黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

(通俗的な)ニヒリズムに抗して

2007-12-18 09:26:14 | 文学
 先日、在る大学院生から長い長い手紙を貰った。内容は、その人の「研究」(文学ではない人文社会系の研究)に対して異議を申し立てたことに関連した質問に対して、寄り分かりやすい形の説明を求めたものが中心であったが、実は僕がその人の研究を「認めがたい」と言ったことに対する抗議であった。要するに、これまで多くの教員が自分の研究について認めてくれたのに、何故黒古は認めないのだ、というのが手紙の本音であった。
 その手紙を受け取って、僕は正直「途方に暮れ」ざるを得なかった。理由は、専門が違うと、こうも相互理解ができないのか、という思いを強く持ったからである。それに加えて、かつて一般教養と呼ばれたものを今の学生は学ばないが、そのような「知」の基礎を身につけない学生が「研究者」となったとき、この国の学問はどうなるのか、と僭越にも思ったからに他ならない。同じ文系(人文社会系)でも基本的な研究方法に関して言葉が通じない社会というのは、一体全体どういう社会なのか?
 件の学生は、僕が見てもよく勉強している学生と言ってよく、その意味では将来期待できるのではないかと思われるが、その学生を「褒め続けた」教師たち、どういう理由で褒めたのか、小学生ならいざ知らず、研究者を目指す人間に対して「褒める」だけでは決して成長しないことを、彼らは知らなかったのか。現にかの学生が「現象」についてはよく知っていても、「原理的・理論的」な部分に関しては全くのアパシー(無関心)状態にあること、このことに対して彼らはどのように考えていたのか。僕には、不思議でならない。
 このようなことから考えられるのは、現代社会に蔓延している「ニヒリズム」に通底する「無責任」ということである。この国には「豚もおだてりゃ、木に登る」という諺があるが、元々木に登る能力がないのに「登れるよ、登れるよ」とおだてる(褒める)のは、僕は「無責任」の極みだと思っている。別な言い方をすれば、昨今の「ニヒリズム」が「ジコチュウ」と背中合わせになっていることを考えると、「無責任」というのは「ジコチュウ」の別名と考えていいのではないか、と思われる。
 もっとも、本来の「ニヒリズム」は、この時代や社会に対する徹底した「違和感」を震源とする「絶望感」「喪失感」から発生するものであるが、昨今の「ジコチュウ」と背中合わせになっている「ニヒリズム」は底が知れているように、僕には思え、それだけ「軟弱」のようである。何故なら、件の大学院生の研究を「褒めた」教師たちも、自分とその院生とが関係なくなると(つまり、学生が卒業したり、自分が退職したりすると)、その学生の研究が現在どのような状況にあるかを見極めることなく、関係を断ってしまっている。僕が「無責任」という所以である。件の院生は、僕の「異議申し立て」を「言いがかり」と思いこんだ節があるのだが、そのように思いこんだのもその院生は「褒められる」ことはあっても、「否定」される経験を持っていなかったから、と思われる。だから、「軟弱」になってしまったのかも知れない。
 しかし考えてみると、世の中このような「ニヒリズム」「ジコチュウ」が余りにも横行していないか。詳細は全く不明だが、人を殺して自分も死ぬ、という佐世保の猟銃乱射事件も、現今の風潮を象徴しているのではないか、と思われて仕方がない。かの自殺した犯人も、猟銃という「武器」を持たずにはいられなかった「軟弱」な人間だったのではないか、と思う。その意味では、僕らは真の意味で、「共生の思想」に支えられた「優しさ」を基底とする人間関係を構築していかなければならないのではないか、と改めて思う。

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