「経済大国」になってきたこの国は、悲しいかな、もう根源的にアメリカへの「依存体質」から抜けきれないのかも知れない。朝鮮戦争特需、ベトナム戦争特需、を始め、「平和国家・日本」は、アメリカが起こす「紛争」「戦争」のお蔭で経済的に「豊かさ」を増してきた。僕らが現在それなりに「豊かな生活」を維持できているのも、アメリカのお蔭というわけである。しかし、そのアメリカによって保証された「豊かさ」が「いつか来た道」に繋がっているとしたら、僕らはここで立ち止まり、在るべき「日米関係」についてじっくり考える必要があるのではないか。小泉さんや福田さんが考える日米関係ではない、「もう一つの日米関係」について、である。そうしないと、食糧自給率が40パーセントを割り、石油を始めとする資源に乏しいこの国は、また「破滅」への道を歩き出すのではないか、と思わざるを得ない。
 たぶん、僕らの世代は「いい思い」のまま消えていくだろう。しかし、娘たちの世代、あるいは孫たちの世代が「破滅」への道を歩かなければならないとしたら、それは僕らの責任でもある。僕が、昨今の「日米関係」、防衛省問題、等にいい加減にして欲しいと思うのは、以上のような理由による。